ときおり、最近のアメリカの社会問題についてどう考えているか尋ねられることがある。私は大抵、「その仕事は私には役不足ですよ」と言ってコメントを控える。「結局のところ、アメリカの何が問題か突き止めるのに批判理論の博士号は必要ありませんから」と。実際私は批判理論で博士号をとっているから、アメリカの欠陥を見つけることなど朝飯前だ。あらゆる問題に関して、答えは明白である。多すぎる銃、時代遅れの憲法、勝者総取り方式の選挙、政府への不信、多すぎる拒否権、などなど。
というのは本音ではなく、そういう質問があまりにも多いので、会話から抜け出すための方便として言っているだけである。実際の見解を述べると、アメリカの批判理論は、他のほぼ全ての西洋諸国に比べてはるかに難しい。これはアメリカの社会問題のほぼあらゆるケースで現れるパターンのためだ。アメリカで現れている問題のどれについても、明白な解決策が存在する。だがその明白な解決策には、やや見えにくい問題が潜んでおり、それが解決策の実行を妨げている。その見えにくい問題にも解決策はあるが、そこには大抵もっと見えにくい問題が潜んでいて、解決策の実行を妨げており……、以下省略。
それゆえアメリカの批判理論の課題(博士号が必要になる仕事)は、上昇していく問題の階梯を辿ることで、一般にアメリカの問題がなぜいつまで経っても解決しないのかを突き止めることだ(アメリカ人はよくても問題の回避策を見つけられるだけだ。これはアメリカ政府に特徴的な複雑さ、不透明さ、非効率性をどんどん蓄積させ、「クラジオクラシー(kludgeocracy)」 [1]訳注:応急処置的な回避策が蓄積し、制度が異様に複雑になっていくことを指す、アメリカの政治学者スティーブン・テレス(Steven … Continue reading を生み出す。これも解決不可能だ)。残念ながらほとんどの批判理論家は、この「問題を辿る」作業に必要な、制度の詳細に取り組むための忍耐力を身に着けていない。
ナイーブな批判理論家は、明白な問題を指摘して「なんてこった、誰かこれを止めるべきだ」(あるいは「卑劣な共和党員がいなければ私たちで解決できるのに」)と主張する。中級の批判理論家になるには、それがいかに問題かについて何十年も議論され続けているのに、なぜこれまで解決策が実行されてこなかったのかを疑問に思わなければならない。アメリカ社会のあらゆる主要な問題が、国民全体(民主党員と共和党員双方)に広く共有されたコミットメントまで辿れることを認識できれば、上級の批判理論家の仲間入りだ。
先日、これについて考える良い例を見つけた。それは住宅価格(アフォーダビリティ)の問題 [2]訳注:アフォーダビリティ(affordability)は、市民が住宅を手頃な価格で購入できるか、という意。 だ。これはカナダとアメリカの両国で大きな問題となっている。だが両国の大きな違いは、カナダにおいてこの問題が、少なくとも合理的な対応政策と思わしきものを引き出したことだ。最も重要なのは、どのレベルの政府も〔つまり連邦政府も州政府も〕住宅の建造に注力するようになったことである。過去数年にトロントをドライブした人なら、こうした努力が結果を生んでいることに気づいているだろう。たくさんの建設作業が行われているのだ!
次の地図は、去年〔2023年〕の初頭の時点で北米の主要都市にどれくらいの固定式建設クレーンがあったかを示している。私はこれを見て驚いてしまった。
ちょっとした計算をすると、トロントとカルガリーには、この地図で挙げられているアメリカの都市全てを足したよりも多くの建設クレーンがあることが分かる(その都市にはニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴ、ボストンが含まれている!)。地図を見て驚いたのは、これだけの数の建設工事がトロントで行われていることではなく、ニューヨークやサンフランシスコで建設工事が全然行われていないことだ(念のため言っておくと、トロントのクレーンはほぼ全て住宅建設に使われている。商業用物件の市場はコロナ禍から回復しておらず、未だ供給過剰の状態である)。
マット・イグレシアス(Matt Yglesias) [3]訳注:アメリカのジャーナリスト。ニュースサイトVoxの創設者の1人。 やエズラ・クライン(Ezra Klein) [4]訳注:アメリカのジャーナリスト。Voxの創設者の1人で、ニューヨークタイムズ誌のコラムニストとして有名。 といったアメリカのYIMBY〔Yes In My Back Yard。NIMBYとは逆に土地開発、特に住宅建設を積極的に支持する立場〕の話を聞いていると、少しばかり罪悪感を覚える。彼らはこの件に関して健闘している。都市の人口密度の増加に対する条件反射的な反発の大きさには、本当に驚かされる(私がナイーブなだけかもしれないが、ニューヨーク市のソーホー地区やノーホー地区の住人が、より高いビルやより多くの住居の建設を許可する「アップゾーニング」計画に対して激しい抵抗を見せていることには本当に驚いてしまった。はっきりさせておきたいが、こうした人々は、マンハッタン島に住みながら、あらゆる手を尽くして高層ビルの建設に反対しているのだ。本当にそれほど過密な都市を嫌っているなら、なぜ他の場所に住もうと考えないのだろう? 他の場所というと例えば……、文字通りアメリカのどこでも大丈夫だろう)。
ではトロントは住宅建設のためにいかにしてこうした反対運動を克服したのだろう? この点こそ、アメリカとカナダの比較が興味深くなるところだ。答えは「行政府の力を通じて」である。より具体的には、選出公務員と裁判官の双方から権力を取り上げ、官僚の手に委ねることによって、である。もっと詳細に言うと、オンタリオ州は建設の許可プロセスにおける拒否権の数を劇的に減らすために、行政裁判所(administrative tribunal)を設置し、土地利用に関して拘束力のある意思決定を行う権力を付与したのである。この行政裁判所は、市議会の決定を無効化する権力を持ち、審査免除条項(privative clause)によって司法審査からも守られている。
この行政裁判所は現在、オンタリオ州土地関連行政裁判所(Ontario Land Tribunal)として知られている(私の言ってることが信用できないという向きには、この行政裁判所の授権法規を確認することをおすすめする。特にセクション13および24にある審査免除条項に注目してほしい。この条項は、行政裁判所の決定に対する司法審査を制限している)。この制度が様々な点で、アメリカの政治的伝統にとっていかに異質であるかは、強調してもしきれない。これらはみな、アメリカでは明らかに「違憲」となる要素を含んでいる。
数年前、近所であるトロントのダウンタウンで、この行政裁判所がどう機能しているかを観察する機会があった(当時、この行政裁判所はオンタリオ市委員会(Ontario Municipal Board:OMB)として知られていた)。私は当時、一戸建ての核家族の住宅がたくさん並んでいる緑豊かな地区に住んでいた。この地区は地下鉄のセント・クレア・ウェスト駅から歩いて5分の距離だった(つまり都心に非常に近かった)。ある日、近所の人が私の家にやってきて、嘆願書に署名してほしいと頼んできた。私の住んでいた通りには他よりもやや大きな建物があって、これは標準区画の2つ分を占め、6家族が住めるものだったのだが、オーナーはこの建物を増築して24家族が住めるようにしようとしているといのだ。
自然、地域住民の誰もがこれに反対して、嘆願書が提出されることとあいなった。名誉のために言わせてもらうと、私は署名を断ったが、そのためにはちょっとやそっとではない精神力が必要だったことは記しておきたい。近所の人が自宅の玄関に来て、あなたも地域住民の活動に貢献してほしいと言ってくれば、強い同調圧力がかかる。署名のコストは基本的にゼロだが、署名を断れば、その場で気まずくなるだけでなく、近所の人をいらだたせることによる潜在的な長期的コストも発生する(例えば、適切な許可を得ずに家をちょっとだけリノベーションしたいとき、隣人には見て見ぬふりをしてほしいものだが、その隣人をいらつかせてしまうというコストが生じる)。
古くからある都市では、その地区のあらゆる住宅が建築や土地利用に関する種々の規則に違反しているということはよくある。家を改築・改修するつもりがないなら、そうした違反は大したことではない。だが許可の必要なリノベーションを行おうとすると、そのリノベーションはほぼ確実に規則違反と判断されることになる(例えば、家が土地の境界線に近すぎてセットバックの規則に違反しているため、いかなるリノベーションであれ当該規則に違反してしまうなど)。そのためリノベーションを行いたいなら、トロント市議会の土地利用調整員会(Committee of Adjustment)に駆け込んで、規則適用除外(variance)の許可を得る必要がある。
土地利用調整委員会も〔オンタリオ市委員会と同じく〕行政裁判所だが、その「市民委員」はみな議会によって任命されるので、州政治家と非常に近い関係にある。最も重要なのは、この委員会が公聴会を開き、「当該不動産と60メール以内の距離にある土地の所有者全員」から規則適用除外の要望に対する意見を集めることだ。そのため土地利用調整員会は、実質的にNIMBYが拒否権を行使する場所として機能している。私の地区の住民たちが嘆願書を出したのもこの土地利用調整員会である。案の定、住民たちは勝利し、プロジェクトは止まってしまった。
この妨害にもめげず、オーナー(あるいはデベロッパー)はこの土地利用調整委員会の決定について、オンタリオ市委員会に上訴した。1、2ヵ月後にオンタリオ市委員会が下した決定は、土地利用調整委員会の決定を棄却してプロジェクトを承認するものだった(われわれ地域住民はこの決定をメールで受け取った)。そこでの説明が非常に簡潔なことに驚いたのを覚えている。基本的な趣旨はこうだ。「この建物は地下鉄の駅の徒歩圏内に位置しており、都市計画は交通機関に近い地域での人口密度の増加を許可しています。プロジェクトは承認されました」 [5]訳注:このようなトロントの土地利用に関する制度については、「カナダ・トロント市におけるヴァリアンス(Variances)の制度と運用」に詳しい 。
もちろんこれは、オンタリオ州で土地計画に携わる官僚が何を行っているかを示す、ちょっとしたお話にすぎない。トロントに238個もの建設クレーンがある理由を十全に説明するには、もっと込み入った議論が必要だ。さらに、トロントの住宅問題は解決されたというには程遠い。ここでの論点は単純に、住宅問題が合理的な政策的対応を引き出しており、次の十年で事態が改善されると期待するのは理に適っていないわけではない、ということだ。対照的に、サンフランシスコやニューヨークに住む人々にとって、事態が改善するだろうと思える理由は何もない。
この話をした目的は、アメリカ、そしてアメリカにおいて社会問題の解決になぜこれほど困難なのかに関する、非常に一般的な論点を指摘することだ。カナダ人として私はアメリカ人にまず、「なんでカナダみたいなやり方をしないの?」と言いたくなる。答えは大抵、アメリカでそのようなやり方をとるのは不可能であるというものだ。住宅問題で言えば、地方議会の権限を超越した行政裁判所を設置することは、アメリカでは単純に不可能である。司法審査を制限する審査免除条項を法律に散りばめることも不可能だ。公務員にこのレベルの裁量判断の権限を与えることもできない。
恐らくもっと重要なのは、アメリカではリベラルも保守も、こうした行動を可能にするのに必要な変革を起こす気がないということだ。アメリカ社会の表層的な問題の多くが、蓋を開けてみれば深層的な問題に繋がっている理由はこれだ。問題は、アメリカ人が正しい判断を下せないことではない。人々が正しい判断を行い、一度行った判断をやり遂げられるような統治構造を生み出す気がないことだ。
すると、アメリカの(ための)批判理論はどのようなものになるだろうか? 最も重要な点は、他の西洋諸国に対する批判理論よりもはるかに、制度に焦点を当てた議論になることだ。メートル法への統一も実現できない政府を持つ国で社会主義を夢想する、アメリカの左派の話を聞くことほどいらだたしいことはない [6]訳注:現在ほぼ全ての国でメートル法が採用されているが、アメリカでは未だにヤード・ポンド法も使わている。 。これはアメリカの政治的思考における巨大な盲点となっている。しかし繰り返すが、国家行使能力(state capacity)が欠如し行政の質が全般的に低い国で育つと、リベラルであれ保守であれ、確実に事態を悪化させるだろう改革を提案してしまうようになるものなのだ。現在の惨状を生んでいる要求それ自体を強めてしまうのである。これこそがアメリカの社会生活における困難な課題であり、真剣な批判理論家が焦点を当てるべき問題である。
[Joseph Heath, A critical theory of (or for) America, In Due Course, 2024/5/21.]References
↑1 | 訳注:応急処置的な回避策が蓄積し、制度が異様に複雑になっていくことを指す、アメリカの政治学者スティーブン・テレス(Steven Teles)の造語。以下の記事で詳しく扱われている。ジョセフ・ヒース『トランプ大統領の省察』(2016年11月10日)、【翻訳】 スティーブン・テレス「アメリカは”クラジオクラシー”(Kludgeocracy)に陥っているのか?」(2013年1月26日) |
---|---|
↑2 | 訳注:アフォーダビリティ(affordability)は、市民が住宅を手頃な価格で購入できるか、という意。 |
↑3 | 訳注:アメリカのジャーナリスト。ニュースサイトVoxの創設者の1人。 |
↑4 | 訳注:アメリカのジャーナリスト。Voxの創設者の1人で、ニューヨークタイムズ誌のコラムニストとして有名。 |
↑5 | 訳注:このようなトロントの土地利用に関する制度については、「カナダ・トロント市におけるヴァリアンス(Variances)の制度と運用」に詳しい |
↑6 | 訳注:現在ほぼ全ての国でメートル法が採用されているが、アメリカでは未だにヤード・ポンド法も使わている。 |