ジョセフ・ヒース「現代の魔女狩り:批判理論が陰謀論的な犯人探しに陥ってしまう理由」(2024年3月12日)

既存の制度が様々な悪を生み出していると非難されるのだが、制度がどのように悪を生み出しているのかについて、明確な例を誰も指摘できないのだ。

現代の「批判的」な学術研究の最も際立った特徴の1つは、実践者の間で自己批判がほぼ完全に欠如していることだ。アカデミア内部でこの手の研究に対してよく言われる不満は、それがラディカルであるとか、社会秩序にとって危険で破壊的であるといったものではなく、それが極度に教条主義的になっているというものだ(批判的研究の実践者たちはこうした非難を、自身の研究がいかにラディカルで危険で破壊的であるかを確証する証拠と解釈するのに長けている。批判的研究が批判を受け付けないようになってしまった大きな理由の1つがこれだ)。

そのため私はブルーノ・ラトゥールの「なぜ批判は力を失ったのか?」“Why Has Critique Run Out of Steam?”というエッセイを読んで、新鮮な印象を受けるとともに、一種の啓示を得た気分だった。ラトゥールがこのエッセイで発している一連の問いは、批判理論家を自任する者なら誰にでも自然と思い浮かぶはずの、実に明白なものだ。文章を全部引用してもいいくらいだが、ここでは特に価値のある部分を載せておこう。例えば次の部分だ。

軍事の専門家は、戦略ドクトリン、緊急時プラン、発射体やスマート爆弾やミサイルのサイズ・方向・技術を絶えず見直している。私たちだけがこうした見直しを行わなくてよいなどということがあるだろうか。私たち研究者が、新しい脅威、新しい危険、新しい課題、新しい目標に、軍事専門家ほど素早く対応してきたとは思わない。私たちは、周囲の環境がすっかり様変わりしても、同じ動作を延々と繰り返す機械のおもちゃのようになっていないだろうか? 若い子ども(若い新兵、若い士官候補生)を、もはや起こり得ない戦争、とっくの昔に死んだ敵との闘い、今や存在しない領地の征服のために訓練させて、予期しなかった(私たち自身がなんの準備もできていない)脅威を前に何の備えもさせないままにするとしたら、それは非常に恐ろしいことではないだろうか? 将軍はいつも、1つ前の戦争に備えていると非難されてきた。結局のところ、知識人が1つ前の戦争に備え、1つ前の批判を行っていたとして、それほど驚くべきことだろうか?

これらは優れた問いである。ラトゥールは続けて、いっそう優れた問いを発している。そのうちの1つは、批判理論と陰謀論の違い、そして、批判理論研究の多くが陰謀論の高級なバージョンに過ぎないのではないか(陰謀論は貧者にとっての批判理論である、というフレドリック・ジェイムソンの指摘は正しいのか)、という問題と関係している。歴史的には少なくとも、自分たちは陰謀論者より上手くやっている、と批判理論家の多くは考えてきた……。それでも、陰謀論者の広めてきたたくさんの教説を見れば、陰謀論者が犯している推論の誤りは、権威ある情報源に対する過剰な懐疑と密接に関係しているように思われる。これは、「ラディカル」な社会批判者の観点と実際どれほど違うのだろうか?

私はしばらく前、こうした問題の一部に答えを与えるために論文を書いた。この論文で私は、ある特定のタイプの陰謀論にほとんど焦点を絞った。このタイプの陰謀論は、帰無仮説を真剣に考慮できず、複数の事象から現実には存在しないパターンを見出してしまうがために生じる。これは、古典的な「魔女狩り」を生み出す推論の誤りである。魔女が存在するという信念は、2つの非常に強力な認知バイアスに支えられている。アポフェニア意図性バイアスだ。

アポフェニアが生じるのは、人間のパターン検出システムの誤り率が、偽陽性を生み出す方に偏っているためだ。そのせいで、存在するパターンを見落とすよりも、存在しないパターンを見出してしまう可能性の方がはるかに高くなる。そのため私たちは、眼前に広がる事態が単にランダムに生じている(あるいは、相互に独立した繋がりのない事象である)可能性を一貫して低く見積もってしまう。ほとんどの人は、本当にランダムなパターンを見せられても、それがランダムであることを否定するだろう。乱数列の数値は常にバラバラだと予期しているので、その列に含まれる「連鎖」の数を低く見積もってしまう。これが意味するのは、明確な方法論的制約がなければ、私たちは帰無仮説(あるいは「それは偶然だ」という、非説明的な説明)を十分真剣に考慮できないということだ。

そのため、このタイプの陰謀論の第1の構成要素は「パターンを見出す」ことだ。第2の構成要素(陰謀論に文字通りの意味での「陰謀」を組み込む部分)は、そうしたパターンを人間によるなんらかの行為の結果と見なすこと、つまり、そのパターンを説明するような意図的主体が存在すると措定することである。パターンが広範囲に見られるものなら、〔そうしたパターンが成立するためには〕たくさんの人間の間でのコーディネーションが必要になる。そしてそれを説明するには陰謀を想定しなければならなくなる。

魔女が存在するという信念は、概してこのような構造を持つ。つまり、不幸な出来事の連なりを、超自然的な力を持つ人々の持つ邪悪な意図の産物として説明するのだ(それが単一の個人であるか、「魔女の集まり」であるかは問題ではない)。魔女が存在するという信念が様々な時代の様々な社会に見られることは、根底にある心理バイアスの力強さを示している。こうした信念によって、一連の不幸な出来事の原因となった個人(や人々)を探し出すという、いわゆる「魔女狩り」の現象がもたらされることもある。

歴史的に見ると、魔女として罰された人の中には(罪を犯す意図があったという意味で)実際に無実とは言えない者もいた、ということは記しておくべきだろう。人々は魔術を信じていたので、魔術を実践して周囲の人間や敵対者に危害を加えようとした人も大勢いたのだ。それで捕まった者もいた。だが多くの場合、犯人探しによって捕まったのは完全に無実の人々だった(なんとなく「疑わしい」行動をとっていたり、常日頃から社会規範に従わなかったりする人が捕まりがちだった)。しかし有罪の証拠は提示しようがないので、非難を受けた人々は、自白したり、他人を非難したりするインセンティブを与えられることが多かった。これはときに、完全な狂気を生み出した(最も有名な例はセイラム魔女裁判だ)。

「魔女狩り」について語るとき人々が思い浮かべるのは、以上のようなことである(私が子どもの頃は「悪魔崇拝者が儀式で子どもを虐待している」というのが大流行りだったが、これは文字通り真実が1つもないという点で、魔女狩りの模範例だった)。

だがこうしたことについて書きながらも、アポフェニアのモデルはちょっと範囲を限定しすぎていることに気づいた。陰謀論は、存在しないパターンを見出すタイプのものばかりではないからである(論文を書いていた当時、私は連日ニュースを賑わせていたQアノンの事例に強く影響を受けていた。Qアノンはまさに「存在しない何かを見出す」例に当てはまる。Qアノンの主な独自性は、パターン認知をクラウドソーシングしたことにある)。〔陰謀論が見出している〕出来事のパターンが実際に存在する場合もあるのだ。こうした陰謀論が生まれるのは、帰無仮説を無視するからではなく、実際の説明を(なんらかの理由で)拒否して、虚構的な説明でそれを埋め合わせるからだ。こうして陰謀論者は、存在しないものを追いかけ、極悪非道な行いをしているとして無実の人々を非難するようになる。

この種の陰謀論は、動機づけられた推論によって突き動かされている。人々は動機づけられた推論によって、現実に存在するパターンに対する実際の説明を否定するようになる。これが意図性バイアスと組み合わさって、邪悪で極悪な人々がそうしたパターンを生み出していると考えるようになる。この例として比較的議論の余地がないのは、〔アポロ11号の〕月面着陸に関する陰謀論だろう。月面着陸陰謀論を支える「エビデンス」として提示されるもののほとんどは、月面での写真に映った真に異常な現象を指摘している。しかし、こうした謎にはもっともな説明が存在する。その写真は月面で撮られたのだ! 物体がどのように見えるか、どのように動くか、に関する直観の多くは、私たちの経験に由来しており、その経験は地球という惑星内のものに限られている。地球外にある、重力が小さく大気も存在しない小さな球体の上では、物体の見え方は異なってくる。月面での写真を注意深く見た人が、何か「おかしい」と感じるのはこのためだ。その感覚は正しい。しかし、そのおかしさにはもっともな説明が存在するのである。月面着陸陰謀論は、実際の説明を拒否して、代わりに人間の複雑な策略を想定する人々の間で生じる。

これは、見当外れの懐疑主義(例えば「奴らはあなたにそう信じさせたいのだ」)が陰謀論をもたらすという、ラトゥールの指摘した論点の良い例に思える。同じような推論は、現代の批判理論でもいたるところに見られる。最も印象的な例は、進歩派の研究者が、人間行動についてのいかなる生物学的説明も拒否したがることから生じているかもしれない。これは動機づけられた推論である。ある現象が生物学的なものだと示せてしまえば、それを変えることはできないとの結論が導かれる、と進歩派の研究者は考えているからだ。そのため進歩派の研究者は、自らが好ましくないと見なしている行動パターンに、生物学的説明が与えられるかもしれないという可能性を異様なほど認めたがらない。生物学的説明を認めることは、その行動パターンを受け入れなければならないと認めるのに等しいと思っているからである(これが正しいかどうかは重要ではない。ポイントは、多くの人がこれを信じており、それによって生物学的説明を拒否するよう動機づけられているということだ)。

進歩派の研究者の願望思考に反して、非常に直接的な生物学的説明を与えられる人間の行動パターンはたくさん存在する。例えばパートナーが不倫した際、男性が女性よりも嫉妬を抱きやすいという現象は広く見られる。この点で男性と女性の間に何らかの非対称性が存在するはずだということは、(オスがかなりの子育て投資を行う種においては)進化理論から議論の余地なく予測されることだ。だが、この男女間の差異は社会的学習の産物である(つまり、男性は女性よりも所有欲を強めるよう社会化されている)という対抗仮説を検証するのに、ばかげた量の労力が費やされてきた。これほどの労力が費やされてきたのは主として、生物学的説明を(それが男性の行き過ぎた行動に対する言い訳として利用されるかもしれないとの理由で)信じたくない人々がたくさんいるからだ。

生物学的説明へのこうした抵抗は、人間科学の諸分野に一貫して見られる。一部の論者は、生物学的影響の否定が「ダメな科学」を生み出すと非難してきた。だが、それが同時に「ダメな批判理論」を生み出すことにも注意しよう。具体的に言えば、生物学的説明の拒否は、社会化の実践に関する現実離れした見解を人々に抱かせてしまう。結局、男性の嫉妬傾向が人から教わったものなら、その行動を教えたりお手本となったりした誰かがいるはずである(そしてそれが誰であるにせよ、こうした教育は幼い時期になされているだろう)。さらに、男性の嫉妬傾向は非常に一貫して見られるので(なにしろ世界中のあらゆる国の、あらゆるコーホートで見られるのだ!)、高度なコーディネーションもなされているはずだ。

研究者は普通、男性が団結して秘密結社に集い、この手のことに関して綿密な計画を立てているとは考えない。そのため大抵、こうしたコーディネーションを「家父長制」などの「構造的」な力によって説明する。「文化」によって説明されることもあるが、その「文化」はあたかも広範囲のマインド・コントロールのシステムかのように見なされている。だが、陰謀論を信じられないのと全く同じ理由で、こうした説明が信じられないものだと理解するのは難しくない(つまりそれは、誤っているか反証不可能なのだ)。

残念ながら、人間行動のどんな側面についても、議論の余地がないと見なされている生物学的説明はほとんど存在しない。例えば私の同僚の一部は、異性愛へと向かわせる一般的なバイアスが人間に生得的にそなわっているわけではない、という見解を持っている。私はこのことに気づいて本当に驚いた。「異性愛規範(heteronormative)」という言葉が使われていることはよく知っていたが、人々がその言葉で意味しているのは、異性愛選好を有利にする(あるいは少なくとも、それを標準的なものと扱う)様々な社会規範が存在する、くらいのことだと思っていた。異性愛規範という言葉を使う人の多くが、異性愛は完全に社会規範の産物で、社会による強制がなくなれば人々が異性愛になる傾向もなくなるだろうと考えていることに気づくまで、少々時間がかかったのだ。

ほとんどの見識ある論者は、社会規範を性的指向に関して中立的になるよう修正しても、人口の90%前後が異性愛であり続けるというのは全く理に適った予測だと考える傾向にあるだろう。しかし、結果が半分半分になっていないことや、ほとんどの個人が排他的な性的選好を持ち続けていることをもって、社会化システムにおいて何か邪悪なことが起こっている証拠と見なす論者もいる。さらに性的指向は非常に幼い時期から発達するので、異性愛規範を覆すための介入は早い段階から始めなければならない。こうして進歩派は、ほとんどの人にとってやりすぎに思える(一部の人にとっては完全な植え付けに見える)教育プログラムを支持するようになる。進歩派の観点からするとそれは単に、異性愛を強制する、広く行き渡った不可視のシステムへの対抗プログラムに過ぎないのである。進歩派は生物学的説明を拒否することで、既存の制度に潜む邪悪なバイアスを探し出すようになる(そうしたバイアスが幼少期の子供の教育に広く見られるはずだと進歩派は考えているのだ)。

ちなみに、こうしたまずい考え方の多くはフーコー、そして彼の精神分析に対する根本的な異論にまで遡ることができる。フーコーはフロイトの議論に腹を立て、人間は本能を持つという考えを拒否するばかりか、人間がなんらかの心理的性向、バイアス、発達傾向を生得的にそなえているということすら否定した。自然が人間に与えたのは身体だけであり、その他のものは全て(主体それ自身はもちろん、あらゆる欲求も含め)、ディスコースや権力の体制の産物である(左派の間で人間を「身体」と呼ぶのが流行っているのはここから来ている)。このフーコーの見解は進歩派にとって魅力的である。社会的権力の構造に異議を突き付け転換をもたらせば、人間心理に関するどんな事柄も変更可能と信じられるからだ。だがフーコーの議論は、そうした社会的権力の体制が私たちの生活にどんな影響を及ぼすのかについて、あらゆる種類の陰謀論的考察を促すという残念な結果をもたらしている。

この種の思考が働いていることを見て取れるもう1つの領域が、人種差別だ。人種差別もまた、学習による行動だと主張されることが多い。これは少なくとも1つの重要な意味において間違いだ。人を外集団嫌悪/内集団びいきへと向かわせる基本的な性向は、人間の生得心理の一部だからである。この性向は必然的に人種差別をもたらすわけではないが、非常に容易く人種差別を促すものだ。そのため子どもは、幼い時期には人種の差異に反応しない傾向にあるが、年齢が上がっていくと、特別な促しがなくとも強力な内集団バイアスを発達させる。こうして子どもは、大人のロールモデルが全く存在しなくても、自分たちだけで人種差別を完璧に生み出せるようになる。にもかかわらず、子どもは無実であり、人種差別は誰かから教わったものに違いないと主張すれば、子どもはいったい誰から人種差別を学んでいるのか、という犯人探しがすぐに始まってしまう。子どもたちは親から人種差別を学んでいるのだろうか? 学校から? YouTubeから?

その結果、非常に現代的な形の魔女狩りが生じる。既存の制度が様々な悪を生み出していると非難されるのだが、制度がどのように悪を生み出しているのかについて、明確な例を誰も指摘できないのだ。そんな例は滅多に見つからないので、ときどきいる、粛清に全面的な賛同を示さない逸脱者が見せしめとして懲らしめられることになる。しかしその過程で進歩的左派は、まさにラトゥールが「とっくに死んだ敵との戦い」と呼んで批判したメンタリティに自身が囚われており、新しい困難と脅威に対応できなくなっていることに気づく。さて、問題はこうだ。「私たちは、周囲の環境がすっかり様変わりしても、同じ動作を延々と繰り返す機械のおもちゃのようになっていないだろうか?」。

[Joseph Heath, What does a modern witch-hunt look like?, In Due Course, 2024/3/12]
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