●Miles Kimball, “John Stuart Mill on the Protection of “Noble Lies” from Criticism”(Confessions of a Supply-Side Liberal, March 10, 2013)
「高貴な嘘」という概念に興味がある。ずっとだ。それはなぜかというと、モルモン教について議論を交わしている最中に、モルモン教の教義が万一「間違い」であったとしても、モルモン教は信者にとって「有益」なんだと真面目に語られる場面に何度も出くわした経験があるからだ。
ウィキペディアによると、
「高貴な嘘」というのは、社会の調和を保ったり何らかの課題を解決したりするのに役立てるために、国家を統治するエリートが間違いだとわかっていながら流布する嘘のことであり、宗教にまつわる神話ないしは虚偽というかたちをとることが多い。「高貴な嘘」は、プラトンによって『国家』の中で提示された概念である。
世俗的な分野でも同様の例がある。「ポリティカル・コレクトネス」なんかがそうだが、社会の調和を保ったり社会正義を実現したりするために必要だからという理由で、ある特定の考えへの批判を封じようとするのだ。議論の対象にするのでさえ封じようとするのだ。
ところで、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』の第2章――「思想と言論の自由について」(“Of the Liberty of Thought and Discussion”)――で、「『高貴な嘘』を批判するなかれ」と説く見解に考察が加えられている。「高貴な嘘」というよりも「壮大な神話」(“magnificent myth”)と表現すべきという意見もあるかもしれないが、どう表現するにしてもミルの以下の議論はそのまま成り立つだろう。
「信仰を欠いている一方で、懐疑論に怯えている」のが現代だと言われている。自分の意見に確信が持てないで、何も信じられなくなると、どうしていいかわからなくなってしまうに違いないと怯えられているのだ。そのような時代の風潮ゆえであろう。「正しい」からではなく、「社会にとって有益」だからという理由で、ある意見を批判してはならないと唱えられることがある。人々の幸福にとって絶対不可欠とまでは言えなくても極めて有益である信念(意見)というのがあって、そのような信念(意見)への批判を封じるのは、政府が果たすべき当然の義務だというのである。その他の公益を擁護するのと変わらないというのである。政府が自らの無謬性に確信が持てなくても、世論によって支持されるようなら、社会にとって有益な信念(意見)への批判を封じる必要があるし、そうするのは政府の義務だというのである。
社会にとって有益な信念(意見)に攻撃を加えたがるのは、悪人くらいしかいないと語られることもある。口に出さずとも、心の中でそう思われていることはもっと多い。悪人の行動を縛ったところで何か不都合が生じるわけはないというのである。悪人だけしかやりそうにない行動を禁じたところで何か支障が生じるわけがないというのである。
ある意見が「正しい」からではなく「有益」だから、「言論の自由」に制限を加えてもよいという理屈になっているわけだ。「有益」かどうかを問題にすることによって、自らの無謬性を立証しなくても「言論の自由」に制限を加えよと求めることができるつもりになっているのである。しかしながら、それは早合点だ。意見の真偽を確実に判定できるという意味での無謬性に代わって、意見の有益性を確実に判定できるという意味での無謬性が想定されているのだ。
ある意見(信念)が有益かどうかは、それ自体意見が分かれる問題である。ある意見が正しいかどうかを問うのと同じくらいに、論争の余地がある問題であり、討論に付すべき問題であり、議論を要する問題である。ある意見が間違いであると結論付けるためには、その意見の持ち主に自説を擁護する機会が十分に与えられねばならないのと同様に、ある意見が有害であると結論付けるためには、その意見の持ち主に自説を擁護する機会が十分に与えられねばならない。そのような抗弁の機会を設けなくても意見の有害性を判定できると言い募るのは、どこかに無謬の判定者がいると想定していることになるのだ。
異端者(有害だと見なされている意見の持ち主)には自説の「有益さ」(あるいは「無害さ」)を擁護する機会さえ与えればそれでよくて、自説の「正しさ」を擁護する機会まで与える必要はないと言いたいわけではない。意見の「正しさ」は、意見の「有益さ」の一部である。ある意見を信じるのが望ましいかどうかを判断する時に、その意見が「正しい」かどうかは考慮しなくていいなんてことがあり得るだろうか? 真理に反する信念(意見)が真に有益であることなんてあり得ないというのは、悪人が抱く邪(よこしま)な考えなんかではなくて、賢人たちの間で受け入れられている考えである。賢人たちが世間で有益だと思われている意見に異を唱えたかどで罪に問われたとしたら、反論として必ずや持ち出してくるに違いない考えである。真理に反する信念(意見)が真に有益であることなんてあり得ないと訴えるに違いないのだ。世間で有益だと思われている意見を奉じている主流派の側はどうかというと、やはりこの考え(「正しくない意見が真に有益であることはあり得ない」)を最大限に利用している。「有益」かどうかという問題と「正しい」かどうかという問題を完全に切り分けようとはしないのだ。それどころか、世間で有益だと思われている意見は「真理」であるからこそ――「正しい」からこそ――、学びもし信じもする必要があると見なされているのである。
主流派の側は「有益」とされている意見を擁護するのに「正しさ」を論拠として持ち出せるのに、異端派の側は「有益」とされている意見に異を唱えるのに「真理に反している」という理由を持ち出せないようなら、公平な討論なんてできるはずがない。実際問題として、意見の「正しさ」に疑いを差し挟めないようになっていると――そうすることが法律によって禁じられているか、世間が許さないかして――、その「有益性」にも疑問を差し挟めないようになっている場合がほとんどである。その意見への全幅の信頼をいくらか弱めることができるか、その意見に攻撃を加えた罪を軽減してもらえるくらいが精々(せいぜい)である。