マーク・コヤマ「産業革命と福祉国家の誕生:ウォーカー・ハンロン『レッセフェールの実験』書評」(2025年11月12日)

汚染の外部性や情報の非対称性といった形での市場の失敗がますます深刻になり、政府介入によって厚生を改善できる可能性が生まれたのだ

この書評のオリジナル・バージョンは、Center for Enterprise, Markets and Ethicsで公開されたもので、このリンクから飛ぶことができる。本エントリは、この書評のロング・バージョンである。

経済史は、研究者が本を書くことがまだ慣習として継続しており、ベテラン研究者にも本を書くことが期待されているという点で、経済学の中でも稀有な(ひょっとすると唯一の)分野だ。これは、私たちの経済史理解を形作ってきたような世代の研究者にも確かに当てはまっていた(ジョエル・モキイア、ロバート・アレン、グレゴリー・クラーク、ギャヴィン・ライトなど)。悲しいことに、私の感覚では、こうした期待は消えつつある。少なくとも一部の学部では、経済史は応用経済学の一分野に過ぎないものとなっている。W・ウォーカー・ハンロン(W. Walker Hanlon)の著書、『レッセフェールの実験(The Laissez-Faire Experiment)』〔未邦訳〕 [1]訳注:ここでは基本的にlaissez-faireを「レッセフェール」とカタカナで訳すが、必要に応じて「自由放任」と訳している箇所もある。 は、こうしたトレンドに対する驚くべき例外であり、もっと注目を浴びて然るべき作品だ。

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経済史研究者の最大の関心事は、経済成長である。経済史における傑出した著作のほとんどが、産業革命とその原因を重要テーマとして据えている。さらに、他の地域で産業革命が起こらなかった理由を説明しようとする著作も多数存在する。

そのため、本書を読んで新鮮だったのは、産業革命の原因ではなくその結果に焦点を当てている点だった。200年ほど時を遡ることができたとしよう。その当時、世界には2つの劇的な転換が生じていた。1つは、産業化によって、物質的財が溢れるとともに、世界を変えるような技術が登場したことだ。もう1つは、巨大で近代的な福祉国家が勃興したことだ。

ウォーカー・ハンロンの著書『レッセフェールの実験』が扱っているのは、この2つ目の大転換である。ハンロンは2つの根本的な問いを投げかけている。「第1に、19世紀イギリスの制限政府はどうやって上手く機能していたのだろう? 第2に、イギリスで制限政府が方針を転換してより介入主義的になり、今日のほぼあらゆる先進国が同じ道を辿っているのは、なぜなのだろう?」。

ハンソロンの議論はエレガントかつシンプルであり、標準的な経済理論に依拠したものだ。

19世紀初頭のイギリス経済が直面していた主な問題は、ナポレオン戦争以前の非効率な政策をどう解体するかということだった。18世紀のイギリスは、財政軍事国家として、大地主を保護し、ローカルかつその場しのぎの制度に頼っていた。ハンロンによれば、レッセフェールはこの文脈において適切な経済哲学であった。「19世紀前半において、イギリスの自由放任システムは成功していた。経済は急成長し、その果実は富裕層だけでなく平均的な労働者にも行き渡った。技術進歩は急速なペースで継続していた。グローバルな強国としてイギリスに並ぶ国はなかった」。

だが、産業革命が進んでいくほどに、こうした非介入政策をとるコストは上がっていった。例えば、急速な都市化は、過密、不衛生、感染症、汚染といった新しい問題をもたらした。19世紀において都市で暮らすということは、健康面で大きな妥協を強いられるということだった。

イギリスの政策立案者たちをより介入主義的な政策へと向かわせた当時の経済問題に対して、ハンロンは経験的評価を提示しているが、その議論は説得的である。汚染の外部性や情報の非対称性といった形での市場の失敗がますます深刻になり、政府介入によって厚生を改善できる可能性が生まれたのだ。

本書の議論の明晰さは称賛に値する。ハンロンはまず、本書のテーマに関連する経済分析を提示している。これは、中級のミクロ経済学や公共経済学を履修している人にはおなじみのものだ。そこでは、市場の失敗の主要なタイプが概説される(情報問題、独占、信用制約、公共財、コーディネーション問題)。その後の各章は、これらの一般原理を様々な形で応用し、経済史における重要な文献(例えば、児童労働規制や都市の公衆衛生に関する文献)をサーヴェイする形となっている。

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例えば、失業保険をテーマにした章は、膨大な情報とエビデンスを、たった数ページに凝縮している。古典的リベラルが近代国家に対して浴びせてきた非難の1つは、〔公的な〕失業保険や失業給付により、福祉国家以前には一般的だった様々な慈善事業や民間保険が押し除けられてしまった(クラウディング・アウトされてしまった)、というものだ。

事実、ハンロンが論じているように、1850年以前も、職業に基づく伝統的な非政府提供の保険に加入することはできた。だがその後、単一の産業や複数の関連する産業群に基づく、巨大かつ地理的に集中した産業集積(例えばランカシャーでの綿織物産業の集積)が生じた。これは労働者の保険の問題を一変させた。ハンロンはその理由を説明している。家族や地域共同体に基づいた失業保険、あるいは職業に基づいた失業保険では、綿織物産業が全般的に低迷した場合になす術がなかったのだ。

19世紀において外生的ショックが一箇所に集中してもたらされた事例の中でも最も悲惨なのは、アイルランドのジャガイモ飢饉だ。そこでは、既存の救済策がことごとく機能しなかった。だが、他にもあまり有名でない例が存在する。

例えば、アメリカの南北戦争によって生じた木綿危機は、イギリス北西部に集中的に被害をもたらした。ブラックバーンやプレストンのような町では、1862年の終わりまでに、人口の30-50%が貧困救済支援を受けるようになっていた。貧困救済策は、教区レベルで地域的に組織されたものだった。それゆえ、被害が最も集中した地域では、必要とされていた支援を提供することが難しかった。慈善やボランティア援助を求める人がたくさんいた一方、それらは寛大に提供されたとはいえ、あてにならないこともしばしばで、コーディネートは困難だった。そのため、この問題に応答する形で、政策立案者たちは、地方教区に対し国から与えられた資源を利用することを認めた。こうして、資源をより中央集権的にプーリングすることが可能となった(こうした国家レベルでの貧困支援の組織化には、根強い抵抗が存在したのだが)。

ハンロンは以上のような議論を展開する際、データと体系的に組み合わせる形で、議会データベースや、政策立案者たちのポジションにも言及している。彼は、二次文献に加え、ベロール・アーシやブライアン・ビーチとの共同研究も踏まえ、この木綿危機が、死亡率、移住、人口成長にどう影響したかを述べている。こうした指標への長期的な影響が示唆するのは、政府がこのときもっと積極的に動いていれば、人々の厚生が改善しただろうということだ(そうした政策への移行が実際に生じたのは20世紀初頭になってからのことだったが)。

全体的に見て、本書は、現代的な経済史の本を書くにあたってのお手本となっている。関心のある人には心からこの本を勧めたい。だがそれ以上に、経済史を好んで読むような読者に向けて言うと、19世紀から20世紀にかけての近代国家の勃興を理解したいと思う人にとって、本書は重要な本である。

とはいえ、以下で論じていくように、私は本書の議論をさらにもう少し進めて含意を引き出したい。その中で、ハンロンが無視しているように思われる議論の諸側面に焦点を当てることになる。

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ここまでは、『レッセフェールの実験』を経済史の著作として称賛してきたが、以下の批判パートにおいては、本書で暗黙に前提とされている政治経済学、そして本書における経済思想の扱いに焦点を当てたい。

まず、恐らく意図的だと思うが、本書における「レッセフェールの哲学」の扱いは非常に味気ないものだ。意図的だと言ったのは、本書が経済史に明確に焦点を当てた著作だからである。そのため、思想史の文献に深入りしすぎると議論が散漫になってしまうだろう。そういうわけでハンロンは、「レッセフェール」という語を、いわゆる古典的リベラリズムを指す省略語として用いている。古典的リベラリズムというのは、基本的に、自由を一般的に支持し、制限政府を求める思想のことである。

これは完全に理解可能であり、実際、擁護可能でもある。にもかかわらず、このアプローチには代償も存在する。以下ではそのことを示していきたい。

第一に、レッセフェールという語を古典的リベラリズムの省略語として用いている点である。古典的リベラリズムは、レッセフェールの同義語ではなかった。古典的リベラルの思想家たちは常に、政府介入が求められる領域が存在することを認めていたからだ。

ハンロンは、レッセフェールを古典的リベラリズムの省略語として用いる自身の用語法について、特に擁護を与えているわけではない。だがこのアプローチをとることで、19世紀イギリスにおけるエリート間の合意の程度を過大評価し、当時から既に競合する思想的伝統が存在したことを過小評価してしまっている。

19世紀中盤における多くの思想的立場が、揃って制限政府を支持していたというのは正しい。だが、それらはそもそも一枚岩の「哲学」などではなかった。このことを理解すれば、当時の主導的人物の一部が、よりテクノクラシー的な社会への介入へと突き進んだ理由が理解できる。典型例はエドウィン・チャドウィックだ。チャドウィックはジョン・スチュアート・ミルに追随した功利主義者であったと同時に、近代的な公衆衛生や警察制度の創設者でもあった。チャドウィックは、社会状況を改善するためには私的所有権を廃止することも厭わない人物だった [2]原注:ロバート・エーケルンドとエドワード・プライスの著書『エドウィン・チャドウィックの経済学(The Economics of Edwin … Continue reading

19世紀イギリスが実際に自由放任だったのか否かについては、実のところ長い論争の歴史が存在する。確かに、19世紀イギリスが自由放任の楽園(あるいは地獄)だったというのは、左翼・右翼の論者やポピュラー歴史学本が繰り返してきたクリシェだ。だが、Journal of Economic Historyの初期の論文は、それが真実なのかを問うた(「レッセフェール問題」)。中には、「イギリスが自由放任だった」というのは、実際の政策や政治原理の実態を記述しているというより、A・V・ダイシーのような19世紀後半の歴史家たちのノスタルジーに突き動かされた「政治的・経済的神話」であった、と主張する論者もいた。

ジョン・スチュアート・ミルは、旧体制の残骸を一掃する上でレッセフェールの教義は有用だと考えていたが、その目的自体を支持してはいなかったし、明らかにより介入主義的な社会哲学に入れ込んでいた。実際、まさにそのために、のちの古典的リベラルたちによるミルへの評価は曖昧になっている。彼らはミルの著作の中に、ずっと後の時代に登場する平等主義的政策の前触れを見出していたのだ [3]原注:実際、『確実性の追求(The Pursuit of Certainty)』〔未邦訳〕の著者シャーリー・ ロビン・レトウィン(Shirley Robin … Continue reading 。ブレブナーが言うように:

ジェレミー・ベンサムとジョン・スチュアート・ミルは、レッセフェールの提唱者の典型例(ほとんど元祖)とよく言われているが、実際にはその正反対であり、敬虔な使徒たちとともに集産主義的目標を掲げていた。(Brebner, 1948, p 59-60)

ハンロンの描く物語では、リベラルでレッセフェールな傾向にあった政策立案者や思想家たちが、市場の失敗や外部性の蔓延という現実に直面し、徐々に〔福祉国家的な〕政策や思想原理を採用するようになった、ということになっている。ハンロンは次のように述べる。「19世紀の政府介入は、集産主義イデオロギーに染まった集団の仕業ではなかった。政府介入の多くを実行したのはむしろ、レッセフェールを支持しながら、耐えがたい状況や非効率な状況が存在すると考え、様々な政府介入を柔軟に試行していった人々だった」。だが私見を述べるなら、古典派経済学者やチャドウィックのような関連人物の思想・著作を深く調べれば、レッセフェールという語で普通意味されてる思想よりもむしろ、社会の改善・改良を志向した政策への率直なコミットメントが見出せるのではないかと思う。

さらに、コリン・ホームズ(Colin Holmes)が50年以上前に論じていたように、レッセフェールの教義と見なせるものは確かに19世紀中盤には存在していたが、それはイギリスのエリートや政府を突き動かした政策原理ではなかった。政府による社会介入の増大への反発をもたらしていたのは、むしろ、より伝統的な(保守党とは関係のない、気質としての)保守主義的原理だったかもしれない [4] … Continue reading 。本書にはそこらへんの感覚は掴めない(例えばジョン・ラスキンやトマス・カーライルは出てこない)。

以上を認めたとしても、ハンロンの議論を弱めることにはならない。だが、こうしたことを頭に入れておくと、19世紀イギリスにおける諸問題への理解が深まるだろう。

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2つ目のコメントは、レッセフェールの台頭と衰退における政治経済学の扱いに関するものだ。

ハンロンによる政治経済学の扱いは、全体的に見て柔軟である。ハンロンは、市場の失敗の蔓延が、そうした市場の失敗を是正するだろう政策へと自動的に結びついた、とは想定していない。イデオロギーや利害の重要性もきちんと認識している。だから彼の議論は、産業化により市場の失敗が悪化したことで「効率改善的な政府介入の機会が生み出された」、というものになっているのだ。そうした機会がどれほど実現されたかは、他のたくさんの重要な要因に左右されただろう。

ハンロンは、19世紀終盤における政府介入の活発化に関しても、同様に丁寧な議論を行っている。彼は近年の歴史学研究に依拠しながら、ドイツの福祉国家改革の事例や戦争のプレッシャー、帝国主義的競争によって、政策立案者たちがレッセフェールから離れていったと論じている。

にもかかわらず、この部分の議論は、新たな産業経済が新しいタイプの外部性を生み出したという前半部の体系的な説明に比べると、それほど説得的ではない。

これには理由がある。ハンロンは経済史の厳密なエビデンスを巧みに繋ぎ合わせているが、これは市場の失敗の存在を示す上では非常に説得的だ。しかし、政策決定がなぜ/いかにしてなされたかを論じる段になると、ハンロンはそれほど強力な枠組みを持っていないのである。

結論部でハンロンは、彼の説明が提起する大きな問題の一部に取り組んでいる。すなわち、「イギリスの政府介入の拡張が考えなしになされていたという証拠はあるか?」という問いだ。ハンロンは、介入の拡張が考えなしになされていたわけではなかった、という証拠を提示している。政策立案者たちは、世論に引っ張られることなく、経験から学んだのだ、とハンロンは言う。

ここでハンロンは、19世紀の政治経済学に然るべき注意を向けずに済ますというリスクをおかしている。政治経済学は、人々の選好が一致しない状況を扱う学問だ。ハンロンの枠組みは、教育や規制への需要が新たに生じたにもかかわらず未だ満たされていない、という状況に注目するものなので、人々の選好が互いに競合する状況を捨象してしまう。政府が常に本来の目的を果たすわけではない、ということはハンロンも理解している。だが本書において、政治経済学的な観点はときどき言及されるだけだ(例えば、石炭の汚染への対処が失敗した理由を説明する際など)。

19世紀後半のイングランドにおける国家の勃興を扱った初期の議論は、ハンロンとは対照的に、競合する政治的利害集団を大きく取り上げている。コリン・ホームズによれば、レッセフェールのイデオロギーが最高潮に達したと考えられる19世紀中盤は、実際には中央集権化が進み規制が増大した時期であった。この点は、ハンロン自身の議論やデータによっても確証されている。だが、利害集団間の対立が果たした役割は、『レッセフェールの実験』の主要テーマにはなっていない。そしてこれは、20世紀になってより巨大で介入主義的な国家が登場した経緯を説明する上での障壁にもなっている。

『レッセフェールの実験』は、経済史の学術書として素晴らしい作品であり、偉大な達成である。この事実は、以上の批判的コメントによって損われるものではない。後続の研究は本書の議論に向き合い、その知見に基づいて議論を行うべきである。

[Mark Koyama, The Laissez-Faire Experiment by W. Walker Hanlon, How the World Became Rich, 2025/11/12.]

References

References
1 訳注:ここでは基本的にlaissez-faireを「レッセフェール」とカタカナで訳すが、必要に応じて「自由放任」と訳している箇所もある。
2 原注:ロバート・エーケルンドとエドワード・プライスの著書『エドウィン・チャドウィックの経済学(The Economics of Edwin Chadwick)』〔未邦訳〕は、経済学者としてのチャドウィックに焦点を当てている。
3 原注:実際、『確実性の追求(The Pursuit of Certainty)』〔未邦訳〕の著者シャーリー・ ロビン・レトウィン(Shirley Robin Letwin)の議論は、ハンロンの議論に対する興味深い反論となっている。レトウィンによれば、積極的な政府介入への移行は、当時の経済的・社会的状況の変化ではなく、ミルなどの思想家たちの思想的選択や情熱に突き動かされていた。
4 訳注:ホームズは次のように述べている。「中央行政機関の拡大に対する抵抗は、あらゆる政府活動に反対するような人々だけでなく、地方政府を存続させることに既得権を持つ人々や、分権制の利点を信じている人々によってももたらされていた」(p. 683)。
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