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マーク・ソーマ 「保護主義の本能」(2010年10月7日)

●Mark Thoma, “The Protectionist Instinct”(Economist’s View, October 07, 2010)


講義の合間での即席になるが、燃料を少々投下しておこう(以下の引用では省略してあるが、ハイエクの洞察にも負っているとのこと)。

The Protectionist Instinct” by Paul H. Rubin, WSJ:

失業率の高止まりが続く中で選挙の投票日が近づいているが、多くの政治家たちは例のごとく自由貿易(および海外へのアウトソーシング)に反対するキャンペーンを展開中である。いくつかの世論調査の結果によると、一般の有権者の間では自由貿易の恩恵を疑問視する見方が強まっているようだ。国際貿易の話題ほど一般人と経済学者との間で意見が食い違う話題はないだろう。

・・・(中略)・・・

国際貿易に関する一般人の見方(信念)は進化心理学的な観点から説明をつけることが可能だが、具体的には進化の過程で培われることになった二通りの心理的な傾向が関わってくる。まず一つ目は「ゼロサム思考」に傾きがちな傾向である。経済が成長する(パイが拡大する)可能性であったりそのこと(経済の成長)に国際貿易が役立つ可能性だったりというのは直感的には理解しにくいところがあるのである。

我々の遠い祖先が生きた世界は静的な世界であり、異なる集団の間で交易が行われることもほとんどなければテクノロジーの進歩もほとんど見られないような世界だった。我々の思考(精神)はそのような(静的でゼロサム的な1)世界を理解するべく進化を遂げてきたのである。とは言っても、人間には「交換(ないしは貿易)は双方の利益になる」(交換はポジティブサムの結果をもたらす)との概念は決して理解し得ないというわけではない。「学ぶ」という経験を積まなければ理解できないのだ。

「ポジティブサム思考」は何もせずとも自然と身に付きはしない。(学校等で)誰かに教えられなくとも「話す」ことは次第にできるようになるが、「読む」こととなるとそうはいかない。比喩を使わせてもらうなら、交換には相互利益が伴うという考えを理解する(「ポジティブサム思考」を身に付ける)ことは文字を読めるようになることと似ていると言えるだろう。

次に二つ目の傾向に話を移そう。我々の遠い祖先が生きた世界は敵意に満ちた世界でもあった。我々の祖先は近隣の集団とひっきりなしに拳を交えており――チンパンジーがそうであるように――、そのような日常を送るうちに「ウチ」(内集団、「我ら」、仲間)と「ソト」(外集団、「彼ら」、敵)に差別を設ける強力な本能(「内集団ひいき」)が培われるようになっていった。「ウチ」をひいきする傾向は今日にまで受け継がれ、数多くの場面でその頭をもたげてくることになる。

地元のスポーツチームに肩入れするといったようなかたちで「内集団ひいき」が現出するのであれば害はないが、「内集団ひいき」が国際貿易の場面で頭をもたげてくるようであればそうも言っていられない。「内集団ひいき」が最も有害な帰結をもたらすのは戦争を誘発する要因となる場合だ。「貿易戦争」と比喩的に語られることがあるが、このことは(「貿易」に関わる本能であったり「戦争」に関わる本能であったりといった)有害な本能が互いにいかに似通っているかを物語っていると言えよう。

「ゼロサム思考」と「内集団ひいき」という二通りの心理的な傾向が手を取り合う結果として国際貿易に対する世間一般の常識的な見方(というか誤解)が導き出されることになる。職の数は固定されている(「ゼロサム思考」)にもかかわらず、海外との貿易なんかに乗り出せば「仲間」(同胞の労働者)の職を「敵」(海外の労働者)に奪われてしまうことになる(「内集団ひいき」)ではないか。ついそう考えてしまうのである。正しい見方とは言えないが、自然な見方に感じられてしまうのだ。・・・(略)・・・

  1. 訳注;この点は昨日訳出したばかりの記事(アレックス・タバロック 「進化とモラルコミュニティー ~進化の名残としての『ゼロサム思考』~」)を参照されたい。 []

マーク・ソーマ 「市場恐怖症」(2006年1月14日)

●Mark Thoma, ““The Fetters of Ignorance, Self-Deception and Intemperance””(Economist’s View, January 14, 2006)


「消費者が十分なだけの慎重さを発揮して市場での選択に臨めるように何とかして誘導する必要性」は果たしてあるだろうか?

The aggro of the agora, Consumers fail to measure up to economists’ expectations” by The Economist

「消費者こそが最終的な判定者なり。そう見なさねばならない」(“We must accept the consumer as the final judge”)。アメリカ経済学会(AEA)の会長を務めたこともある経済学者のフランク・タウシッグ(Frank Taussig)が1912年に語った言葉だ。・・・(略)・・・つい最近開かれたアメリカ経済学会の会合で一つだけはっきりと浮かび上がってきた論点がある。市場における主権者たる消費者の意思を尊重してその一挙一動には余計な口を挟まないのが経済学者の間での長年のお決まりとなっていたが、その慣わしの妥当性に疑問を投げかける声があちこちから上がったのである。・・・(略)・・・アメリカ金融学会(AFA)の会長であるジョン・キャンベル(John Campbell)は一般的な家計による資産運用の不手際を逐一列挙した。株式への投資が十分とは言えない、もっと多様な資産への分散投資を心掛けるべきだ、住宅ローンを借り換えるのに適当な機会が見過ごされている等々。アメリカ経済学会の会長を務めるダニエル・マクファデン(Daniel McFadden)も訴える。1980年代に入ってから市場の自由化に向けて規制という名の軛(くびき)が次々と解かれているが、自由化が期待通りの効果を上げるには別の軛(くびき)も解かれる必要がある。消費者が「無知、自己欺瞞、放縦」の軛(くびき)から解き放たれない限りは市場の自由化も期待にそむく結果に終わってしまうことだろう。マクファデンはそう語る。

マクファデンのスピーチはニューロエコノミクス(神経経済学)の研究成果に裏付けられている。ニューロエコノミクスの研究成果が指し示しているところによると、はるか昔にアダム・スミスが指摘した「人間の交換性向」(“propensity to truck, barter and exchange”)は人間本性に深く根付いているという。脳スキャン技術を利用した観察結果によると、「人間の交換性向」は大脳辺縁系のあたりに潜伏しているらしいというのだ。大脳辺縁系というのは闘争本能や防衛本能、食欲といった動物的な本能を司る脳の原始的な部位にあたる。マクファデンは冗談交じりに語る。「ショッピング(買い物)とセックスは同じ神経伝達物質に同じ受容体を共有しているわけです」。

しかしながら、誰もが市場での交換に(大脳辺縁系が刺激されて)快感を覚えるわけではなく、嫌気を覚えるという人もいることだろう。現実の市場は「見通しが悪くて波乱に満ちた荒野のような場所」だ。そんな厳しい環境の中で(何を買うべきか)選択しなければならないとなると、消費者の中には自分自身の判断に自信が持てず、陳列棚に並べられた商品もそれを売り付けてくるお店も疑わしくてしょうがなく思えてくるという人もいることだろう。消費者はしくじりを犯してしまう――思いのほか買い過ぎてしまったり、いらないモノを買ってしまう(買ってから後悔する)――危険性に常に晒されているのだ。それは同時に「人格を磨く」機会が用意されていることを意味しているというのも確かだ。しくじって痛い目に合う経験を重ねることで少しずつ学習していき、市場で生きるにふさわしい「合理的な主体」へと近づいていく。そういう可能性もある。しかしながら、マクファデンには不安がよぎる。消費者はしくじりを繰り返すことで「合理的な主体」に近づいていくのではなくその代わりに「市場への嫌悪感」を募らせていってしまうおそれがあるというのだ。「『選択の機会』が『しくじりを犯す機会』と同一視されてしまうおそれがある。『ばつの悪い思いをする機会』『後悔の念に駆られる機会』と解釈されてしまうおそれがあるのです」。マクファデンは「アゴラフォビア」という表現を持ち出している。「アゴラフォビア」はギリシャ語由来の言葉であり通常は「広場恐怖症」を指す言葉として使われているが、直訳すると「市場(広場)に対する怖れ」という意味になる。・・・(略)・・・「交換にはイライラが付き纏う。消費者たちはそのように感じて・・・(略)・・・得られる利益が小さい場合には交換に応じようとしない傾向にあるのです」。

・・・(中略)・・・

マクファデンは・・・(略)・・・さらにもう一歩踏み込む。「消費者が十分なだけの慎重さを発揮して市場での選択に臨めるように何とかして誘導する必要があるかもしれない」とはマクファデンの言。タウシッグのような先達の面々にはマクファデンのこの発言は異端の説として聞こえることだろう。消費者の選択は経済学の対象となるデータ――所与の事実――であり、そのデータ(消費者が実際に何を選んだか)の観察を通じて消費者の好みを推測する。経済学者にできることはそれだけに限られる。消費者が実際に何を選んだかを観察しないうちに何が一番消費者本人のためになるかを知っているかのように語るのは選択から好みを推測するというロジックに反するだけではなく思い上がりも甚だしいと言わざるを得ない。経済理論では消費者の行動(選択)をうまく説明できないとすれば、問題は経済学(経済学者)の側にあるのであって消費者の側にはない。タウシッグのような先達たちの言い分をまとめるとこのようになるだろうが、マクファデンはそれとは正反対の結論になびいているように思える。経済理論では消費者の行動(選択)をうまく説明できない? それなら消費者を「鋳直し」て経済理論に近づけるという手もあり得るかもしれない。そのような結論になびいているように思えるのだ1

  1. 訳注;「理論と現実にズレがあるのなら現実のほうを理論に近づけようではないか」とマクファデンが訴えているかのようにまとめられているわけだが、そのまとめ方はどうだろうというのが正直な感想。マクファデンとしては(行動経済学等で明らかにされている認知バイアスのために)消費者が「しくじる」機会を減らすような工夫(その代表例はセイラー&サンスティーン流の「ナッジ」)には二重の恩恵が備わっているということが言いたかったのではないかと思われる。「ナッジ」のおかげで認知バイアスに陥らずに買い物ができれば(しくじる機会が減れば)その消費者本人のためになる(本人の利益に適う)という恩恵があるだけではなく、しくじりを原因とする「市場恐怖症」が和らげられることで市場への世間の支持も高まる(あるいは市場への嫌悪感も弱まる)という恩恵も随伴する、ということが言いたかったのではないかと思われるのだ。この記事で紹介されているマクファデンの研究を詳しく知りたいという場合は次の論文を参照されるといいだろう。 ●Daniel McFadden, “Free Markets and Fettered Consumers”(American Economic Review, Vol.96, No.1, March 2006, pp. 5-29) []

マーク・ソーマ 「資本主義を守り抜くには価格システムへの『公平感』を保つことが必要だ ~災害時の『便乗値上げ』の是非を巡る議論から得られる教訓~」(2012年11月28日)

●Mark Thoma, “Hurricane Sandy’s Lesson on Preserving Capitalism”(Economist’s View, November 28, 2012)


数週間前にFiscal Timesにコラムを寄稿したのだが、今回は以下にその一部を転載しようと思う。なぜ今になって再び取り上げる気になったかというとその理由は2つある。一つ目の理由は誤解を正したいと思ったからだ。どうやら私の意図がうまく伝わっていないようで読者の多くはあのコラムを「便乗値上げ」を禁じる法律に賛意を示すものと受け取ったようだが、それは違う。価格システムを腐してやろうというつもりであのコラムを書いたわけではない。「便乗値上げ」に対する世間の反応からは学ぶべき教訓があるということがあのコラムで言いたかった一番の要点なのだ。「価格の変動を通じた資源の配分メカニズムには『不公平な』帰結が付き纏(まと)う」。世間の人々の間でそのような疑念が抱かれてしまうようであれば価格システムに対する広範な支持など得られやしないだろう。格差の拡大や一部の富裕層への(政治的および経済的な)権力の集中が続いたとしたら資本主義というシステムに対して世間一般の人々が抱く公平/不公平の感覚に一体どのような影響が及ぶことになるだろうか? 市場原理主義者にしても資本主義を支持する立場の論者にしてもそのことをもっと真剣に気にかけるべきなのだ。資本主義というシステムに対する(世間一般の)不公平感が募り募って臨界点を超えてしまった暁には(不満を抱えた世論の意向を汲んだ結果として)その後釜として得体の知れないシステムに取って代わられてしまう可能性だってあるのだ。次に二つ目の理由だが、どちらかというとこちらの方が(一つ目の理由よりも)重要だ。いつものように色んな記事を紹介したかったのだが、どういうわけだか今日は不運にもこれはと思えるような記事に出くわせなかったばかりか、ブログ用に自分で何か書き上げるだけの時間の余裕もなかったのだ(つまりは一時しのぎの苦肉の策というわけだ)。

Hurricane Sandy’s Lesson on Preserving Capitalism”:

ガソリンスタンドの前にできた長蛇の列。ハリケーン・サンディの直撃を受けてガソリンをはじめとした生活物資の数々が品不足の状態にあり、被災民たちは不安な日々を余儀なくされている。自然災害に見舞われた直後には「便乗値上げ」の是非を巡って経済学的および倫理的な観点から議論が巻き起こるものだが、今回もその例外ではない。自然災害に見舞われた直後に売り手が品物の値段を吊り上げるのは許される行為なのか? 望ましい行為と言えるのか? こういった疑問は確かに重要だ。しかしながら、「便乗値上げ」を巡る議論からはその是非にとどまらない更なる教訓も引き出せると思われるのだ。

経済学者は「便乗値上げ」(“price-gouging”)という表現を好まない。というのも、自然災害に見舞われた後に価格が上昇するに任せることは稀少な資源(財やサービス)を配分する(割り振る)ための最善の方法でもあり、不足気味の品物の増産を促すことになるという意味でも重要だというのが経済学者の考えだからだ。店先に並べた品物が高値で売れるとなれば(増産に乗り出せば大儲けが期待できるとなれば)、生産者の面々は並々ならぬ努力を注いで需要の急増に応じようとする(増産に励む)に違いない。経済学者の考えではそう予想されるのだ。

ハリケーン・サンディのような災害に見舞われた後に価格が上昇するに任せることにそれだけの利点があるのだとすれば、「便乗値上げ」をあちこちで目にしてもよさそうなものだが、災害に見舞われた後もそれまでと同じ水準に値段が据え置かれるケースも珍しくない。それはなぜなのだろうか? 災害に見舞われた後もそれまでと変わらない水準に値段を据え置き、在庫が尽きるまでお客に先着順で売り渡すという店も珍しくない。値上げをすれば儲けも増えるにもかかわらず、そのような絶好の機会がみすみす見過ごされてしまうのはなぜなのだろうか? 「災害時の便乗値上げは法律で禁じられているからだ」という答えが頭をよぎるが、その答えは次のような更なる疑問を提起するだけに過ぎない。災害時の品不足に乗じた大幅な値上げ(便乗値上げ)が多くの州で法的に禁じられているのはその通りだが、そもそもそうなっているのはなぜなのだろうか?

その答えを追い求めてこれまでに経済学者も色々と頭を捻ってきているが、その多くは「公平感」のアイデアに訴えて説明を試みている。〔以下続く

ついでになるが、こちらの記事もあわせて引用しておくとしよう。この記事ではダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)の研究が紹介されている。コラム執筆時にはカーネマンの件の研究のことは知らなかったのだが、「価格システムに対して世間の人々が不公平感を募らせると価格システム(ひいては資本主義というシステム)に対する世間の支持も弱まる」との私の主張に味方してくれているようだ。

大半の経済学者の意見に従う限りでは、ハリケーンが襲来する前日に雑貨屋(食料品店)が店頭の品物の値段を引き上げるのはまったくもって理に適った行為だということになる。理に適っているというだけではなく実際にもそうなりそうでもある。というのも、近所の人々がハリケーンの襲来に備えて生活物資を手に入れようとこぞって店に殺到する(需要が急増する)一方で品物の値段がいつもと変わらない水準に据え置かれたままであればすぐにも品不足になるのはわかりきっているからだ。雑貨屋の棚が空っぽになるとすれば、それは品物の値段が低すぎる(安すぎる)証拠。普通の経済学者の目にはそう映るのだ。

ダニエル・カーネマンといえばノーベル経済学賞を受賞した学者だが、彼が他の研究者たちと共同で行った有名な研究(pdf)では一般人を対象に品物の値付けに関するエピソードをいくつか話して聞かせた後でそれぞれのエピソードについてどういう感想を持ったか(公平だと思ったか、それとも不公平だと思ったか)が問われている。その中の一つが吹雪に見舞われた翌日の金物屋の行動に関するエピソードである。A町に店を構えるその金物屋はそれまで除雪用シャベルを一本15ドルで販売していたが、吹雪に見舞われた翌日にその値段を一本20ドルに引き上げたのである。

除雪用シャベルの値上げは辺り一帯に一つのシグナルを送ることになる。「A町にシャベルを持ち込め!」というシグナルである。A町から1時間くらいの距離にある土地で金物屋を営む店主たちはトラックの荷台にありったけの除雪用シャベルを積み込んでA町に乗り込もうと思い立つ可能性がある。実際にもそのような動きが起これば、A町における除雪用シャベルの品不足は緩和されてシャベルの値段も元通りに戻ることだろう。

ところで、このエピソードを耳にした(一般人の間から選ばれた)被験者たちはどういう感想を持っただろうか? 特段驚くことでもないだろうが、被験者の80%は吹雪に見舞われた翌日に除雪用シャベルの値段を引き上げた金物屋の振る舞いを「不公平だと思う」と答えている。そう答えた面々に「ハリケーンが襲来する前日に缶詰食品の値段を2倍に引き上げる雑貨屋ってどう思う?」と尋ねたら同じく「それは不公平だよ」と返答することだろう。

実際にも多くの人々が自然災害に乗じた値上げに強い憤りを感じており、そのような世論の声を受けて多くの州で「便乗値上げ」を禁じる法律が制定されるに至っている。ハリケーンをはじめとした自然災害の発生時に品物の値段を引き上げると違法行為と見なされる州があるのだ。

マーク・ソーマ 「アロー、エッジワース、フォーセット」(2017年2月26日)

●Mark Thoma, “Arrow, Edgeworth, and Millicent Garrett Fawcett”(Economist’s View, February 26, 2017)


ラジブ・セティ(Rajiv Sethi)のブログより。

Arrow, Edgeworth, and Millicent Garrett Fawcett” by Rajiv Sethi:

先日亡くなったケネス・アローについてはもう既にあれこれと語り尽くされていてこれ以上何か言えそうなことも特にこれといって見つからないのだが、個人的な思い出であれば一つくらいは付け加えられそうだ。

過去に1度だけだがアローに会ったことがある。2008年4月にスタンフォード大学で開催されたカンファレンスに参加したのだが、そのカンファレンスのオーガナイザー(まとめ役)を務めていたのがアローとマシュー・ジャクソンだった。研究発表者の周囲を取り囲むように並べられたいくつものテーブル。聴衆はテーブルを挟んだ向こう側に腰を下ろしていたが、アローだけはテーブルの内側のスペースに入り込んで発表者の目の前に陣取っていた。当時のアローは86歳。

一番最初の発表者が私だった。異なる集団間での格差をテーマとする研究(サミュエル・ボウルズとグレン・ルーリーとの共同研究)の概要について発表したのだが、話し始めてから数分経ったところでアローが口を挟んできた。と言っても、決して強引にというわけではない。モデルの情報構造について詳しく知りたいとの質問だった。発表が終わって休憩時間に入ると、私のもとにアローがやってきて次のように尋ねられた。「ミリセント・フォーセット(Millicent Garrett Fawcett)の論文を読んだことがありますか?」。1892年のエコノミック・ジャーナル誌に掲載された論文だという。タイプミスじゃない。アローは確かに1892年と言ったのだ。「読んだことありません」。そう正直に告白したものだ。

その時にアローが語ってくれたのだが、フランシス・エッジワース(Francis Edgeworth)が1922年の(エコノミック・ジャーナル誌に掲載された)会長講演でフォーセットの一連の研究を詳しく取り上げているという。エッジワースのその講演は多くの人に広く知られているものの、その中で言及されているフォーセットの研究に自分で直接あたった人はほとんどいないという。

その後自分でも確かめてみたのだが、アローの言う通りだった。エッジワースは講演の中で何度も「フォーセット女史」と口にしており、フォーセットの論文を3本ほど引用している。エッジワースの講演は“Equal Pay to Men and Women for Equal Work”(「性別の枠を越えた『同一労働同一賃金』」)と題されているが、その中で引用されているフォーセットの論文の一つが1918年に公刊された“Equal Pay for Equal Work”(「同一労働同一賃金」)である。フォーセットの件の論文の冒頭は以下のようになっている。

Fawcett 1918

(「ジョン・ジョーンズ氏は軍服を製作する仕事に就いており、勤め先の洋服店から高給を支払われていた。ジョーンズ氏は病気に罹ってしまったが、勤め先の許可を得て自宅で服作りを続けることになった。ジョーンズ氏は自分の妻にも仕事のやり方を教えたが、ジョーンズ氏の体調が悪化するのに伴って彼の妻が助太刀する機会が増え、しばらくするとジョーンズ氏の妻が仕事をすべて引き受けることになった。しかしながら、ジョーンズ氏が生きている間は妻が製作した服もすべてジョーンズ氏製作という名目で勤め先に渡し、それまでと同額の給与が支払われ続けたのであった。

ジョン・ジョーンズ氏が亡くなり遺体が埋葬されたことが知られるようになると、『この服はジョーンズ氏が作りました』という話は最早通じなくなり、ジョーンズ氏の妻は『この服を作ったのは私です』と認めねばならなくなった。それ以降、自宅で作った服と引き替えに洋服店から支払われる給与はそれまでの3分の2に減額されることになったのであった。」)

少し調べてみてわかったのだが、フォーセット女史はエッジワースやアローにもまったく引けを取らない切れ者のようだ。さらには、経済学の分野での貢献は彼女の全業績のほんの一部でしかないのだ。アローとしては気の合う仲間を見つけたと感じていたに違いない。

マーク・ソーマ 「ケネス・アロー(1921-2017)」(2017年3月2日)/アレックス・タバロック「伯父としてのケネス・アロー ~サマーズが語るアローの思い出~」(2017年2月24日)

●Mark Thoma, “Kenneth Arrow, 1921-2017”(Economist’s View, March 02, 2017)


デブラージ・レイ(Debraj Ray)のブログより。

Kenneth Arrow, 1921-2017” by Debraj Ray:

ケネス・アロー(Kenneth Arrow)が2017年2月21日に亡くなった。享年95歳。アローは20世紀を代表する三大経済学者(三傑)の一人(残りの二人はポール・サミュエルソンとジョン・ヒックス)と目されている人物であり、私のかねてからのお気に入りの経済学者でもある。

ディパク・バナジー(Dipak Banerjee)(pdf)――私の恩師――が私にアローを紹介してくれたのは1974年のことだ。(私の母親が崇め奉っているヒンドゥー教の女神サラスヴァティー)さながらに)私の目の前に現れたアローは黄色い表紙の小さなペーパーバックの姿を借りていた。その小さな本の名は『Social Choice and Individual Values』(邦訳『社会的選択と個人的評価』)。大学通りにあるダスグプタ書店で購入し、今でも手元に持っている。当時私は大学1年生。小さな本ではあったが、その中を開くと深遠な論理的な思考がぎっしりと詰まっていた。それだけではない。ページを繰っていくとその先にはこれまでに見たことがない風景が広がっていた。政治経済学の分野における「抽象的な問い」が切れ味鋭い理論的な道具立てに読み替えられていたのだ。

その「抽象的な問い」とは一体何か? 簡単に言うとこういうことだ。みんなの意見を集計して集団としての意思決定を下す方法として「多数決」があるが、多数決にはいわゆる「コンドルセのパラドックス」(投票のパラドックス)として知られている有名な問題が付き纏っている。(複数の選択肢に対する)一人ひとりの選好(好み)は理に適ったものであったとしても「多数決」を通じてみんなの意見を集計する結果として得られる(複数の選択肢に対する)社会的な選好(集団としての選好順序)に時として循環が生じる可能性があるのだ。このことから次のような問いが浮かび上がってくることになる。一人ひとりの選好を矛盾のないかたちで集約し得る方法というのは果たして存在するのだろうか? 少し考えてみてもらえば気付くと思うが、一人ひとりの選好を集約する方法には我々がよく知っている多数決以外にも無数の候補がある。さてさてだ。先の問いに答えを出すのはおろか、先の問いを(理論的に取り扱えるようなかたちに)定式化するには一体全体どうすればいいんだろうか? アローが閃いた定式化――投票に参加する一人ひとりの選好を集約して集団としての選好(社会的な選好)を導き出す集計方法(社会厚生関数)にいくつかの公理(条件)を課す――はまさしく天才的なものだった。見た目が美しいというばかりではない。結論(答え)も得られるのだ。その結論とはこうだ。ごく限られた数の条件をすべて満たしつつ、一人ひとりの選好を集約して申し分のない(集団としての選好順序に循環が生じないような)社会的な選好を導き出せるような集計方法は存在しない。

以上の引用は冒頭のほんの一部でしかない。内容盛り沢山の続きも是非ともご覧になられたい。

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●Alex Tabarrok, “Summers on Arrow”(Marginal Revolution, February 24, 2017)


ローレンス・サマーズがケネス・アローとの思い出を回想しているが、その中で学者人生の一面を見事に捉えたエピソードが紹介されている。私も似たような経験がある。父親が機械工学を専門とする学者だったのだが、自宅に教え子を呼ぶことがあった。その時の父親の振る舞い(教え子たちと会話を弾ませている姿)を見ていて似たような感想を持ったことがあるのだ。

ノーベル経済学賞受賞者であり私の母方の伯父でもあるケネス・アローが今週95歳で亡くなった。アローは優れた人柄の持ち主であり、私(だけではなくその他大勢)にとってのヒーローだった。アローほど充実した学者人生を過ごした人物は他には見当たらない。

アローがノーベル賞を受賞したのは1972年のことだが、その時のことはまるで昨日のことのように覚えている。ポール・サミュエルソン――同じくノーベル経済学賞受賞者であり、同じく私の伯父でもある――がアローのノーベル賞受賞を祝うパーティーを催したのだが、その当時(MITの)大学2年生だった私もその場に招待されたのだ。若干オタクっぽい雰囲気に包まれてはいたが、お祭り気分に満たされた一夜だった。

夜も更けていく中、部屋の隅のところで数理経済学の定理の数々をテーマに立ち話を延々と続けるサミュエルソンとアローの二人。招待客たちは一人また一人と帰っていく。サミュエルソンの妻は「話はまだ終わらないのか」とじれったそうにしているように見えた。アローの妻(であり、私の叔母でもあるセルマ)はコートを羽織ってボタンも留め終わり、出口に向けて歩き出していた。そんなことはお構いなしに「最大値原理がどうこう、ポントリャーギン(ロシアの数学者)がどうこう」と切り出すアロー。イギリスの数理経済学者であり哲学者でもあるフランク・ラムゼイの話で迎え撃つサミュエルソン。二人の会話が終わらないことには私は帰れなかった。そのため私は二人の会話をじっくりと観察していたのだ。とは言え、(当時の私には)会話の内容は一切理解できなかったのだが。

二人の会話の様子を眺めていて吸収できたこともある。目の前にいるのはノーベル賞を受賞した二人の人物。疲れ果てた他の招待客たちが次々と家路を急ぐ中、好物の話題をネタに延々と語り続ける二人。その夜、私は二人の伯父から学んだのだ。アイデアに対する情熱を。学者という職業の重要性と刺激(スリル)を。

マーク・ソーマ 「チンパンジーが物々交換に応じたがらないのはなぜ?」(2008年1月30日)

●Mark Thoma, ““Why Don’t Chimpanzees Like to Barter Commodities?””(Economist’s View, January 30, 2008)


チンパンジーは「自分にとって非常に価値のある物品(リンゴの薄切り)」を手放さなければならない場合にはそれと引き換えに「自分にとってもっと価値のある物品(ぶどう)」が手に入るとしても物々交換にはなかなか応じたがらない。以下に引用する研究ではその理由が探られているが、それだけにとどまらず人間社会で物々交換がいかにして発展してきたかについてもいくらか光を当てようと試みられている。

Why don’t chimpanzees like to barter commodities?” by EurekAlert:

人類は何千年もの歴史を通じて「物々交換」に頼って生きてきた。物々交換は日々の暮らしにとって欠かせない一側面だったし、職業の分化(分業)を推し進める要因ともなった。それぞれ異なる作業に従事する二人が自らの労働を通じて得たモノの一部を相手と交換する。その結果として二人がともに利益を得る。物々交換はかように重要な意味を持っているわけだが、物々交換がいかにして進化し発展してきたかについてはほとんどわかっていないのが現状である。

我々人類の祖先はどうにかこうにかして物々交換を自分のものにしたに違いないわけだが、今回取り上げる研究(2008年1月30日にPLoS ONEに掲載された研究)は人間に一番近い親戚にあたるチンパンジーがそれ自体として高い価値を備えている物品(リンゴとぶどう)同士の物々交換に応じるのはどのような状況であるかを詳しく検証している世界初の試みである。物々交換は分業を可能にする最も基本的な前提条件の一つだというのが経済学者の間で信じられている説だが、分業が観察されるのは霊長類の中では人間くらいのものだ。研究結果を先取りするかたちで簡潔にまとめると次のようになる。チンパンジーが食べ物同士の物々交換に応じるようになるためにはある程度の訓練が必要であり、チンパンジーが何の訓練もなしにいきなり物々交換に応じることは滅多にない。チンパンジーも訓練を積めば信頼を寄せる人間を相手に(食べ物同士の)物々交換に応じるようになるが、そこまでの訓練を積んだ後でも自分にとって非常に価値のある物品(リンゴの薄切り)を手放さなければならないとなるとそれと引き換えに自分にとってもっと価値のある物品(ぶどう)が手に入るとしても物々交換にはなかなか応じたがらない。

従来の研究ではチンパンジーに「お金」(に見立てたモノ)を渡してチンパンジーがその「お金」と何らかの(チンパンジーにとって価値のある)物品との交換に応じるかどうかに焦点が当てられているのが大半である。しかしながら、「お金」は自然界には存在せず、「お金」それ自体には何の価値(使用価値)も備わっていない。それゆえ、チンパンジーが自分にとって価値のある物品(例えばぶどう)を手に入れるために「お金」を進んで手放したとしても実験室の外の世界におけるチンパンジーの行動についてはほとんど何も語っていない可能性がある。

件の研究では(二箇所の研究所から集められた)チンパンジーに(「お金」ではなく)食べ物を渡し、その食べ物と他の食べ物とを交換する機会が与えられた1。何度も実験を繰り返した結果としてどういうことがわかったかというと、チンパンジーも訓練を積めば人間を相手に食べ物同士の物々交換に応じるようになるということである。ただし、それは交換を通じて手に入る食べ物がそれと引き換えに手放さなければならない食べ物よりもずっと価値が高い場合(例えば、ニンジンを手放すのと引き換えにぶどうを手に入れる場合)に限られる。それ以外の場合(例えば、リンゴ(の薄切り)を手放すのと引き換えにぶどうを手に入れる場合)はチンパンジーは物々交換には応じずに渡された食べ物をそのまま自分の手元に持っておく傾向にあるのだ。

かような2チンパンジーの行動は理に適ったものである可能性がある。そう言える理由はいくつかあるが、チンパンジーの世界には「取引」の履行を支える社会制度が欠けている――言い換えると、相手からモノを受け取っておきながら代価(引き換えに渡すと約束していたモノ)も払わずにとんずらする裏切り者を罰する仕組みが欠けている――というのもそのうちの一つだ3。チンパンジーの社会では「所有権」の規範が欠けており、そのためモノ(財産)を溜め込むということがない。その結果としてモノ同士を交換する(物々交換する)機会も滅多にないわけだが――それとは対照的に、従来の研究でも明らかにされていることだが、チンパンジーの社会では「サービス」の交換は非常に活発な現象である――、これもまた別の理由と言えるだろう4。自然界ではたった今自分の手元にあるモノだけが「所有」されていると言えるのであり、そのモノも誰かに奪われてしまう可能性が極めて高い。そのため、チンパンジーは(モノを溜め込まないために)相手に差し出せるモノ(交換できるモノ)を何も持っていないことが常態なのだ。

件の研究を取り仕切った一人であるジョージア州立大学のサラ・ブロスナン(Sarah Brosnan)は次のように語る。「物々交換への拒絶感はチンパンジーの心理の奥深くに埋め込まれているように感じられますね。チンパンジーも物々交換を行えるだけの能力は十分に持っているんです。でも、その能力を最大限の利益を引き出すような仕方では使っていないわけですね」。

カリフォルニア大学ロサンゼルス校の「法と経済学」センターでディレクターを務めるマーク・グラディ(Mark F. Grady)――件の研究を取り仕切ったもう一人の人物――は次のように語る。「チンパンジーが物々交換に応じたがらない主たる理由は所有権の規範が欠けているためではないかというのが私の考えです。所有権の規範を確立するというのはかなり難儀な仕事ですが、チンパンジーとしてはそんな大変な思いをするだけの気はない(割に合わないと思っている)ようですね。幸いにと言いますか、(『モノ』とは違って)『サービス』は所有権の規範によって保護される必要はありません。そのため、チンパンジーも『サービス』であれば交換し合える可能性がありますし、実際に交換し合っていますね5。しかし、チンパンジーの社会が露にしていますが、(『サービス』の交換に依拠する)『サービス経済』では人間社会ほどには分業は進まないようですね」。

人間も交換から得られる利益を最大限に引き出せずに終わることが時としてあるが、チンパンジーの物々交換実験はその理由を解明する役にも立つ可能性がある、とはブロスナンの弁だ。

  1. 訳注;実験で使用された食べ物はニンジン、リンゴ、キュウリ、ぶどうの四つ。実験では四つの食べ物に対するチンパンジーの「好み」も調査されており、その結果は「①ぶどう(一番好き)、②リンゴ、③キュウリ、④ニンジン」という順番になっている。 []
  2. 訳注;交換を通じて手に入るモノ(食べ物)がそれと引き換えに手放さなければならないモノ(食べ物)よりもずっと価値が高い(手放すモノの(自分にとっての)価値とそれと引き換えに手に入るモノの(自分にとっての)価値の差が大きい)場合に限って物々交換に応じる []
  3. 訳注;それゆえ、仮に相手にとんずらされてしまってもそれほど痛手にならない場合くらいしか交換に応じない。ニンジンくらいならどうってことないが、相手にリンゴを渡してそのままとんずらされるとかなり悲しいので、(ニンジンとぶどうとの交換には応じても)リンゴとぶどうとの交換には応じない。 []
  4. 訳注;チンパンジーは実世界での物々交換の経験が少ない(慣れていない)ために「交換の利益」をみすみす見逃してしまうことがある、ということが言いたいものと思われる。 []
  5. 訳注;例えば、互いの体を毛づくろいし合う。 []

マーク・ソーマ 「『アニマルスピリッツ』という語の来歴」(2009年3月15日)

●Mark Thoma, “Animal Spirits”(Economist’s View, March 15, 2009)


「アニマルスピリッツ」という語の来歴について少々。

・・・(略)・・・何よりも求められているのは「アニマルスピリッツ」が息を吹き返すことだ。そう語る変わり者がいる。その名はロバート・シラー(Robert Shiller)。シラーといえばノーベル経済学賞受賞者でもあるジョージ・アカロフ(George Akerlof)との共著本――『Animal Spirits』。気が滅入るほど長たらしい副題付き――が出版されたばかりだが、そんな彼が数週間前のニューヨーク・タイムズ紙に論説を寄稿している。・・・(略)・・・シラーは件の論説の中で次のように述べている。「ここ最近の経済論争の様子を眺めていると1930年代の大恐慌が引き合いに出されている例をよく見かけるが、そのような『大恐慌物語』への注目こそが目下の低迷を後押しする原因の一つとなっている。どういうことか? そのような『物語』が広く語られることで大恐慌が今後の先行きを占う参照基準となってしまい1、その結果としてジョン・メイナード・ケインズが『アニマルスピリッツ』と呼んだものに冷や水が浴びせられる格好となってしまっているのだ。『大恐慌物語』があちこちで語られるおかげで消費者の購買意欲や企業の(雇用の拡大や事業の拡大に向けた)攻めの姿勢を背後で支える『アニマルスピリッツ』が萎えてしまっているのだ。『大恐慌物語』は『自己成就的な予言』となる資格を備えているのだ」。

1936年に出版されたケインズの『一般理論』(“The General Theory of Employment, Interest and Money”)が「アニマルスピリッツ」という語を広める上で大きな役割を果たしたことは間違いない。ケインズが『一般理論』の中で述べているところによると、経済がたびたび動揺にさらされるのは・・・(略)・・・「投機」の結果であったり、あるいは次のような事実のためでもあるという。「企業による投資の決断は将来収益の期待値を事細かに計算した結果に基づくというよりは内から湧き上がってくる楽観論によって左右される面が強い。・・・(略)・・・人々が何か積極的なことをやろうと決心するに至るのは大抵の場合アニマルスピリッツ――何もしないでいるよりは何かやらなきゃと駆り立てる内から湧き上がってくる衝動――に突き動かされた結果としか言いようがないのであり、何かすることで得られると予想される(数値化された諸々の)便益に(これまた数値化された)確率を掛け合わせた加重平均(予想便益の期待値)を計算した結果なんかではないのだ」。

たった今引用したばかりの箇所ではアニマルスピリッツが人をして自信過剰にしてしまう傾向に警鐘が鳴らされているわけだが、別の箇所ではアニマルスピリッツの好ましい面(リスクテイクを促す面)に目が向けられている。「アニマルスピリッツが萎えるのに伴って内から湧き上がる楽観論が鳴りを潜めてしまい、予想便益の期待値の数字以外に何も頼れるものがない。そんなことになってしまえば事業も衰退しやがては死に絶えてしまうことだろう」。うん。個人的にはこっちの方が好きだ。

ケインズが経済学の世界で有名にした「アニマルスピリッツ」という語には実は長い歴史がある。バーソロミュー・トラヘロン(Bartholomew Traheron)が1543年に海外のとある外科医(イタリアの医師であるジョヴァンニ・ダ・ヴィーゴ)の著作を翻訳しているが、その中に次のような記述が見られる。「医学を専門とする者たちの教えによると、人間のスピリット(霊気)には3種類あるという。アニマルスピリット、ヴァイタルスピリット、ナチュラルスピリットである。アニマルスピリットは脳に宿る霊気であり、魂――ラテン語では「アニマ」(anima)――の第一の手先を務める霊気であることからアニマルという語が冠されている」2

・・・(中略)・・・

イギリスの作家たちは「アニマルスピリッツ」という語に備わっている躍動感を敏感に嗅ぎ取り、自らの小説の中にも熱意を込めて取り入れている。ダニエル・デフォーは『ロビンソン・クルーソー』の中で次のように書いている。「(刑の執行直前に刑の取りやめが決まったことを知らされた罪人たちは)あまりに驚き、そのためにアニマルスピリッツ(動物精気)が心臓で足止めを食う(心臓の外にいつまでも流れ出ないままでいる)可能性があるからである」。ジェーン・オースティンも『高慢と偏見』の中で「アニマルスピリッツ」という語を使っているが、あふれんばかりの活力(ebullience)という意味を込めて次のように書いている。「彼女(リディア)はアニマルスピリッツ(活力)に溢れる女性」。ベンジャミン・ディズレーリ(英国の元首相であり小説家としても活躍)も1844年に(『コイングスビー』の中で)オースティンと同じく「活力」という意味を込めて次のように書いている。「彼はアニマルスピリッツ(活力)に溢れる人物であり、愉楽に対する鋭い感覚の持ち主でもあった」。いい感じじゃないだろうか?

  1. 訳注;「この先に待っているのは大恐慌のように長くて厳しい不況なのではないか」との悲観的なムードを後押しする役割を果たし、という意味。 []
  2. 訳注;「アニマルスピリッツ」という語の来歴についてはアカロフ&シラー(著)/山形浩生(訳)『アニマルスピリット』でも簡潔に触れられている。その箇所を以下に引用させてもらうとしよう(注ページ pp. 24~25)。「(3)アニマルスピリットという用語は古代に生まれ、古代医師ガレノス(ca.130-ca.200)の著作が昔からその出所として引用され続けている。この用語は中世までは医学でふつうに使われており、Robert BurtonのThe Anatomy of Melancholy(1632)やRene DescartesのTraité de l’Homme(1972[1664], 邦訳『人間論』)まで続いている。スピリット(霊気)には3種類あるとされていた。心臓から生まれるとされる生命精気、肝臓から生まれる自然精気、脳から発する動物精気である。哲学者George Santayana(1955[1923], p.245)は「動物信念」の中心性をもとに哲学大系を構築したが、かれのいう動物信念とは「純粋で絶対的な精気、知覚不能な認知エネルギーであり、その本質は直感である」」。医学(ないしは生理学)の分野における「アニマルスピリット」論の盛衰の歴史についてはこちらのリンク(英語)も参考になるかもしれない。ちなみに、ケインズはデカルトないしはヒューム経由で「アニマルスピリッツ」という語を知ったのではないかという説が有力なようだ。そのあたりの詳しい話は例えば次の論文を参照のこと。 ●D. E. Moggridge(1992), “Correspondence: The Source of Animal Spirits”(Journal of Economic Perspectives, vol.6(3), pp.207-212) []

マーク・ソーマ 「『ゲームの審判』としての政府 ~『アニマルスピリッツ』と政府の役割~」(2009年4月25日)

●Mark Thoma, ““Good Government and Animal Spirits””(Economist’s View, April 25, 2009)


政府は「アニマルスピリッツ」に行動の自由を与えるべきだ。そうしてはじめて「アニマルスピリッツ」の創造性も最大限に発揮されることになる。そう語るのはアカロフ&シラーのタッグだ。

Good Government and Animal Spirits” by George A. Akerlof and Robert J. Shiller, Commentary, WSJ:

2008年の金融危機が我が国に残した何よりも重要な遺産は金融規制の質的な向上だった。後々振り返ってそう言えるように今のうちからそのための準備を始めておく必要がある。

・・・(中略)・・・

「アニマルスピリッツ」――経済活動の中心に位置する心理的および文化的な要因――の重要性がわかれば規制当局の役割を再び拡張する必要性があることに納得せざるを得なくなる。・・・(略)・・・(つい最近の出来事も含めた)歴史が示しているように、規制による抑えがないと「アニマルスピリッツ」は経済活動の行き過ぎに手を貸すに至るおそれがあるのだ。

・・・(中略)・・・

1980年代の終わり頃の時点ではアメリカの経済システムはどんな嵐に見舞われても難なく切り抜けられるだけの極めて丈夫な仕様になっていた。例えば、1980年代には貯蓄貸付組合の破綻が相次いだが(いわゆるS&L危機)、政府の働きのおかげもあってその影響をごく狭い範囲に閉じ込めておくことに成功した。納税者にはかなりの額のコストの負担が求められることになったものの、失業という名のコストは微々たるもので済んだのである。

時の移ろいに伴って経済の構造も徐々に変化を遂げ――そうなるのは世の常だ――、公的な規制の体系も従来のままでいいのかとそのあり方が問われることになった。・・・(略)・・・しかしながら、金融規制の体系には(住宅ローンの証券化をはじめとした)金融システムの構造変化に即応するように手が加えられることもなく、その結果として金融システムの奥深くにシステミックリスクの種がまかれることになったのである。

・・・(中略)・・・

金融規制の体系が時代の変化についていけなかった根本的な理由の一つに世間一般に蔓延る「規制への反感」がある。アメリカ国民は資本主義に対する新しい見方にどっぷりとのめり込んでいた。「資本主義というゲームは何でもアリのゲームだ」。そのような見方が国民の間で広がりを見せていたのである。1930年代に苦難の末に学び取られた教訓などすっかり忘れ去られてしまっていたのだ。資本主義は我々に実のある繁栄を届けてくれる可能性を秘めているが、それなりの舞台が整えられてはじめてその可能性も現実のものとなる。政府がルールを制定し、政府が審判として振る舞う。そのような舞台(競技場)が整えられないことには資本主義の潜在的な力も発揮されずに終わってしまうのだ。

「資本主義の危機」が叫ばれている昨今だが、そのような見方はあたっていない。今こそ認識し直さなければならないことがある。それは何かと言うと、資本主義には特定のルールが必要だということだ。・・・(略)・・・古典派経済学のパラダイムでは完全雇用が常態かもしれない。しかしながら、人々が「アニマルスピリッツ」に突き動かされる現実の世界では、楽観から悲観へ、悲観から楽観へと世間のムードが波打つのに伴って総需要にも大幅な変動が生じることになる。労働者に支払われる(名目)賃金の額は「公平さ」への配慮も込みで決められるため、総需要の変動は賃金(ひいては物価)の変化ではなく雇用量の変化となって表れる傾向にある。総需要が落ち込むと失業が増えるわけだ。政府が果たすべき役割がここにある。政府は総需要の変動を和らげる役目を果たさねばならないのだ。

さらには、起業家たちや民間の企業は消費者(顧客)が心の底から欲しているモノだけを売っているわけではない。消費者たちが何となく欲しいかもしれないと思っているモノも売っており、いざふたを開けてみるとその「何となく欲しいかもしれないと思っていたモノ」は「蛇の油」(インチキ薬、ガラクタ)に過ぎなかったということは往々にしてあることだ。それが特に当てはまる場所というのが金融市場だ。・・・(略)・・・その背後で糸を引いているのが「物語」だ。人々が互いに交わし合う「物語」――自己という存在(「私」)に関する物語、他者の振る舞いに関する「物語」、経済に関する「物語」――は人々の行動にも影響を及ぼすのだ。そして「物語」の内容は時とともに変わりゆく。

人々が「アニマルスピリッツ」に突き動かされる世界では政府が経済に介入することも正当化されることになる。しかしながら、政府の役割は「アニマルスピリッツ」に首輪をつけて制御することだけに尽きるわけではない。「アニマルスピリッツ」に行動の自由を与えて持てるだけの創造性を最大限に発揮させることもまた政府の役割の一つだ。才能に満ち溢れる選手も審判にいて欲しいと思うことだろう。ゲームを律する適切なルールとそのルールが守られているかどうかを監視する審判が揃ってはじめてその才能も存分に発揮できるようになるからだ。・・・(略)・・・アメリカ国内の金融規制の体系に抜本的な手直しが一向になされないまま70年の月日が経とうとしている。オバマ政権が米議会や自主規制機関(SRO)と協力して取り組むべき課題はいかにしてこれまでよりも一段と優れた新しいアメリカ版「資本主義ゲーム」を作り出すかということにある。

マーク・ソーマ 「『経済の失敗』の背後に潜む『経済学者の失敗』 ~アカロフ&シラー(著)『アニマルスピリット』の強みと弱み~」(2009年5月8日)

●Mark Thoma, ““The Failure of the Economy&the Economists””(Economist’s View, May 08, 2009)


ベンジャミン・フリードマン(Benjamin Friedman)がニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスに書評記事を寄稿している。書評の対象となっているのはアカロフ&シラー(著)『Animal Spirits』(邦訳『アニマルスピリット』)とシラー(著)『The Subprime Solution』(邦訳『バブルの正しい防ぎかた』)の二冊だ。以下にそのほんの一部を引用しておこう1

The Failure of the Economy&the Economists;Review of Animal Spirits: How Human Psychology Drives the Economy, and Why It Matters for Global Capitalism by George A. Akerlof and Robert J. Shiller; and The Subprime Solution: How Today’s Global Financial Crisis Happened, and What to Do About It by Robert J. Shiller” by Benjamin M. Friedman:

ここ最近の歩みを振り返るとこう考えざるを得ないだろう。アメリカ国内の主要な金融機関にしてもそういった金融機関が牛耳っている金融市場にしてもアメリカ経済のために有用な働きをしているとは到底言えない、と。今となってはそのことに異を唱える人などほとんどいないことだろう。

・・・(中略)・・・

もう二度と今回のような危機に見舞われたくないという点については幅広い合意が得られているものの、それではそのために(今回のような金融危機の再発を防ぐために)どのような改革を行う必要があるかをめぐって盛んに議論が交わされているかというとそういうわけでもない。そのあまりのなおざりぶりにはやきもきさせられるほどだ。

・・・(中略)・・・

金融システムが果たすべき役割は何なのか? 金融システムはその役割をどこまでうまく果たせているか? 金融危機を巡る目下の議論ではこの一連の疑問があっさりと無視されてしまっている。今回が特別そうだというわけではなく過去においてもそうだった。

・・・(中略)・・・

金融危機を巡る目下の議論の中ですっかり無視されてしまっている重要な争点は他にもある。銀行をはじめとした(資金の)貸し手が被る損失は二つのタイプに峻別できるという点だ。銀行をはじめとした(資金の)貸し手が被る損失の中には一国の富の総額の減少を意味するものとそうでないものとがあるのだ。

・・・(中略)・・・

目下の議論において重要な争点の数々がほとんど見向きもされていないのはどうしてなのだろうか? 資本の効率的な配分を促すという目的が一方であり、金融業がその目的を果たす上で不可避的に発生するコストをできるだけ抑えるという別の目的がもう一方である。二つの目的の間でバランスをとるにはどうすればいいか? このような問いがほとんど語られずにいるのはどうしてなのだろうか? 一つ目のわかりやすい理由は政治的なものだ。「政府には果たすべき有用な役割がある」という立場が国是となったルーズベルトの時代から「政府は問題解決の担い手なんかではない。むしろ政府こそが問題を引き起こしている元凶なのだ」と説くレーガン&サッチャーの時代へと政治の世界で劇的な潮流の変化があったというのが一つ目の理由だ。二つ目の理由はイデオロギー的なものであり、一つ目の理由とも密接な関わりがある。営利の追求を原動力とする私的な経済活動には自己調整能力が備わっており、その自己調整能力のおかげで何か問題が起きても自動的に問題は解決される。そう信じて疑わない信念が広がりを見せているのだ――その信念を体現している代表的な人物がグリーンスパンだ。若い頃にアイン・ランドの小説に心酔した経験もある彼はFRB議長時代に公的な規制に頑ななまでに反対の姿勢を示したものだ――。

三つ目の理由を提示しているのがジョージ・アカロフ(George Akerlof)とロバート・シラー(Robert Shiller)の二人だ。この二人の経済学者によると、問題は知的な面にも求められるという。彼らの同僚でもある経済学者集団の従来の思考の中身に系統的な過ちが潜んでいるというのだ。アカロフとシラーの二人はジョン・メイナード・ケインズの有名なフレーズをタイトルに冠した新著の中で語っている。今の世代の経済学者たちは「アニマルスピリッツ」(”animal spirits”)に十分な注意を払っていない、と。「アニマルスピリッツ」は日常のごくありふれた選択の場面の数々でもその影響を表す心理的な(時に不合理的でさえある)因子であり、経済的な意思決定もその影響から無縁ではないというのが二人の主張だ。

アカロフ&シラーのタッグは「アニマルスピリッツ」を5つの構成要素に腑分けしている。「確信(安心)」(confidence)ないしはその欠如(弱気、不安)。「公平さ」(fairness)の希求――行動規範の一種。例えば、金物屋が吹雪の直後にお客が殺到した(雪かきスコップへの需要が高まった)のを受けて雪かきスコップの値段を引き上げようものならけしからんと不評を買うことだろう。緊急事態に乗じて商品の値段を引き上げるというのは「不公平」な振る舞いだと受け取られるからである――。「腐敗と背信」。「貨幣錯覚」――名目価格の変化と実質価格の変化を混同しがちな傾向――。そして「物語」への傾倒――「インターネットが生産性の劇的な向上を約束する『新時代』の幕が開かれた!」とかいうような活気ある「お話」についつい惹かれてしまう傾向――。以上の5つだ。従来の経済学では現状の危機をうまく理解できないのも危機への有効な対応策を提示できないのもこれら5つの「アニマルスピリッツ」の役割が無視されてしまっているためだ。アカロフとシラーの二人はそう主張する。

・・・(中略)・・・

もっと大局的な観点から問うておくべき質問がある。アカロフとシラーの二人は果たして部分の総和以上のものを生み出すことに成功しているだろうか?2 その答えはある面では「イエス」であり、別の面では「ノー」である。

まずは「イエス」と言える面から取り上げると、過去数十年を通じて形作られてきた主流派のマクロ経済学の「狭さ」を露にし、その「狭さ」ゆえに主流派のマクロ経済学には現状の危機(や類似の現象)を説明し有効な処方箋を捻り出す能力に「タガ」が嵌められてしまっている様をあぶり出すことには成功している。

・・・(中略)・・・

主流派のマクロ経済学がたびたびうまくいかなくなることがあるのは誰の目にも明らかな事実(失業であったり信用市場をはじめとした現実の制度であったり)を無視しているためであることに加えて、本書の中で取り上げられている「アニマルスピリッツ」に由来する(数値化するのが難しい)行動パターンに注意を払っていないためであること。アカロフとシラーの二人はそのことを露にするのにも成功している。確信(安心)もその欠如も明らかに重要な役割を果たしている。・・・(略)・・・

アカロフとシラーの二人も述べていることだが、確信(安心)の動揺が資産価格や実体経済に及ぼす効果が標準的なモデルに組み込まれている見慣れた要因――金融政策の変更や石油価格の乱高下など――の効果を上回る可能性も十分考えられることだ。「貨幣錯覚」もマクロ経済の振る舞い(マクロレベルの現象)の一側面に重要な影響を持っていることは疑うべくもない。

・・・(中略)・・・

「マクロ経済学を丹念に磨き上げて科学として一人前に仕上げようとする」試みにしてもそのために課された「研究上の枠組みや方法論」にしても主流派のマクロ経済学の射程範囲をどうしようもないほど狭めてしまう羽目になってしまったというわけだ。

それでは問うとしよう。『Animal Spirits』では人間の行動に重要な影響を及ぼす(主流派のマクロ経済学では軽視されている)要因に目を向けている(行動経済学方面の)一連の研究が紹介されているわけだが、アカロフとシラーの二人はそのような個々の研究の一覧以上のものを提供できているだろうか? 「我々二人はマクロ経済を分析するための『新理論』を提案する仕事をやり遂げた」。アカロフとシラーはどうやらそう信じているようだ。

・・・(中略)・・・

経済的な意思決定(ミクロレベルの意思決定)の様々な側面に光を当てるアイデアの数々を列挙するのとそのような個々のアイデアを統合してマクロ経済の変動を説明するためのまとまりのある「理論」を作り上げるのは同じことではない。「主流派のマクロ経済学のモデルにはこんな要素(パーツ)が欠けている」。そう指摘するアカロフとシラーの二人は間違いなく正しい。「こんな要素(パーツ)を主流派のモデルに組み込めば助けになるだろう」。そう指摘するアカロフとシラーの二人も間違いなく正しい。しかしながら、アカロフとシラーの二人は(ミクロレベルの意思決定にとどまらず、マクロ経済の変動も説明できるような)まとまりのある「理論」を作り上げているわけでもないしそのやり方を読者に指南してくれているわけでもない。というわけで、マクロ経済学の講義で学生が学ぶ内容を一新してみせるという彼らの目標も少なくとも今のところはまだ叶いそうにないと言わねばならないだろう。

アカロフとシラーの二人は「アニマルスピリッツ」が(ミクロレベルの)経済的な意思決定の様々な側面に重要な影響を及ぼす例の数々を収集しているに過ぎず、マクロ経済の振る舞いを説明するための首尾一貫した理論を構築するまでには至っていないわけだが、その点を考慮すると本書で提案されている(現状の危機に対処するための)処方箋の数が乏しいのも驚くことではないだろう。

・・・(中略)・・・

具体的な政策については寡黙であり、タガが嵌められた主流派のマクロ経済学に取って代わる一人前の「理論」も提示されてはいない。それにもかかわらず、アカロフとシラーの二人が語る中心的なメッセージの力が損なわれるわけではない。主流派のマクロ経済学に対する彼らの厳しい論難はもっともなものだし、彼らが「アニマルスピリッツ」と呼ぶものが主流派のマクロ経済学が抱える致命的な欠点と重要な関わりを持っているという指摘もその通りだ。『Animal Spirits』は新たな研究プログラム(アジェンダ)の道を切り開いており、その道を突き進んでみるだけの価値はあるように思われる。

  1. 訳注;以下の引用箇所ではアカロフ&シラー本だけしか取り上げられていないが、原記事ではシラー本も俎上に載せられている。 []
  2. 訳注;従来のマクロ経済学では軽視されている様々な(行動経済学方面の)研究を単に列挙(紹介)しているだけではなく、それ以上の何かを成し遂げられているだろうか?、という意味。 []

マーク・ソーマ 「今の世代のインテリたちが目の前の戦争にその身を捧げようとしないのはなぜ?」(2009年8月30日)

●Mark Thoma, ““Why Doesn’t This Generation’s Intellectuals Fight This Generation’s Wars?””(Economist’s View, August 30, 2009)


今の世代のインテリたちは戦争にその身を捧げる意思なんて持ち合わせていないと言えるかどうかはわからないが、とりあえずそうだということにしておこう。さて、その理由は何だろうか?

Cowards, every single one of us?” by Chris Blattman:

20世紀初頭に起きたスペイン内戦では西洋の知的エリート(知識人)層の面々は我先にと戦場に赴いていった。第二次世界大戦についても同じくそうだったと言えるだろう。しかしながら、今現在はどうだろうか? 今の世代の知的エリートたちが先を争って戦場に赴く姿を想像するのは難しい。一体全体何があったのだろうか?

・・・(中略)・・・

今の世代のインテリ(知識人)たちがそこにある(目の前の)戦争にその身を捧げようとしないのはなぜなのだろうか?

一人残らず「臆病者」になったから?

その可能性もあるが、その他にいくつかの仮説が思い浮かぶ。

私の中の「経済学者としての私」はこう語る。「比較優位」が関係しているのではないか、と。戦争の勝敗を左右する上でテクノロジーが果たす重要性は時とともにますます高まってきている。高い教育を受けた知的エリートの愛国者の中に戦争にその身を捧げる意思を固めた人物が仮にいたとしても賢明な政府であればその人物を戦地に送るのではなく(その人物が比較優位を持っている)軍事技術の開発や諜報活動の分野に割り振ることだろう。

理想に燃える知的エリートを獲得する上で軍隊は昔よりも激しい「競争」にさらされるようになってきている、ということもある。過去60年の間に国際的な活動を展開するNGOの数は物凄い勢いで(10,000%近い伸び率で)増えてきている。「不正義」と闘うことを志す人間が選べる選択肢の数は昔と比べて大きく増えているのだ。

軍隊は我々にとってもはや居心地のよい場所ではない。知的エリートたちの間でそのような認識が共有されるようになっているというのもある(その認識は思い込みではなくおそらく真実を捉えたものだろう)。どうしてそのような認識が広まるようになったのだろうか? 上で挙げた「比較優位」や「競争」の帰結ということなのだろうか? 

知的エリートたちは過去3世代にわたってガンジーやキング牧師の例を目撃し、非暴力主義の教えに触れてきた。これも一因かもしれない。

・・・(中略)・・・

個人的に一番しっくりくる仮説を最後に述べておくとしよう。今の戦争はイデオロギー上の対立ではなく宗教上の対立という性格が強い、というのがそれだ。スペイン内戦は「左派 vs ファシズム」という図式で争われた戦争だった。左派が搾取されている労働者階級の側に立って争われた戦争だった。西洋社会のあり方を巡って争われた戦争だった。心(ハート&マインド)を賭けた争いは今の西洋社会の内部には見られないのだ。

皆さんはどう考えるだろうか?

ベトナム戦争は宗教上の対立ではなくイデオロギー上の対立(共産主義への対抗)という性格を備えていたと言えるだろうが、知的エリートたちがベトナムにある戦場に我先にと赴くようなことはなかった。そういうわけで、ブラットマン(Chris Blattman)が最後に挙げている仮説がどこまで正しいかは疑問だ。とは言え、それに代わるような適当な仮説を持ち合わせているわけでもない。「今の世代のインテリたちは戦争にその身を捧げる意思なんて持ち合わせていない」というのは果たして正しいのだろうか? 仮に正しいとすればその理由は何だろうか? 皆さんはどう思われるだろうか?