1970年代のサスカトゥーン〔カナダ、サスカチュワン州の最大都市〕で育った人間にとって、協同組合は日常生活の大部分を占めていた。食料品や金属製品、ガスは生協(Co-op)で買ったし、銀行は信用組合(credit union)を利用していたし、鶏の餌すらウィートプール〔カナダの小麦生産者の協同組合〕で購入していた。実際、私たち家族の思い出の中には、こんなエピソードがある。ある日、母が私たち子どもを後部座席に乗せたまま、車をガス欠させてしまった。母は、それまでの道中にあった「アメリカの多国籍企業」のガソリンスタンドを利用したくなかったので、なんとか生協のガソリンスタンドまで辿り着こうとしていたのだ。
西カナダにおける生協の大きな存在感は、20世紀におけるカナダとイギリスの左派のあり方に大きな違いをもたらした。イギリス労働党の綱領4条には「生産手段、分配、交換の共同所有」が謳われており、これは「公有」を意味すると広く受け取られていた。一方、カナダの協同連邦党(Co-operative Commonwealth Federation: CCF)は「社会的所有」を打ち出すことで独自性を示していた。社会的所有の中身には、国家だけでなく、協同組合による経済運営も含まれていた。CCFにおいて労働組合が重要な役割を担うようになったのは、ずっと後になってから(特に、CCFが新民主党(NDP)へと名前を変えてから)のことだ。初期のCCFの大きな推進力は、協同組合セクター(特に、農家たちの相互保険の伝統)を基盤としていた。
(ちなみに、左派内部に存在するこの溝は、今日でも見て取ることができる。つい先日、ゾーラン・マムダニがニューヨーク市長選で当選したが、彼は市有の食料品店を開設するというキャッチーな公約を掲げていた。だが、なぜ公有なのだろう? 食料品価格の高騰が資本家の強欲のせいなら、なぜ協同組合を推進しないのだろう? 残念ながら、こうした問いを立てることは、同時にその問いに答えることにもなっている。ニューヨークには既に、協同組合型の食料品店がたくさん存在するのだ。世界的に有名なパークスロープ・フードコープもその1つである。そしてもちろん、公的補助を受けた民間の食料品店も既に多数存在する……。残念ながら、「サプライチェーン」という概念は抽象的なので、ポピュリスト的思考では扱えないのだ。)
私は、このような農本社会主義に囲まれて育ったため、協同組合運動に強い感情的愛着を抱くようになった。そんな経緯もあって、昨年、サスカチュワン大学のカナダ協同組合研究センターからマクファーソン講演の招待が届いたとき、私は一も二もなく飛びついた。長い間サスカチュワンに帰ってなかったので、帰郷の機会になると思ったのは確かだ。だが、この講演を受けたのは、協同組合を組織し運営するための実務に大変詳しい人々と議論できる機会になると思ったからでもある。そういうわけで私は、「協同組合は株式会社よりも徳をそなえているのか?(Are Cooperatives More Virtuous than Corporations?)」という論文を急いでまとめた。この論文は現在、Politics, Philosophy and Economics誌に掲載されているので、週末じっくり読むための文章が見つからなくて困っている人はぜひチェックしてほしい。
株式会社についての私の見解を知っている人なら、「協同組合は株式会社よりも徳をそなえているのか?」という問いへの答えが基本的に「No」だということはお分かりだろう。一部の同僚からは、協同組合について研究するだけでなく、(包み隠さず言えば)それを推進することも目的としている研究センターで、「協同組合はそれほど道徳的じゃない」という論文を発表するなんて、ちょっと厚かましいんじゃないのか、と指摘された。だが私はそうは思わない。現実をありのままに見つめることが重要である、というだけではない。私が論文で提示したように、協同組合がそのメンバーに提供する利益と、社会全体に提供する利益との間には、重要な区別が存在するからだ。
協同組合がそのメンバーに莫大な利益を与えることに関して、私は微塵も疑っていない(論文で書いたように、「協同組合がそのメンバーにとってより好ましい企業形態だというのは当たり前のことだ。そうでなければ、彼ら彼女らは協同組合のメンバーになっていないだろう」)。それゆえ、法が様々な織形態の間で中立を保つようにするのにはもっともな理由がある。人々が、協同組合を作ることで状況を改善できるにもかかわらず、株式会社と取引し続けなければならない、なんてことになるのは望ましくない。私の議論のポイントは、協同組合には、メンバーが享受する利益を超えて、社会全体に追加的にもたらされる利益はほとんどない、ということだ。協同組合は、その所有者にとっては良い組織形態だ。だがそれは、株式会社がその所有者にとって良いのと全く同じことである。そのため、一方が他方よりも必然的に優れているということはない。協同組合が株式会社よりも優れて有徳に見えるのは、大抵、私たちが企業のステークホルダーのそれぞれに寄せる共感の度合いが異なる(特に、投資家への共感が非常に乏しい)からだ。不偏的な視点に立って、あらゆる個人の経済的利害を等しく扱うなら、このような非対称性にはほとんど根拠がない。
以上が論文の概要だ。もちろん、詳細はもっと込み入っている(だから、ブログ記事ではなくジャーナルの論文になっているのだ)。

上の写真は、協同組合研究センターのマレー・フルトン氏の研究室の窓から見た、サスカトゥーンの景色である。私がどこに住んでも「混雑している」と感じてしまうのは、この場所で育ったからだ。
[Joseph Heath, Are cooperatives more virtuous than corporations?, In Due Course, 2025/11/7.]