ジョセフ・ヒース「文化政治はなぜ生き残り続け、失敗し続けるのか」(2024年11月15日)

フランクフルト学派はこのような仮説を唱えていたが、それが正しくないことを示す証拠は以前からごまんとあった。現実を見れば、リベラルがハリウッドを支配していることに自覚的になってもたらされたのは、嘲笑、離反、反発の高まりだけだ。

まだ消えたわけでもない人物に対してなんだが、スティーヴ・バノンについて次のように論評するのはフェアなはずだ。彼は2つの点で私たちの記憶に残り続ける人物となるだろう。第一は、彼のメディア戦略だ(「一面にクソを撒き散らせ」)。第二は、アンドリュー・ブライトバート(Andrew Breitbart) [1]訳注:アメリカの右派メディア、ブライトバート・ニュース・ネットワークの創業者。 のスローガン(「政治は文化の下流にある」)を広めたことだ。このスローガンはアメリカの文化戦争の大乱戦の幕を開いた。「政治は文化の下流にある」という考え方は、1960年代以後「リベラルはハリウッドを支配し、保守はワシントンを支配した」との主張と密接に結びついている。

2017年にこの議論を初めて聞いたとき、私は耳をそばだててしまった。知っている人もいるだろうが、私は2004年、アンドルー・ポターと『反逆の神話』という本を出している。この本で私たちは、同様の観察を提示しながら、正反対の政治的教訓を導いている。私たちの主張はこうだ。進歩派は文化政治のことしか考えられなくなっているが、その選択は間違いだった。政治は実際には文化の下流にはないからだ。(例えばアメリカで福音派キリスト教徒がそうしているように)政治権力の獲得に力を入れる方がずっといい、と私たちは論じた。バノンの主張はその正反対だ。彼によれば、保守派が政治権力の獲得に力を入れて文化商品の生産をリベラルに乗っ取られている状況は、〔保守派にとって〕深刻な戦略的誤りだというのである。

故アンドリュー・ブライトバートは、「左派は賢いので、文化システムを変革すれば政治システムを変革できると理解していた」と述べていた。ブライトバートはこの見解を、フランクフルト学派第一世代の理論家たちに帰している。これは間違いではない。フランクフルト学派第一世代は、(まず何よりも福祉国家における)官僚的管理の台頭が資本主義の危機傾向に対してテクノクラシー的解決を与えたため、システムの中枢は「文化産業」となりつつあり、文化産業は社会秩序全体の再生産にとって不可欠なイデオロギー的信念を植え付ける機能を果たしている、と論じていた。

文化は万能の支配力を持ったマインド・コントロールのシステムである、という考え方は多くの人にとって魅力的で、払拭しがたいものだった。それは一つには、学者やジャーナリストに都合のいい自己像を抱かせるからだろう。英文学の教授は、自分の教えている小説が高尚な娯楽に過ぎないのではないかとの疑念に苛まれているので、その解釈手法こそが西洋文明の死を告げる鐘を鳴らしているだ、というような話を聞くのが大好きである。当然エンタメ産業で働いている人々も、自分たちは単なるエンターテインメントの供給業者ではなく、社会正義のための闘争の最前線部隊として、寛容や平等を促進するために人間の心のソフトウェアをプログラミングし直しているのだと考えたがる。こうした考えは、批判として述べられていたとしても、〔文化に携わる人々を〕非常に力づけるものなのだ。

過去数年間の出来事(特に中絶やアファーマティブ・アクションを巡るアメリカ最高裁の判決)を見れば、バノンの議論は根拠に乏しいものとなる(少なくともこうした出来事は、国内政治における国家権力の重要性を再認識するよう迫る)のではないかと思う人もいるだろう。だが皮肉なのは、保守派が「文化よりも政治を優先する戦略(politics-over-culture strategy)」の果実をもぎとった途端、急いでそれを捨てようとしていることだ。フロリダでの反リベラリズムの高まりにこれが見て取れる [2]訳注:フロリダ州知事ロン・デサンティスとディズニー社との対立を念頭に置いていると思われる。 。フロリダでの現象は、〔保守派が〕政治システムへの支配力を利用して文化に影響力を行使しようとする試みと理解するのが一番もっともらしい。保守派が行っているのは、勝つに値しない勝負だ。アメリカの進歩派はあまりにも強硬に出すぎたため、猛烈なシニシズムとバックラッシュが生じており、保守派は文化戦争において自陣営の主張を提示する必要すらほとんどない [3]訳注:アメリカの文化戦争において、保守派は自らの主張を提示しなくとも、進歩派を攻撃すれば支持を集められる、という意味と思われる。

さて、この点に関する私の議論はやや込み入っている。そこでまず初めに、リベラルによるハリウッドの乗っ取りをほうっておいたのは間違いだったと保守派が考えるようになった経緯を見ておくのがよいだろう。大きかった出来事は、同性愛に関する世論が劇的に変化し、それに伴って21世紀の最初の10年で同性婚が合法化されたことだ(この記事は世論のトレンドをまとめている)。この出来事を保守派がどう誤解したかを理解するには、映画「ブロークバック・マウンテン」の大成功について振り返っておくのが有益だ(この映画の公開当時、同性婚に関する世論の動きはクリティカル・マスに達していた)。もっと具体的に言うと、保守派がこの映画の成功をどのように誤解して、ハリウッドを支配することの戦略的価値は莫大だと思い込むに至ったかを理解するのが重要である。

保守派はどこから間違った考え方を仕入れてきたのか?

21世紀初頭に生じた同性婚に関する大論争を振り返ると、最も驚きなのは、保守派が自分たちの負けを予期していなかったことだろう。(2006年になるまで)アメリカ人の大多数は同性愛を罪だと考えていた。そのため保守派は、同性愛関係の法的承認を阻止し続けられると本気で信じていたのだ。

私はこの論争全体を、ジョン・スチュアート・ミルのレンズで捉えたくなる。このレンズから見ると、同性婚の論争で問題になっていたのは、個人の私的な行動を社会的に規制すべきか否かであった。当時の私の目から見ても、同性婚が合法化されれば、論争が完全に消えてなくなることは明らかに思われた。誰と誰が結婚できるかというのは、直接の当事者にとっては大問題だが、それ以外の人々に重大な影響を及ぼすような話ではない。シビルユニオンの形をとるか、同性婚の形をとるかという些末な問題はあるにしても、政府がパートナーシップの法的平等を確立すると決断すれば、対立陣営がその政府決定を覆すために動員をかけることは実質的に不可能だと思われる。同性婚に反対することで大きな利益を得る集団は存在しないだろうからだ。この問題全体を、他人の生き方に指図したがる(大半はキリスト教徒の)おせっかい屋と、ほうっておかれることを求めるゲイ/レズビアンの人々の対立として描くのは容易であった。

この理解に基づくと、婚姻の平等を巡る闘争は、自由化改革(liberalizing reforms)の一環に過ぎなかった。自由化改革を通じて政府は、個人の人生に介入したり、その判断にあれこれ文句をつけたりするのを控えるようになった。覚えている人もいるだろうが、同性愛の非犯罪化は、国民の大多数が同性愛を認めていなかった時代に実現した。カナダの場合、同性愛の非犯罪化は、避妊や異性愛カップルの「下品」な行為を非犯罪化する広範な改革の一環だった。こうした改革のロジックは、当時の司法省大臣ピエール・トルドーの「政府は国民の寝室に立ち入らず」という宣言によく表れている。

このような歴史の流れを見れば、ゲイとレズビアンが婚姻の平等を巡る戦いに勝利するだろうことは不可避に思われた。だがアメリカの保守派の多くにとって、この敗北は寝耳に水だったようである。そのため保守派は、この敗北の理由を説明するための議論を探し始めた。ここで保守派は、原因と兆候を取り違えるという典型的なミスを犯してしまった。つまり、同性愛に関する世論が突然変化したのは、「ふたりは友達? ウィル&グレイス」のようなテレビ番組や「ブロークバック・マウンテン」といった映画などの文化製品によって、同性愛が一般市民に広く受け入れられるようになったからだと考えてしまったのである。この分析によると、ハリウッドのリベラルたちは同性愛関係を肯定的に描き、伝統的な家族像の人気を下げることで、同性愛を「ノーマル」なものにしたのだ。

これは「ブロークバック・マウンテン」の解釈としては完全に的外れだ。ハリウッドがバックラッシュや嘲笑を引き起こさずにリベラルなメッセージを伝えようと苦心しているこの時代に、「ブロークバック・マウンテン」を見返すというのは実に面白い経験である。この映画についてまず知っておくべきは、監督のアン・リーがゲイではなく、またゲイの多くが公開当時この映画を好まなかったということだ(それは1つには、この映画が様々な点で、観客の大多数を占めるヘテロセクシュアルの感受性に迎合していたためである)。注意しておくベき2つ目の点は、この映画がホモフォビアに対する闘いを、普遍的なテーマにハッキリと結びつけていることだ(ある意味、この映画はアン・リーの映画「恋人たちの食卓」の別バージョンだ。観客は「異常にルックスの良い人たちが時代遅れな社会的慣習によって人生を破壊される様子を見て、それに同情する」)。

だがもっと重要なのは、この映画の中心的なメッセージだ。この映画の主人公の2人が世界中の何よりも求めているのは、「ほうっておかれること」である。2人の人生が台無しになってしまうのは、自分たちの望むように生きる自由がないためだ。実際、当時保守派の多くをいらだたせたのは、この映画が荒野や山の風景を自由の象徴として用いながら、ちょっとしたひねりを加えて、そこに社会的慣習による制約からの自由という意味を読み込ませていた点だった。

「ブロークバック・マウンテン」の軸となる政治的要求は全く明らかだ。「ほうっておいてくれ」。アメリカ人にとってこのメッセージは、気質的にも政治体制的にも受け入れやすいものだ。この映画は、ハリウッドがアメリカ人を洗脳して、ゲイのカウボーイはかっこいいと思うように仕向けた例ではなかった。ハリウッドがこの映画でやったのは、アメリカが数世紀に渡って保持してきた価値観の中心にある「個人の自由の拡張」という大きなナラティブに、同性婚への闘いを位置づけ直すことだったのだ。そしてこれは、政治が文化の下流にあることを示す事例でもなかった。むしろその正反対だ。「ブロークバック・マウンテン」を特徴づける価値観は、1960年代後半から1970年代に同性愛が非犯罪化された時点で、既に法的承認を勝ち取っていた。文化がその価値観を受け入れるにはもう20年かかり、より一般に受け入れられるようになるまでにはもう10年かかった。

美徳シグナリングの台頭

アメリカ人の愛らしい点の1つは、プロパガンダを作っているという自覚がないときだけ良いプロパガンダを作れることだ。プロパガンダを意図的に作ろうとするやいなや、ひどいしろものができあがる。そのためハリウッドのスタジオは、かつては実に巧みにリベラルな価値を推進していたのに、それこそが自分たちの天命だと考え出した途端、ひどく不器用になってしまった。

私の生きてきた中で最も顕著な変化は、アメリカでの文化商品の生産において美徳シグナリングが台頭してきたことだ。まるで、巧妙な仕方でリベラルな価値を推進することに道徳的スティグマが貼られているかのような有様である。そうなった理由を理解していると主張するつもりはない(部分的には、単純にメディア企業の社内政治が原因だろうが)。とはいえ明らかなこともある。もはや進歩的な価値を推進するだけでは不十分なのだ。〔クリエイターたちは〕進歩的な価値を推進していることを声高に宣言して人々の注意を惹きつけなければならなくなった。最も明白なのはキャスティングの選択である。かつてはキャスティングの多様性を高める説得的な根拠を示そうとする努力がなされていたが、多くの事例で、多様性が〔作品にとって〕意味をなさないところで多様性を高めようとする動きがそれに取って代わった。これは恐らく、自身が多様性により強くコミットしていることを示すシグナルとなっている。それによって、私は作劇上の要請からではなく、作劇上の要請にかかわらず、多様な俳優をキャスティングしていると示しているのだ。

問題は、文化商品における美徳シグナリングがほとんどのその定義上、作品への没入感を奪うことだ。美徳シグナリングは、厳密に言えば「第4の壁を破る」ものではないが [4] … Continue reading 、同じような効果を持つ。それは、単に文化商品の人工性に注意を向けさせるだけでなく、観客自身に自らを意識させる仕方でそうするのである。だがこれに不満があがると、返ってくるのは大抵、「そもそもフィクションに没入するのがおかしい」との返答だ。結局、全てがフェイクなことは明らかじゃないか、というわけである。こうして文化商品のクリエイターたちは、芸術の技法の中でも最も強力な武器(観客の心を掴む能力そのもの)を自ら放棄してしまうのだ。

同様に、ゲイ・レズビアンの権利運動からトランスの受容へと文化政治の焦点を移そうとする試みは、厄介な事態に陥り始めており、その過程で文化産業の内在的限界を明らかにしている。その一因は、この問題を政治的観点から考えられておらず、結果、トランスの受容に関わる「要求」が、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルによる従来からの要求と根本的に異なることを理解し損ねていることだ。「ほうっておいてくれ」という要求は幅広い支持をとりつけているが、トランスの活動家の多くはもっと強い要求を行っている。つまり、あらゆる人々にジェンダー・アイデンティティという概念の理解を変更するよう求めているのだ。今まで自分のことを単純に男性/女性と考えてきた人々は、シスジェンダーの男性/女性として自らを捉え(またある場合にはそう自己紹介し)なければならなくなり始めている。同様に、代名詞を巡る新たな政治は、一部の人々に、どんな会話もストループ課題にする一方的な力を与えており、これもまたあらゆる人々に影響を及ぼす。

驚くべきことに、昔ながらの公的な討論や政治的論争のやりとりを経ずにこうした目標を実現できると、多くの人が考えているように思われる。とりわけ、そうした要求の論拠を提示したり、よくある反論に答えたりする必要はないと思われているように見える。これは、誰かがどこかで、自身の立場の強さをひどく高く見積もってしまったことを強く示唆している。小規模で広く支持されているわけではないマイノリティが、不寛容こそ政治的勝利を勝ち取るための効果的な武器だと考えるようになった経緯は、すぐに分かることではないだろう。だがその一因は、この立場がメディア企業を含むエリート機関の一部で早くから大きな影響力を獲得し、そして社会変化を実現する上でのこうした文化産業の有効性をひどく(ひどく!)過大評価してしまったことにあるのではないかと私は疑っている。文化はマインド・コントロールのシステムであり、文化産業には文化をプログラムする力があるとの考えがこの過大評価に繋がったことは間違いない。フランクフルト学派はこのような仮説を唱えていたが、それが正しくないことを示す証拠は以前からごまんとあった。現実を見れば、リベラルがハリウッドを支配していることに自覚的になってもたらされたのは、嘲笑、離反、反発の高まりだけだ。

[Joseph Heath, How Steve Bannon baited the American left into overplaying its hand, In Due Course, 2024/11/15.]

References

References
1 訳注:アメリカの右派メディア、ブライトバート・ニュース・ネットワークの創業者。
2 訳注:フロリダ州知事ロン・デサンティスとディズニー社との対立を念頭に置いていると思われる。
3 訳注:アメリカの文化戦争において、保守派は自らの主張を提示しなくとも、進歩派を攻撃すれば支持を集められる、という意味と思われる。
4 訳注:「第4の壁」とは、フィクション世界と現実世界を隔てる境界を指す。第4の壁を破るというのは、その境界線を破ることを指す。登場人物が観客に語りかける場面などが例として挙げられる。
Total
0
Shares

コメントを残す

Related Posts