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タイラー・コーエン「続・統計的差別」

[Tyler Cowen, “More on statistical discrimination” Marginal Revolution, August 18, 2018]

先日の筆者の統計的差別仮説に関する投稿に、もしそれが正しいとすれば、「トップに立った」少数派の人は、それほど多数の選別や暗黙の「税」を潜り抜けてきたのだから、相当なやり手のはずだ、という趣旨の反論をいくつかいただいた。筆者は電子メールで次のような返事を書いた(修正込み)。

そうかもしれませんね。でもあたなは、どの部門でも才能の質は変わらないと決めつけているように思います。

世の中に2種類の部門があるとしましょう。1つ目はCEO部門で、女性が統計的差別に直面し、複数の階段があるような部門です。2つ目は統計的差別のない部門で、他にも例はありますが、仮に女子テニス部門と呼ぶことにしましょう。

才能のある女性のほとんどは、自分が実際にもっとも簡単に成功しそうな場所がどこかを判断できるので、後者の部門にばかり押し寄せる可能性があります。そのような場合、CEO部門の勝者は、差別の存在を考慮に入れても、必ずしもそれほど特別ではないことになります。

これはまた、雇用主や仲介者には、特にそのような才能を発掘するインセンティブがないということでもあります。そのような才能は、他のより差別の少ない部門に逃げ出しているからです(付け加えれば、そのせいでCEO部門の賃金も下がります)。

余談だが、この投稿に対して、Willittsから次のような鋭いコメントがあった:

…スキルのシグナルが「経験年数」だとすると、低い地位でふるい落とされる人は、高い地位でも常に客観的に低評価になるでしょう。

あなたは高い地位の意思決定者に、どこの馬の骨ともわからない候補を考慮する機会(と意欲)があると見なしているし、さらに、そのようなどこの馬の骨ともわからない候補に、選別を経た候補に対する優位性をシグナリングする適切な手段があるとも見なしています。

私は史上最高のCEOになれるかもしれませんが、経営経験がないので、面接を受けることすらできないでしょう。梯子の複数の段での(軽度の)差別が、トップの直前の段に登ることすら妨げているとすれば、トップの段に登れる可能性は、ほんのわずかな可能性はおろか、完全にゼロでしょう。

そしてこれはディヴィッドのコメント:

エリートは一生涯通じて優れた業績を挙げています。でも、彼らが高いモチベーションを維持できるのは、すぐ出世できるからです。統計的に差別されている人は、そのような恩恵からも無縁です。

そしてこれはJwilli7122のコメント:

そう、最初の関門には被差別集団を採るような博打をする動機がありません。その理由は、a)その段階ではまだ大きなギャップがないから、b)そんなことをするとステレオタイプ化の恩恵(Danの3番目の投稿で参照しているベイズ分析を参照)を放棄することになるからです。

そして被差別集団がその後の関門に来る段階になると、その前の関門での差別によって貴重な経験を積む機会を妨げられているので、実際に大きな能力ギャップが形成されることになります。

筆者はこの問題について考え続けていくつもりだ。

タイラー・コーエン「統計的差別が社会的に最適ないしベイズ合理的な水準よりも強いのはなぜか」

[Tyler Cowen, “Why statistical discrimination is higher than is either socially optimal or Bayesian rational” Marginal Revolution, August 16, 2018]

制度の中にあるのが軽度の統計的差別だけであるとしよう。統計的差別とは、偏見ではなく、単に特定の仕事で一部の集団が他の集団より成功する確率が高い、という社会的判断だ。たとえば、大多数の人は、女性がNBA(訳注:全米バスケットボール協会のこと。MBAではない。為念)に入れるとは思ってないだろうが、だからと言ってそれが偏見だとは筆者は思わない。

だがここで、さらなる仮定を導入してみよう。世の中には評価の階層が複数あって、各階層の人や組織は、人材発掘者、師匠、指導者として成功していると思われたいと願っている。高校はよい大学に入る学生を育てたい。大学は最高の大学院に入るか最高の職に就く学生に投資したい。会社は、たとえ他社であってもいいから、CEOに昇進するような社員を雇いたい。などなど。そしてこの「ゲーム」には階層が10段階あるとしよう。

各段階には、意図的かどうかはともかく、固有の「統計的差別税」が課せられる。たとえば、CEOの段階では、女性に対する(軽度の)統計的差別があるとしよう。未来のCEOを雇って育てたいと願う会社は、低い地位であっても女性を雇う確率は低くなるだろう。これは意識的なバイアスかもしれないし、違うかもしれない。たとえば、その会社は特定の性格的特徴を持った人を探すことにしていて、その特徴は何らかの理由で女性にはあまり見られない特徴なのかもしれない。そのような会社は単純に、優れた人材を発掘する会社として賞賛されるような決断をするだろう。

大学も同じような要因を考えて判断するだろうし、高校もそうするだろうし…、以下同文となる。均衡状態では、このゲームの10段階すべてにおいて、意識的なバイアスがあるかないかに関わらず、差別せよという神の御心にしたがって、部分的な「統計的差別税」が課せられる。

これは読者にもお馴染みなのではないか? これはミクロ経済学で言う二重/多重限界化のジレンマにちょっと似ている。「差別税」の量は、各段階で累積される。ちょうど中世の貴族たちが運河の通行税を何重にもかけたように。当初の軽度の統計的な差別は、落選に関わるような多数の段階で適用されることにより、突然軽度なものではなくなる。(二重限界化の問題からわかるように、各供給者は、制度内の他のところで貿易の利益に対して課されるマークアップ(つまり「税」)の影響を計算に入れていない)。

だから、制度内の誰もが利己的に行動したとすると、仮に「ベイズ合理的」な統計的差別の水準が5パーセントの割引だとしても、被差別集団に対する実効税率はこれよりはるかに大きくなる可能性がある。

そしてもちろん、このような「税」は、効率はおろか正義にとっても有害なレベルで、被差別集団のやる気を失わせるだろう。

(この議論の役に立つ質問をAnecdotal氏からいただいた)。

ジョセフ・ギャニオン「量的緩和懐疑論者たちは言い過ぎている」

●Joseph E. Gagnon, “QE Skeptics Overstate Their Case”(RealTime Economic Issues Watch, The Peterson Institute for International Economics, July 5, 2018


著名な経済学者4人(デビッド・グリーンロー、ジェームズ・ハミルトン、イーサン・ハリス、ケネス・ウェスト。頭文字をとってGHHW)は、今年初めに、従来の研究でのコンセンサスでは量的緩和(quantitative easing:QE)が長期金利に与える影響を過大に言い過ぎていると主張して、大いに注目を集めた。だが、GHHW論文や関連データを注意深く読むと、彼らの結論自体も言い過ぎであることがわかる。確かに量的緩和の第1ラウンド(QE1)の研究の中には、債券利回りに対して、危機的でない状況で予測される以上の効果があった可能性を指摘していた研究もあったのは事実だ。しかし、証拠の示唆するところによれば、FRB(連邦準備銀行)のスタッフが近年採用しているようなより低い穏健な推定値は、平常時における量的緩和の効果の信頼できる尺度になっている。

GHHW論文では、(1)QE1の持続的な効果は一部の有名な推定値の半分ぐらいだったかもしれない、(2)量的緩和の残りのラウンドの効果は、一時的もしくは無視できるものだ、と結論している。GHHW論文では、量的緩和の効果を測定する際に、「イベント・スタディ」という方法に頼っている。イベント・スタディでは、政策が経済変数に与える効果を、その政策に関連するニュース前後の短い期間(イベント・ウィンドウ)の変数の変化を集計することにより測定する。イベント・スタディの基本的な前提は、(1)対象となる政策はニュースとなった出来事(イベント)以前には予測されていない、(2)その政策に関する市場の期待が変化するのは、ニュースとなった出来事があった時だけ、(3)そのような期待の変化は、すべてその出来事のイベント・ウィンドウの中で起こる、(4)イベント・ウィンドウ内で該当する経済変数に影響を与えるのはその出来事だけ、ということだ。

このような前提は多分、QE1関連の主要ニュースに関しては不合理ではないが、それ以後の量的緩和のラウンドに対しては明らかに当てはまらない。QE1が最初に発表される以前は、FRBが今後長期債を購入するだろうという市場の期待は、おそらく相当低かった(原注1)。QE1の間、特に最初の数カ月は、おそらく、FRBの今後の債券購入の主な情報源はFRB自身の発表だった。このような状況では、QE1の発表前後の金利の変化を集計することは、QE1が金利に与える全体的な効果を測定するための合理的な方法だ。

筆者とマシュー・ラスキン、ジュリー・レマチ、ブライアン・サック共著の2011年の論文(頭文字をとってGRRS論文)では、QE1に関するニュースを含むFRBの発表後8日間の10年債の利回りの変化を集計して、合計91ベーシス・ポイント(0.91%)低下していることを発見した(原注2)。筆者たちはさらに、出来事の集合(イベント・セット)を拡大してQE1プログラムの全期間(2008年11月25日~2010年3月31日)の連邦公開市場委員会(FOMC)の声明や議事録の公開まで取り入れてみたところ、低下の合計は55ベーシス・ポイント(0.55%)になった。イベント・セットを大きくすると変化の合計が小さくなることは、追加された期間では利回りが上昇する傾向があったという事実を反映している。

似たような計算はGHHW論文でも行っており、FOMCの全声明や議事録公開だけでなくさらにFRB議長の金融政策に関連する全発言を加えて、QE1プログラム全期間の利回り低下の合計が17ベーシス・ポイント(0.17%)であることを発見している。だが筆者は、GHHW論文の著者たちとのやりとりの中で、この推定値では、ニュースとなった重要な出来事2つを無視していることを発見した。それは、2008年11月25日のQE1の最初の購入の発表と、2008年12月4日のFRB議長ベン・バーナンキの住宅ローン市場に関する発言だ(原注3)。この2日間の利回りの変化を加えると、GHHW論文の合計は累積で49ベーシス・ポイント(0.49%)の低下となる。GHHW論文では、FRBの政策が債券利回りの変化の背後にある重要な要因である、とロイター通信社が報じた日に基づく別の合計も計算している。QE1の全期間内のロイター報道のあった日の10年債利回り低下の合計は48ベーシス・ポイント(0.48%)だった。

量的緩和の効果は、特に金融ストレスのある期間で大きくなる見込みが高い。このことは特に、GRRS論文その他の一部の研究で基本イベント・セットの中心となっていた、QE1の最初の発表時の10年債利回りに対する影響の大きさを説明できる可能性がある。このような効果の一部は、金融ストレスが和らぐとともに消え去った見込みが高い。このような初期の大きな効果の消失が、FRBのニュースのあった日だけに起こるという説得力のある根拠はないが、上で言及したようなQE1の最初の数か月より後に起こった出来事の日まで含めた累積効果(50ベーシス・ポイント程度)が、後で説明するまったく異なる方法で求めたQE1の推定効果にかなり近いことは、注目に値する。いずれにせよ、債券利回りの大幅な低下が数か月後に反転したことは、QE1の景気刺激効果を打ち消すものではまったくない。QE1は、企業や投資家の自信の支えとなり、先に日本で起こったようなデフレへの突入を防ぎ、債券利回りの若干の回復を可能にした、というのがより正しい解釈だ。

QE1以降の量的緩和プログラムに関しては、イベント・スタディの方法ではあまり有益な情報は得られない。QE2が終わってから「満期延長プログラム(Maturity Extension Program:MEP)」が始まるまでの期間に、債券利回りは大幅に低下したが、これは経済の回復が驚くほど弱いことを反映しており、このことがさらなる量的緩和による債券購入の期待を高めた。このような債券利回り低下のほとんどは、FRBでニュースになるような出来事がない日に起こっていたので、イベント・スタディではこれを量的緩和の効果としては勘定していない。FRBでニュースになるような出来事のあった日の債券利回りの変化には、QE3が始まってからしばらくするまで、ほとんど累積効果がなかったが、このことはFRBの政策が市場の期待に近かったという事実を反映している。言い換えれば、イベント・スタディが教えてくれるのは、FRBの量的緩和による債券購入が如何にして債券利回りに影響したのかではなく、QE1によって量的緩和の前例が確立された後の、量的緩和による債券購入が市場の期待とどの程度違っていたのかということだ。

2013年のテーパー・タントラム(訳注:量的緩和の縮小を発表したことによる市場の混乱)は、量的緩和による債券購入への期待が突然変化することが、平常時の市場の債券利回りに著しい影響を及ぼすということを示している。GHHW論文の計算によると、2013年3~9月のFRBで出来事があった日の10年債利回りは40ベーシス・ポイント(0.4%)近く上昇しており、これはおそらくQE3による債券購入全体に対する期待の低下を反映している(原注4)。

GRRS論文では、量的緩和が債券利回りに与える効果を推定する別の方法も追及している。それは、10年債の利回りや期間プレミアム(訳注:長期債を短期債と比べたときの金利の上乗せ分)と政府による長期債の純供給を含むさまざまな因子との間の時系列回帰分析を利用する方法だ。この回帰分析の対象期間は1985~2008年なので、量的緩和プログラムはまったく含まれていないし、著しい金融ストレスの時期もあまり含まれていない。だが、量的緩和による債券の購入は長期債の供給を減らし、その利回りに対する影響は、回帰分析から推定された供給係数を使って計算することができる。GRRS論文では、QE1と同等の規模の債券購入は、10年債の利回りを40~80ベーシス・ポイント(0.4~0.8%)低下させると期待されていたことを発見した。中心傾向は約50~60ベーシス・ポイント(0.5~0.6%)だった(原注5)。GHHW論文の著者の一人(ハミルトン)も、別の共著者との別の論文で、多少異なる回帰分析法を使って同様の推定値を求めている。FRBのスタッフも、量的緩和のマクロ経済への影響をモデル化したときに、回帰分析に基づいてこの範囲の推定値を利用している。FRBのスタッフの推定によると、FRBのあらゆる量的緩和プログラムの債券利回りに対する効果のピークは2013年後半で、10年債利回りを約120ベーシス・ポイント(1.2%)低下させている。

回帰分析に基づくQE1の推定値は、イベント・スタディによる当初の推定値よりは小さいものの、量的緩和が債券利回りに対して実質的に効果があることを支持しており、それは金融ストレスの時期に限られない。

著者注:発言に関するデータや情報を集めてくれたクリス・コリンズに感謝する。


(原注1)GHHW論文では、2008年11月10日に発表された「 ブルー・チップ経済指数 」(訳注:Blue Chip Economic Indicators。Aspen Publishersが月刊で発行しているアメリカのマクロ経済の予測集)によると、調査対象となったエコノミストの54パーセントが、FRBがただちに何らかの量的緩和を行うことを期待していた、と指摘している。だが、この調査の質問では明示的に日本の事例に言及しており、日本で行われたのは、マクロ経済への影響がほとんどない比較的短期の債券購入だったので、この調査の回答では、FRBが最終的に採用したような種類の量的緩和に対する市場の期待を過大評価していた可能性がある。

(原注2)1ベーシス・ポイントは1パーセント・ポイントの100分の1。

(原注3)この発言では、住宅ローンの利率や利用しやすさについて論じ、FRBの量的緩和による債券購入は、住宅ローン市場の現状を改善することを目指している、と言及した。GRRS論文の対象になった出来事のあった日の中で、FRB議長の発言があったのは12月1日だけだった。これはFRBの官僚が長期債購入の可能性を初めて提起した日だった。

(原注4)この幅の債券利回りの上昇に、FRBのスタッフのベンチマーク推定値(後述)を適用すると、FRBからの(訳注:量的緩和縮小の)情報は、QE3プログラムの長さに関する市場の期待を、月850億ドルとして12カ月分減らしたことを示唆している。

(原注5)筆者の2016年のサーベイ論文によれば、アメリカ以外の諸国でも幅広く同等の効果が見られた。

タイラー・コーエン「もし睡眠が商品化されたとしたら?」(2018年6月23日)

●Tyler Cowen, “What if sleep was a commodity?“(Marginal Revolution, June 23, 2018)


デーンからこんな電子メールが来た:

これは均衡理論型の仮想の問題で、貴兄にも考えて欲しいと思っています。

人の睡眠を(非腐敗財として)基本的に摩擦なしで収穫し売買することを可能にする技術があると想像してみてください。基本的に誰でも、ある機械の中で眠って、その時間/睡眠を収穫することができます。そしてその睡眠時間は、他の誰もが利用でき、自分では眠ることなく睡眠のあらゆる恩恵を即座に得ることができます。たぶん注射か飲み薬か何かで。

さらに、その技術は比較的資本集約的ではないか、少なくとも、あらゆる人類が潜在的な睡眠の供給者/買い手になれる程度に安いとしましょう。彼らを睡眠労働者および睡眠消費者と呼ぶことにします。

さらに、この技術はまったく「タダ」ではないとします。睡眠労働者や睡眠消費者の寿命は、暦時間上はまったく影響を受けません。むしろ、人々の間で労働時間のゼロサム的な移転が行われるのです。「徹夜で」働いている睡眠労働者(訳注:一日中寝てる人のこと)ですら、販売できる純睡眠は1日16時間でしかありません。それ以外の8時間は、自分自身の睡眠のニーズを満たす必要があります。

このような市場はどう進化するでしょう。社会はどう進化するでしょう。睡眠1時間の市場価格はいくらになるでしょう。睡眠労働や睡眠消費の規範はどう進化するでしょう。経済指標(GDP、生産性、不平等など)はどう進化するでしょう。意識のない人と競合するのはどの職でしょう。そして福祉国家はどう進化するでしょう。異時点間で貯蓄される睡眠量はどの程度になるでしょう。囚人は全刑期の睡眠の収穫を認められるべきでしょうか。それを認めるべきでしょうか。植物人間状態の人を睡眠収穫のためだけに利用することは倫理的でしょうか。などなど…

ジョセフ・ヒース「社会構築主義:基礎編」(2018年5月26日)

Social constructivism: the basics

Posted by Joseph Heath on | philosophy

筆者の同僚のジョルダン・ピーターソンがこれほどの有名人になった理由の一つは、彼の批評の多くがあまりにも難解だからだ。ピーターソンの論争は、(このようなたとえ話が許されるなら)ナイフでの白兵戦に銃を持ち込む奴のように見えることが一度ならずあった。このことは、ピーターソンの社会構築主義に関するさまざまな議論で特に顕著であり、その中には「樽の中の魚を撃つ」(訳注:アホらしいほど簡単な、という意味の慣用的比喩)ような質の議論もあった。その主な理由は、何かが「社会的に構築された」と言うことが何を意味するのか、そして、それが政治的に何を意味するのかについて、学者や運動家を含む多くの人たちが実際に混乱していることにある。

筆者は哲学者かつ批判理論家として、このことに多少の責任を感じている。というのも、このような概念を飯のタネにしている筆者たちは、その意味を十分に説明してこなかったからだ。とりわけ筆者たちは、ジェンダーや人種のような何らかの性質や属性が「社会的に構築された」のなら、それは簡単に変えられるということだ、という印象を与えることを許してきた。この思想こそが、多くの人々の心の中で、「社会正義を守る」ということと「すべてが社会的に構築されたものだ」(あるいは「すべてが社会的に構築されたと信じたい」)ということを、密接に結びつけてきた。そして、学者たちが社会構築主義のテーゼを、有力な証拠に基づいてというより、政治的理由で信じたいから支持したため、社会科学には無視できない歪みが生じた(筆者の「規範的な社会学の問題について」という以前の記事を参照)。

実際問題として、社会的に構築されたものの多くは、簡単に変えることはできない。だが、それを説明するには、社会構築主義者の主張の基礎と、それがどうして政治色を帯びたかを理解する必要がある。世の悲惨の多くが、人間同士が互いをどのように扱うかから生じる、というのは一般的に見られることだ。ゆえに、このような悲惨をなんとかしたいと願う人は、人々の行動パターンを変えられるかどうか、という疑問にはまる。場合によっては、その答えは明らかにイエスだ。例えば、その行動が他者から学んだものであるなら、それを教えないだけで変えられるし、社会規範によって押し付けられたものであるなら、そのような社会規範の押し付けをやめればよい。だが、それ以外の場合には、答えがノーであることも十分にありうる。なぜなら、人間性の中には、体質的な「生物学的に決定された」ように見える側面もあるからだ。読者がもし、自分の子供を贔屓しないような人たちのユートピアを構想しているとしたら、それはおそらく失敗する。

これが基本的に20世紀の遺伝対環境の大論争、つまり、私たちが目にする「人間性」のうちのどの程度が学習の結果であり、どの程度が生得的なのか、のテーマであることは言うまでもない。この論争の最終的な結果として、「すべてどちらでもある」という結論が幅広く受け入れられた。より厳密に言えば、「生物学的」と「社会的」の間に線を引く理論的な基準はない、ということだ。なぜなら、人間は環境(他の人間を含む)の中で成長するが、そこでは常に、発生予定と環境条件の間のフィードバックが起こっているからだ。たとえば、人間には明らかに、言語学習や会話のための生物学的な適応がある(喉頭の位置のような肉体的適応もあれば、領域に特化した高速学習のような認知的適応もある)。生後18か月の幼児と交流した人にとって、人間の脳には言語学習の能力が「組み込まれている」、という印象を持たないことは難しい。だが。言語は生物学的ではなく、文化的な人工物であり、社会環境の一部だ。さらに、そこには明らかに慣習的な要素(語彙や文法の相)も含まれているので、異なる社会環境で育った子供は互いに理解できない言語を学ぶことになる。そしてもちろん、孤独や極端なネグレクト状態で育った子供は、(たとえば、孤独の中で育った蜘蛛が、それでも複雑な蜘蛛の巣を作ることができるのとは異なり)自分で言語を再発明することはない。

このような遺伝・環境論争の解決は、不幸なことに、両陣営をやや満足させすぎた。というのも、「遺伝」側は「すべてどちらでもある」を事実上「なんでも生物学的なものとして扱ってよい」と解釈したし、「環境」側は「なんでも社会的なものとして扱ってよい」という意味に解釈したからだ。むしろ正しい結論は、両者の間には連続性があって、より生物学的なものもあれば、より社会的なものもある、というものだった。あるいは、少し厳密に言えば、人間の発達経路には、他よりより強く「水路付け」されており、社会や環境によって変えにくいものがあるということだ。(たとえば、地球上の他のあらゆる哺乳類と同様に、人間は生物学的に、「生得的」な食べ物の好き嫌いを持つが、それは他の多くの哺乳類ほど確固としたものではない。つまり、社会的学習や慣れによって変えることができる。人間の味覚は「獲得味覚」なのだ。だが、味覚の中には、他よりも獲得の難しいものもある。たとえば、「食糞」は通常、自己超越ではなく精神病の症状として扱われる。だからこそ、獲得味覚の開拓に社会的エネルギーを注いできた文化は、生物学的なデフォルトの設定に近いメニューに行きつく代わりに、多かれ少なかれ「構築された」メニューに行きつく。)

もちろん、特定の性質の発達がどの程度「水路付け」されており、ゆえに、その経路をずらすにはどの程度の社会化の努力が必要になるか、というのは科学の問題だ。不幸なことに多くの人には、この問題に対する公平な判断を妨げるような強い政治的動機がある。なんらかの不正義に関わるような性質があるときは常に、多くの人はその性質が変わって欲しいと願うがゆえに、その性質が「生物学的」ではなく「社会的」なものであると信じたがる。このことはさまざまな帰結を生む。おそらく、そのうちより目立つのは、社会科学に蔓延するとんでもなく不公平な立証責任の割り当てだが、日常的な議論においても、「生物学的」な説明の支持者は常に、自分たちの主張を立証するため「社会的」な説明をすべて排除するし、「社会的」な説明の支持者は通常、「生物学的」説明の可能性をすべて排除するのはおろか、自分たちの主張に証拠を提示する義務があるとすら考えない。たとえば、子供のジェンダーの差の観察結果に関しては通常、観察された差は社会化の結果であるという純粋に仮説的な説明によって、生物学的な説明は論破されたと見なされる。(この種の哲学文献に関しては、ジェシー・プリンツの「Beyond Human Nature(人間性を越えて)」という本を参照。哲学者は特に変な仮説的な例を思いつくように訓練されており、その結果、生物学は私たちの生活とはさまざまな側面とは完全に無関係だと自分自身を納得させることは簡単だと思っている。ついでに言えば、これが正しい自己認識の方向への一歩であることはめったにない)。

その結果、教育のある人たちの典型的な思想では、政治的動機による手の込んだ希望的観測に基づいて、人間の行動に対する社会的な影響(学習、制度など)を過大評価するという事態になった。これが「政治的に正しい(訳注:『ポリコレ』な)」科学の台頭につながった。これこそが、ピーターソンが存分に指摘して論破している相手だ。たとえば、ピーターソンはまず、性差別だけでなく「性自認」に基づく差別も禁ずると言う、カナダ人権法の拡張に関する論争に加わることで注目を集めた。「性自認は生物学的な性とは違うし、生物学的な性では決まらない」みたいなことをよく言われるが、この文の中の「決まる」という言葉が何を意味するのかは、立ち止まって考える価値がある。

社会科学者は、相関係数0.3~0.4程度の関係に注目することが珍しくない。ジェンダーの場合、人口の99%以上の性自認は、そのまま生物学的性に対応している。これで生物学的に「決ま」らないというなら、何が生物学的に決まると言うのか? とピーターソンは問う。生物学的決定論とは、特定の遺伝子型が常に、100%の事例で、特定の表現型を生み出すという意味ではありえない。たとえば、私たちの指の数には発生的な側面があって、6本指になる人もいれば、指を何本か切り落として5本より少なくなる人もいると言う事実にも関わらず、両手には5本の指があるという事実は「生物学的に決定された」と見なされている。だから、上の文で援用されている生物学的決定論の暗黙の定義(相関係数1が必要)にしたがえば、生物学的に決定されたものなどないことになる。このことは、性とジェンダーとの間には極めて強い関係があるという明白な事実から、注意を逸らす役割を果たす。

同時に、「ジェンダー」は社会的構成概念だが、「性」は違う、ということもまったく矛盾していない。シモーヌ・ド・ボーボワールが「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言ったとき、彼女が見ていたのは、「女」や「男」に関する私たちの一般的な理解には、大量の学習行動が関わっているらしいということだった。通常、子供の時に起こるのは、生物学的性を利用して人口を2つの分類(「男性」と「女性」)に分け、その後、それぞれを異なる方法で社会化して、2つの異なる社会的役割(「男」と「女」)を占めるようにする、ということだ。少女は座った時に足を組むように教わるが、少年は教わらないかもしれない。その結果、男女は異なる行動をするようになる。だが、このことは、生物学的性ではなくジェンダーロールの帰結として正しく説明される。その行動を簡単に変えられるとか忘れられるとかいう事実は、それが生物学的性質ではなく社会的役割によることを強く示唆する。

性とジェンダーを区別することに意味がある理由の一端は、二分類間の強い相関関係から、社会的な役割の諸相は生物学的に決まっているとみなしてしまう人が多いことにある。(言い換えれば、人々が、実際には社会的な役割による社会的行動のさまざまな側面を説明するために、生物学的性に訴えることにより、ジェンダーが見えなくなってしまうということだ。まさに性とジェンダーとのほぼ完全な相関関係のおかげで、反例に直面することは滅多になく、この誤りは気付かれない)。また、「男性」や「女性」に分類することが難しい生物学的状態で生まれてきて、歴史的にどちらかのジェンダーに恣意的に割り振られてきた人たちもいるし、ベースとなる生物学的な曖昧さはないものの、割り当てられたジェンダーに不満をもって、ジェンダーロールを切り替えようとする人もいる、ということも注目する価値がある。

大きな問題は、もちろん、この役割の内容を変えることができるか、変えられるとすればどの程度変えられるか、ということだ。期待を変えることはできるか? 新たな役割を作ることはできるか? 役割を完全に捨てることはできるか? 社会構築主義のテーゼが正しいとすれば、その答えは「イエス」である、と多くの人が誤って見なしている。何かが「発達上水路付けされていない」と証明されるということは、私たちは何でもやりたいことができ、変化に対する抵抗があるとすれば、それは人間性ではなく、社会の「保守的」「反動的」な要素から来ているはずだ、ということを意味している。

この問題点を理解するため、宗教のアナロジーを考えてみよう。宗教は明らかに文化的なものであり、そして明らかに作られたものでもある。(もし誰もが、つまり有神論者と無神論者の双方が同意できることがあるとすれば、それは、宗教的信仰は一般に虚偽であるということだ。この点に関する有神論者と無神論者の唯一の違いは、有神論者はこの一般化に一つの例外(この場合は自分自身の信仰)を認めるが、無神論者は例外を認めないということだ)。ともあれ、宗教が作られたものだという事実から、新たな宗教を作ることは簡単だと結論する人もいるかもしれない。そして実際に多くの人がそれに挑戦した。だが、彼らが気づいたのは、新たな「啓示」をでっち上げたり、新たな儀式の体系を発展させたりすることはそれほど難しくないが、幅広く普及させることはほとんど不可能だということだ。

言い換えれば、やっかいなのは社会への普及なのだ。その理由の一端は、人間の注意や記憶には、生物学的起源の強力なバイアスがかかっていて、特定の種類の物語に他より説得力を感じてしまうことにある。(パスカル・ボイヤーは「神はなぜいるのか(Religion Explained)」の中で、新たな「迷信」をでっちあげて広めようとすることで、より「定着」する迷信と、無視されてすぐ忘れられる迷信の差がどこにあるかを理解しようとする、魅力的な実験について説明している)。

児童書にも同じような構造がある。児童書は文字通り毎年何千点も出版される(自分の子供のためにこのような単純な本を読むことに時間を費やした人たちは、ある時点で、「こんなのなら自分にも書ける」と思うようになる)。だが、児童書の市場は競争が激しい。実際に成功するのは一握りだ。それを選ぶシステムは、実質的に自然選択の一種だ。では、(訳注:この自然選択にとっての)「環境」とは何か? 人間の認知、特に社会化されていない人間の脳の変幻自在なバイアスだ。児童書の「フロイト的」な読み方にあれほど説得力があるのはそのためだ。それは著者が心の中で密かに思っているからではない。このようなテーマこそが、特定の物語が共感を呼び、記憶され、語り継がれる原因だからだ。

これは奇しくも、世界の偉大な宗教や聖典に、まだ完全に解明されていない深い真実が含まれている、とピーターソンが考える理由でもある。このような特定の物語は共感を呼び、生物学的な深いレベルで私たちに訴えかける。だからこそそのような物語は成功し、時を越えて語り継がれる。このような物語がそれほど強い共感を呼ぶのはどうしてか、実際にはわかっておらず、それを追求することによって、私たち自身について学ぶ余地が大いに残っている。(筆者はむしろ、このような物語には、深遠な知恵というより、他のコンテキストに適応した学習ヒューリスティックスへの「誤射」が関わっている、と考えることが多い。つまり、ある人にとっての深い真実は、別の人にとっては恣意的な認知バイアスである、ということ)。

このようなことのすべてが、社会制度をどの程度簡単に変えられるかについて、著しい制約を課している。たとえば「家族」は、ある面では極めて柔軟な社会制度だ。家族は、社会によって極めて違う構成で存在し、養子のような慣習によってかなり恣意的に拡張することができる。そして、社会改革者たちは、文字通り何千年もの間、折に触れて家族を廃止しようと試みてきたが、それでも成功しなかった。それは制度が、哺乳類の心理学に深く根差した、極めて覆すことの難しい性質である感情と行動の素因のセットを、組織化し水路付けしているからだ。実現できたのはせいぜい(カトリックの司祭や中国帝室の宦官のような)「不妊のカースト」を作ることだけであり、それは不安定なことが多かった。対照的に、プラトンの「国家」に出てくる「守護者」のような仕組みは、数え切れないほど試されてきたが、決してうまくいかなかった。

この点に関して、1960年代の反体制文化であるコミューン運動は、ためになる教訓を残している。アメリカでは一時、5千を超えるコミューンが活動しており、多かれ少なかれ過激なさまざまな「生活の実験」を行っていた。筆者の友人の一人は、「共同子育て集団」の一員として数年を費やした。これは、男性5人と女性5人が、生物学的な親を区別することなく、子供を作ることを決めて集団で育てる団体だ。(その計画の中には、誰が生物学的な親かを子供に教えず、10人全員を親として扱い、全員が子供一人一人の世話や教育に関与するということも含まれていた)。これはすべて屈辱的な失敗に終わり、数年のうちに喧嘩別れした。彼らの多くは家庭裁判所のやっかいになる羽目になり、親権や面会権を求めてお互いを訴えた。

おそらくコミューン運動に関して最も衝撃的なのは、やろうとしたことのほとんどすべてが失敗したという事実だ。彼らが行った文字通り数千の実験、実質的に生活のあらゆる側面における社会関係を組織するさまざまな方法の、ほぼすべてが崩壊した。情けないことに、数年以上存続できることが実証されたコミューンは、強い宗教志向を持つコミューン(つまりカルト)と、官僚化することを選び成文法や形式的な意思決定手続きを導入したコミューンとの、2種類だけだった。言い換えれば、コミューン運動が実証することになったのは、人々がお互いを信頼して仲良くできる方法は、すでに社会の本流で採用されている方法だけだった、ということだ。

では、これらを全部ひっくるめた結論は何か? それは、人類は多くの面で極めて柔軟な種であり、社会的学習に強く依存し、行動規範を押し付けることにより社会的相互関係を大幅にコントロールできるが、同時に、社会関係に対し特定の方向にバイアスをかけている進化心理学や生物学的に継承された素因のセットによって、ときにはむしろ驚くほど強い制約を受けている、ということだ。だからこそ、私たちが素朴に「人間性」だと思うことの多くは、実際にはまったく生まれつきではなく社会起源であるにもかかわらず、多くの場合、変化には驚くほど強い抵抗があるのだ。

繰り返すに耐える点はもう一つある。この分析は、「進歩的左翼」が、なぜどのように危険になりうるかを理解するのに役立つ。左翼を自認する人たちの多くは、自分たちを道徳的に立派な人だと思っているので、自分たちに何か悪いことができるとは想像することすら難しい。だからこそ、左翼、あるいは、少なくとも左翼に幅広く支持された政府が、20世紀の歴史の中で7千万~1億人の自国民を殺したということは思い出す価値がある。その原因の大部分は、彼らの追求した政治的なユートピア計画が、ほとんどの人たちの能力を超えたレベルの向社会的行動を示すことを個人に求めたという事実にあった。このような計画が失敗したり抵抗に直面したりし始めたとき、政府は「人間性」の限界に直面したということを認める代わりに、「反革命」「ブルジョワ」「反動的」要素のようなスケープゴートを探し、計画の邪魔をしたという責任を押し付けた。その結果は悲劇的だった。

これこそが、「社会構築主義」の話題が一部の人をピリピリさせる理由だ。問題は、私たちは、一方で正義を求め、他方で人間性に制約されているということだ。この両者の関係を原理的に考える方法を、あるいは、前者を後者に合理的に統合する方法を、私たちはまだ定式化できていない。この問題を、ジークムント・フロイトはきわめて明確に認識しており、「文化への不満」という著作の結論の中で、彼が「文化の超自我」と呼んでいるものに対して次のような批判を展開している:

文化の超自我も人間の心の構成という事実に十分に配慮せずに命令するだけで、人間がその命令に従うことができるかどうかは、考えてみようともしないのである。超自我は、人間の自我は、命じられたことは心のプロセスとして何でも実行できるし、自我は自分のエスに無制限な支配を及ぼすことができることを前提としているのである。しかしこれは間違った考え方であり、いわゆる正常な人間においても、エスを無制限に支配することはできないのである。もしもエスを無制限に支配するように求めるならば、個々の人間は反抗するか、神経症になるか、それとも不幸になるしかないのである。『隣人を汝みずからのごとくに愛せよ』という命令は、人間の攻撃欲動の拒絶としてはもっとも強いものである。これは文化的な超自我がいかに人間の心理を理解せずにふるまっているかを示す傑出した実例なのである。この命令は実行できない。このような形で愛を<水増し>することは、愛の価値を引き下げるだけで、苦難を取り除くことにはならないのである。しかし文化はこうしたすべての状況を無視してしまう。命令にしたがうのが困難であればあるほど、その命令を実行した者は称賛に値すると訴えるだけなのである。
(「文化への不満」ジークムント・フロイト著、中山元訳)

この問題に関する思想が、前世紀の間に多少なりとも進歩したとは、筆者には思えない。

ソーシエ他「目指せ単一雇用契約? 長所、短所、複雑な感触」

●Nicolas Lepage-Saucier, Juliette Schleich, Étienne Wasmer, “Moving towards a single contract? Pros, cons and mixed feelings”(VOX, July 29, 2013)


<要約>

不況時の企業は、より安定した長期雇用契約よりも、不安定な一時雇用契約1を提供する傾向がある。このコラムでは、その見地から雇用保護改革について検討する。経済学者の議論は、総じてこのニ種類の契約の一元化に重きを置きすぎている。政策担当者は、他のより魅力的で実現しやすい選択肢に目を向けた方が賢明かもしれない。

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  1. 訳注: 「emporary contracts」の訳。 []

タイラー・コーエン「ジェンダー賃金格差に関するクローディア・ゴールディンの主張」

●Tyler Cowen, “Claudia Goldin on the gender pay gap”(Marginal Revolution, January 4, 2014)


クローディア・ゴールディンのフィラデルフィア論文1のpdfはこちら。その結論部分は以下の通り:

この小論の結論は、以下の通りです。所得のジェンダー・ギャップは今でも残っています。それはある時点まで年齢とともに大幅に拡大し、また、職業によって著しく異なります。このギャップは、以前に比べればかなり小さくなりました。その縮小は主に、女性が持つ生産的人的資本2が、男性と比べて相対的に増えたことによります。女性の教育も、男性と比べてあらゆる水準で向上し、女性が大学以降専攻する分野も、より大きな収入につながるキャリア志向的な分野に変わってきました。また女性の職業経験も、労働力参加率の増大に伴って増えています。ジェンダーによる賃金格差のうち、生産特性3の差による部分の多くは解消されました。

では、残った賃金格差の原因は何でしょうか? ごく単純な話ですが、格差が存在するのは、多くの職業では、同じ労働時間でも、特定の時間に提供された労働や、長時間連続して提供された労働の方が、高く評価されるからです。つまり多くの職業では、賃金は時間に対して非線形の関係を持っているのです。フレックスタイムは、特に企業や金融や法務の世界では高価です。

補償格差モデル4では、賃金格差を柔軟性のコストで説明しています。ここで開発された枠組みは、時間柔軟性のコストに高低の差のある理由や、賃金の労働時間に対する非線形性の根底にある原因を示しています。情報伝達の取引コストが十分に低い場合には、各労働者に適当な交代要員がいるかどうかも大いに関係します。O*Net5の職業特性に関する証拠は、時間需要を生み出し労働者間の交代度を減らすような職業特性が、ジェンダー・ギャップの大きさと相関していることを実証しました。

経営学修士や法学博士に関するデータは、卒業後の年数に伴ってジェンダー賃金格差が大幅に拡大することを示しており、ジェンダー賃金格差と、子供ができて時間の柔軟性が必要になることとの関係も明らかにしました。時間の減少は、賃金の非線形的な低下を意味します。高所得配偶者を持つ女性の潜在的な賃金の低さは、多くの場合労働力参加率の低下につながります。逆に薬剤師などの賃金は、労働時間に対して線形です。子供のいる女性薬剤師の多くは、退職することなくパートタイムで働いて、労働力であり続けます。

この論文は全体に興味深い。6

補遺: UCLAからの就職希望者であるメアリー・アン・ブロンソンは、大学専攻間のジェンダー・ギャップや関連する問題に関する、興味深い新論文(pdf)を書いている。また、UCLAのガブリエラ・ルビオによる、見合い結婚がなぜ減っているかに関する就職活動用論文7もある。今年のデューク大学では、博士課程に入学した学生は男性より女性の方が多い

  1. 訳注: 「her Philadelphia paper」の訳。クローディア・ゴールディンは、2014年1月4日にフィラデルフィアで行われたアメリカ経済学会の年次総会で会長として講演をしており、それがこの論文の元になっている。 []
  2. 訳注: 「productive human capital」の訳。 []
  3. 訳注: 「productive characteristics」の訳。 []
  4. 訳注: 「compensating differentials model」の訳。 []
  5. 訳注: 「Occupational Information Network」の略称。アメリカの労働に関する公的なデータベース。 []
  6. 訳注: 同じ論文に言及したマーク・トーマの記事はこちら。 []
  7. 訳注: 「job market paper」の訳。なんか、アメリカの高学歴学生は、就職活動用の論文持って就職活動するらしい。 []

マーク・トーマ 「ジェンダー大収斂:最終章」

●Mark Thoma, “A Grand Gender Convergence: Its Last Chapter”(Economist’s View, January 5, 2014)


以下は、アメリカ経済学会会長クローディア・ゴールディンの講演:

ジェンダー大収斂:最終章」:前世紀の社会や経済のさまざまな進歩の中でも、もっとも大きかったのは男女の役割の収斂です。男女格差縮小は、労働力参加率、有給労働時間、在宅勤務時間、生涯労働経験年数、職種、大学専攻、教育などで起こり、教育では女性が男性を追い抜いきました。また、このような収斂は収入にも起こりました。この小論で強調したいのはこの点です。私の示した証拠はアメリカについてですが、考察のテーマ自体はより広範囲に適用できます。

このようなジェンダー大収斂の要素は、比喩的に言えば、経済や社会における性的役割の歴史において、さまざまな章を構成しています。ですが、真の平等をもたらすための最終章としては、何が必要なのでしょうか?

その答えは、驚きをもって迎えられるかもしれません。その解決には、(必ずしも)政府の介入は必要ありません。女性が向上して張り合おうとする必要もありません。また、必ずしも男性の家庭での負担を重くする必要もありません(別にそうしても悪いことはありませんが)。でも、そのためには労働市場の改革が必要です。特に、仕事の構造や報酬を変えて、時間的な柔軟性を増す必要があります。長時間働いたり特定の時間に働いたりした個人の報酬を、不釣合いに多くするような企業のインセンティブがなくなれば、賃金のジェンダー・ギャップは著しく縮小し、消滅する可能性すらあります。そのような変化は、すでにさまざまな部門で起こっていますが、まだ十分とは言えません。1

  1. 訳注: 同じ論文に関してより詳しく紹介したタイラー・コーエンの記事はこちら。 []

ベントリラ他 「世界同時不況時に、スペインとフランスの失業率があんなに違ったのはなぜ?」

●Samuel Bentolila, Pierre Cahuc, Juan Dolado, Thomas Le Barbanchon, “Why have Spanish and French unemployment rates differed so much during the Great Recession? ”(VOX, January 22, 2011)


<要約>

世界同時不況時のスペインの失業率は、20%にまで跳ね上がり、EU平均の二倍にもなった。このコラムでは、スペインの失業をフランスの失業と比較し、スペインにおける失業の劇的な増加の半分近くを、雇用保護法制1の違いで説明できることを主張する。本稿の知見は、この国に単一労働契約2を求める声に、さらなる支持を加える材料となるだろう。

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  1. 訳注: 「employment protection legislation」の訳。意訳して「解雇規制」とすることも考えたが、日本との制度の違いでニュアンスが変わってしまう可能性を考えて、直訳に近い訳とした。 []
  2. 訳注: 「single labour contract」の訳。常用雇用と一時雇用を大きく分けずに、同じ契約で段階的に条件を変えていくやり方を指す。 []

ノア・スミス 「リスク・プレミアムか行動的狂気か?」

●Noah Smith, “Risk premia or behavioral craziness?”(Noahpinion, December 19, 2013)


ジョン・コクランは、ロバート・シラーのノーベル賞受賞講演にかなり批判的だ和訳)。

コクランは、シラーが「バブル」をもっと厳密に定義してくれたらと思ってる(私もこの上なく賛成)。また、シラーがファイナンスを量的でなく文学的にしようとしてるとも思っている(私はこれにはちょっと懐疑的。というのも、シラーはもともと計量経済学者であって、そんな文学的な奴じゃないから)。

だけど、最も興味深い批判は、シラーの彼自身の研究の解釈に対する批判だ。シラーは、株価が長期的には平均に回帰することを示した。そしてこれを、市場が非効率かつ不合理であるからだと解釈した。言い換えれば、平均への回帰を、私が「行動的狂気」1と呼ぶもののせいにしたのだ。だけど、ユージン・ファーマなどは、長期的予測可能性はリスク・プレミアムの予測可能な緩慢な変動によるものと解釈している。

どっちが正しいんだろうか? コクランが鋭く指摘しているように、どちらが正しいかは、市場だけを見ていてもわからない。それ以外の裏づけとなる証拠が必要だ。もし行動的狂気のせいなら、その狂気の証拠は、どこか他所の場所でも観察できるはずだ。もし予測可能な変動をするリスク・プレミアムのせいなら、そのリスク・プレミアムは、なんらかの独立したデータソースを使って測定できるはずだ。ただもっともらしさに訴えて、バンザイして「カンベンしてよ」などと言っても、問題の解決にはならない。

個人的には行動的狂気を疑っている。というのも、実験的な資産市場が、現実世界の「バブル」の話と見紛うほどよく似た、極めて予測性が高く有意な狂気を示すという事実があるからだ。ただ、コンピュータのラボで学部生6人がする数十ドルの取引が、アメリカの株式市場の代わりとして完全だとは言いがたいので、この実験の証拠は、決定的な証拠ではなくあくまで傍証と考えるべきだろう。

リスク・プレミアムに予測可能な緩慢な変動が存在しうる理由を説明しようとしたモデルもいくつかある。私が見たモデルとしては、例によって消費習慣形成やクレプス・ポルテウス型選好(知らなくても聞かないでね!)を取り入れたDSGE型のモデルがある。このような最新のモデルで謎は解けました! と断言する人もいる。コクランは習慣形成モデルにそれほど確信がないようで、このような意識は、私が話した多くのファイナンスの教授にも共有されていた。(また、私が見たこの種のモデルは、集約的不確実性の源泉としてRBCスタイルの生産性ショックを使う傾向があって、反射的に眉に唾をつけたくなってしまう。でも、これは私だけか。)

現実世界における行動的狂気の直接的な証拠に関しても、目ぼしいものはなかったが、それは多分この間までのこと。ロビン・グリーンウッドとアンドレ・シュライファーによるこの論文を見て欲しい。二人は、株式のリターンに対する期待を尋ねた投資家アンケートに基づく、6つの異なるデータセットを比較対照した。6つのデータ系列は強く相関していた。つまり、市場で一般的ななんらかの現象を実際に捉えていたということだ。その中で表明された期待はすべて「外挿的」であるように見える。つまり、直近のリターンがよければ、以後もずっとよいと考えるということだ。でも、この表明された期待はだいたい間違っていた。みんながリターンは上昇すると思ったときには、リターンはすぐ下落する傾向があった。しかも、この下落は単純な資産評価モデルで予測できた。言い換えれば、この表明された期待は、合理的期待ではなかったのだ。

したがって、この表明された期待が実際に投資家の信念を表現するものであれば、行動的狂気の直接的な証拠が得られたことになる。でもコクランは、これらの調査に回答している人たちは、自分の本当の信念ではなく、「リスク中立確率」を語っているのだ、と指摘している。言い換えれば、彼らは自分の信念に関する表明にリスク回避を忍び込ませている、とコクランは考えている。それがもし正しければ、このような調査は行動的狂気の有力な証拠にはならない。

だから、この問題はまだ決着していない。でも進歩は続いている。私見では、手に入る範囲の証拠は「行動的狂気」による説明を示唆していると思うが、決定的な証拠ではない。重要なことは、これは「永遠の謎」といったたぐいの議論ではない、ということだ。この議論は、より有力なデータが利用できるようになれば、解決できるし、解決されるだろう。科学は進歩するのだ。

  1. 訳注: 「behavioral craziness」の訳。ノア・スミスの造語。 []