近年の政治環境で最も奇妙な点の1つは、はっきりとリベラルの伝統に基づいた価値観を奉じながら、そうした価値観を促進するために、明らかに反自由主義的と言いたくなるような戦略をとる人が非常に多いことだ。ソーシャル・メディアからファシストを追放したがっている「反自由主義的な進歩派の若者(YIP:young, illiberal progressives)」が、現代の共和党員のほとんどを「文字通りの意味でのファシスト」と見なしているという話は今やおなじみである。
こうした若い活動家が、自身の表明している価値観と自身のとる政治手法との間にある明白な矛盾に無頓着なことに、関わった人なら誰でも気づくだろう。傷つけられやすい多様なマイノリティを守るという大義を掲げながら、自分たちに同意しない人をキャンセルしたり罰そうとしたりするイジメのような戦術を用いることには驚くほど躊躇がない。戦術的なレベルに絞って考えれば、これは明らかな判断ミスに思える。だが私がより興味を引かれるのは、この複雑な政治的態度に内在する緊張関係が、YIPたちの中でどう処理されているかである。
私の主張はこうだ。YIPたちはこの緊張関係を処理するために、伝統的なリベラルの教義に潜む曖昧さや抜け穴を利用して、自らの奉じる価値と戦術との間にある矛盾を中和している。結果、私が「反自由主義的リベラリズム(illiberal liberalism)」と呼ぶ政治スタンスが生まれる。YIPは、リベラルな寛容の精神には違反していても、リベラリズムの額面には違反していないので、自身の見解に問題があることに気づけないのだ。
もちろん、私が「反自由主義リベラル」と呼んでいる人々がみな、リベラルを自認しているわけではない。そこで、まず「リベラル」という語についての説明から始めよう。ここでの「リベラル」という語の使い方は、政治哲学では標準的だが、一般的な議論での用法とはきちんと対応していない。哲学的な意味でのリベラルとは、国家権力は制限されるべき(それゆえ、多数派が少数派に自分たちの意向を押し付ける権力は制限されるべき)だと考える人のことである。銃の私的所有を規制する権力を政府は持つべきでないと考える政治的右派は、女性の中絶手段へのアクセスを制限する権力を国家は持つべきでないと考える左派と同様に、リベラルな立場をとっていることになる。
どちらのケースでも、リベラリズムとは、(他人はどのように行動すべきかという)個人の私的な道徳的見解と、(理に適った形で他人に強制できるのはどのような行動かという)個人の政治的見解を区別することからなっている。リベラルな寛容の基本公式は非常に単純だ。あなたは、誰しもと同じように、自身の生き方が正しく他人は間違っていると考えている。だが同時に他人もまた、自分の生き方が正しくあなたの生き方は間違っていると考えている。あなたはこのことを認識して、自分の生き方を他人に押し付けようとするのを控えることに合意し、それに応じて他人も、自分の生き方をあなたに押し付けるのを控えることに合意する。それゆえ国家による強制力の使用は、誰もが許容できないと合意できるような行動をとった場合に限定される。
リベラルな寛容の理念は最初、キリスト教徒同士の戦争を終わらせるために採用された。しかし時を経るごとに、それが広範な社会的対立を非常に上手く解決できることが証明された。しかしリベラルな寛容は、認知的にも感情的にも要求が高い。他人の行動を道徳的に認めないことと、他人の行動を罰したり禁じたりしたいという衝動とを区別するよう個人に求めるからだ。例えば、中絶は倫理にもとるが合法であるべきだと考えることにはなんの矛盾もない(それゆえ、中絶は「安全、合法、稀」であるべきだという古典的リベラルの公式が存在するわけである)。同様に、20世紀後半におけるホモセクシュアリティの非犯罪化はリベラリズムの勝利であった。こうした改革が始まった1960年代当時、アメリカ人の70%以上が、ホモセクシュアルな関係を道徳的に間違っていると考えていたからだ。
リベラルな寛容のスタンスを支持するには、ジョン・スチュアート・ミルの言う「迫害者の論理」を拒否する必要がある。自分の見解を他人に押し付けるのと、他人が自分に見解を押し付けてくるのでは、状況が全く違うと誰もが考えたくなる。なぜ違うのだろう? それは、私が正しくて相手が間違っているからだ。これは、根本的に反自由主義的な考え方である。相手もまた、自分こそが正しくこちらが間違っていると考えている以上、この件に関しては国家に口出しさせないようにするのが一番かもしれない、ということまで認識して初めて、リベラリズムへと至ることができる。
だが注意深い読者なら、国家権力の行使は全員がその行動を受け入れられないと合意できる場合に限定されるべきだ、と数段落前に述べた際、私が非常に大きな難問に触れるのを避けたことに気づいただろう。このような合意を実際に見つけるのは難しいのだ。普通の人とは異なり、人を殺す儀式が望ましいと考える死の崇拝者がどこかにいるかもしれない。だが、そのような人々が存在するために殺人を法的に禁止できなくなる、という事態を私たちはよしとしない。あらゆる事柄について、「合意できないことに合意できる」わけではないのだ。
そのため、どんなリベラルの理論も、理に適った不同意(reasonable disagreement)の範囲(人々が自分のしたいことを行える領域)と、理に適わない不同意(unreasonable disagreement)の範囲(一部の人々がどんな不満を持っていようとも基本的に無視して、国家による強制が許容される領域)とを区別する何らかの方法を持つ必要がある。これは明らかに非常に厄介な作業となるだろう。リベラルな政治哲学の中核に位置する問題の多くが、この境界線をどう引くかに関する論争を含んでいるのは驚くべきことではない。
さて、ここまでの話はYIPとどう関係するのだろう? YIPの起源に関する説明で人気なものの1つは、「研究室からの漏出」理論だ。ポストモダニズムやマルクス主義など、人文学の学部で教えられてきた扇動的な教説が若者の心に伝染していった。ウォークの思想はそうした教説の副産物である、というのがこの主張である。これにも一片の真理はあるだろうが、この見解の支持者が名指している容疑者たちは犯人ではない。実は、アカデミアにおいて最も危うい議論を考案しているのは、ミシェル・フーコーやアントニオ・グラムシなどのあからさまに反リベラルな理論家ではなく、リベラルな思想家たちなのだ。
過去数十年の間にアメリカの大学で長い時間を過ごした人なら、これは驚くべきことではないはずだ。文化的マルクス主義の蔓延を咎める声に反して、法学、政治学、哲学などの巨大な学部を見れば、端から端までリベラリズムだ。こうしたリベラルは、政治的議論に関する一定のグラウンド・ルールを受け入れており、例えば純粋に道徳的な目的を追求するために国家権力を行使することは制限されるべきだ、ということを認めている。だが同時に、リベラルも人間であるため、自らに課したそのような制約にいらだつのは自然であり、制約をかいくぐる巧妙なやり方を探し出すことが多い。そのためリベラルな学者は、理に適った不同意と理に適わない不同意の境界線をゲリマンダリングする(恣意的に区切る)ことに熟達していく。そうして、自身の好む道徳的見解に反対する主張が、理に適っていない(つまり「一線を超え」ており、禁止の条件を満たす)ものとして分類されるようにするのだ。
この例として最も有名なのは、1980年代から1990年代に研究者たちの間で大きな注目を集めた、ポルノグラフィを巡る論争かもしれない。動画の録画・再生技術が発達してポルノが利用しやすくなったことで、ポルノを検閲すべきか(あるいはその流通を制限すべきか)という論争が再発した。フェミニストの多くは、大部分のポルノに関してその内容を道徳的に不愉快に感じたが、「私はxを道徳的に不愉快に思う」という主張から「xは違法であるべきだ」という結論を直接導こうとする者はほとんどいなかった(社会保守主義者がホモセクシュアリティの違法化を支持するために全く同じ論法を使ってきたことを知っていたからだ)。
ポルノの検閲を支持する上で、特定の見解を持つ人が道徳的嫌悪感を抱くというだけでない〔より積極的な〕論拠を生み出すために、膨大な創意工夫が投じられた。そうした試みの中で最も重要なのは、ポルノが生産あるいは消費の段階で危害をもたらすため、国家による規制の対象になるとの主張だった。ポルノの危害の影響に訴える点で、これは検閲を肯定するリベラルな議論となっており、社会保守主義者の用いる反自由主義的な論法とはきちんと区別できる。そうした危害のほとんどは非常に思弁的なものだったが、多くの人は〔ポルノを規制すべきという〕結論に強く惹かれていたため、喜んで論証のこのステップ〔ポルノは危害をもたらすという主張〕の問題を無視した。この手の議論は、最終的には学術の世界から姿を消したが、若者の心には染み込んでいる。
これらは、〔自分と自分以外との〕非対称性を説明する巧妙な議論と考えるべきだ。この議論の目的は、誰もが自分に寛容であるべきだが、自分は誰に対しても寛容である必要がない理由を説明することだ。こうした洗練された議論は、「私が正しくてあなたが間違っている」という昔ながらの主張を持ち出さず、一般的な寛容の原理を受け入れた上で、それが自身の見解には適用されない理由を説明する特別なストーリーを補完するのだ。そのストーリーは状況に応じて次のような様々な形態をとり得る。
1. 危害の拡張的な定義。例えばあなたが、非常に不快な行動を行っている人を見かけたとしよう。あなたはまず、その行動を止めさせるために他の人に手伝ってもらいたいという衝動に駆られる。同時に、皆がその行動をそれほど不快に思うわけではないこともあなたは認識している。そこで、なぜその行動を止めさせるべきなのかについて、単に「個人的に不快だから」だけではない、もっと強い理由を示す必要が出てくる。論拠を強いものにする方法としてすぐ思いつくのは、その行動が何らかの仕方で危害をもたらすと示すことだろう。そしてもし真正の危害が見つけられなければ、なんらかの危害をでっちあげてしまえばよい。
これは、ホモセクシュアリティの非犯罪化を巡る論争で、社会保守主義者が発見した論法だ。この戦略の最も粗いバージョンでは、その行動を目撃すれば自分は精神的苦痛・不安を被るから、その行動は危害をもたらすのだと主張される。だがこれは説得力のある議論ではない。多くの人が指摘してきたように、その行動を見てあなたが取り乱してしまうのは、あなたがその行動を不快に思うからでしかない。あなたがその行動を見て取り乱すという事実は、〔「私にはあれが不快だから」を超えた〕追加的な考慮事項と見なすべきものではない。それゆえ、この戦略のより洗練されたバージョンは、医療的な記述を採用して、それが私のメンタル・ヘルスに害をもたらすとか、PTSDを発症させるとかと主張する。このように論じれば、〔不快に思うという事実を〕より客観的で、あなたの手に負えない事柄であるように思わせることができる。これは万能の危害を生み出す。つまり、リベラルな見かけを持つ論拠を用いて、自分が不快に思うものにほとんどなんであれ反対できるようになるのだ。
もう1つの非常によく見られる戦略は、危害をでっちあげるのではなく、自身にとって不愉快な行動と、議論の余地なく害があるとされるなんらかの行動の発生との間に、確率的な繋がりがあることを示し、前者が後者をもたらす(あるいは促す)と主張することだ。これもまた、ポルノを巡る昔の論争で主要な議論となっていた。ポルノの消費は(例えば「レイプ・カルチャー」を助長して)レイプの発生を増やすと主張されたのだ。この議論は、暴力的なビデオ・ゲームは学校での銃乱射事件を促すから禁止すべきだ、という主張と構造的に似通っている。どちらの議論も、因果関係の証明が大抵は非常に難しいという問題を持っている。だがもっと重要なのは、どちらの議論も拡張的すぎることだ。性感染症は悪いものだが、性感染症の発生を確率的に増やすようなあらゆる行動やコミュニケーションを禁じたいなどと私たちは思っていない。
近年、この議論の特にシニカルなバージョンが人気を博している。それは、抑圧を受けているなんらかのグループの自殺率の高さを指摘し、そのグループのメンバーを批判する者は(あるいは異論を差し挟む者すら)、自殺率を(繰り返すが、確率的に)上昇させることでそのグループに危害を加えている、と主張するものだ。(この議論がシニカルだと述べたのは次のような理由による。アメリカにおける男性の自殺率は女性の4倍高く、白人の自殺率は黒人の3倍高い。だが、この手の議論を行う人は誰も、白人男性の自殺率を高めないように、その心情に強く配慮すべきだなどとは考えていない。)
YIPがいつも、「私は安全でないと感じた」と主張するのはこのためだ。実際、「安全性の配慮」を持ち出すことは反自由主義的リベラルの特徴的な行動となっている。YIPは過保護な親に育てられたからそうしているのではない。「私はそれを不快に感じた」と言うだけでは他人を動かせないが、「私はそれのせいで安全でないと感じた」と言えば、自分が脅威に晒されており、真正の危害が生じているように聞こえるため、自分の主張が真剣に受け止められやすいと知っているからそうしているのである。YIPの一部は本当に心理的に脆弱なのかもしれないが、ほとんどはペナルティを引き出そうとしてダイブを行うサッカー選手のようなものだ。
2. 権利の拡張的な定義。「私的領域」と「国家介入が正統となる領域」に境界線を引くもう1つの一般的な方法は、権利という語彙を用いるものだ。個人の権利の範囲内である限り、人は自分のしたいように行動できるし、他人もそれを許容しなければならない。しかし、ある個人の権利が終わるのは、他の個人の権利が始まるところだということも広く認識されている(あるいはアメリカでよく使われる言葉では、「あなたの腕を振る権利が終わるのは、他人の鼻が始まるところだ」)。そのため、他人の権利を制限する上手いやり方の1つは、自分の権利を可能な限り拡張的に定義することだ(「あなたの鼻が大きいほど、他人が腕を振れる余地は小さくなる」)。
このような「権利の隠れた進行(rights creep)」は長年にわたり進んできた。様々な政治的立場の人が、自身の要求をフレーミングするのに、「権利」という語を利用するのが魅力的な方法だと気づいたからだ。こうして、伝統的な財(住宅など)や資格(教育など)は「権利」として記述し直された(権利という語を用いれば、そうした財や資格の供給を強く要求できるからだ)。国連では、「人権」という語が伝統的なリベラルの「権利」概念とほとんどなんの関係もない仕方で用いられている(国連の定義によれば、暴力は国家権力の正統でない行使となる)。だが、こうした拡張的な権利の語彙は、政治的要求を押し出すために利用できるのと同じように、リベラルな寛容を締め出すのにも利用できる。リベラルな社会で暮らすことは、自分が受け入れられない多くの事柄を許容しなければならないことを意味する。だが、許容しなくてよいこともある。それは、他の人があなたの権利を侵害することだ。それゆえ当然、あなたの持つ権利が増えるほど、あなたが許容しなければならないことは減っていく。
こうした考えがどのように濫用され得るかを理解するのは難しくない。例えば、オンタリオ州の公教育における性教育カリキュラムの改革を巡って生じた激しい論争を考えてみよう。政府は当初、カリキュラムの一部は義務的〔必ず学習しなければならない〕だが、その他の部分はオプション〔学習するかしないかを選択できる〕であり、親や生徒はその部分を飛ばしてもペナルティを課されないと宣言して、反対意見を逸らそうとした。「基本的権利」に属する事柄(例えば「同意」)を論じる部分は義務的とされ、より議論が分かれる部分(例えば「ジェンダー・アイデンティティの扱い」)はオプションの方に分類された。だがこれは全く上手くいかなかった。競合する様々な立場の支持者たちは即座に、自分たちの主張を、基本的権利の問題に関わるものとしてリフレーミングしたからだ。ジェンダーは自認(self-identification)を通じて決定されるべきであり、この主張に異議を唱える者はトランス・コミュニティの一定部分の人々の「存在する権利(right to exist)」を否定している、という今やおなじみの議論もそこには含まれていた(これは言葉の綾として特に上手くいっていない。問われているのは「生きる権利」であるかのように聞こえるが、実際に問われているのは自己記述(self-description)のみだからだ)。国連人権理事会は、生徒と教師に驚くべき量の権利を帰する(同時に親のあらゆる権利を無視する)文書を出して、この流れに無益な仕方で一枚加わってすらいる。
3. 自発性の限定的な定義。リベラルな社会において人々は、結社の自由(freedom of association)を与えられている。つまり人々は、自身の生き方を追求するだけでなく、そうした目的を集団で追求するためにグループや結社を作ることができる。こうした組織は、リベラルな正義の原理に沿わないルールや手続きを採用しがちだ。最も明白なのは、あらゆるメンバーを平等に扱わないかもしれないことだ(例えば、カトリック教会が女性を役職に就かせないことなどを考えよ)。だがこれはリベラルな社会では許容されている。そうした組織への参加は自発的(voluntary)だからだ。そのような扱われ方を好まない人は、組織を離れることができる。
だが、こうした取り決めに誰もが完全に満足しているわけではない。そうした組織の一部は非常に巨大で強力だからだ。そこでリベラルな理論家は、そのような組織の内部規範を、公共領域で普及している正義の原理に沿わせるよう強制する方法を探し出すことが多い。1つの方法は、そうした組織への参加が本当の意味でどれほど自発的なのかという点に疑いを投げかけることだ。例えばオンタリオ州で起こった別の有名な論争を見てみよう。この論争は、ムスリム女性の多くが、非公的な調停(private arbitration)による離婚の同意手続きを選んだという事実を巡って生じた。この非公的な調停は〔イスラムの〕宗教的原理に基づいたもので、女性はカナダの家族法において認められているよりもはるかに少ない権利しか与えられていなかったのだ。こうした慣習に制限をかけたいと望んだ人々の間で人気な議論は、次のようなものだった。ムスリム女性による同意は真に自発的なものではない。宗教的権威に従うのを拒むことは、様々な点でコストが高いだろうからである。
コストがあまりに高いため〔実質的に〕無理強いとなる状況が存在することは明らかだ。しかしこの議論は一般的な形態として、結社での営み(associational life)に対する際限のない介入への扉を開いてしまう。自発性の基準をますます厳格にして、理想的基準に達しないものは何であれ無効な同意と見なすからだ。これは、性的同意の条件をますます狭くしようとする試みにおいて何度も繰り返されているおなじみの議論だ。性の領域で最も広く濫用されているのは、不平等(あるいは「権力の非対称性」)が存在するだけで、劣位に置かれた側が自由な同意を行える可能性はなくなる、との主張かもしれない。例えば多くのYIPは、年齢差のある成人間でのセックスに対して驚くほどピューリタン的〔潔癖〕な態度をとっている。これは、年齢差が存在するというだけで、その関係が真に自発的であることはあり得なくなる(それゆえ許容する必要がない)との理由で擁護されることが多い。ここでも、私的な道徳的見解が、他人に生き方を指図するためのリベラルな見かけをした議論へといかにロンダリング(浄化)されたかを見て取るのは難しくない。
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本エントリの目的は、YIPを実態よりも洗練された考えを持つ人々として描き出すことではない。おそらくYIPの圧倒的大多数は、こうした問題を「私が正しくて相手が間違っている」という仕方で考えている。アカデミアからTikTokへと至る議論の伝達の連鎖は、伝言ゲームのようなものだ。
しかし、目に余るほど反自由主義的な議論は、大きな注目を集めることはできても、行動を生み出すのにはあまり成功していない。対照的に、リベラルな見かけを持つ議論は、即座には棄却できないため、行動を生み出すのに成功してきた実績がある。こうした議論は真に曖昧な領域に入っているからこそ、完全に無視することはできず、各ケースを是々非々で評価する必要がある。だからこそ、リベラルな見かけを持つ議論はかくも扱いづらいのだ。リベラルな理論家が万事完璧に議論を進めてきたのに、YIPがやってきてその主張を濫用したり誤解したりし始めた、というわけではない。境界線の問題に明確な答えはない。だからこそ、こうした議論はリベラルでない目的のために濫用されやすくなっているのだ。こうした議論がどのように機能しているかを注意深く見定め、個別に対応していくしかないのはこのためである。
〔本エントリは、政治学者のヤシャ・モンク(Yascha Mounk)氏が創設したオンライン・マガジンPersuasionに掲載されたものであり、ジョセフ・ヒース教授の許可に基づいて翻訳・公開している(元記事はこちら)。また本エントリは、Institute for Humane Studies(IHS)の協賛による“Why Liberalism”というプロジェクトのシリーズ記事の1つである。〕
[Joseph Heath, Illiberal Liberalism, Persuasion, 2024/7/30.]