人々がビデオ・ゲームを楽しむ理由の1つは、普通の人がアクセスできるエンタメの中で、フロー状態を実現するのが抜群に得意だからだ。フロー状態というのはかなり捉えどころのない性質で、ユーザーを頻繁にフロー状態にするゲームもあればそうでないゲームもあるが、ゲーム・スタジオは、フロー状態を起こせるかこそがゲームの成功の鍵だと知っている。だが、道徳的には、フロー状態の追求はちょっとした問題を生み出す。多くのゲームにおいて、プレイヤーには人を撃つというタスクを与えられており、フロー状態を生み出すには、ほとんど想像しがたい規模の大量殺戮を行わせる必要があるからだ(ビデオ・ゲームを題材にしたテレビ番組や映画が直面する困難の1つがこれだ。「フォールアウト」や「ラスト・オブ・アス」を考えてみよ)。
残念ながら、暴力に耽るよう仕向けられると、普通の人(少なくとも、一定の良心を持ち合わせている人)はゲームを楽しめなくなってしまうかもしれない。それゆえほとんどのゲームは、暴力をふるうための言い訳を提供することに余念がない。一番簡単なのは、もちろん、敵をエイリアンや昆虫やロボットにするなど、通常の道徳的配慮の対象となる範疇から外れたものにすることだ。また、ユーザーに対して殺人を犯す理由を与えてやるというやり方もある(とはいえ、こうして提示される理由の中には、異様に複雑なものもあるが)。(例えば「ベヨネッタ」シリーズを新しくやり始めたプレイヤーは、天使たちをアイアン・メイデンに押し込んで殺したり、「剣のトレッドミル」で腹を裂いたりして本当によいのだろうかと疑問に思うかもしれない。だが、これはただの残忍な攻撃ではなく、主の子分たちが魔女に苦しみを与えてきたことへの復讐だと明かされる。こうしたフェミニズム的な正しさが確認できれば、プレイヤーは心置きなく拷問を楽しめる。そして、これには確かに優れた点もある。あるレビュワー曰く、「敵に強いコンボを決めて、ウィッチタイムに入るちょうどのタイミングで敵の攻撃をかわし、血まみれの拷問攻撃を加える瞬間は、陶酔としか言い表せない」。)
暴力への言い訳があまりに薄っぺらいと、それ自体が面白がられることもある。私のお気に入りの例は「ジャストコーズ」シリーズだ。特に3作目はフロー状態を生み出すのが抜群に上手かった。単なる小気味良いTPS(三人称視点シューティングゲーム)であるだけでなく、環境内に破壊可能なオブジェクトや爆発するオブジェクト(燃料タンクや変圧器など)が大量に配置されていたのだ。「カオスポイント」と「ハボックメーター」によって破壊の規模とテンポが表示され、ハボックメーターが一定レベルに達しないとクリアできない目標もあった。このゲームは、人間の持つ破壊衝動をじかに刺激し、ほとんど至上の快楽を生み出すことに成功していた。

言うまでもなく、こうした破壊行為は反社会的になりすぎるリスクがある。物理エンジンは実験的なプレイを促しており、結果として、ゲーマーたちが親しみを込めて「環境キル」と呼ぶ、新しい創造的な敵の殺し方を見つけることが、こうしたゲームの楽しみの1つとなっている。例えば、敵の警官を燃料タンクに括りつけてから、タンクを爆発させて宇宙へ飛ばす、といった具合だ。こうしたゲームの中には、プレイヤーの反社会的衝動を喚起していることを隠そうともしないものもある。最たる例は「グランド・セフト・オート(GTA)」シリーズだ。GTAの核となっているのは、他人を傷つけたり殺したりしても罪に問われない犯罪者、というファンタジーだ。そしてこれは、一部の人々(私を含む)がこのゲームを楽しめない大きな理由にもなっている。一方で、「ジャストコーズ」の制作者たちは、この問題に対しシンプルかつ驚くほどシニカルな解決策を見つけた。パッケージに、「全ては大義(ジャストコーズ)のためになされている」と大きく書いておいたのだ。こうして良心は慰められ、一件落着というわけである。
暴力に対する私たちのアンビバレンスな感情、そして暴力を楽しむための許可を求める気持ちは、映画において深く探求されてきたテーマである。よく言われるように、暴力的な映画は、観客に対して暴力を楽しむための口実を与えることが多い。だが、この口実がどれほど効き目を持つかは人によって異なるかもしれない。例えば私は、ゾンビ映画を楽しむことができない。同胞市民を殺すことを薄いベールで覆い隠したファンタジーにしか見えないからだ。2021年のNetflixの映画、「アーミー・オブ・ザ・デッド」はこの点で特に露骨だった。パンデミック期の人々の不満を代弁するように、疫病をもって隣人を殺す口実にしたのだ(ガレージにため込んでいた銃を使うチャンスだ!)。この映画には、感染者を殺す様子をライブ配信するために感染源へと向かうYoutuberまで登場する。2017年にラスベガスで起きた銃乱射事件を覚えている人間として、この映画の根底にあるファンタジーは不愉快なほど露骨に見えた。公開当時の状況を考えると、市民の調和に寄与するような映画ではなかったように思う。

このダイナミクスに自覚的で、それを様々な仕方で弄ぶような映画もある。デイヴィッド・クローネンバーグ監督の「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は、この点で観客を悩ませるのが非常に上手い映画だった。クローネンバーグは、繰り返し緊張を高めていき、その後に起こる暴力の爆発を楽しむことを観客に許可する。だが、このカタルシスを長続きはさせず、手のひらを返すように、暴力を楽しんだことを観客に後悔させるのだ。暴力シーンはどれも、問題を解決するには程遠く、事態を悪化させるだけである。クローネンバーグはこうして、観客を罰しているのだ。「ほら、これが見たかったんだろう? でも、本当にこんなものが見たかったの? これで何かが解決するなんて本気で思ってたの?」と言っているのである。
私たちの持つ暗い衝動と、それを受け入れるための合理化の理屈との間にある緊張関係は、エンタメ作品だけでなく、現実世界でも生じている。最も危険な事態が生じるのは、高尚な道徳的目的が、反社会的な衝動を満たす機会も同時に与え、その衝動を覆い隠す場合だ。その行為が高尚な正義の目的からなされているのかどうか見分けがたい状況というのはたくさんある。そのような人も明らかに存在するが、単に戦闘や憎悪、暴力に耽っているだけの者もいる。戦闘の最中では、こうした動機を見分けるのが困難なことがある。そして、多くの人は、連帯を壊してしまうのを恐れ、より疑わしい動機を持つ者から距離を取ることを躊躇うだろう。こうなると、手の負えない状況に陥りかねない。
私の頭に浮かぶ一例は、アパルトヘイト撤廃後の南アフリカの事例だ。黒人系住民は何十年にもわたり、全く正統性を持たない政府による統治を受けていた。そのため、ほとんどあらゆる形態の反政府的暴力が、体制への抵抗として正当化できた。だが、全人種の参加する選挙が開かれ、ネルソン・マンデラが大統領に選ばれたことで、完全に正統性を持たない政府が、一夜にして突如、完全な正統性を持つ政府へと転換した。原理的には、こうして、誰もが法に従い、警察を尊重するといった責務を負うようになったはずである。しかし、驚くべきことでもないが、警官や町の評議員にタイヤネックレス〔首にガソリン入りのタイヤをはめて燃やす私刑〕をしていた怒れる若い男たちの多くは、アパルトヘイトへの原理的な異議申し立てだけに動機づけられていたわけではなかったということがすぐ判明した。彼らの一部は、単に人間の持つ暴力や残虐さの欲求を満たしていただけだったのだ。この暗い衝動は、一度解き放たれてしまったため、再び封じ込めるのは困難だったのだろう。
これは極端な例だが、基本的な問題は広く見られる。例えば、左翼活動家の集まる場で過ごしたことのある人なら、アンティファというのは実際には運動の(まして組織の)名前などではないことを知っているだろう。それは、暴力衝動が過剰な若い男性が、フーリガンやチンピラと間違えられたくないがために使っている総称に過ぎない。だから、「ファシズムと戦う」というより高尚な目標を採用し、左派に惹きつけられるのだ。少しでも話してみれば、〔馬車で言うと〕どちらが馬でどちらが車かはハッキリ分かる。それでも、左派の人々の多くは、彼らを近くに置いておくと便利なこともあると考えているので、その動機の暴力的な側面を見逃そうとする。
表層的な正当化と深層にある動機との間の緊張関係は、暴力衝動だけでなく、他の様々な反社会的衝動にも見受けられる。例えばそれは、内集団の連帯(かつてはよく「部族主義」と呼ばれており、ジョナサン・ハイトが「グループ性(groupishness)」と呼んだもの)において明確に見て取れる。これは、アイデンティティ・ポリティクスの抱える根本的な緊張の1つを生み出している。誰しも、陣営に属すことや、チームの一員であることを好むものだ。その快楽は、温かな帰属の感覚だけでなく、相手陣営やライバルチームのメンバーに対する敵意・敵愾心からも生じている。それでも、こうしたグループ性は、とりわけ多元的な社会では、争いを生じさせやすい。そのため、私たちは通常、普遍的価値の名の下にこうした衝動を抑制するよう求められる。だが、これには1つ重要な例外がある。抑圧されたマイノリティの場合だ。抑圧されたマイノリティのグループに属している場合、形式的には普遍的な原理に違反することなく、自分のグループの利害への偏りを大っぴらにし、原始的な衝動を満たすことができる。例えば、一部の人は、レイシストと呼ばれる危険を冒さずに、レイシストが経験するような理屈抜きの満足感を享受できる。
私がときどき言っているように、マイノリティ・ナショナリズムが左派知識人にとって抗しがたい魅力を持っているのはこのためだ。一般的に言って、インテリはナショナリズムに対して眉をひそめがちだ。それはまさに、ナショナリズムが原始的な衝動だからである。インテリは、コスモポリタンとして、あらゆる人間に平等かつ不偏的な配慮を示すよう期待されている。これには明らかな利点もある。だがそのせいで、インテリは根無し草の感覚を覚え、自分たちの暮らす文化や社会からの疎外感を抱く。インテリは、近代社会における最も重要なアイデンティティの源泉の1つ、すなわち、(闘争の中で育まれたとかなんとかと言われる)歴史的運命を共有する人々、ネーションに帰属しているという感覚を抱くことができないのだ。だがマイノリティ・ナショナリズムは、このトレードオフから抜け出す術を与える。この場合で言えば、抑圧されたマイノリティの利害を偏った仕方で考慮することは、不偏的な正義の要求と合致している。こうして、偏狭かつしばしば排外的な政治運動に入れ込みながら、自分たちは普遍的な人間的価値を実現するために戦っていると独り合点できるのだ。
私は長年にわたり、ケベック独立を支持するモントリオールの友人や同僚たちと関わる中で、この現象を間近で見てきた。以下は、1995年、独立を巡る最後の住民投票が行われた際に、カナダ放送協会(Radio-Canada)に勤めていた友人の話だ。住民投票の日の夜、職員一同(著名なジャーナリストも含む)が、ジャック・パリゾーの敗北宣言を生中継で見るために集まっていた。その多くは、独立派の敗北に落胆していた。だが彼ら彼女らをいっそう動揺させたのは、パリゾーがスピーチの中で、敗因は「金と民族票(ethnic vote)」だと述べたことだった。これを聞いて、数名の人々(もちろん立派な大人である)が急に泣き出し、部屋から出て行ったのだという。念のため言っておくが、彼ら彼女らは独立に投票した人々だ。問題は、当時のフランス語話者のエリートの例に漏れず、彼ら彼女らが、ケベック・ナショナリズムはエスニック・ナショナリズムではなく、市民的ナショナリズムなのだという考えに入れ込んでいたことである。パリゾーの発言によって、この主張(言葉を選ばず言えば、自己欺瞞)を維持するのがひどく難しくなってしまったのだ。
マイノリティ・ナショナリズムが、左派にとってこれほど魅力的な力を持っているのはこのためだ。それは基本的に、反社会的な衝動に対して「大義のために(ジャストコーズ)」というラベルを貼るようなものだ(言っておくが、私はケベック・ナショナリストを貶めたいわけではない。ケベック人が見落としがちな事実の1つは、英語系カナダ人のナショナリズムもまた、アメリカをマジョリティ/アウトサイダーとして嫌うマイノリティ・ナショナリズムの一種だということだ)。以上の考察のポイントは、みんなで他人の動機を取り締まろう、ということではない。私たちみなが、自分自身にこの厄介な問いを投げかけるべきなのだ。自分の怒りのうちどれほどが真に正しいもので、どれほどが攻撃衝動の昇華なのだろう? その違いを内観によって見分けることなど可能なのだろうか? 私は年をとるごとに、ますます自信を持てなくなっている。
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道徳的な攻撃性に関する参考文献として、Donald Black, “Crime as Social Control” (1983)がある。
[Joseh Heath, Some thoughts on violence, In Due Course, 2025/9/14.]