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ニック・ロウ 「貨幣、電話、ハロウィン ~はじめの一歩が踏み出されるまで~」(2017年11月1日)

●Nick Rowe, “How can Halloween get started?”(Worthwhile Canadian Initiative, November 01, 2017)


(ハロウィンには)一日遅れてしまったが、構うまい。

「貨幣」の誕生に向けていかにしてはじめの一歩が踏み出されるかを理解するのは造作ない。A氏はビスケットが欲しいが手元にはジャムしかない。B氏はジャムが欲しいが手元にはタバコしかない。A氏は非喫煙者でありタバコなんて欲しくもないが、とりあえずB氏と交渉してジャムと引き換えにタバコを手に入れる。タバコとビスケットの交換に応じてくれそうな喫煙者を探せばいいと考えたわけだ。すると格好の相手を見つけた。C氏だ。A氏はC氏にタバコを差し出してそれと引き換えにビスケットを手に入れる。非喫煙者のA氏は「欲望の二重の一致」問題を乗り越える術としてタバコを「交換手段」――「貨幣」――として転用した(pdf)わけだ。かようにしてはじめの一歩が踏み出されればその後は雪だるま式に勢いがつく可能性がある。何かしらの財と引き換えにタバコを受け取る人間が一人いる(A氏)となると、非喫煙者の中から自分も(手持ちの品を差し出すのと引き換えに)タバコを受け取ってもいいと考える者が相次いで出てくる可能性があり――A氏がタバコを受け取ってくれる(のと引き換えに財を差し出してくれる)からね――、そうなるとタバコの流動性は高まることになる。「貨幣」らしさが増すことになるわけだ。 [Read more…]

フランシス・ウーリー 「トリック・オア・トリート、互酬、社会関係資本」(2010年10月31日)

●Frances Woolley, “Trick or Treating, reciprocity and social capital”(Worthwhile Canadian Initiative, October 31, 2010)


幼少期はヒルスヴィルで過ごしたのだが、ハロウィンがやってくる度に「トリック・オア・トリート」と叫びながら近所を練り歩くのはワクワクする体験だったし、・・・物凄く疲れもしたものだ。歩く距離なんて大したことはなかったものの、こちとらひ弱な両の脚ときている。勾配が急な私道を歩くのはなかなかの重労働ですぐにも足が棒になってしまったものだ。

ヒルスヴィルにある家々を「トリック・オア・トリート」と叫びながら訪ね回る子供の数は減少傾向にある。その一方で、車で10分ほど離れた近場の郊外に「トリック・オア・トリート」の標的とするのにうってつけの条件を兼ね備えた住宅地が開発されるに至っている。その郊外に住む層の世帯所得は平均を上回っているし、隣近所には子供のいる家庭も多い。私道も短いし、車の交通量も少ない。住宅も密集している。

隣町へ(遠征して)の「トリック・オア・トリート」はあくまで例外的な現象に過ぎないのかどうかは詳しくは知らないが、「トリック・オア・トリート」の標的とするのにお薦めの場所のランキングを紹介している記事もあるようだ(私には思いも付かなかったのだが、ランキングを作成する上では犯罪発生率も重要な要因として加味されているようだ)。「トリック・オア・トリート」の狙い目となる地に遠征すれば、吸血鬼やライオンや幽霊になりきるのと引き換えに60分も練り歩けば(お菓子を詰め込むために携帯している)枕カバーをチョコレートでいっぱいにすることも可能というのは確かなようだ。

隣町へ(遠征して)の「トリック・オア・トリート」に関しては(好悪の入り混じった)何とも複雑な感情を抱いてしまうというのが正直なところだ。プラスの面ははっきりしている。住宅が密集している地域であれば、小柄な魔術師や魔女がそこらを闊歩しても安全だし心温まるものだ。私の住まいは「トリック・オア・トリート」の狙い目の只中にあるが(今のところ訪問者の数は55人、いやそれ以上を数えている)、ハロウィンに我が家の門を叩く訪問者の数が少ないとひどくがっかりすることだろう。現段階までに訪問者に差し出したキャンディの総額は15ドル相当。その一方で、その見返りとして金額に換算すると15ドル以上の喜び(満足)を得ている。痛みを伴わない所得再分配策の一種と言ってよかろう。

それと同時に少々すっきりしない思いを抱いているのはなぜなのか?

その理由の一部はハロウィンで訪問者に差し出されるキャンディはギフト(贈り物)の一種という思いにある。ギフトの贈呈には「互酬」という社会的な機能が備わっている。数年前にお隣さんは我が子にキャンディをくれた。今度は私がお返しする番だ。お隣さんの親切心に報いる機会だ、というわけだ。しかしながら、別の町から訪問者がやってくるとなるとどうだろうか? 「互酬」は分散されてしまうことになるだろう。

その子供がどこからやって来たかに応じてキャンディをあげたり出し渋ったりするというのは狭量ではあるが、話はそれだけにとどまらない。ハロウィンへの参加を拒む大人は無視できない数に上っているが、「ギフトをあげてもお返しがもらえないじゃないか」という思いもその一因となっている可能性があるやもしれないのだ。

ハロウィンは社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)を構築する機会でもある。顔見知りの範囲を広げる機会、お互いの近況を報告し合う(情報を共有し合う)間柄を構築する機会でもある。子供たちが町の境界を越えて「トリック・オア・トリート」に出向くようになったら町ごとの社会関係資本は一体どうなってしまうだろうか? お隣さんと顔見知りになるにはどうしたらいいだろうか?

子供たちが町の境界を越えて「トリック・オア・トリート」に出向くようになったら若夫婦が集まるコミュニティの性格は一体どんな感じになるだろうか?

タイラー・コーエン 「『我が陣営は劣勢に立たされている』 ~焦燥感をにじませる左右両陣営~」(2016年3月22日)

●Tyler Cowen, “How both sides can believe they are losing”(Marginal Revolution, March 22, 2016)


近時の社会情勢に対する左派なりの回顧にしても右派なりの回顧にしても、その物言いには「我が陣営は劣勢に立たされている」との焦燥感がにじんでいるという共通点がある。「そんなの額面通りに受け取れるか。マーケティング戦略の一環に過ぎない」との反論も可能だろう。優勢な陣営の人間が書く本をわざわざ読もうという気になるだろうか? 優勢な側の関連組織に寄付でもして支援してやろうという気になるだろうか?

だがしかし、どちらの陣営も(左派も右派も)本気で「我が陣営は劣勢に立たされている」と信じ込んでいる可能性もあるのではないか。私にはそう思われるのだ。

まずは左派の思考回路を解剖するとこうだ。政府は世の問題を解決する能力を備えている(左派による大前提)。にもかかわらず、世の中を見回すとあちこちに問題が溢れている。「我が陣営が劣勢に立たされている何よりの証拠じゃないか!」1・・・となるわけだ。

次に右派の思考回路を解剖するとこうだ。政府は問題を引き起こす元凶だ(右派による大前提)。ところで、世の中を見回すとあちこちに問題が溢れている。「我が陣営が劣勢に立たされている何よりの証拠じゃないか!」2・・・となるわけだ。

・・・と語るのはアーノルド・クリング(Arnold Kling)

  1. 訳注;世の中に問題が溢れているのは「問題解決人」たる政府を引っ張り出すことができていないためであり、政府の出動を求める我が陣営の主張が聞き入れられていない証拠だ、という意味。 []
  2. 訳注;世の中に問題が溢れているのは「問題の元凶」たる政府が好き放題しているためであり、政府の手を縛ることを求める我が陣営の主張が聞き入れられていない証拠だ、という意味。 []

タイラー・コーエン 「右派、左派、自己責任 ~憎きあいつらの地位が高まるのを許してなるものか~」(2008年7月26日)

●Tyler Cowen, “Move on — this isn’t true here”(Marginal Revolution, July 26, 2008)


一部の人―――決して全員じゃないよ――の政治的な行動を説明する素朴なモデルを思い付いたのでその概要を述べさせていただくとしよう。政治的なイデオロギーの背後には特定の集団の(社会内での)地位が高まるのを許してなるものかという無意識の衝動が時として控えているように思われるのだ。

まずはいわゆる「右派(右翼)」の側から取り上げるとしよう。右派の中には「不平屋」(のように我が目に映る)連中が気に食わないという人がいる。「不平屋」の地位が上がるなんてことはどうしたって許せない。そのため、「不平屋」の口から不平不満が吐かれるたびに反論しなければ気が済まず、「不平屋」が不平不満の根拠として挙げる事由の一切合財を論破しようと躍起になる。

不平屋が「景気が悪くて云々かんぬん」と愚痴をこぼすと、「いや、景気は絶好調だ」とか「景気はそのうちすぐに良くなる」と反論する。不平屋が「公的な給付金の額を増やして欲しい」と(泣き言を漏らす弱者を代弁して)訴えると、「予算を切り詰めて行政のスリム化を図らなきゃいけない」との反論が(右派陣営から)返ってくる。「景気は好調」との前言は一時的に引っ込められて、「財政規律」の必要性を説く声が前面に出てくることになる。

翻っていわゆる「左派(左翼)」の側はどうだろうか。左派の中には一種の「能力主義」に入れ込んでいる人がいる。資本主義社会で「お金」が幅を利かせているのは不公平極まりないと感じており、「お金持ち」(富裕層)の地位が上がるなんてこと――とりわけ、頭が良くて徳のある人たちよりも地位が上になるなんてこと――はどうしたって許せない。そのため、「お金持ち」の望みがそれほど強く反映されない「原則」の擁護に力を尽くすことが重要になってくる。そのような原則のうちで当今流行なのが「平等主義」だが、世界中の(海外に暮らす)最貧困層の生活水準を引き上げることよりもアメリカ国内の「お金持ち」の暮らしをその他の同胞のそれに近づけることに注目が寄せられがちな傾向にある。

幸福度研究によるとお金で買える幸福の量には限度がある(年収が増えると幸福度も高まる傾向にあるが、年収がある一定水準を超えると幸福度は上昇しなくなる)らしい。そのような研究結果が報告されると左派の間で一気に取り沙汰されることになる。「『お金持ち』は実はそんなに幸せじゃないんだ」というわけでお金持ちの降格(地位の下落)につながるわけだ。保守派(右派)に属する人々は幸福度が比較的高い。多くの再分配政策は受益者の幸福度をそれほど高めない。そんなことを示す研究結果(幸福度が上昇しなくなる年収額はかなり低いことを示す研究結果もある)が報告されると左派の間で幸福度研究の話題は一転して口にされなくなる。さらには、「格差」であれば何もかもが左派の批判の対象となるわけではない。お金持ちの地位の向上につながらないような「格差」――例えば、外見(美貌)だとか10代での性交渉体験だとかといった面での格差――であれば左派からの強い批判に晒されることはない。

右派の一部から「自己責任」という価値観が強調されるのはどんな時かというと、「不平屋」の地位の引き下げに利用できる時だ(「自業自得なのにどうして不満を訴えるんだい?」)。翻って左派の一部から「自己責任」という価値観が強調されるのはどんな時かというと、不祥事を起こした大企業(の経営陣)への罰を求めるなどして「お金持ち」の地位の引き下げに利用できる時だ。「自己責任」なる価値観については誰もが首尾一貫しているかというと、そうはなっていないのだ1

これまでの話の流れからすると、右派は「お金持ち」の仲間と見なされる一方で――実際のところは左派の方が金持ちだとしてもだ――、左派は「不平屋」の仲間と見なされる――実際のところは右派の方が文句を言ってばかりだとしてもだ――ことだろう。右派も左派もどっちも金を持ってるじゃないか。どっちも「学のある不平屋」じゃないか。そんな意見もあることだろう。ミャンマーでお米を作っている農家と比べたら、どっちも似た者同士に見えてくることだろう。

かような罠にすっぽりと嵌り込んでいる面々にとっては(右派かあるいは左派の)どちらの「(学のある)不平屋」により嫌悪感を抱くかを見極めることにすべてがかかっている。どちらの味方につくかを一旦決めてしまえば、その選択が果たして賢かったかどうかは時とともに徐々に明らかになってくることだろう。

皆がみんなかような無意識の衝動に駆られているわけではないというのは幸運なことだ。とは言え、仮にかような衝動の持ち主が増えたとしてもそのことについてブーブー言う(不満を漏らす)つもりはないけどね。

  1. 訳注;自分の都合に合わせて「自己責任」論を持ち出す、という意味。 []

ビル・ミッチェル「政府のB/Sなどという愚かな道を行くIMF」(2018年10月16日)

Bill Mitchell, “IMF continues to tread the ridiculous path“, Bill Mitchell – billy blog, October 16, 2018.

オーストラリアに戻ってきて、何か書くにも一苦労という状況から脱した(出張中は毎日異なる所に行っていて日常を保つのが精いっぱいだったのだ)。さて先週、IMFは – Fiscal Monitor October 2018 –というものを発表した。主流の金融マスコミは、この文書で明らかにされた財務状況に引き続き、あらゆる種類の厄災シナリオが続くことだろうとはやし立てた。これが出た日、私はロンドンにいたのだが、英国のマスコミはIMFの発表で発狂していた。政府のバランスシートを元通りに戻すためには、増税して財政黒字を維持したり増やしたりする必要があるなどと予測していたのだ。そう、自国の通貨を発行する英国政府には、国の損益計算書や損失の影響を心配する「シェアホルダー」たちがいる。物事をわかった人ならすぐにこれは何かの策略だと理解する。民間企業の「財政」を貨幣発行政府の「財政」になぞらえても有益なものはできない。貨幣発行政府の「貸借対照表」なるものは、政府がどれだけの支出能力を持っているかを理解するにあたり何の助けにもならない。

この文書の中に「公共の富を管理する」という節があり、反対しようのない次の一文で始まっている。

公共部門のバランスシートは公的財産をいちばん包括的に描写するものである。 政府が管理している累積資産および負債が集計される。公的企業、天然資源、年金負債もここに含まれている。

いま反対しようのない(unobjectionable)と書いたのは、害がないという意味だ。

公的部門が私たちのためにどのような「資産」を持っており、政府がどんな債務を抱えているか関心を持つべき、というわけだ。

関心を持たなくてもかまわない。

それはほとんど重要なことではないが。

公的部門が保有している資産は、国民の福利を向上させるために利用されるべきであることや、また、貨幣発行政府は常に、自国通貨建ての負債に対応することができるということを私たちは知っている。

これはあたりまえのことだ。

もし公共部門の資産が私たちの富の重要な要素であることを認めるならば、私たちが一番関心を持つべきはその富を清算する政策についてだろう。そう、民営化だ。

IMFはこの点で矛盾に陥っている。あとで詳しく書こう。

そもそも、政府が私有企業に似ていて、民間企業を評価するために使用する指標に従って評価されるべきだというような考え方は却下されるべきだ。現実に全然あてはまらないのだから。

企業になぞらえる方法は、家計に例える間違いの別バージョンで、貨幣発行政府の財政を主流マクロ経済学が描写するときのやり口だ。貨幣発行政府は利益を追求する企業と似ても似つかない。

通貨発行権のある政府はそもそも破産しない。政府の目的は全員の幸福の増大であって、所有者であるエリートを儲けさせるといったことではない。

政府の行動は社会的な費用と便益という枠組みで評価されるべきであって、”民間の”費用便益の領域で評価されるべきではない。それは通常、民間の営利追求企業に適用される枠組みだ。

にもかかわらずIMFは、それほど意味のない「国のバランスシート」という概念を構築しようとしている。まるで反政府ネオリベラルの意図に奉仕するかのようなやり方で。

彼らのフレームワークはわかりやすいもので、下の図にまとめられている(文書中の図1.2)

IMFは政府が保有する金融資産と非金融資産、そして負債(借入に該当するものとしないもの)を見積もっている。そこに次公的企業の資産と負債を加算する。

されに次に、将来の収入と支出(現在価値に換算)予測を追加。

足したら計算終了!

IMFはわかっている

負債と赤字を急いで減らすことによって額面上の財政状態を改善する一方、長期的に純資産を減らしてしまうということもある。 例えば、民営化は収入を増やし、赤字を減らすが、政府の資産保有量を減らす。 同様に、メンテナンスの支出を削減すると財政赤字と負債が削減されるが、長期的にはインフラ資産の価値が低下し、むしろ費用がかかるということになりかねない。

ならばたとえば、なぜIMFはギリシャに貴重な公的資産を売却させ、公的インフラストラクチャーの維持管理を削減することを強制したのか。それは彼らの将来の富を損なうのに?

IMFが1980年代からずっと先進国に対し強力に民営化を押し付けてきたのはなぜだったのか?

各国政府はなぜ、まだ売れずに残っている「資産」を売ろうとし続けているのか?

IMFがもし「純資産」とは「税を減らし」、「公共支出」を抑制するものだと本当に考えていたのであれば、なぜ第一線で民営化とインフラ削減を主張し続けてきたのだろうか?

IMFは、因果関係を逆にして、財政支出と「貸借対照表」の数値関係を逆転させようとする。

会計的には、政府が財政赤字に対応するために債務を発行し続けると、純支出(赤字)は明確に公的債務(負債)に蓄積される。

これは会計ロジックの基本だ。

政府が支出するために債務発行は必ずしも必要ではない。 私達はそれを知っている。

会計士は単純にフロー(赤字)をストック(債務)に蓄積させる、というだけの意味だ。それ以外の含意はない。

未払いの公的債務は、納税で返還されていない過去の赤字ということにすぎない。

ところがIMFはこの現実を、将来のフローを制約するためにストックがあるのだというあべこべの因果的世界へ持っていこうとしている。

この段階で議論が脱線するのである。
彼らは書く

ほとんどの政府は透明性が十分でないので、その分の精査ができていない。 国はバランスシートをよりよく管理すれば、収入を増やし、リスクを削減し、財政政策策定を改善することができる。 金融市場は政府のバランスシート全体に注目しており、しっかりしたバランスシートが経済回復力を高めるということには経験的な証拠がある。

まず第一に、貨幣発行政府は支出を拡大するために収入を増やす必要がない。

税金を引き上げることが、政府が支出するための財政的余裕につながるということもない。政府が増税する必要が出てくるのは、公共部門の規模が拡大され、経済がフル稼働の状態に到達している時の話だ。

この現代金融理論(MMT)からの理解では、税金の主要な機能は非政府部門の購買力を奪うこと、つまりその非政府部門の力を低下させることによって、政府に「財政スペース」を創出することなのだ。

課税によって非政府部門に遊休資源が創出され、政府の支出がそれらの遊休(民間)資源を公的生産的に利用するというわけだ。

税と政府支出の関連とは以上のようなものだ。税の領収書と政府支出の間に財政的な因果関係は一切ない。

第二に、政府のしっかりしたバランスシートが「経済的回復力」を高めるという主張にまったく意味がない。

過去の財政状態がどうであろうとも、また過去の累積ストック(IMFが政府のバランスシートと呼ぶもの)がフローにもたらす影響とは無関係に、高水準の雇用を維持するため、貨幣発行政府は非政府部門の支出減少に対応していくことが可能だ。

彼らは次のこともわかっている

政府の長期目標は、純資産を最大限にするのではなく、市民に商品やサービスを提供し、将来の不確実性を緩和するためのバッファーをつくることです。

然り。

そして、財政政策は、その目標を達成するための最も重要で使い勝手の良いマクロ経済ツールだ。

しかし「純資産」と「財政健全性」を比較するとは見当違いも甚だしい。

財政の収支は「生きた実体」ではない。 病気だとか不健康と言っても何の意味もなさない。

財政赤字の増加は、例えば、第一級の公共インフラ投資で経済成長が著しいことを意味していることもあり得る。 それが「悪い」という評価になる。

また、財政赤字の増加が、民間部門の消費崩壊や失業率の上昇、売上減少と関連している可能性がある。

その場合財政赤字が「悪い」のではない。 悪いのは失敗している実体経済であり、財政赤字の増加はその表れだ。

いずれの話でも政府の「バランスシート」の状態は、経済状態の把握という評価とも、また政府の財政能力の評価とも無関係だ。

IMFが言うように「財政ストレス」が公的純資産の低下を示しているとするのは間違いだ。

民間銀行の話であれば、あり得る状況(不良債権の増加など)に対応するための十分な株主資本(資本)があるかどうかを評価するため「ストレステスト」は妥当だ。

しかし、その言葉を通貨発行政府について考えるのはばかげている。あてはめようがない。

民間銀行は破綻することがある。貨幣を発行する主権政府は破綻しない。

さらに驚くことに、英国の少なくとも2つの主要マスコミ媒体がこの祭りに乗り、IMFの馬鹿げたホラ話を増幅させている。

フィナンシャル・タイムズ紙は、IMFの発表を議論する記事を載せた(2018年10月10日) – 英国の財政はIMFの表の最下位に近い – これは主流の金融ジャーナリストによる典型的な扇情記事だ。

この記事ではIMFの馬鹿げた分析を煽ってこう主張している。

民営化と公的債務の積み上がりの末、英国の状況は貧弱で…英国は財政力という面では国際的に最下位に近づいています…もっと深い赤字に沈んでいるのは表でポルトガルのみだ

まず経験則。ジャーナリストが英国のような通貨発行機関とポルトガルのような通貨使用国とを比較する記事を書いていたら(比較を正当化していたら)記事の残りの部分は 無意味な内容だと結論できる。

第二に、 FT はこの「酷い」順位から次のように論じる。

マイナスの純資産が深刻な国は、負債に見合う資産を取り戻すために将来的に大きく増税をして財政黒字を稼ぐ必要がある。

これは時代錯誤の嘘だ。
英国は先の景気後退による「バランスシート」悪化の影響だとか、それを悪化させた不十分な政策の結果として、黒字財政運営を行ったり「大きく増税する」必要などはない。

FTはまた、ニュージーランドの学者の発言を引用している。

英国は先の危機に直面した時からバランスシートが比較的弱かったが、10年を経て状況は2倍悪化した。

これは純粋にヒステリーだ。

「悪」が意味するこなど、この文脈には何もありはしない。

英国が深くて長い不況に晒されたのは、遡って2010年の時点で政府は財政赤字を許容し、10年とは言わずも向こう数年間は財政赤字の水準が上昇することを受け入れる準備をしておく必要があることを、あらゆる指標が示していたにも関わらず、財政緊縮を強く追求したことが主な理由だったのだ。

IMFはこれを認めている。

英国のバランスシートは危機の最中に大規模に拡大した。この効果をもたらしたのは主として純債務の変化だった — 英国で用いられた主な財政手段は …  バランスシート拡大のほとんどは巨額の金融セクター救済措置の結果だった。その結果、救済された民間銀行が公共部門に再分類され、また、金融資産にも同様の変化があり、結果、(中央銀行以外の)公的金融法人の負債は2007年から2008年にはGDPの189%にまで増加した … これらの効果が危機の期間に純債務の増大をもたらした。政府は銀行に出資するために借り入れを行った … これらの大規模救済措置の大部分が行われた。危機の初期数年間の純債務の増大は、バランスシートへの影響という点では財政赤字の規模に比較し…

そう「バランスシート」の変化は、経済に何が起こっていたかを反映する。

英国経済のどこが「悪い」状態なのかを議論するならば、緊縮が引き起こした公共サービスと公共インフラの範囲と質へのダメージを考えるべきところだ。

ろくに考えずに実施された政策選択がもたらした公共の「バランスシート」の影響は何であれ、重要なことではない。

その政策の失敗(純資産の減少)が会計的にどのように反映されるかは問題ではない。 上に記した通り、英国が将来の危機に耐えられるかについての情報はそこには一切ない。未来のことはまったくわからない。

FT紙は学者の台詞をそのまま引用しただけで、いったい「2倍悪い」から何をどう心配すべきであるかについての分析をしていない。

また、UKガーディアン紙も負けてはいない。

UKガーディアン紙の記事(2018年10月10日) – IMF、英国の財政は世界で最も脆弱だと指摘 - もまた、あほらしいIMF分析を無批判に書いている。

記事では、IMFが「31カ国の富の健康診断」を行ったというような言葉を使い、公的部門の会計の諸関係を病気か健康かいう患者かのように表現している。

そういう比喩表現を、英国などの通貨発行国政府の財政能力に用いてはいけない。

記者はこう書いて語るに落ちている

このテストは、政府が経済的ショックにどのくらいうまく対応できるかを判断するにあたり国の所得を大まかに把握するべく、国の資産と負債のバランスを示そうというIMFの努力である。

「ストレステスト」のくだりだ。

IMF流の貸借対照表分析は「政府が経済的ショックにどのくらいうまく対応できるか」について何も教えてくれはしない。完全な新自由主義の嘘だ。

「ストレステスト」にかかわる設問ならこうだ:政府は自身の通貨を発行しているのか?

はい → ストレスなし

いいえ → 破産のリスクからのストレスあり

マクロ経済学を単純化するのは楽しいね。

さらに、英国が「ノルウェーとは対照的に、民間企業が北海の埋蔵石油を採掘することを許可した」という事実は、分配の問題であって財政能力とは関係がない。

記者たちはまた、英国政府が “1980年代と1990年代の間に北海の石油からの税収を浪費した”との主張しているが、でっち上げだ。

彼らにはそう見えたということだ。

しかし現実は、政府が税収を使ってはいない。政府は貨幣を出現させて支出し、税収はその後に来る。

以上この2つの英国の新聞記事を引用したのは、そのどちらにも批評的な記述がなかったからだ。

記者はIMFのプレスリリースを字数制限に合わせて要約しただけだ。

おっと、FT紙の方は少し不正義をやっている。

ヒステリーを糊塗するために2人の「専門家」を探した。
何の役にも立たなかったが。

まとめ。

IMFがやっている大胆な行為には拍手を送ろう。このような文書を何年にもわたって徹底的に恥ずかしい体系的バイアスを晒してきた上に、今回またジャンクを公開するのには分厚い面の皮が必要だ。

IMFはすぐに解体されるべき。
よし、ドナルド、行け!

今回はここまで。

マーク・ソーマ 「あれから四半世紀 ~25周年を迎えたローマーモデル~」(2015年10月3日)

●Mark Thoma, “‘The Romer Model Turns 25’”(Economist’s View, October 03, 2015)


ジョシュア・ガンズ(Joshua Gans)のブログより1

The Romer Model turns 25”:

Endogenous Technological Change”(「内生的な技術変化」)と題されたポール・ローマーの論文がJPE誌(ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー誌)に掲載されたのは25年前の今月(1990年10月)のことだ。引用回数は2万回を超えており、経済学の論文の中でも過去25年の間で最も影響力のある論文の一つとなっている。技術変化(生産性の上昇)というのは天から降ってくるようなもの(外生的な変化)なんかではなく、新たな知識の創造(新しいアイデアの発見)に向けて資源が割り振られることを通じて引き起こされる。そのことを知識の創造に向けた資源の割り振り(配分)に影響を及ぼすインセンティブ構造を詳らかにした上で曖昧なところを残さないかたちでモデル化したのがローマーの1990年論文。論文の内容を手短に要約するとそうなるだろう。同様の試みは過去にもあったし――そのあたりのあらましは2006年に出版されたデビッド・ウォーシュの傑作を参照されたい――、ローマーと時を同じくして対抗馬となるモデルを作り上げた面々(アギオン、ホーウィット、グロスマン、ヘルプマン、アセモグル、ワイツマンなど)もいた。しかしながら、経済学者の尻に火をつけて長期的な経済成長の再調査――その再調査は十年単位に及ぶ息の長い取り組みとなったが、学生時代の私もその流れに乗らせてもらったものだ――に向かわせる起爆剤となったのはローマーのモデルだったのだ。

内生的成長理論の分野におけるモデルの開発は今も続けられているが、そのような最近の試みに対してローマーが批評を加えていることについてはしばらく前に取り上げた。ローマーの標的となっているのはロバート・ルーカスらによって練り上げられている一連のモデルだ。ルーカスらのモデルではローマーの1990年論文によって代表される従来の内生的成長モデルとは異なった想定が置かれている。ローマーらのモデルでは「不完全競争」が想定されている一方で、ルーカスらのモデルでは「完全競争」が想定されているのだ。この話題を蒸し返すのはやめておくが、一言だけ述べておきたいことがある。(1990年の論文で産声を上げた)「ローマーモデル」は断じて数学的ではないというのがそれだ。ローマーの1990年論文は言うまでもなく理論研究に属するものではあるが、どの数式についてもどの前提についてもその根拠が注意深く検討されている。数式による説明と同じくらい言葉による説明にスペースが割かれている。モデルはどのように振る舞うか? モデルがこのように振る舞うのはなぜか? かような結論が導かれるのはなぜか? 「ローマーモデル」はそのあたりのことがすっきりと了解できる仕様になっているのだ。

この後に「ローマーモデル」の詳細な解説が続くが、その後にガンズは次のように問いかけている。

内生的成長理論の研究が一時に比べて下火になったのはなぜなのだろうか?

締めの言葉は以下の通り。

まとめるとしよう。「ローマーモデル」は経済成長の研究を大きく前進させる節目となった偉業である。経済理論上のモデルとしてうっとりするほどの美しさを備えた作品である。しかしながら、やるべきことはまだ残っている。新たな知識(アイデア)が次々と積み重なるようにして経済成長がもたらされるように、経済成長の研究の世界でも知識の累積的なプロセスが働いてゆくゆくは残された課題が解決に向かうことを願ってやまない。

  1. 訳注;ちなみに、ガンズに触発されるかたちでローマー本人も自身のブログで1990年の論文を回顧している(計7回にわたるシリーズ物;巻頭を飾るエントリーはこちら)。 []

タイラー・コーエン「シンフォニーオーケストラと産業革命」(2018年4月22日)

Tyler Cowen, “The symphony orchestra and the Industrial Revolution“(Marginal Revolution, April 22, 2018)

昨夜、モーツアルトの交響曲39番をコンサートで聴いた。そしてこれは人類最大の「技術的」偉業のひとつを目撃してもいるのだと、私は(もう一度)気付いた。この活動に注ぎ込まれているものを考えてみてほしい。ひとつひとつの楽器は最終的には完璧なまでに発展し、他の楽器と調和している。調律のシステムと音楽の基礎原理。音楽ホールの音響。紙の楽譜と記譜法。これらすべての機能は1710年から1920年といった中央および西ヨーロッパに出現した作曲タレント(才能)と非常によく連動している。18世紀半ばまでにはこのシステムの重要部分のほとんどはできあがっており、19世紀初期には概ね完成した。 [Read more…]

サイモン・レン・ルイス「なぜBrexitは新自由主義的なのか」(2018年8月24日)

●Simon Wren-Lewis, “Why Brexit is a neoliberal project” (mainly macro, Friday, 24 August 2018

一般的に、新自由主義と言えば市場を礼賛しグローバル化を促進するといったビジネスサイドに立つ考え方のことだ。Brexitはイギリス企業の市場規模を小さくするのでグローバル化とは逆の動きになる。よってイギリス財界の多数が望むというものではないはずなのだが、実はBrexitは新自由主義的と言えるのだ。どういうことだろうか?

良い出発点は、自由貿易とは何かについての議論に戻ることである。ほとんどの人と、そして間違いなくほとんどの経済学者は、自由貿易は「貿易をする自由」を意味していると考えるだろう。この定義に従えば、企業が多くの国においてはるかにより容易に貿易することを可能にする国家間に渡って規制を調和させることは自由貿易を増大させている。理想は単一市場であるが、それはEUが財および多くのサービスについて達成したものである。

多くの新自由主義者はそのように考えるだろう。しかしそうでない新自由主義者は自由貿易をいかなる種類の政府の介入からも自由という意味とみなすだろう。単一市場は、そのルールや規制が破られているか否かを判断する法廷があるので、その意味では自由ではないように思われる。彼らの理想はあらゆる種類の国家規制から可能な限り自由な貿易となる。彼らは、調和のとれた規制ではなく最小限の規制を欲しているのである。

もし自由貿易を貿易に関する規制から自由であることという意味とみなすのがおかしいように思われるなら、おかしいと思うべきではない。どれほど多くの新自由主義者がまさに彼らがよくその意味で用いている自由市場という用語を使っているかを考えてみよう。役員報酬が自由市場によって決定されるという人がいるとすれば、その人は経済学者が市場の不完全性と呼んでいるであろう意味から離れて市場という単語を使用しており、単に政府の干渉から解放された市場を意味しているのである。オルドリベラリズムと異なり、この種の新自由主義者は、独占生産者のいる市場を自由という一方で、競争政策が独占を破った市場を政府の介入を被っているというだろう。

私は、Brexitの賛同者が強調するグローバル・ブリテンという考えは、Brexitが貿易に制約を与えるという厄介な事実から純粋に目をそらすことであるという独自の考えを持っていた。私は、自分はフェアではなかったと思う。真に新自由主義的であることは、Brexit賛成者が貿易を破壊することを望むのではなく、貿易は可能な限り規制をなくさなくてはならないことである。したがって、イギリスが、単一市場よりも規制が弱いアメリカや新興市場と取引することは、はるかに優れている。Brexitの賛同者の観点からの単一市場の問題は、それが様々な種類の強い規制に固執していることである。

このことは、なぜそれほど多くのBrexit賛成者がまた強固な新自由主義者であるように表面上見えるのかを説明する一助となる。より大きな市場へのアクセスの利益のために規制に対して妥協しようとしてきたオズボーンやキャメロンのような別の新自由主義者とは対照的に、Brexitはある種の新自由主義者にとってはある種のユートピアのための努力のようなものである。そして、新自由主義者は、それがまったく違うものであるように見せることによって国民が彼らのユートピアに投票するように欺くことについて何の懸念も持たない。同様に、彼らは、彼らのやっていることが最終的に自分たちの利益になることを理解できない企業に時間をかけて関わろうとはほとんどしない。マーケティングとしての政治は、より上手く描写すれば国民全体に対する欺瞞であるが、一般的な新自由主義的な形質である。

Brexitの賛同者は、新自由主義の理想の境地に関する彼ら自身のビジョンに触発されたグループ以外の何物でもない。オズボーンやキャメロンは小国に向けた解決策を用意していたが、Brexitの賛同者は可能な限りの少ない規制を望んでいた。どちらも、彼らのビジョンを欺瞞によって達成して、彼らが望むものを得るために語られていない欺瞞と不快さに満ちたダメージを経済に与えることにためらいがない。すべての善良なレーニン主義者のように、彼らは最終的に(Rees-Moggによれば50年後には)それが割に合うと信じている。このことは、もし新自由主義者が新自由主義の道を進めば、われわれは彼らのビジョンがもう一つの新自由主義のファンタジーであることを証明するためだけに半世紀にわたる経済的なダメージに耐えることになるだろうということを意味しているのだ。

タイラー・コーエン 「『Knowledge and the Wealth of Nations』 ~経済学者の生態を知るのに格好の一冊~」(2006年5月8日)

●Tyler Cowen, “Knowledge and the Wealth of Nations”(Marginal Revolution, May 8, 2006)


ビル・ゲイツは(ハーバード大学の)学部生時代にマイケル・スペンスの講義を受講している。難解と評判の上級ミクロ経済学の講義。「バンドワゴン効果」に独占的競争、ネットワークの経済学といったテーマが経済学者の間でホットな話題となりかけている。ゲイツがスペンスの講義を受講したのはそんな最中でのことだった。その講義にはゲイツの同級生で仲の良かったトランプ仲間のスティーブ・バルマーも出席しており、二人はテストで一位と二位を分け合うことになった。しかしながら、ゲイツは成績評価が出るまで待てなかった(成績評価が出る前に大学を中退した)のであった。

以上の文章はデビッド・ウォーシュ(David Warsh)の手になる『Knowledge and the Wealth of Nations』からの引用だが、本書はこれまでに読んだ中では今年(2006年)を代表する最高の一冊と言ってもいいかもしれない(2006年に出版された本の中では確かダニエル・ギルバートの『Stumbling on Happiness』(邦訳『明日の幸せを科学する』)も大のお気に入りだったはずだが、そのあたりの記憶が定かでないときている1)。

本書は一本の論文――内生的成長理論がテーマのポール・ローマーの1990年の論文――に焦点を合わせている・・・かのように見せかけて、成長理論の話題だけではなく経済学者をはじめとした知識人の生態や科学という営みの実態をも一冊の中に取り込むという離れ業をやってのけている力作だ。クルーグマンやマンキュー、ソロールーカスなんかが重要人物として登場する。勿論(ポール・)ローマーもだ。経済学を生業とする研究者の世界の内情を知るために何か一冊読んでみたいと思うのであれば、本書を手に取るべし。

ちなみにクルーグマンも本書を書評の対象に取り上げている2、その中で次のように述べている。

経済学を生業とする研究者の世界を本書ほど見事に描き出した例にはこれまで出くわしたことがない。その世界に生きるのは頭は切れるが時としてエキセントリックな(風変わりな)顔も覗かせる面々。(ニュース専門放送局の)CNBCで放映される番組で簡素なデザインのスーツを身にまとって経済問題を論じるコメンテーターとは似ても似つかない面々。そんな面々が生きる世界は格式ばらない雰囲気に包まれてはいるが、激しい出世競争が繰り広げられる世界でもある。

本書は経済学の専門家だけではなく初学者も楽しめる内容となっている。ウォーシュの調査は綿密を極めており、当の私なんかも本書の中にちょっぴり登場するほどだ。私にも登場する機会を与えてくれてウォーシュには感謝するばかりだ。本書は激しくお薦めの一冊だ。

  1. 訳注;ギルバートの件の本では人間の記憶の曖昧さも話題となっているが、そのあたりのことをもじったのであろう。 []
  2. 訳注;クルーグマンの書評の拙訳はこちら。 []

マーク・ソーマ 「『ピン工場』と『見えざる手』との相克 ~クルーグマンによる『Knowledge and the Wealth of Nations』の書評~」(2006年5月3日)

●Mark Thoma, “Krugman: Review of ‘Knowledge and the Wealth of Nations,’ by David Warsh”(Economist’s View, May 03, 2006)


ポール・クルーグマンがデビッド・ウォーシュの新刊(『Knowledge and the Wealth of Nations』)の書評を物している(ちなみに、ウォーシュの本では経済成長論における「規模に関する収穫逓増」の役割がテーマとなっている)。興味深い内容だ。

The Pin Factory Mystery, Review of ‘Knowledge and the Wealth of Nations,’ by David Warsh”, Review by Paul Krugman, Sunday Book Review, NY Times:

経済学のアイデアは現実世界を形作る上で大きな役割を果たす。かのジョン・メイナード・ケインズも語っているように、「いかなる知的影響からも自由だと信じ込んでいる実務家も今は亡き過去の経済学者の奴隷である(受け売りをしている)に過ぎないことが往々にしてあるのだ」。そうだとすると、経済学上の数々のアイデアがいかなる社会的な背景や人的なネットワークを通じて生み出されるに至ったかを詳らかにする一般向けの書籍がたくさんあってもよさそうなものだが、その数は不可解なほど少ない。ジェームズ・ワトソンの『二重螺旋』やジェームズ・グリックの『ファインマンさんの愉快な人生』(リチャード・ファインマンの伝記)の経済学版は長らく書かれぬままという有様なのだ。 

その溝を埋めるべくデビッド・ウォーシュが渾身の力を込めて上梓した労作が『Knowledge and the Wealth of Nations』だ。本書では1970年代後半から1980年代の後半にかけて経済学の世界に旋風を巻き起こした(ものの、一般世間ではほとんど気付かれていない)「知的革命」の顛末が物語られている。「その革命の重要性はいかほどのものだったのか?」という問題についてはまた後ほど触れるとしよう。最終的な到着地点についての評価は各人各様ではあろうが、ウォーシュが本書を通じてアダム・スミスの昔から現代までにわたる経済思想の世界――および経済学者の生き様――への実に魅力的な旅に読者を誘ってくれることだけは疑いない。・・・(略)・・・本書が抱える些細な欠陥をあげつらうのは後に回してまずは本書の美点に目を向けるとしよう。

1776年に経済理論の中心部に「大いなる矛盾」が埋め込まれることになった。1776年というのはアダム・スミスの『国富論』が出版された年にあたるが、ウォーシュの口から語られるのはその「大いなる矛盾」――ウォーシュ本人による表現では「『ピン工場』と『見えざる手』との相克」――をめぐる物語だ。アダム・スミスは『国富論』の中で「分業」を通じて生産性が急上昇する可能性を一方で強調している。そのことを例示するために持ち出されているのがかの有名なピン工場の話だ。ピンの製造工程を細分化した上で従業員一人ひとりに別々の作業を割り当てる。従業員らは割り当てられた個別の作業に専念(特化)することになるわけだが、そうしたほうが(製造工程を細分化せずに)従業員一人ひとりにピン作りをはじめから終わりまですべて任せる場合よりも結果的にずっと多くのピンが作られるというわけだ1。その一方で、スミスは『国富論』の中で「見えざる手」の役割も強調している。市場経済には利己心を公共の利益に結び付ける力が備わっている可能性があることに誰よりも早く気付いたのはスミスだった。市場には各人をして「本人の意図していない目的の促進に向けて見えざる手」に導かれるかのように振る舞わせる力が備わっているというわけだ。

「『ピン工場』と『見えざる手』との相克」と言われてもなんでそうなる(両者が対立する)かはあまり判然としないかもしれない。そのあたりの事情を詳しく説明するとこういうことだ。ピン工場の寓話は「規模に関する収穫逓増」(以下、「収穫逓増」と省略)に関する物語でもある。ピン工場の規模が大きくなるほど分業の余地も大きくなり、それに伴ってその工場で働く従業員一人あたりに換算したピンの生産量も増える可能性があるというわけだ。その一方で、「収穫逓増」は産業の独占化を促す圧力ともなる。その理由は大会社ほど生産規模を拡張する余裕があるために「規模の経済性」の恩恵を受けられる(財一単位あたりの生産費用(平均費用)を低く抑えられる)可能性が高いからだ。「収穫逓増」が成り立つ産業では大会社が中小の企業を市場から追いやり、その結果としてその産業は少数の大会社によって支配される傾向にあるのだ。

しかしながら、「見えざる手」の力が十全に発揮されるためには産業内に数多くのライバル企業がひしめいていて互いに競争し合っていなければならない。独占力を行使し得る(価格に影響を及ぼし得る)企業がいてはならないのだ。「自由な市場に任せておけば何もかもうまくいく」という発想の背後には(「収穫逓増」ではなく)「収穫逓減」という前提が控えているのだ。

2世紀あまりもの長きにわたり、経済思想の世界では「収穫逓減」という前提が幅を利かせる一方で、「ピン工場」の寓話は目立たない舞台裏に追いやられる格好となっていた。それはなぜか?

ウォーシュも説明しているように、その理由はイデオロギーにではなく数学的に取り扱うのが楽な道を選ぼうとする経済学者に特有の姿勢に求められる。経済学の世界では思い付いたアイデアを厳密かつ明瞭に表現する道が探られ、そのために数字や方程式の助けを借りるというのが常だった。「収穫逓減」という前提に拠って立つアイデアはエレガントなフォーマリズム(数学的な推論)との相性がバッチリだった一方で、「収穫逓増」という前提――「ピン工場」の寓話――に拠って立つアイデアを数理モデルのかたちで表現するのは困難極まりなかったのである。

とは言え、「収穫逓増」は現実のあちこちに観察される見逃し得ない現象であり、時代が下るにつれてその存在感はますます高ままる一方だった。例えば、鉄道なんかは「収穫逓増」の特徴を備えていることがあまりにも明らかだった。そこで経済学者としても「ピン工場」の寓話を経済学の本流の中に組み込もうと試みはした。それも一度や二度の話ではなく何度も何度も試みた。 しかしながら、その試みは毎度のごとく失敗に終わった。「ピン工場」の寓話を十分な厳密さを備えた(数理モデルの)かたちで表現することは出来ず終いだったのである。この点についてウォーシュはケネス・アロー(Kenneth Arrow)――「見えざる手」の伝統にがっちりと連なる業績によりノーベル経済学賞を受賞した人物――による次のような言葉を引用している。曰く、「収穫逓増は経済思想という土壌の下に流れる『地下水』のようなものだ。その流れが絶えることは無いものの、日の目を見ることも滅多に無い」。

『Knowledge and the Wealth of Nations』の前半部は「地下水」としての収穫逓増に的を絞った経済思想史という趣を備えている。偉大な経済学者のお歴々――その多くは収穫逓増の重要性をよくよく承知していたにもかかわらず――がいかにして収穫逓増を経済分析の中から排除しようと試みたか。本書ではその模様が跡付けられている。さらには、収穫逓増を厳密なかたちでモデル化できないとすれば責めを受けるべきは「厳密さ」の方だと結論付けて数式に頼らない言葉による説明を心掛けた・・・ものの周囲の経済学者からは無視されるに至った一部の経済学者――その筆頭はジョセフ・シュンペーター(Joseph Schumpeter)――の姿も語られている。・・・(略)・・・そして本書の後半部では「地下水」としての収穫逓増が遂に地表に湧出するに至るまでの軌跡が辿られている。

経済学を生業とする研究者の世界を本書ほど見事に描き出した例にはこれまで出くわしたことがない。その世界に生きるのは頭は切れるが時としてエキセントリックな(風変わりな)顔も覗かせる面々。(ニュース専門放送局の)CNBCで放映される番組で簡素なデザインのスーツを身にまとって経済問題を論じるコメンテーターとは似ても似つかない面々。そんな面々が生きる世界は格式ばらない雰囲気に包まれてはいるが、激しい出世競争が繰り広げられる世界でもある。セミナーで発表した一本の論文のおかげで若い男女が一躍学界のスターに踊り上がる。そんな可能性が秘められている世界なのだ。

1970年代後半からおよそ十年の間に一連の若手研究者を一躍スターの座に押し上げるきっかけとなった出来事の多くには「収穫逓増」が何らかのかたちで関わっている。「ピン工場」の寓話を(経済学者仲間のお眼鏡に適うに十分なだけ)厳密なかたちで語る術が遂に発見されたのだ。その結果として経済学のあちこちの分野――産業組織論に国際貿易論、経済発展論、都市経済学――が大きく変貌を遂げることになったのである。

ウォーシュはその大転換のドラマを実に見事な手さばきで伝えている。・・・(略)・・・しかしながら、欠陥もいくつかある。収穫逓増を国際貿易論の分野に持ち込んだ一連の経済学者――当の私もその中の一人――の研究も過分な扱いをしてもらっているが、ウォーシュによる説明には微妙ではあるが重大な間違いが含まれているのだ。

ウォーシュがそのようなちょっとした手抜かりを犯している原因は収穫逓増の応用の中でも経済成長論への応用を一番肝心なものと見なしており、そのために(国際貿易論をはじめとした)その他の分野への応用については比較的興味が薄いためなのであろう。ウォーシュはポール・ローマーによる(収穫逓増と経済成長との関わりがテーマの)1990年の有名な論文に経済学者のものの見方をぐるりと一変させた回転軸の役割を担わせているのだ。

「ローマーの1990年論文」と言えば傑出した業績であり、できれば私が書きたかったと思える論文の一つだ。・・・と経済学者が同僚に送る最大級の讃辞を惜しみなく捧げたいところだが、ウォーシュが言うほどローマーの件の論文が重大な役割を果たしたかというとそうとは思わないし、収穫逓増が経済成長に関する我々の理解を大幅に変えたかというとその点もはっきりしない。実のところ、ウォーシュ本人も大いに譲歩しているようだ。彼は本書の中で次のように述べている。「『知識の経済学』の革新なる。その結果として何が変わったろうか? 『大して変わりはない』というのがどうやらその答えであるように思える」。

おっと、気にするなかれ。高度な知性のやり取りが繰り広げられるドラマを味わいたい。(ケインズの言葉を借りると)「良くも悪くも危険な」アイデアの起源を是非とも知りたい。本書はそんな御仁のための一冊だ。

  1. 訳注;「そこで、ここに一例として、とるにたりない小さい製造業ではあるけれど、その分業がしばしば世人の注目を集めたピン作りの仕事をとってみよう。この仕事(分業によってそれはひとつの独立の職業となった)のための教育を受けておらず、またそこで使用される機械類(その発明をひきおこしたのも、同じくこの分業であろう)の使用法にも通じていない職人は、せいいっぱい働いても、おそらく一日に1本のピンを作ることもできなかろうし、20本を作ることなど、まずありえないであろう。ところが、現在、この仕事が行なわれている仕方をみると、作業全体が一つの特殊な職業であるばかりでなく、多くの部門に分割されていて、その大部分も同じように特殊な職業なのである。ある者は針金を引き伸ばし、次の者はそれをまっすぐにし、三人目がこれを切り、四人目がそれをとがらせ、五人目は頭部をつけるためにその先端をみがく。頭部を作るのにも、二つか三つの別々の作業が必要で、それをとりつけるのも特別の仕事であるし、ピンを白く光らせるのも、また別の仕事である。ピンを紙に包むのさえ、それだけで一つの職業なのである。このようにして、ピン作りという重要な仕事は、約18の別々の作業に分割されていて、ある仕事場では、そうした作業がすべて別々の人手によって行なわれる。・・・(略)・・・私はこの種の小さい仕事場を見たことがあるが、そこではわずか10人が仕事に従事しているだけで、したがって、そのうちの幾人かは、二つか三つの別の作業をかねていた。・・・(略)・・・それでも精出して働けば、一日に約12ポンドのピンを全員で作ることができた。1ポンドのピンといえば、中型のもので4000本以上になる。してみると、これらの10人は、1日に4万8千本以上のピンを自分たちで製造できたわけである。つまり各人は、4万8千本のピンの10分の1を作るとして、一人あたり一日4800本のピンを作るものとみてさしつかえない。」(アダム・スミス(著)/大河内一男(監訳)『国富論 Ⅰ』(中公文庫), pp. 10~12) []