今週の初めに投稿した炭素価格付けについてのちょっとした記事〔原文はここ、邦訳はここで読める〕は、実は、私が本当に論じたかったテーマについて書くための地ならしだった。そのテーマとは、少なくとも過去5年間にわたり、連邦政府の炭素税に関するコミュニケーション戦略全体を構成してきた、大変いらだたしい2つの論点だ。1つ目は、炭素税は「あらゆるものへの税」である、あるいは「あらゆるものの価格」を上げるだろうという主張。2つ目は、炭素税は「雇用破壊」をもたらすだろうという主張だ。
こうした議論が腹立たしいのは、どちらも完全に間違った議論であるのに、ぼんやりと正しく聞こえることだ。それゆえ、政府がこの2つの論点を繰り返しているという事実には、現代の「ポスト・トゥルース」的な政治環境のあらゆる特徴が現れている。政府は、もはや自らの活動や政策を擁護しようとすらせず、ターゲットとなる有権者層に対して効果的だと判断したコミュニケーション戦略を採用し、一貫してそれを固守し続けているのだ。
少し前にオタワ・シチズン誌に寄稿した論説記事で、現在の環境省大臣、レオナ・アグルカックに不満を述べたのはこのためだ。アグルカックは、炭素税が「あらゆるものへの税」であるという議論を機械のように繰り返している。もちろん、アグルカックが国内でこの議論を嫌というほど繰り返すのを止められる望みはない。現行の連邦政府が「ナショナル・ビジョン」を持っているとすれば、それに最も近いのは、カナダをグローバルな「エネルギー超大国」にするというものだ。それはつまり、アルバータの石油地帯の利権を、他のあらゆる考慮事項よりも優先する必要がある、ということである。
実際に政府の政策の指針となっているのは、次のような事実だ。現在、世界でその存在が証明されている化石燃料の埋蔵量の3分の2は、燃やすべきでない。つまり、地球が危険な気候変動に突入するのを避けたいなら、これらは地中に埋めたままにしておく必要があるということだ。地球上を見渡して、埋蔵されている化石燃料のうちどれを燃やさないままにしておくべきか決めるなら、カナダのビチューメンを地中に留めておくべきだという結論に至るのは自明だ(合成石油を産出するプロセスは非常にエネルギー集約的であるため)。それゆえ、アルバータの石油地帯と現行の保守政権にとっての最優先事項は、燃やせなくなってしまう前に、可能な限りはやく、できるだけ多くのビチューメンを地中から取り出すということである。これは椅子取りゲームのようなものだ。そのためカナダ政府は、できる限りのことをしなければならなくなっている。国内の炭素価格をゼロに抑えるだけでなく、国際的な炭素価格付けや規制の実効的システムが立ち上がるのを防ぐ必要もある。そしてこれが、多かれ少なかれ、カナダ政府がやってきたことなのだ。
残念ながら、テレビに出てカナダ人の前でこうしたことを正直に説明するわけにはいかない。現行政権はある種の無思慮な国益を推し進めているが、それはまたショッキングなほど不道徳であるからだ。そのため、真実を隠すほかない。ジョン・ベアードからピーター・ケント、レオナ・アグルカックまで、歴代の環境省大臣はみなそうしてきた。
それでも、この事態にはイライラさせられる。私がひどく恥ずかしくなったのは、アグルカックがワルシャワで開かれた国連の気候変動会議に参加して、炭素価格付けが「あらゆるものの価格を押し上げる」といういつものバカげた論点を繰り返しているのを目にしたときだった。少なくともカナダ人にとって、こうしたバカげた議論を信じ込むことは自分の利益に適う部分もあると言える。だが、カナダの政策の被害を受ける犠牲者たちの前に出て行って、いつもと同じようにバカげた話を繰り返すというのは、一線を超えているように思われた。だから論説記事を寄稿したのだ。残念ながら、紙幅の都合上、価格に関する論点を満足がいくほど展開することはできなかった。記事で私は次のように述べた。
炭素排出の価格を上昇させることで、あらゆる財やサービスの価格が上昇することにはならないだろう。それはただ1つ、炭素排出の価格を上昇させるのだ。経済全体で他の財の価格が上がることになるかどうかは、完全に自由市場によって決定されることになる。
これはまさに、炭素税を最初に提案したのが自由市場支持の経済学者たちであり、世界中どこでも責任ある右派が炭素税を支持している理由である。炭素税は、ピンポイント攻撃(surgical strike)の環境バージョンだ。それはまさに狙った目標〔炭素排出〕に作用し、昔ながらの環境規制に伴うような副作用を全くもたらさない。
さて、もちろんある意味で、炭素税が特定のエネルギーの価格を上げることで、他の財の価格上昇をもたらすだろうことは間違いない。だが、それは単に市場経済の仕組みだ——あらゆるものは、他のあらゆるものに依存している。靴の価格を上げれば、他の財の価格も間違いなく上がるだろう(UPS〔アメリカの物流企業〕は従業員に制服を提供しており、その中には靴も含まれている。靴の価格が上がれば、UPSは小包の運送料金を上げざるをえなくなるだろう。これは他のあらゆるものの価格を上げるかもしれない……)。この点で、アルコールへの課税も「あらゆるものへの税」である。それは生活のコストを上げるので、労働の価格が上がり、それによって他のあらゆる財の価格も上がるからだ。ポイントは、こうした波及効果が、炭素(そして靴やアルコール)の価格は適切な水準にあるか、という基本的な政策問題にとって重要でないということだ。
この点は論説記事で説明するには難しい内容なので、少しばかり単純化して論じた。
最も重要なのは次の点だ。炭素税は、炭素排出の価格上昇が、他の財の価格を上げるかどうかの決定を、完全に市場の力に委ねている。企業家と消費者が、炭素集約的な燃料源(例えば石炭)を、カーボン・ニュートラルな燃料源(例えば水力や原子力)で代替することができるなら、財の価格が上がらなければならない理由はない。
だが重要な点は、こうした意思決定が全て、政府ではなく市場によって行われることだ。政府が答えるべき唯一の問題は、炭素の適切な価格水準がどこにあるべきかである。カナダ政府は現在のところ、この問いに「ゼロ」と回答している。そのため、炭素税(あるいはキャップ・アンド・トレードのシステム。現行政権によればこの2つは同じものだ)に反対する人々は、なぜ炭素の正しい価格がゼロだと言えるのかを説明しなければならない。
上の文章では、哲学者の使うちょっとした「ずるいやり口」を利用している。「財の価格が上がらなければならない(have to rise)理由はない」という文章は、価格が上がる可能性は低い(unlikely to rise)だろうと言っているのではなく、上がる必然性はない(not have to rise)だろうと言っているだけだ。残念ながら、この点は多くの読者に通じず、一部の人は私の信じられない愚かさに怒って、「なんでお前のような奴が大学教授になれたんだ」といったようなメールを寄越してきた。問題は私がバカなことではなくて、利口すぎたことです、と返信するほどの勇気は私にはなかった。
いずれにせよ、基本的な論点は変わらない。市場経済の美点は、政府が炭素価格を上げることを検討する際に、炭素価格を上げるべきかどうか、個人に課される私的費用が消費の社会的費用を十全に反映しているかどうかだけ気にすればよい、ということだ。他のあらゆる調整は、市場が自動的にやってくれる。つまり、炭素税によって他の財の価格が上がるなら、その財は恐らくそもそも高い価格であるべきだったのだ。いずれにせよ、炭素税のポイントは、人々の行動を変化させ、炭素集約度の高い活動や消費パターンから、炭素集約度の低い活動や消費パターンへと置き換えさせることだ。人々が価格シグナルに適切に反応するなら、価格上昇がQOL〔生活の質〕を下げるはずだと考える理由はない。
こうして私たちは、2つ目の論点に辿り着く。それは、炭素税が「雇用破壊」をもたらすだろうとの主張である。この主張は、雇用の「破壊」という概念をどう解釈するかによって、自明に真であるか、破滅的な誤りであるかのどちらかとなる。雇用破壊というのが、どこかの誰かが職を失う(他の場所で他の誰かが職を得るとしても)ことを意味するなら、確かに炭素税は雇用を「破壊」する。だが、同じことはほぼあらゆる財の価格変化にも言える。この点で、あらゆる国際貿易は「雇用破壊」をもたらす。靴の価格上昇も「雇用破壊」をもたらす。だが、雇用「破壊」が雇用の純減や失業の発生を意味するなら、この主張は完全に間違っている。
実際、この点は全く初歩的な経済学である。事実、この題材で、経済学入門講義の最終試験にもってこいの良い問題を作ることができる。「炭素価格付けが雇用水準の低下をもたらさないだろう理由を説明してください。ヒント:答えは、炭素価格付けで生み出されるであろう『環境に優しい仕事』とは全く関係ありません」。
ここで、炭素税はいかなる失業も生み出さないが、国民所得全体を引き下げる(あるいは成長率を低下させる)だろう、と主張する人がいるかもしれない。一見すると、この議論には一理あるように思える。化石燃料は、わずかな労力で莫大なエネルギーを生み出すことを可能にする。化石燃料の燃焼を減らし、産出により多くの労力がかかるエネルギーを使うようになれば、経済全体の生産能力は下がることになる。結果、社会全体としての富は減るだろう。
この議論については、指摘しておくべき点が2つある。第1に、この主張を支持するいかなる経験的証拠も存在しない。カナダよりもはるかに「グリーン税」が高いOECD加盟国は、一般に、カナダよりも生産性が高い。〔2点目として〕だが、この議論には概念的混乱も見られる。炭素価格付けという政策提案は、費用便益分析に裏づけられており、これは、介入の便益が差し引きで見てプラスであることを示している。だが環境規制の場合、費用には市場価格がつくことが多い一方、便益には市場価格がつかない。そのため、炭素価格付けスキームがGDP成長率を下げる場合ですら、長期的に見ればその便益は費用を上回るだろう。その便益がGDPの数値に現れないというだけだ。(以下の状況と比べてみよう。加鉛ガソリンの禁止は、1リットルあたり2%から3%ほどガスの価格を上げ、莫大な費用をもたらした。だがそれは同時に、莫大な便益も生み出した。血中の鉛濃度を80%下げ、平均IQを数ポイント押し上げたのだ。だがこうした便益には、人々がそれをどれほど高く評価しているとしても、市場価格がつかない。)
言い換えれば、炭素税が社会にコストを課すだろうという考えは、完全なる幻想だ。むしろ、炭素に価格を付けようとする理由は、それがまさに全員の状況を改善するからなのだ(少し前に述べたように、政府を企業に見立てるなら、環境規制はそのプロフィット・センターである)。
まとめよう。ハーパー政権が炭素価格付けに反対するいかなる合理的な根拠も未だ示していないという点を強調するのは重要だと私は考えている。政府が私たちに提示してきたのは上の2つの議論のみであり、既に見てきたように、どちらもちょっと検討しただけで崩れてしまうような議論に過ぎない。
[Joseph Heath, The two worst talking points on carbon taxes/pricing, In Due Course, 2014/7/25.]