1790年代半ばから1814年までの驚嘆すべき20年間、フランスは、ナポレオン・ボナパルトの指導の下、ヨーロッパ大陸の大部分を支配するようになった。最盛期、ナポレオン帝国はその国境を、〔北海沿岸の〕低地帯諸国、イタリア、〔バルカン半島西部の〕イリュリア地方にまで広げた。同時に、スペイン、ドイツ、イタリア、ポーランドはナポレオンの支配下に置かれ、多くはナポレオンの一族によって統治された。デンマーク、プロイセン、オーストリアは屈辱的な条件の同盟への署名を余儀なくされた。
この暴挙は、17世紀からのフランスの台頭によるヨーロッパの形成のクライマックスとなっていた。この弧を描いたフランスの台頭は、ルイ14世によって勃興し、ヴェルサイユという巨大な宮殿として具現化し、1792年の王政の転覆、1793年の王の処刑という事実によって、劇的さを強めた。
ナポレオンは、共和制国家の征服に従事した将軍であり、自らを皇帝とした。この雛形がここまでの規模としてヨーロッパで観察されたのは、ローマ時代が最後であった。そして、ナポレオンは、単なる征服に従事した将軍ではなかった。彼の指揮下にあったフランス陸軍は、陸上において眼前の全てを制圧した。これは、歴史上かつてないものであった。
軍指揮官は、いかなる時も栄光を夢見てきている。少なくとも17世紀のグスタフ2世アドルフ(スウェーデン王)の時代から、ヨーロッパの将軍らは征服を目的とした野心的な軍事行動と展望を描いた。しかし、17世紀から18世紀にかけて戦争は、多くの場合で遅々としたものであり、決定的な成果をもたらさなかった。1740年代から1750年代にかけて、プロイセンのフリードリヒ2世は、「大王」の称号を得るに値する、歴史に残る幾多の戦いを繰り広げたが、彼の経歴を彩った戦いのほとんどは防戦だった。七年戦争での主要な戦闘は、双方ともに5万人足らずの兵力しか動員していない。
ナポレオンの大陸軍(グランダルメ)は、10倍の規模となっていた。ナポレオンは、軍団と師団を大陸規模で展開した。1805年から1807年にかけて、ナポレオンの包囲作戦はオーストリア、ロシア、プロイセンに破壊的な敗北をもたらした。ナポレオン時代にクライマックスとなった諸戦争は、数十万の軍隊によって行われた。これは軍事史においてこれまでにない規模だった。
諸作戦は、雌雄を決する戦いによって終結し、ヨーロッパの地図を塗り替えた。これは前例のないものだった。1805年、ウルムとアウステルリッツでオーストリアは壊滅的な敗北を喫し、100年の歴史を誇る神聖ローマ帝国は自主解体に追い込まれた。ナポレオンは、ドイツ語圏ヨーロッパの広大な領土に新しい政治形態をもたらした。〔神聖ローマ帝国の〕公爵位は、王位に格上げされた。フリードリヒ大王によって名声を高めた新興国プロイセンは、ロシア皇帝ツァーリの寛大さに頼って1806-1807年の破滅的な敗北を免れている。
ラインハルト・コゼレックは、1790年代から1800年代初頭までの期間を、西洋の近代的な世俗史の概念が形成された時代(鞍の時代:サテルツァイト)であるとすれば、ナポレオンはその時代のおそらく最初の英雄(あるいは反英雄)であった、としている。歴史というものが存在したとするなら、ナポレオンによる戦争と軍事指揮が歴史を作り、その再編を示したのだ、と。
ヘーゲルは、〔ドイツの都市〕イェーナを駆ける皇帝ナポレオンを、「世界精神」が馬に乗っていると表現した。プロイセンの戦争理論家クラウゼヴィッツは、18世紀に愛好された合理主義的で幾何学的な戦争観へのアンチテーゼとして、戦争についてのラディカルな歴史観とロマンティックな見解の把握に努めたが、これはナポレオン戦争・戦闘の歴史的有効性からなっていた。
〔ナポレオン時代から〕180年後、歴史家トーマス・ニッパーダイは、19世紀のドイツ史を、次のようなシンプルな言葉から始めている。曰く「はじめにナポレオンありき」
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上記は、リドリー・スコットのナポレオンについての劣悪な映画への怒りから想起したものだ。私のポッドキャスト『Ones and Tooze』の今週回では、キャメオン・アバディと一緒に、この映画について議論した。さらに、我々は以下のような様々な疑問も取り上げている。
・ナポレオンはどのように戦費を調達していたのか?
・そして、ナポレオンは、進歩主義として名を刻まれるべきなのか? それとも保守派なのだろうか?
・これらは、ポッドキャスト『Ones and Tooze』でのキャメオン・アバディとの会話から出てきた疑問の一部だ。詳しくは、ここで視聴および通読可能だ。
ナポレオン戦争が、ヨーロッパの歴史をかつてない規模で塗り替えたとしても、その短期の統治では、戦争と同じほど、権力の社会・経済的条件での秩序をひっくり返せていない。
ナポレオン戦争は、それまでのヨーロッパの戦争に比べて、はるかに大規模で、組織的にも洗練されたものだった。膨大な数の兵士が従軍していたことを考えると、戦場での戦死者はかつてないほど凄惨なものだった。スペインのようにゲリラ戦が長引いた場所では、市民生活は荒廃し、経済も混乱した。Leandro Prados de la EscosuraとCarlos Santiago-Caballeroによる最近の推定では、ナポレオン戦争中のスペインの超過死亡数は約100万人で、そのうちの1/3が直接の軍事犠牲者だった。当時のスペインの人口が約1,400万人だったことを考えると、これは恐ろしい数値であり、戦争の恐怖を描いたゴヤの有名な芸術とも一致するものだ。それでも、何年にもわたって略奪が繰り返され、飢餓や疾病とも相互作用していた近代の紛争で観察された20~30%の死亡率には遠く及ばない。
ナポレオン戦争は、スペインにおいてすら、17世紀の30年戦争の間にヨーロッパの中央で見られたような日常生活の破壊をもたらさなかった。スペインの一人当たりGDPは、最良の推定値では大きな変動が見られるが、戦争終結期には非常に急速に回復しており、これは〔ナポレオン戦争によってスペイン〕国土が荒廃していたら不可能だっただろう。
ドイツでもウルリッヒ・フィスターのデータによると、実質賃金は1800年初頭には底を打っているが、この下落はナポレオンの侵略ショックのかなり前から始まったものだ。
フランス本国では、ナポレオンは金融改革で、1790年代のフランス革命のインフレを収束させた。フランス中央銀行は1800年に創設され、1803年にフラン・ジェルミナルの発行が開始され、フランスの戦争資金の基盤が確保された。フランスの戦争資金は、賠償金と賦課金、課税、新規借入の健全なバランスに依存していた。新規借入は、1790年代にアンシャン・レジーム期の巨額の国家債務が帳消しになったことで容易となった。
ナポレオン時代の最も永続的な法改正は、間違いなくナポレオン法典であり、これは世界中の法制度の形成に影響を与えた。
しかし、ナポレオンの影響は、フランス経済に直接的な変化をもたらしたというより、長期的に感じられるものであった。
ナポレオンは間違いなく、道路や運河のような大規模なインフラ建設に関与したかっただろう。しかし、戦争への要望は、彼の〔内政的〕野心を押し殺すことになった。実際、現在の推定によるなら、フランスの道路インフラは、ナポレオン時代に劣化した可能性が高い。
ナポレオンによる最も劇的な経済政策は、1806年11月のベルリン選挙後に発表された大陸封鎖令だった。これは、ヨーロッパの市場からイギリス製品を排除することで、イギリスを攻撃しようとする急進的な取り組みだった。イギリスは、フランス帝国への封鎖と、世界規模の戦争で応じた。
フランス、イギリス、世界経済への幅広い影響は、当時の乏しかった経済データにもはっきりと表れている。ケビン・オルークが示したように、貿易のフロー(流れ)は減少した。フランスの貿易は、傑出した砂糖植民地だったハイチの奪回に失敗し、大きな打撃を受けている。
世界中で様々な価格が激しく変動した。
輸入品のお預けをくらったアメリカは、〔自国内での〕繊維産業の発展を開始した。一方、東インド会社のような古い帝国による貿易会社は、特権の多くを失った。戦争の終結後には、アジアとの幅広い自由貿易の到来を予見するものだった。
つまり、ナポレオンという人物には惹きつけられる広範な魅惑があるかもしれないが、皇帝の計画や野心という狭い焦点を当てると、フランス国家の行動と、それに対応して動員された大規模な対抗勢力の両者から定義される「ナポレオン時代」の影響の実像を見誤ってしまうのだ。
ナポレオンの過剰や野心と成功は、周辺諸国の結合を呼び起こし、それはフランス敗戦後の19世紀初頭のヨーロッパ情勢を支配した。東ヨーロッパでは、ロシアが大陸勢力の調停者として台頭した。1814年、〔ロシア皇帝〕ツァーリの軍隊コサックは、パリの街を闊歩している。ロシアは、ビスマルクがドイツの案件を解決する好機を見出すまで、ドイツの問題に決定的な発言力を持ち続けた。
海の外では、大英帝国はナポレオンを牽制した。1805年から1807年にかけての、ナポレオンのドイツでの大勝利は、フランス・スペイン海軍のトラファルガーでの決定的な敗北に続いたものだった。
ナポレオンと戦い、ナポレオンの敵に資金を提供するために、ロンドンは前例のない戦時財政を動員し、GDPの18%相当を税として徴収した可能性がある。1800年代初頭のイギリスの一人当たりGDPが質素だったことを考えると、これは驚くべき数値だった。概算すると、1800年当時のイギリスの一人当たりGDPは現代ドル換算で2,500ドルであり、その20%を対外戦争に充てるのは、破格の動員となっていた。
これは高負担だったが、イギリスは財政破綻しなかった。1820年には金本位制が復活し、保守的な緊縮財政が実施されたことで、イギリス政府は、フランスの革命政体との長い戦いから抜け出し、世界金融の中心地となった。
イギリスはまた、前例のない規模で海洋航路を支配した。イギリスの海洋覇権の基礎を築いたのはナポレオン戦争だった。
イギリスは、商船においても優位を固め、ヨーロッパの海運でのイギリスのシェアは1/3から半分以上に急増した。
1820年代には、新しいグローバル経済の輪郭が可視化されはじめ、それは英国のグローバル帝国によって縁取られた新しい「世界情勢」であった(Geyer and Bright World History in a Global Age)。むろん、フランスの挑戦がなくとも、イギリス政府がこの支配を確立するために必要な資源を動員していた可能性もある。しかし、フランスの挑戦がなければ、イギリスの財政施策がそれほど大きくなったとは考えづらい。いずれにせよ、推測の域を出ないものだ。我々が見知っている歴史は、ナポレオン時代のフランス、イギリス、ロシア間での雌雄を決する戦いによって形成された。なので、ドイツ史だけでなく、より広い世界史においても、単純だが拘束力ある強制命題を真剣に受けいれねばならない。「はじめにナポレオンありき」
〔Adam Tooze, Chartbook 251: In the beginning was Napoleon, 2023/12/3.〕