サイモン・レン=ルイス「マクロ経済学は近年の経済史の説明を諦めてしまったのか?」

[Simon Wren-Lewis, “Did macroeconomics give up on explaining recent economic history?Mainly Macro, April 19, 2018]

フィリップス曲線がまだ存在しているのかどうかをめぐる論争が続いている.ひとつには,さまざまな国で,かつてならインフレ率上昇につながっていた水準にまで失業率が下がっても今回は賃金インフレがかなり安定している状況を受けての論争だ.まず間違いなく,これには2つのことが反映されている:隠れた失業が存在していることと,NAIRU〔インフレを加速させない失業率〕が下がっていること,この2つだ.イギリスに関しては双方について Bell & Blanchflower を参照.

NAIRU が時とともに徐々に動きうるというアイディアから,こう主張し始めた人も多い――「フィリップス曲線そのものが疑わしくなってくる.」 このポストでは,それは間違いだと論証しようと試みた.また,NAIRU がどのあたりにあるか推定しようとするのは無駄骨だと考えるのも間違いだ.インフレをモデル化するのに構造的アプローチをとるなら(他にどんな妥当なアプローチがある?),中央銀行はNAIRU の推計をするしかない.すると,こんな疑問が浮かぶ.「NAIRU の変動がマクロにとってもっと意義の大きいものではないのはなぜなのか?」

以下で述べる説明は見当外れかもしれないが,ともあれ書き付けておきたい.というのも,よそで誰か説明を述べているのを見たことがないからだ.まずは,現代マクロで危機以前に金融部門がモデル不在のままになっていた理由について私なりの説明を述べよう.かいつまんで言うと,景気循環のダイナミクスに関心を傾注させたことで,消費と所得の関係が中期的にどう動くかはおおむね無視されることになった.消費と所得の関係の変動を研究していた人たちは,説得力あるかたちでこうした変動を金融部門の変化に関連づけた.これにもっと注意が払われていたなら,金融と現実のつながりがもっとよく分析されてもっとよく理解されていたかもしれない.

同じことが,NAIRU にも当てはまりはしないだろうか? 消費の中期的な傾向と同じく,NAIRU(や構造的失業)の中期的な動きに関する研究文献はあるが,そうした研究は一流学術誌には載らない傾向がある.消費の場合と同じで,そうなる理由の1つは,そうした分析は現代マクロ経済学では場当たり的だと言われやすい点にある:そこで使われるいろんな理論的アイディアのどれひとつとして,当の論文内では注意深くミクロ的に基礎づけられていない.ミクロ的基礎づけをやっていないと言っても,べつにこの種の実証研究をやっている人たちがあえて選んだことではない.そうするしかないのだ.

投資など他のマクロの重要な集計にもだいたい同じことが当てはまりそうだ.投資の水準が現時点で異例なほど高すぎるのか低すぎるのかを経済学者たちが問うときには,通例,グラフを描いたり傾向と平均を計算したりする.できることが他にもっとあってしかるべきだ.たとえば,過去30有余年にわたる投資データをもっともうまくつかまえる方程式を見て,現時点では予測を上回っているのか下回っているのか確かめたりできた方がいい.同じことは,均衡為替レートにも言える.

主要なマクロの諸関係に関する構造的時系列分析とでも呼べそうなこうした分析が見下されるようになったのは,べつに,新古典派対抗革命のせいだけではない.同じくらい責任があるのが,シムズの有名な1980年論文「マクロ経済学と現実」だ.この論文は,時系列分析で使われるタイプの識別制約を攻撃して,かわりに VAR手法を提唱した.この2つがそろって巻き起こした災厄によって,それまでマクロ経済学であたりまえの営みだった時系列分析はマイナー学術誌に追いやられた.

この結果としてマクロ経済学は近年のマクロ経済史の説明を試みるのを放棄してしまったと言っても,言い過ぎではないと私は思う:マクロ経済のさまざまな集計が中期的に見せるふるまいとでも呼べそうな事柄,あるいは過去30~40年の経済が他でもなくこういう風になった理由の説明を諦めてしまったのはこの帰結だと言っても過言ではないだろう.マクロ経済学は,〔繰り返された〕景気循環どうしがどうつながっていたかではなく景気循環の仕組みの細部にばかり関心を向けた.

政策に携わる先進的なマクロ経済学者たちにも同じ落差が見えているが,不服を表明するのにべつの方法をとっている(重要な例外がオリビエ・ブランシャールだ).たとえば,ちょうどニューヨーク連銀総裁に任命されたばかりのジョン・ウィリアムズは,ここで DSGE モデルの次世代はこうした分野に力を注ぐよう呼びかけている.第一に,次世代では,労働市場とその余裕・切迫の度合いをモデル化するのにいっそう力を注ぐ必要がある.それはようするに NAIRU が時とともにどう変化するかという話にひとしい.第二に,中期~長期で「供給」側と「需要」側の両方に起きる展開にもさらに力を向けることについてもウィリアムズは語っている.三点目は,金融部門のとりこみに関わる.

もしかすると,いつの日か DSGE モデルはこれらすべてをやってのけるかもしれない.だが,マクロ経済はあまりに複雑で,ミクロ的基礎づけができることにはどうしても重大な穴ができてしまうのではないかと私は思う.ともあれ,実現するとしても,近い将来ではないだろう.そろそろ,1980年頃になされた意志決定をマクロ経済学が考え直して,当時大きく取り上げられた伝統的な時系列分析の欠陥は,将来の世代がのちに想像したほど大きなものではなかったことを認識していい頃合いだ.マクロ経済学は,近年のマクロ経済史をあらためて説明しようと試みる必要がある.

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