エントリ名、カントリーソングの曲名になるかもしれない。私には、クリーモアにある〔地産地消の食品を販売している〕100マイルストアで買い物するのが大好きな友人が沢山いる。100マイルストアは、ロウカヴァー〔地産地消を実践している人〕にとって天国のような場所だ。ご存じかと思うが、友人らは皆トロントに住んでいるので、〔都会在住で環境に悪い生活をしていると〕からかうのを私は酒の肴にしている。すると、友人らは、トロントの市街地から78マイル離れた100マイルストアまで車で出かける。まあ、78マイルは正確ではないが…。友人らは大抵、スキー等で田舎に行く時に、100マイルストアに立ち寄っている――なので、余分に10~20マイル運転しているわけだ。ここで重要なのが、100マイルストアに立ち寄れば、社会的な食料消費について本当に気にしないといけない最重要なルール――「最後の1マイル」の原理に違反していることだ。特に、二酸化炭素排出への影響を考慮した場合、「最後の1マイル」――つまり食品が、店舗から自宅までどう運ばれているかが、最重要問題となっている。食料の輸送チェーンにおいて、店舗から自宅までが非効率的な配送ルートとなっており、このルートによって大きな環境的負荷がかかっている(主な理由だが、食料が一括配送されなくなり、各家庭にバラバラに向かうことで、輸送の社会的コストが、最後の1マイルで急増するからだ)。グーロバルな規模での貿易は、輸送チェーンにおいて〔環境負荷では〕最も影響を与えていない。コンテナ船による輸送ルートを、他のルートと比較すれば、炭素排出量は輸送チェーン全体では極めてわずかである。
なんにせよ、私は友人らをからかってきたが、友人らは誰も私のことなど気にしていない。皆、100マイルストアのコンセプトや、地産地消の食べ物を気に入っている。友人らは、それっぽい感じにさせてくれるのを好いているだけなのだ。言い換えれば、友人らが本当に好きなのは、食生活にタブーを持つことにすぎないようなのだ。環境負荷を実際に計測しようとすれば、場をしらけさせるだけになってしまう。
以下は、『啓蒙思想2.0』のために執筆したが、最終版で割愛した内容だ。没にしたもののいくつかを、ブログで投稿すると約束していたので、今日はその第1回である。左派の反理性主義を扱ったチャプターからの没原稿となっている。左派は、(オーガニックに始まり、地産地食へと至る)食べ物に奇怪かつ強烈に執着して〔社会問題に〕対処しようとするが、私は常に若干の困惑を覚えてきたのを認めざるを得ない。
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肉に含まれるホルモンや抗生物質は言うまでもなく、野菜に残留する殺虫剤や除草剤を不安に思うのは、完全に理にかなっており、当然である。故に、(オーガニックであろうとなかろうと)あらゆる食品の、残留農薬の量は政府によって規制されている。もっとも、人によっては、殺虫剤や除草剤が完全に入っていない野菜を買いたいかもしれない。ところが、オーガニックフード(有機食品)運動は、殺虫剤や除草剤を禁じていると世間で思われているにもかかわらず、実際には禁じていない。合成殺虫剤や合成除草剤の使用を禁じているだけである。ある意味では、これは理にかなっている。つまるところ、塩は究極的なまでに強力な除草剤にあるにも関わらず、人は常にそれを食物に入れている。塩は適度に摂取する限りでは完全に無害なので、塩を禁止したい人はいないだろう。残念ながら、「天然」と「合成」の区別は、「健康」と「不健康」の区別に対応しない(「環境に良い」と「環境に悪い」にも対応しない)。「化学的」な殺虫剤や除草剤と、「天然」の殺虫剤や除草剤を区別する合理的な方法さえも存在しない。なぜなら、あらゆる物質は「化学的」な構成要素からなっており、必然的に「天然」となるからである。「天然」に唯一該当しているのが、人が持っているある種の直感である。つまり、「天然」はなんだかよくわからないが、比較対象より安全か健康的であることを指す言葉となっている。実際「天然」には何の根拠もないのだが、多くの人に「真実」を強烈に感じさせている。
ヒ素と銅を例にあげて検討してみよう。この2つの金属はどちらも完全に天然であり、実際に自然環境いたるところに存在している。また、ヒ素・銅共に、殺菌・殺虫効果を持っているため、木材を加圧処置(もしくは「化学処理」)する場合の、2つの主要成分となっている(環境に優しいのは銅のおかげだ)。銅は殺菌・殺虫効果を持っているにも関わらず、天然素材なので、有機農業の認証機関によって一般的に、銅を主成分とするさまざまな農薬の使用は許可されている(全てにオキシ塩化銅、炭酸アンモニウム銅、オクタン酸化銅のような化学的に聞こえる名前が付いている)。同時に、ヒ素を原料とする殺虫剤や殺菌剤は、銅と同様に「天然」であるにもかからず、ほとんどの先進国(通常農業と有機農業で共に、環境に悪いことは言うまでもなく、ヒトの健康に対してもあまりにも危険であると考えられていること)で環境機関によって段階的に廃止されてきている。このように、「自然/合成」の区別は、「健康/不健康」の区別に単純に相当しないので、健康や環境いずれの懸念の観点からも、食品に関する不安材料となる何らかを把握することはできない。惟一把握できるのが、研究者による「合成化合物はヒトや自然生態へのリスクはない」との保証の受け入れを拒否することと一体になった、科学への漠然とした敵意である。(ちなみに、“オーガニック”というラベル表示は、健康の観点からは事態を悪化させる可能性がある――「殺虫剤・除草剤が使われていないはずだ」と人々に誤認させ、農産物への注意を軽減させてしまうからだ。)
ところが、多くの人に、オーガニックフードは、生理的レベルで信じられないほどの魅力をもたらしている。オーガニックフードが、極度に直感に訴えることになっていることからも分かるように、「食べ物」は、奇怪な考え方や、異常なタブーを促進する傾向がある。もっともオーガニックフードは運動としては混乱しているが、一応は合理的な理由がある。ところが、「地産地食」運動や、恣意的な食事制限でしかない「100マイル以内の食生活」のような一過性の流行に関しては、オーガニックフードへの評価――「一応の合理的理由があるようだ」とすら言えないのだ。このような運動や流行はどういうわけか、多くの人に信じられないほどの感情的反応を喚起させる(実際、「理性的な犬」を振り回す「感情的な尻尾」の最適例として持ち出さずにはいられない)。むろん、ほとんどの豊かな国では、地方の農家に対して、国内農家向けの農業補助金政策を通じて、多額の補助金が支給されている。こういった補助金は、発展途上国の農民が輸出する機会を奪う悪影響を与えるので、当然のことながら物議を醸している。グローバル・ジャスティス(世界的な公平性)に関心がある、良識ある左派は、この〔途上国農民への輸出機会の剥奪〕理由から、通常は国内向け農業補助金に反対している。途上国の問題はひとまず置いておいても、もし本当に地元の農家をもっと支援したいなら、簡単で強力な方法が、補助金や輸入関税の引き上げを推し進めることだ。ところが、地産地食運動ではこれは俎上に載せられていない。食へのタブーを通じて、政策課題を追求する方法には、奇怪な魅力があるようなのだ。実際、人は食事に関するルールを不可思議にも説得力があると感じてしまう。支持する論拠は非常に弱いのに、不可抗力で合理的な論拠があるに違いないと錯覚してしまう(これと同じようなものに、ユダヤ教の食に関する戒律がある。これも、あまりに怪しく、常人は真面目に受け取ることが不可能なのに、なぜか〔一部の人に〕説得力を感じさせてしまう。)
通常、地産地食の考えは、輸送における環境への影響、特に炭素配排出量へのアピールによって、表層的にそれっぽく正当化されている。「チリから輸入されたブドウを食べるのは狂気の沙汰ですよ。なので変わりに、近所のブドウ畑で栽培されたブドウにしましょうよ」と地産地食の支持者は言う。これはもっともらしいように聞こえるが、真面目に検討すれば破綻してしまう論理である。まず第一に、こういった議論は食物がどのように運ばれたかには全く注意を払っておらず、食物が移動した距離だけに焦点が当てられている。環境の観点からは、食物がどのように運ばれてきたかが最も重要である。トラックは、1トンキロあたりの温室効果ガスの排出量が鉄道の10倍にもなるので環境に悪い輸送手段だ(トラックのトンキロあたりのCO2排出量は180トンで、鉄道は18トンしか排出しない)。一方、鉄道は船舶の約2倍の温室効果ガスを排出している(コンテナ船は11トン、タンカーは7トン)。実際、船舶は他のすべての輸送手段と比較してみれば、ほとんど炭素排出を生まない輸送手段である。結果、グローバルな食糧貿易における国際的な影響を検討した時、輸送のほとんどが船によって行われている事実は、環境の観点から最もどうでもいい案件となっている。もしあなたがコンテナ港の近所に住んでいれば、やましさゼロで世界中のあらゆる場所から来た食べ物を食べて大丈夫だ。(トラックよりも悪影響を与えるのが、食料品を家まで運ぶために使われる自動車である。イギリスでは、〔食料品輸送のうち〕船舶輸送はトンキロ当たりで65%となっているが、炭素排出量では12%しか排出していない。自動車はトンキロ当たりで1%だが、炭素排出量では13%排出している。食料品店に車か自転車で行くかどうかは、食料品の産地が近所か南米かどうかよりはるかに重要である)。
第二に、「輸送こそが、食品生産において環境への影響の重要要素である」との思い込みが存在している。これは端的に間違いである。食品がどのくらいの距離を移動したかは、どのような種類の食料であるかや、どのように生産されたかよりもはるかに些事なのだ。北米だと、食品の消費に伴う炭素排出量のうち、輸送が占める割合は約11%に過ぎず、残りの89%は生産過程で発生している。例えば、野菜が加熱された温室で栽培されているかどうかは、どこから来たかよりも環境への影響が大きい。(また、追い打ちをかけたいわけではないが、オーガニックフードは、非常に軽量な合成肥料が使用されておらず、堆肥を処理するための重機が必要となっているので、炭素排出量が多くなる傾向がある)。さらに、食品の種類によっても炭素排出量は大きく異なる。赤肉と乳製品は炭素排出量では最悪となっている。1ドルあたりの炭素排出量で他の食品(果物、野菜、鶏肉、魚など)が1kg未満であるのに対し、赤肉と乳製品は約2.5kgの二酸化炭素を排出している。平均的なアメリカ人が赤肉の消費量を約20%削減すれば(例えば、週に1~2回、赤肉の代わりに鶏肉や魚を摂取する)、〔地産地消による〕ゼロマイルの食生活と同等の炭素資源消費の削減が達成できると計算されている。(もっと具体的に言うと、40マイル離れた牧場から運ばれてくるステーキは、グアテマラから輸入されたバナナよりも環境に悪い可能性がある)。
このように、「地元の」食べ物という概念は、道徳的に重要な区別に適合しない。地元の食べ物だけを食べることは必ずしも悪いことではないが、恣意的な基準にすぎない。紫色の食べ物だけを食べるのを選択するのとさして変わらず、主観的に気分が良くなるだけの理由で選択されているにすぎない食生活のルールにすぎない。本当に食べ物を選択することで、炭素排出量を最小限に抑えるなら、消費者は食品がどのくらいの距離を移動したかの単純な尺度などより、はるかに詳細な情報が必要になる。一部の地産地消運動グループは、食品に移動距離の明記を義務付けるのを提案している。しかし、これは明らかに〔環境負荷の明記としては〕不十分な処置である。どのような食品であっても、消費に関しての正確な社会的コストを知りたいと思うはずだ。〔もし正確に負荷を明記するなら〕食品がどのくらいの距離から運ばれてきたかだけでなく、どのように運ばれたか、どのように生産されたのか、その他諸々の情報も明記されていないといけない。
しかしもう既に、我々はこの情報を教えてくれるステッカーを持っている。値札だ。農家はトラクターを動かしたり、穀物を出荷したり、温室を暖めたりするたびに、お金がかかる。価格は、食料が食卓に届くまでの、誰もが被る不便さをすべて考慮し、一つの尺度にまとめたものだ。そして、あまりにも不便なものは、値段が高くなりすぎ、誰も買わなくなる。このように、チリからブドウを輸入することができ、しかもそれが高価ではないという事実は、地球を半周してブドウを輸入することが狂気の沙汰でないことが示されている。輸送する場合、燃料が大きなコストになる。船による輸送は信じられないほど安価だが、理由の1つがトラックで輸送するよりもはるかに少ない燃料で済むからだ。むろん、〔現状〕燃料への支出はすべて環境への外部性を生み出しており、ほとんどの管轄区域において食品への課税は低すぎるだろう。しかし、これの解決策は炭素税を課すことである。炭素税が課せられれば、食品価格は、(炭素資源消費を含む)社会的コストが評価された財となり、価格は消費者が必要としているあらゆる知識を即座に提供することになる。
以上までの例で印象的なのが、人々は自体そのもの重要性よりも、食品問題にどれほど強く囚われているのか、そしてどれほど多くの精神的・感情的エネルギーを注ぎ込んできたかということだ。こうした時間やエネルギーは、実際の問題を解決するために使うことができたものだ。
[Joseph Heath, I drove 78 miles to the 100-mile store, In Due Course, February 24, 2015]