ドナルド・モイニハン「フランシス・フクヤマのディープ・ステート論:なぜ自律的な官僚機構は近代国家に不可欠なのか」(2023年9月25日)

官僚にどの程度の自律性を与えるのが適切なのかを突き止めることは、現代のあらゆるリベラル・デモクラシー国家において最大の課題の1つである。

現スタンフォード大学教授のフランシス・フクヤマは、国家権力の構築過程やその利用と濫用を論じてきた研究者として、最も鋭い議論を行っている人物の1人である。これは特に彼の著書、『政治の起源』および『政治の衰退』によく表れている。今年〔2023年〕の初め、フクヤマはアメリカ行政学会のドナルド・ストーン講義(Donald Stone lecture)を行い、その原稿がAsia Pacific Journal of Public Administrationに掲載されている。ジャーナルのエディターであるジェームズ・ペリー教授、およびフクヤマの許可に基づき、この講義の抜粋を以下に掲載する [1]訳注:元の原稿を確認したところ、省略されているのは主に「官僚の行き過ぎ(Bureaucratic … Continue reading 。講演のタイトルは「ディープ・ステートを擁護する(In Defense of the Deep State)」である。

この講義のポイントをいくつか挙げておこう。

  • 「ディープ・ステート」という考えは、アメリカの行政国家のあり方を反映していない。
  • 行政アクターへの委任は、複雑な近代国家を運営する上で不可欠だ。
  • 国家の様々なアクターは、官僚に説明責任を負わせるための様々な手段を持っている。
  • 委任の過小、あるいは「拒否権政治(vetocracy)」は、ときに政策の実行に対する障壁となる。
  • 目指すべきは、国家に大きすぎる権力を委任すること(中国のように)と、国家行使能力(state capacity)を破壊すること(トランプ時代のポピュリズム)とのバランスを見つけることだ。

***

イントロダクション

「ディープ・ステート(deep state)」というフレーズはそもそもトルコやエジプトといった国で生まれた。こうした国では、軍事・安全保障機関の複合体が、政治システムを操作し、完全に透明性を欠いた形で政治に影響力を行使していた。このフレーズはのちにスティーブ・バノンらアメリカの保守派に利用され、アメリカの官僚制を特徴づける語として用いられるようになった。多くの右派ポピュリストが、「ディープ・ステート」の完全な破壊を自らの中心課題とするようになっている。

アメリカには、中東のような意味での「ディープ・ステート」が存在するわけではない。連邦レベルでも国家レベルでも地域レベルでも、大規模で複雑な官僚制は存在し、市民が政府に期待するサービスの供給の大部分を担っている。世に言う「行政国家」だ。行政国家は実際には、中東の独裁国家は言うまでもなく、他のリベラル・デモクラシーの国家形態と比べても非常に透明性が高く、選挙で選ばれた政治指導者が権力を行使すれば、容易にコントロール下に置けるものである。とはいえ官僚制は不可避的に、政治的上位者とは独立した形で作動する。選出された指導者が、政府の運営に必要な何千もの日常的な意思決定を指示できるわけではないからだ。それゆえ指導者は官僚に権威(authority)を委任し、これが官僚の自律性を生み出す。

官僚の自律性の領域を確保することは、政府の健全な作動において非常に重要である。私は、人民の意志(people’s will)を実行するためには行政国家が広範な意思決定を行える必要がある、という主張を擁護したい。例えば私たちは、利率をどの水準に設定するか、どの銀行を救済するか、空軍の軍用機のメンテナンスの日程はどうするか、特定の薬品が安全で効果があるものか、といったことを選出された政治家に決めさせたいとは思っていない。政治家がこうした介入を行い始めれば、ほぼ常にひどい結果となる。政治家はこうした意思決定を効果的に行うための専門性や知識を持っておらず、自身の狭い利益のために権力を行使しようという誘惑に駆られるだろうからだ。さらに私たちは、政治家が事後的なルールをたくさん作って、官僚の意思決定を極端に制限することも望んでいない。官僚のレッドテープ〔お役所仕事〕は、多大な苦難の源泉の1つだ。

私たちは一方で、官僚が国家政策に関して大きな決定を下すことも望んでいない。リベラル・デモクラシー国家において、市民は(軍事支出と社会支出(guns versus butter)にどれだけのお金を配分するか、国家はどんな社会サービスを提供すべきか、軍事力はいつ、どこで用いるべきか、といった)政策の全体的な方向性を設定する役割を担う人物として、政治指導者を選出する。この問題は多くの保守派にとって悩みの種となっている。集団としての官僚は、政治的選好としては左派に傾きがちであるためだ。官僚にどの程度の自律性を与えるのが適切なのかを突き止めることは、現代のあらゆるリベラル・デモクラシー国家において最大の課題の1つである。

なぜ官僚に委任するのか?

民主主義理論では、主権は人民にあり、自己統治に関する意思決定を行う権威は人民が有する、とされる。人民はプリンシパル・エージェントのヒエラルキーの頂点に位置するプリンシパルであり、選挙を通じて代表を選ぶ。その代表者〔国会議員〕は、政府機関や官僚に対して命令を下す。政府機関や官僚は、人々の願いを実現する役割を担う。民主的に選ばれた政治的プリンシパル〔つまり選出された政治家〕は、官僚というエージェントをコントロールしなければならない。

この理論の問題点は、このような単純な規範的ヒエラルキーは実際問題として実現不可能なことだ。ハーバート・サイモンと共著者たちが何十年も前に指摘しているように、官僚制の権威はしばしば逆方向に向かう。エージェントたる官僚は政治家というプリンシパルが持たない詳細な知識と専門性を持つため、必要な政策や、政策の実行に必要なものを政治家に教えることが多いのだ。

権威の実質的な委任が、あらゆる官僚制の作動にとって不可欠な理由として、他にも重要なものがある。フリードリヒ・ハイエクが大昔に指摘したように、現代社会における情報の圧倒的大部分は、その性質上、ローカルなものだ。ハイエクはこの論文〔「社会における知識の利用」〕で市場経済における価格設定を扱っているが、その考察は官僚制の意思決定にも適用できる。ローカルな知識に一番アクセスでき、それゆえその環境を理解し相互作用できるのは、ヒエラルキーの上位にいる者ではなく、低層にいるエージェントなのだ。そうした低層の官僚は、環境の変化により迅速に反応でき、適切なメカニズムがあれば、自身の行った意思決定に直接の説明責任を負う可能性もある。

こうした考慮は、軍事組織では明白なものとなっている。アメリカの軍隊が世界の主要な軍事力の1つとなっている理由の一部は、ベトナム戦争後に「任務の順序(mission orders)」や「司令官の意図(commander’s intent)」といったドクトリンを採用したことと関係している。このドイツ軍の「訓令戦術(Auftragstaktik)」に基づくドクトリンによれば、軍隊の司令官は、全体の任務と整合的な範囲で可能な限り低層レベルに権威を委任すべきである。司令官は軍事行動の全般的目的を設定するが、そうした指示をどう実行するかを決める役割を担うのは、敵と直接に接触している将校や司令官である。

それゆえ、いかなる政治システムも権威を官僚機構へ委任する必要がある。そして多くの場合、権威を委任するほど官僚制はよく機能する。だが委任にはリスクもある。エージェント〔官僚〕が間違いを犯したり、不必要にリスクをとったり、腐敗したり、政治的プリンシパルの意図しない目的のために権威を利用したりするリスクだ。行政法の中心問題の1つは、どの権威を委任するか、どの程度委任するか、エージェントをコントロールするためにどんなメカニズムを用いるか、である。一般に、エージェントがよく訓練されプロフェッショナルであるほど、権威を安全に委任できる。だが、あらゆる状況に当てはまるような、最適な委任の程度というものが存在する保証はない。さらに、あらゆる官僚制は不可避的に、一定の信頼を基盤としている。

官僚を信頼せよ?

官僚をどの程度信頼するかは、社会によって様々だ。東アジアでは信頼度が最も高いと言ってもよいだろう。中国の古くからの文化的伝統の1つは、官僚に対する訓練と信頼だ。中国におけるメリトクラシーに基づいた官僚の採用は2000年前まで遡り、その慣習は日本や韓国など中国の文化圏にある他の社会にも広まっていった。

逆に官僚に対する信頼が最低なのは、腐敗し行使能力(capacity)の低い政府を抱える多くの低所得国だ。こうした国の政府は大抵、略奪的で、隠れたエリートの利害に奉仕していると見なされている。先進国の中だと、ヨーロッパ国家のほとんどで政府への信頼は比較的高く、北部や西部はとりわけ信頼度が高い。アメリカは先進民主主義国の中では一種の外れ値であり、それは根深い反国家主義の伝統のためだ。アメリカ人の多くは、政治スペクトラムの右であれ左であれ、政府に疑念を持っている(多くの不可欠なサービスを政府に頼っているにもかかわらず)。そのため、アメリカ政府はヨーロッパ諸国の政府よりも発展が遅れ、規模がそれほど拡大せず、権威を縮小させようとする幾多の試みに耐えなければならなかった。

近代国家の概念は、20世紀へ向かう世紀転換期にマックス・ウェーバーによって最も明晰に展開された。家産制国家(支配者の家庭の拡大版で、支配者の家族や友人が政府を構成した)と対照的に、近代国家は非人格的で、人々を平等な市民として扱い、支配者の私的利益よりも公共利益に奉仕する。ウェーバーは、官僚制の理念型を、非党派的で専門的な行政官、権威を与えられ公共利益のために奉仕する公務員と理解していた。

初期のアメリカ国家、特にアンドリュー・ジャクソンが権力を握った1828年以後のアメリカ国家は、ウェーバーの意味での近代国家ではなかった。ジャクソンはアメリカのポピュリズムの父とされ、全ての白人男性に参政権を拡大する(これはアメリカの州のほとんどで1820年代に実現した)ことから〔政治的〕利益を得た。バーボンのボトルや郵便局での仕事といった個人的利益を与えることが、新しい大量の有権者を動員する一番簡単な方法だということになった。ジャクソンは、普通のアメリカ人には政府を運営する能力があり、選挙の勝者である自分が公務員を任用するべきだ、と主張した。こうして、アメリカの歴史における「パトロネージ」あるいは「スポイルズ」システム〔日本語では「猟官制」と訳される〕の時代が幕を開けた。このシステムの下では、ほぼ全ての連邦職員が政治家のおかげでその職を得ることになる。この制度が近代的なものになったのは、ペンドルトン法(Pendleton Act)が可決された1880年代以後のことだ。ペンドルトン法は、メリトクラシーに基づく雇用と昇進の導入を目指す連邦人事委員会(US Civil Service Commission)を設立するものだった。アメリカの官僚制を専門職化しようとする試みは大部分、第一次世界大戦期に統合され、ニューディール期における連邦機関の増殖によって拡大した。しかし、アメリカではヨーロッパやアジアの民主主義国に比べて政治任用がはるかに一般的であり続けている。

実際、行政国家は何十年にもわたって保守派による攻撃対象となっている。保守派は、民主的に選出された指導者のコントロールから逃れた秘密主義の官僚によって国が支配されている、と主張する。現代のアメリカのポピュリストの多くは、自身の政治目標を「ディープ・ステート」の完全な破壊だとしている。このディープ・ステートの破壊という主張は、2020年の〔第一次〕トランプ政権の終盤で一瞬だけ表面化した。この年、ホワイトハウスは大統領令13957を発出した。この大統領令によって、「スケジュールF」のカテゴリに入る連邦職員は意のままに解雇できるようになった〔雇用保障を失った〕。さらにホワイトハウスは行政機関に対して、職員を「スケジュールF」のカテゴリに移すよう命令した。この大統領令はバイデン政権によってすぐに撤回されたが、共和党の政策立案者の多くはこのアジェンダを目指し続けている。保守派の知識人の一部は、ペンドルトン法は違憲であり、雇用や昇進を19世紀のようなクライアンテリズムに戻すべきだと主張している。

こうした攻撃を見るに、官僚の自律性の原理を擁護し、その適切な境界線を規定することは決定的に重要だ。実のところ、連邦の官僚制は「コントロール不能」だという保守派の不満にも一定の正当性はある。だが、その当の官僚制が、事後的なルールと手続きで縛り付けられている場合もある。こうした手続きは、官僚の権威に対する不信によって生まれ、国家が望ましい結果を実現する能力を遅らせたり完全に妨害したりすることで、官僚の権威から正統性を奪うことに貢献してきた。

アメリカの行政法における委任

保守派の法理論家たちは、議会が行政機関に権威を委任する能力を制限する、いわゆる「委任禁止(non-delegation)」法理を挙げることがある。憲法学的観点からすると、これは非常に問題含みだ。合衆国憲法にそのような条項は存在しない。委任は合衆国が生まれた最初の日から実行されている。最初のアメリカ議会は、アレクサンダー・ハミルトンが長官を務める財務省に対して、革命戦争の負債を片付ける仕事を委任した。アメリカが官僚への実質的な委任なしに、選出代表だけで近代政府を運営できているというのは幻想だ。アメリカ人はもしかすると、二世紀前に存在したニューイングランドのタウンミーティングを思い浮かべているのかもしれない。市民が公共的な事柄について話し合い、地方政府の運営において直接の役割を担った時代だ。地方政府は今日でも依然としてこのように動いているべきだが、連邦政府に同じやり方は通用しない。連邦政府は、大陸中に散らばる3億3千万人以上の人々にサービスを提供しなければならないのだ。

アメリカの行政法には、エージェントたる官僚をコントロールする政治原理として、5つの基本的なメカニズムが存在する。以下に列挙しよう。

(1) 事前の手続き。これらのメカニズムで最も重要なのは、1946年の行政手続法(APA)だ。行政手続法は、行政機関が新しく公布したルールに対して、「告知コメント(notice-and-comment)」〔パブリック・コメント〕を義務付けている。加えて、議会の意向を実現するために政府機関が従うべき手続きを定めた基本法もある。

(2) 事後的な審査。官僚に説明責任を課すメカニズムはたくさん存在するが、最も重要な枠組みは、最高裁による1983年の「シェブロン敬譲(Chevron Deference)」判決で確立されたものだ。これは、官僚の意思決定に対して裁判所が審査という形で介入する際に2段階のルールを課すもので、一般に裁判所は政府機関の意思決定を覆せるほどの専門性を持っていないとの理由で介入を制限している。シェブロン敬譲はそれ自体、保守派の多くに攻撃されるようになっており、「重要問題(major questions)」法理などをの手段を通じてこの判決を徐々に破壊してきた。官僚の意思決定を事後的に審査する方法は他にもたくさんある。例えばAPAの行政法判事(Administrative Judges)は政府機関の意思決定を審査でき、加えて議会は頻繁にヒアリングを実施している(そこにおいて官僚は自身の行動に説明責任を負わなければならない)。

(3) 任命の権力。どんな政府であれ、人事を統制する能力は官僚制をコントロールする最も重要な手段の1つだ。未来のあらゆる可能な状態を予見できる事前のルールは存在しないため、人民の意志を実現するためには、変化した状況に応じて人間が判断を行う必要がある。合衆国憲法の規定するところでは、大統領は上院の「助言と同意」を得て閣僚を任命し、「下級役人」の任命に関するルールも設定できる。

(4) 解任の権力。解任の権力は任命の権力に匹敵すると考える人もいるかもしれないが、アメリカ法の場合はそうなっていない。建国の父たちは官僚の解任に関して長い議論を行い、これは「1789年決定(Decision of 1789)」へと繋がった。この決定によると、大統領は連邦の上級公務員を解任する広範な自由裁量を与えられている。ジェームズ・マディソン自身は、任命権力と対照的に、反抗的な公務員を解任する権力は行政の権威にとって根本的に重要だと論じていた。だが低層の公務員を解任する権力は、第二次大戦後に連邦職員の解任に関する手続きが定められたことで弱まった。こうした手続きにより、パフォーマンスの低い職員に説明責任を課すのがひどく難しくなった、と政府の管理職は不満を述べるようになった。

(5) アドホックな介入。政治的プリンシパルが官僚の自律性を制限するために介入を行える法的手段は他にも存在する。合衆国憲法は国家緊急権を規定していないが、一部の州の憲法は国家緊急権を規定しているし、議会は国家緊急事態法を制定した。大統領は行政府の様々な意思決定を恩赦権限によって無効にできる(前大統領のトランプが、軍法会議で有罪とされたネイビーシールズのエディー・ギャラガーを恩赦したときのように)。

官僚の行き過ぎ

過去数十年、官僚制が矩をこえ、政府機関が議会に認められた法的権限から明らかに外れた行動をとっている、という明確なケースが出てきている。〔具体的なケースを列挙した部分は省略〕。しかし、アメリカがコントロールの利かない官僚たちの専制の下に置かれていると言うことは難しいだろう。アメリカの抑制と均衡を軸とする憲法システムは、行政府の行き過ぎに対する対処策を提供しており、ここで引用した4つのケース〔サケット対EPA判決、タイトル・ナインの権威の拡張、ターケル対CDC判決、ウェストバージニア対EPA判決〕のうち3つで裁判所はこうした対処策を適用している。進歩派は、こうした判決の実質的な結果を非難するかもしれない。特にウェストバージニア対EPA判決は、炭素排出という喫緊の問題を扱う上ではお粗末な先例となっている。しかし手続き的に見れば、このシステムが官僚の権力に抑制をかけられるというのは明確だった。

バランスの問題

よく機能しているリベラル・デモクラシー国家は、官僚の自律性と民主的説明責任の必要性の間でバランスをとらなければならない、ということは明確になったはずだ。国家の権威に抑制がかけられていない状態も、徹底的な政治化が進行した状態も、どちらも適切ではない。しかしそのバランスを見つけることは非常に困難な課題となり得る。

コロナのパンデミック期における公衆衛生政策を例に取ろう。初期段階において、公衆衛生当局は(赤い州〔共和党の州〕においてすら)、ソーシャル・ディスタンスや地域閉鎖、マスク着用といった政策の設定においてかなりの裁量を与えられていた。実際、カリフォルニア州の憲法は、こうした問題に関して郡の保健衛生官(health officer)に最終的な権威を与えている。パンデミックが起きて最初の数カ月、リベラルの間では、公衆衛生と他の社会的な善(雇用や経済成長)のトレードオフの存在について考えることすら正しくないという見解が広まっていた。だがパンデミックが進行していくと、一般市民の態度は変化し始めた。地域閉鎖の厳格な実施のコストが明白となり、特に公立学校を閉鎖し続ける国家レベルの決定に親たちはいらだった。さらにコロナそれ自体は致死性の低いものへ進化し、市民の大部分がワクチンを打った。2022年の終わりには、中国の「ゼロ・コロナ」政策(アメリカよりもいっそう厳しい地域閉鎖)は、政策の経済的・社会的コストを考慮に入れていない、とアメリカで広く嘲笑されるようになっていた。

こうして、公衆衛生当局の決定は、分極化した様々な政治的立場から非難を受けることとなった。公衆衛生当局に対する当初の服従へのバックラッシュが起こり、保守派の一部は当局の意図について陰謀論を展開した。赤い州の政治家の多くはもう一方の極端へ突き進み、将来パンデミックが発生した際に取れる公衆衛生政策の種類に詳細な制限を加える法律を可決させた。こうした新しいルールは、公衆衛生当局が将来の危機に柔軟に対応する能力を阻害するだろう。

コロナ危機に対する適切な対応は、より高次の政治権威が慎重に様々な社会的善のバランスをとることであったはずだ。公衆衛生当局はそうした意思決定において重要なインプットとなるべきだったが、そのトレードオフを決定する最終責任者であるべきではなかった。公衆衛生当局は概して、他の利害よりも健康の増進を優先しようとするだろうからだ。残念ながら、トランプ政権の下で、利用可能な最良の証拠に基づいて意思決定を行う能力や意欲のある政治指導者は国政のレベルには存在しなかった。それどころか、トランプは何よりも自身の再選を優先する政治家であった。

ウェストバージニア対EPA判決にも、同様の政治的な失敗が現れている。これは私見では、正しい手続きに則って悪い結果がもたらされた事例だ。つまり、少なくとも原理的なレベルでは、炭素排出の規制に失敗したのである。根本的な問題は最高裁にはない。議会がこの問題に関して法律を制定せず、EPAにこの領域に関する適切な法定権力を与えなかったことにある。この失敗を見ると、行政府が自らの権威を一方的に拡張しようとしたことも理解できるが、最高裁がその権威を縮小しようとしたのも適切であった。ケイガン判事は、現在の保守派最高裁が、EPAと議会の専門家の代わりに判断を行っていると述べた点で正しかったかもしれないが、裁判所は過去数十年、立法で実現できない結果を達成するために盛んに利用されてきた。ブラウン対教育委員会判決以来、司法を利用してきたのは主に進歩派だったが、現在では保守派も同じくらい司法権力を利用できることが明らかとなった。アメリカのシステムにおいては、議会の選出代表が社会的な善に関するトレードオフの基本的意思決定を行い、実行を専門機関に任せる方がずっとよい。だが、立法府は適切な権力の行使に失敗し続けており、官僚機構も裁判所もその真空を埋める形で拡張している。

過少な委任

過剰な委任の問題に加え、アメリカは過小な委任(under-delegation)の問題も抱えている。既に見たように、アメリカ人は概して官僚を信頼しておらず、説明責任を課すための手続きによるコントロールで官僚制を縛り付けてきた。これはAPAから始まっているが、長年に渡りほぼあらゆる公的意思決定へと拡張してきた。例えば大規模なインフラ計画は、国家環境政策法(NEPA)の下で広範な環境評価と公聴会にかけられ、その多くが州のレベルでも繰り返され拡張される。法律を実効化するために「私的訴権(right of private action)」を頻繁に用いているのは、先進民主主義国の中ではアメリカだけだ。私的訴権というのは、市民個人があたかも「民間の司法長官(private attorneys general)」のように、法に違反したとされる当事者への訴訟を開始できるというものだ。これは、(大抵の場合)国の裁判所が行う訴訟によって徐々に、立法府の活動から独立した政府のルールの範囲が広がっていく、という、コモンロー的なプロセスをもたらした。

この手続きによる官僚制の抑制の着実な拡大は、私が「拒否権政治(vetocracy)」と呼ぶ結果をもたらしてきた。拒否権政治とは、拒否権が多様なステークホルダーに分配されているせいで、集合的利益に資する意思決定の実行が極度に難しくなる事態を指す。ニコラス・バグリー(Nicolas Bagley)が指摘しているように、過剰な手続き主義は政府の活動を妨げ、進歩派がその目的を効果的に実現するために政府を利用することを防いでしまう。右派の側ではフィリップ・ハワード(Philip Howard)が、政府の意思決定における「常識(common sense)」に立ちはだかる官僚制の過剰なレッドテープを強く非難している。ここから、官僚が望ましい結果を実現するために「常識」を利用できる場合には、法の設定した目標を実行する上でより多くの裁量を与えられるべきだ、ということが論理的に導かれる。

官僚により多くの自律性を与えるとしても、その自律性が濫用されないよう、強い説明責任を課す手段を組み込む必要は依然として存在する。1つの方法は、事前的な手続きと、それがもたらすレッドテープの山をなくして、政府機関に説明責任を課すための事後的な審査を強力にする、というものかもしれない。事後的な審査が無際限に増えていけば、事前的な手続きと同じくらい官僚の行動を妨げ得るので、審査を簡素化する方法を見つけなければならない。いかなる官僚制であれ、それが機能するためには、公務員の訓練と専門性の獲得に、社会が適切な投資を行う必要があるだろう。

結論

アメリカの官僚制はたくさんの機能不全に陥っており、この問題は幾多の詳細な研究によって分析されてきた。例えば、官僚を解任する権力は実のところ、長年にかけて蓄積されてきた公務員の手続き的保護の積み重ねにより妨げられており、パフォーマンスの低い職員を規律づけることが難しくなっている。こうした問題に対する適切な解決策がなんであれ、それは今日の保守派の多くが考えているような、専門職公務員制度の完全な破壊ではない。スケジュールFは官僚の政治的バイアスの問題を解決しないどころかいっそう悪化させ、さらに政府の能力や実効性を犠牲にするだろう。

現在のところ、選挙と政権交代により、連邦政府中の3000~4000人の上級職員が置き換えられることになる。これは他のどんな先進民主主義国(政権交代でせいぜい数十人の交代しか起きない)よりもはるかに高い値である。にもかかわらず、それは規範的に見れば民主主義理論に沿っている。スケジュールFの支持者たちは、政治任用の公務員の数を1万人(もしかすると十万人)に増やそうとしている。この見解によれば、選挙で選ばれた政治的プリンシパルの意志は、普通の公務員が持つ左派的なバイアスによって妨害を受けている。保守派は現在、現行の官僚を置き換えるために、政治的に近い距離にある候補者をリストアップしている。

この計画は、いくつかの解決困難な問題に直面するだろう。現代の通常の公務員は、あからさまに政治的傾向を基にして選ばれているのではなく、一般に客観的とされる能力基準で選ばれている。その基準で選ばれた官僚が持つ政治的バイアスは、その背後にある国民のバイアスを反映している。公立学校の教師や大学教授になりたがる人は、左派に寄りがちだ。警察官、消防士、看守になりたがる人は、右派に寄りがちだ。政治的忠誠の基準に合格し、かつ適切な技能を持つ人間を十分な数見つけるのは困難であり、公務員の質に関して深刻な妥協を迫られるだろう。さらに、保守派は次の選挙で負けた際に何が起こるかを考える必要がある。自分たちが庇護していた職員は職を失い、それに置き換わるのは、非党派的で中立的な公務員ではなく、明確にリベラルな政治基準に沿って任用された職員となる。これは、ペンドルトン法が通過する以前の、19世紀のパトロネージ制におけるアメリカ政府のあり方であった。

政府への不信は政府と同じくらい長い歴史を持っており、多くの場合、政府の行動を考えれば完全に正当化されるものだった。だが現代のポピュリストの多くは、この批判を極端に推し進め、国家権力の濫用の具体的なケースを攻撃するだけでなく、能力と専門性に基づく政府という考えそれ自体を攻撃している。こうしたポピュリストは、「普通のアメリカ人なら誰でも」政府の仕事ができるというアンドリュー・ジャクソンの言葉を胸に刻んでいる。この考えは、連邦政府の仕事が郵便と税関の運営以外にはほとんどなかった1820年代には正しかったが、そんな状況は稀である。今日の普通のアメリカ人のほとんどは、貨幣供給量の管理や大規模な天気予報モデルの運営、航空管制、国立大学での教鞭、雇用調査、新しい薬品のランダム化比較試験の監督といった仕事を行うための能力を持っていない。

メリトクラシーに基づく官僚の選抜は、右派だけでなく左派からも脅威に晒されてきた。メリトクラシーは進歩派からも批判されている。曰く、それは既成エリートが権力と影響力を保持するために用いるテクニックであり、教育を受けた親が子どもを適切な学校に入れて、権力と影響力の世界に参加する足掛かりを与えているのだ、と。進歩派は連邦機関の雇用に多様性基準を導入して、人種的・民族的マイノリティや女性、その他の周縁化された集団が政府機構内で適切に代表されるよう求めてきた。

どちらの観点をとるのであれ、アメリカ政府におけるメリトクラシーに基づいた雇用と昇進の放棄は、政府の実効性に甚大な帰結をもたらすだろう。最近のクロス・ナショナル研究が示すところによれば、メリトクラシーに基づく採用・昇進と政府のパフォーマンスは、様々な国や機関で強く相関している。アメリカは、政治的コントロールを高めるために政府の実効性の優先度を下げる、という意思決定をすることもできた。しかし、現在ですら政府の仕事に不満を抱いている大多数の市民がその結果を望んでいるかは明らかでない。

近代的な政府を運営するのに必要な技能を持つ人々が政治的バイアスを持っているなら、その解決策は、専門性という考え一般を悪魔化することではなく、〔そうした政治的バイアスにより支持される政策とは〕異なる政策を命じて、官僚制の行き過ぎの特定の事例を是正することだ。現代のポピュリストは単純に、「ディープ・ステート」をコントロールするために利用できるメカニズムが存在することに気づいていない。問題は、こうしたメカニズムの多くが議会の下にあり、ポピュリストたちが議会を完全にコントロールできていないことにある。結果、ポピュリストたちは行政権力を利用して、自分たちの政治姿勢に十分に忠誠を示さない公務員を大量追放し、行政府それ自体を掘り崩そうとしている。

アメリカは現在、中国と長期的な競争関係にある。中国は、質の高い官僚制と専門性への敬意を中心に数世紀に渡って築かれた、文明そのものとなっている。中国に欠けているのは、法の支配や民主的説明責任など、強力な国家を抑制できる制度だ。アメリカは逆の極端に位置しており、抑制と均衡の制度は強力だが、国家制度はコストが高い一方実効性が低く、政治文化を見ると国家の権威に対する不信が強い。アメリカがこのグローバルな競争において、既存の官僚制を破壊し、専門性を持つ職員を追い出して政治的忠誠心を持つ職員で置き換えることを優先したならば、勝てる見込みは低い。結局求められているのは、自律的な官僚制と政治的コントロールとの間のバランス、そして手続きの遵守と実効的な結果との間のバランスをとることなのだ。

[Don Moynihan, Fukuyama’s Defense of the Deep State, Can We Still Govern?, 2023/9/25.]

References

References
1 訳注:元の原稿を確認したところ、省略されているのは主に「官僚の行き過ぎ(Bureaucratic overreach)」のセクションで列挙されている事例部分で、それ以外はほぼ省略されていない。なお参考文献への参照は省略されている。
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