マーク・ソーマ 「犠牲の平等」(2006年7月1日)

徴兵制がなくても、富裕層が「戦争に協力せねば」という義務感を抱いていた時代があった。「犠牲の平等」というのが単なる理想にとどまらない時代があったのだ。
画像の出典:https://www.ac-illust.com/main/detail.php?id=23674644

戦争は、公共財の一つである。私が兵士として戦おうが戦うまいが、戦争が生む便益なりコストなりが我が身にも降りかかってくるからである。となると、徴兵制なり名誉心なり愛国心なりがないと、富裕層はもちろん、その他大勢も戦争に協力しようとしないんじゃなかろうか? いや、いつだってそうだったわけじゃない。徴兵制がなくても、富裕層が「戦争に協力せねば」という義務感を抱いていた時代があった。「犠牲の平等」というのが単なる理想にとどまらない時代があったのだ。第一次世界大戦における「ソンムの戦い」は、現代の戦争と著(いちじる)しい対照をなしている。

Honor and carnage” by Geoffrey Wheatcroft, Commentary, International Herald Tribune:

ソンムの戦いの幕が開かれたのは、90年前の今日(1916年7月1日)だ。イギリス軍がこれまでに経験した中で最大の攻勢であり、ソンムの戦いこそが「大戦」(the Great War)であるというのが今でもイギリス人に共通の考えである。砲撃を加えた後に、13の歩兵師団が「塹壕を乗り越えていった/限度を超えていった」。上官の笛を合図に、小隊が順々に塹壕をよじ登り、敵陣を目指して前進していったのである。

・・・(中略)・・・

1916年7月1日の朝から晩までの間に、4万人近くのイギリス兵が傷を負い、2万人近くのイギリス兵が戦死した。最前線に目をやると、0.5メートルごとにイギリス兵の亡骸が転がっていた。イギリス軍(おそらくは、世界中のあらゆる軍)が1日の戦闘で失った犠牲者の数としては最大である。断トツの多さなのだ。

・・・(中略)・・・

被害の大きさもさることながら、ソンムの戦いは、前世紀(20世紀)の激戦の数々――ヴェルダンの戦い、スターリングラード攻防戦、硫黄島の戦い――と別の面でも違っている。1916年7月1日に兵士として戦って死んでいったイギリス兵全員が志願兵だったのである。

イギリスでは、第一次世界大戦の最中に、軍事的な理由というよりも政治的な理由で徴兵制が導入された。しかしながら、第一次世界大戦が始まってから最初の2年間は、何百万人もの若者が自分の意思で兵役に服したのである。愛国心に突き動かされて立ち上がった者もいれば、中立国だったベルギーに侵攻したドイツの冷酷ぶりへの怒りゆえに立ち上がった者もいた。イーヴリン・ウォー(Evelyn Waugh)の表現を借りると、「高貴なるがゆえにこそ報いねばならぬという義務感に支えられた私的な名誉心」に突き動かされて、上流層に属していながら立ち上がった者もいた。

かような若い理想主義者たちの当初の考えでは、戦争はすぐに終わるだろうと見込まれていたが、それと同時に、戦争に協力するというのは立派で気高い行いとも考えられていた。 詩人のルパート・ブルック(Rupert Brooke)は、戦病死する直前に「神に感謝せねばならない。神と我々が同じ時間を共有する機会をくださったのだから」という一節を書き残している。

・・・(中略)・・・

下級士官の戦死率は、一般兵卒のそれの3倍以上だった。とは言え、下級士官の方が勇敢だったからというわけでない。模範を示すのを期待されていたからなのだ。何だか皮肉めいたところがあるが、模範を示すために、真っ先に飛び出して真っ先に撃たれたのだ。下級士官だけじゃない。ソンムの戦いの初日に、30人の中佐ないしはそれよりも上の階級の上官が戦死しているのだ。

「犠牲の平等」というのは都合よく使われることがある言い回しだが、当時のイギリスでは「犠牲の平等」を誰も拒否できなかった。第一次世界大戦が始まった時に首相を務めていたのは、自由党党首のH・H・アスキス(H. H. Asquith)。野党のトーリー党の党首はアンドルー・ボナー・ロー(Andrew Bonar Law)。二人とも戦争で息子を失っている。
首相を務めたこともある第3代ソールズベリー侯爵(ロバート・ガスコイン=セシル)は、孫のうち5人を戦争で失っている。若手の国会議員の中にも兵役に服して戦死した者がいる――その中には、四度にわたり首相を務めたウィリアム・グラッドストンの孫も含まれている――。

今と比べると、あまりの違いようだ。ブレア政権の閣僚は、誰一人として軍務を経験していない。ブッシュ政権の閣僚たちは、「高貴なるがゆえにこそ報いねばならぬという義務感に支えられた私的な名誉心」をこれっぽっちも持ち合わせていないようだ。ディック・チェイニー(Dick Cheney)副大統領を筆頭に、徴兵に応じるべき時に「他に優先しなくてはならないこと」があったというのだから。

頭脳明晰で知的な数多(あまた)の若者たちが第一次世界大戦中に戦場の最前線で陰惨な殺戮を目撃したわけだが、そのことが重要な帰結を招いた。新世代の詩人たち――エドマンド・ブランデン(Edmund Blunden)、ロバート・グレーヴス(Robert Graves)、ジークフリード・サスーン(Siegfried Sassoon)、ウィルフレッド・オーエン(Wilfred Owen)ら――がまったく新しい詩風で(オーエンの表現を借りると)「戦争の悲哀」(“the Pity of War”)について物語り出したのである。「家畜のように死んでゆく者どものために、どんな弔いの鐘があるというのか。大砲から放たれる醜怪な怒りだけが〔せわしない祈りを唱えている〕」(by ウィルフレッド・オーエン)。

オーエンは、第一次世界大戦が休戦を迎える一週間前に戦死した。残りの三人――ブランデン、グレーヴス、サスーン――は戦場から生還し、戦争の生々しい記憶を伝える作品をひたむきに発表し続けた。おそらくはその影響もあって、1930年代のイギリスでは平和主義が勢いを強めるに至る。その絡みで、こんなエピソードがある。第二次世界大戦中に開かれた同盟国との会合でのことだ。首相としてイギリスを率いていたウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)が北ヨーロッパに侵攻するのに二の足を踏んでいると、アメリカ側の出席者がチャーチルを説得しようと試みたという。会合が終わると、首相の側近の一人がその出席者に次のように説明したという。「論破しなくちゃいけない相手は、ソンムの戦いなんですよ」 。

ソンムの戦いは、初日からずっと失敗続きだった。何カ月にも及ぶ泥沼の消耗戦。領土もほとんど獲得できず、死傷者の数は膨れ上がる一方だった。

上官だとか詩人だとかについて書かれているのを読むと、ソンムの戦いの英雄は、誰も彼もが「パブリック・スクールの出身者」だったかオックスブリッジ(オックスフォード&ケンブリッジ)の学生だったかのように思ってしまうかもしれない。もちろん、そんなわけはない。「新軍」(New Army)とも呼ばれた軍隊に自分の意思で応募した新兵の大半は、工業都市に暮らす労働者階級の若者たちだった。彼らも一緒になって入隊したのだ。彼らも一緒になって訓練を受けたのだ。 彼らも一緒になってソンム河畔を目指して進軍したのだ。彼らも一緒になってソンムの戦いで死んでいったのだ。・・・(略)・・・アクリントンのパル大隊、ベルファストの義勇軍(YCV)、グリムズビーの同志団、グラスゴーの少年旅団、ハルのパル大隊、 ブラッドフォードのパル大隊。希望を抱いて志願兵となった労働者階級の若者たちの半数以上が、90年前の7月1日に命を失うか傷を負うかしたのだ。

次世代の詩人であるフィリップ・ラーキン(Philip Larkin)が彼らのことを想起している。ラーキンは、「1914」(“MCMXIV”) と題された詩で、志願兵たちがクリケット場かサッカー場の外に並んでいる観客のように笑ったりニヤニヤしたりして一列に並んでいる姿を描き出している。「あのような汚れなき時代は、もう二度と戻ってこないだろう」というのが詩の締めの言葉だ。


〔原文:“Equality of Sacrifice”(Economist’s View, July 01, 2006)〕

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