ジョセフ・ヒース「左派の『勝利条件』を創出する:エズラ・クライン & デレク・トンプソン『アバンダンス(Abundance)』について」(2025年7月13日)

アメリカの進歩派は、これをネオリベラリズムへの降伏などと考えるべきではない。左派がより切実な目標を実現するための「勝利条件」を創出する方法と考えるべきである。

今年出たアメリカ政治に関する2つの著書、エズラ・クライン(Ezra Klein)とデレク・トンプソン(Derek Thompson)の『アバンダンス(Abundance)』、そしてマーク・ダンケルマン(Marc Dunkelman)の『なぜ何も進まないのか(Why Nothing Works)』について、猫も杓子も議論している。私もご多分に漏れず、書評を書いたところだ。この書評は“Commonwealth and Comparative Politics”誌に載る予定だが、すぐには公開されそうにないので、Academia.eduの私のページに載せている。書評で言及したように、この2つの著書は、その内容よりもむしろ、読者から寄せられている反応の方が興味深い。だがこうした考察はアカデミックな雑誌の書評で書くことではないので、このブログでもう少し掘り下げたいと思う。私自身はダンケルマンの本の方が優れていると思っているが、『アバンダンス』の方が話題なのでそちらについて論じよう。

『アバンダンス』(アバンダンス・アジェンダ、アバンダンス主義)に対して寄せられている不満を見てすぐに気がつくのは、この本の政治的なポジショニングに問題があるということだ。批判者の多くは、アバンダンスを、もっとずっと左翼的なアジェンダ(福祉国家の拡張と、積極的な富の再分配に焦点を当てる路線)に代わるオルタナティブを提示するものと見なしている。だが、アバンダンス・アジェンダはむしろ、より積極的な左翼的アジェンダを推進するための前提条件を構築しようとする試みとして理解する方がよい。アメリカにおいて福祉国家の拡張を妨げている大きな障壁は、アメリカの行政が実に、実にひどい有様であることだ。政府に何か具体的な仕事をさせるにはまず、そうした仕事を実際に実行できる政府機構を作らなければならない。

残念ながら、アメリカ人にこのことを理解させようとしても、信じがたいほどもどかしい経験をすることになる。このことについて考えるとき、私は、カナダで15年前に起こった、ケベック州の公共セクターの腐敗を巡る大論争を思い出す。ケベック州の人々の大方の反応は、防衛的な姿勢でその主張を否定するというものだった。「腐敗なんてない、これはただのケベック叩きだ」、と。腐敗が単なる疑惑ではなく、実際に生じていることだと分かると、同じ人々が今度は「うん、確かに腐敗はあるかもしれない、でも腐敗の度合いは他の州と同じぐらいだ」と言い始めた。もちろん、「そうではない」ということを証明するのは難しいので、私たちとしては「信じてほしいけど、他の州ではそれほどひどくないんだよ」と懇願するように言う他なかった。だがもちろん、ケベック人のほとんどはケベック州の外で暮らしたことがないので、他の州で暮らすカナダ人にとっては自明なことでも、理解する術がなかったのだ。

アメリカの民主党員と議論しようとすると、ほとんど同様のダイナミクスが生じる(まして民主社会主義者ならなおさらだ)。こちらがまず、「アメリカ人が反政府的なのは、アメリカの連邦、州、地方、あらゆるレベルで、公共セクターが信じられないほど仕事ができないからじゃないでしょうか」と言うとしよう。すると大抵、アメリカの民主党員はその主張を単純に否定する。そこでこちらは、「アメリカでは、単純な手続きを行うにも、複雑な書類を書かされ、長い行列に並ばされ、1980年代の技術を使わされ、職員と話せず、ちょっと間違っただけでも罰にビクビクすることになりますよね」と指摘する。すると、彼ら彼女らは譲歩して、「どの国でも政府とはそういうものですよ」と答える。こうなると、ただ懇願するように「いや、真面目な話、全ての国の政府がこれほどひどいわけじゃないんですよ」と言うしかなくなるのだ。しかしケベックの例と同様、アメリカ人のほとんどはアメリカの外で暮らしたことがないから、そこそこ効率的な行政の下で暮らすという経験すらしたことがなく、他の国の人々にとって自明なことでも理解する術がないのだ。

そういうわけで、アメリカでのアバンダンスを巡る大論争に私が1つ考察を付け加えられるとしたら、次のようなものになる。アバンダンスの支持者が、政府の仕事ぶり(特にニューヨークやカリフォルニアのような場所での)を改善するために論じていることは、他の国の人間からすると全く自明なことばかりである。アメリカの左派の根本的な問題は、望んでいる目標が見当外れなことではなく、〔メインディッシュの〕お肉を食べ終える前にプリンを食べようとしていることだ。

あるいはアメリカの慣用句に直せば、アメリカの左派は、野菜を食べる前にデザートに飛びついてしまっているのだ。アメリカの進歩派は、スウェーデン式の福祉国家を望みながら、スウェーデン式の福祉国家を創るのに必要な政府機構を構築するための大変な仕事に一切取り組もうとしない。この例はいくらでも挙げられるが、特に印象的なのは、エリザベス・ウォーレン(Elizabeth Warren)が富裕税の導入を訴えていたことだ。これは「メインを食べずにプリンに飛びつく」の典型例である。富裕税は様々な論拠から反対されているが、最も重要な論拠の1つは、富裕税を課すためには全く新しい行政システムを構築する必要がある、というものだ。なぜなら、現在のところ政府が納税者に報告するよう求めているのは、納税者の所得であって、納税者の持つ富全てではないからだ。所得税の書類にいくつか欄を増やせばいいというものではない。問題は、ウォーレンが選挙戦に出た2020年、アメリカの連邦政府は所得税を徴収することすら満足にできていなかったことだ。

これは実は、私自身が(不幸にも)個人的に発見した問題である。この問題に気づいたのは、アメリカのIRS(内国歳入庁)とやりとりしていて、ちょっとした問題に突き当たったときのことだった。私は、社会保障番号(SSN)と個人用納税者番号(ITIN)の両方を持っている(その理由は、この話にとって特に重要でない個人的な事情なので省略する)。私はITINの番号で納税申告書を書いたのだが、いくつか修正が必要となり、その結果、IRSから「税金が未納です」という書類が送られてきた。私はIRSの新しいシステムを使って、オンラインで未納分を支払った。これで一件落着と思いきや、思わぬ落とし穴があった。オンラインでの支払いはSSNの番号で登録されており、ITINの番号では登録されていなかった。結果、IRSから「税金が未納です」という書類が届き続けることとなった。

これが、18ヵ月以上(誇張ではない)に及ぶ長い闘いの始まりであった。最初は、郵送でなんとかなると思ったので、未納金を支払ったことを示す領収書のコピーを紙で送った。それで返事がなかったので、会計士に相談して、もっときちんとしたバージョンの書類を送ってもらった。それでも返事がなかった。一方その頃、IRSからは脅しのような書類が届き始めた。そこには、私の口座に内容不明の罰金が科されているので、IRSに電話し担当者と話して未納金を調べるように(さもなくば資産が没収されるとか、給料が差し押さえられるとかなんとか)、と書かれていた。

ここまではIRSとのいつものめんどくさいやりとりだった。だが事態がおかしな方向に転がり始めたのは、IRSに電話しようとしたときだった。ちょっとした自動音声対応システムの誘導の後、「通話できる担当者は現在おりません」という録音メッセージが流れて、その後、電話を一方的に切られたのだ。同時に、IRSからは「担当者に電話して話さないとひどいことになるぞ」という手紙が届き続けていた。他のどんな国の行政機関でも、こちらからかけた電話を一方的に切られるなんて仕打ちを受けた記憶はない。

IRSでの私の経験は全く特殊な例ではない。以下は、2022年に会計検査院がIRSの顧客サービスについて出したレポートだ。

2022年の納税申告期間において、カスタマーサービス担当者が応答した電話の件数は、前年より少なかった。かけられた電話の総数は減少していたにもかかわらずだ。具体的には、2021年と2022年の納税申告期間で比べると、電話の総数は67%減っているのに(1億3130万件)、カスタマーサービス担当者が応答した電話の件数は58%も少なかった(630万件)。さらに、4310万件の電話はIRSに届くことすらなかった。そのうち、カスタマーサービス担当者が対応できず電話が切れたのが2620万件、納税者が打ち切った電話が1660万件、通話中で繋がらなかったものが約31万件である。

重要なのは、IRSが630万件の電話にしか出ておらず、2620万件の電話を一方的に切っていたということだ。

私はアメリカの会計士に、どうしたらいいか聞いてみた。会計士は、早起きしてIRSが開くと同時に電話をかけてみてはと提案してきた(「私たちはそうしています」)。このアドバイスに従い、何週間か挑戦した結果、ようやく人と通話することができた。担当者は、私がシステム上で2人の人間として認識されているせいで問題が生じている、ということを確かめてくれた(この時点で物語の12か月目にあたる)。その担当者は、解決策は2つのファイルを統合することだと言った。だがその後、電話を保留にして上司と相談してから、担当者は「私にはその解決策を実行することができない」と言った。代わりに担当者は、私が書類を出したのとは別のIRSの事務所のアドレスを教えてくれた。そこに手紙を出して、問題を説明し、レシートを送れというのだ。私は言われた通りのことを行い、さらに数カ月待たされた(60日が経つごとに、新しい方の事務所から、「書類を送っていただきありがとうございます。私たちは現在も仕事に取り組んでいます」という書類が届いた。同時に、古い方の事務所からは脅しのような書類が届き続けた)。そうしてついに、ファイルは統合されたという知らせが届いた(内容不明の「罰金」の方がどうなったかについてはなんの情報も届かなかった)。

この事件の顛末を長々と述べて読者を退屈させたいわけではない。私がこんな話をしたのは、この経験をして本当にビックリしたからだ。ほとんどのカナダ人と同様、私はカナダの歳入庁にイライラしているが、これにちょっとでも似たような出来事など起こったことがない。一番最悪だったのは間違いなく、IRSの担当者と電話したときだ。担当者はコンピュータを見ながら、何が問題かを理解していたのに、それを解決できず、それを解決するためのリクエストを優先事項とすることすらできなかったのだ。これは端的に言って、バカげている。

重要なのは、IRSは所得税を徴収する能力すらまともに持ち合わせていないということだ。IRSが富裕税を徴収できるなどというのは、SFのような話である(ニューヨーク市が公営スーパーを経営できると考えるのと同じくらいイカレている [1] … Continue reading )。問題は、アメリカ人が公共セクターでこうした不便さを経験すると、それを政府一般の問題と考え、アメリカ政府が特に問題を抱えているということには思い至らないことだ(私の友人のクリストファー・モリスは以前、ふざけた調子でこんなことを言っていた。政治哲学には、「アメリカン・リバタリアニズム」とでも呼べる立場が存在するはずだ。この立場は、政府が様々な経済活動を行うことに異論がないという点で、一般的リバタリアニズムとは異なる。この立場が反対しているのは、アメリカ政府が経済活動を行うことだけだ)。

もちろん、バイデン政権はIRSの欠陥を直そうとし、一定の進歩を見せたが、第2次トランプ政権によって全てが台無しとなってしまった。残念ながら、この「メインが先、デザートが後」問題を避ける方法は存在しない。アメリカ人が税金にこれほどヒステリックに反発する理由の一部は、アメリカの所得税システムが恐ろしく複雑で、全く不透明で、たくさんの行政上の負担を課し、無能で市民を脅迫してくるような機関が徴収を担っているからだ。これは、アメリカの左派にとって大きな問題である。だが、「最優先事項はIRSを立て直すことであるはずだ。新しい税を課すのはその後だ」と人が言えば、中道主義の寝返り野郎(sell-outs)だと言われることになる。

これが税金だけの問題でないことを分かってもらうために、もう1つだけ例を挙げよう。アメリカには現在、18,000を超える警察署が存在する(カナダでは約160、イギリスでは48だ)。これらの警察署のほとんどを、もっと少数の大規模組織(専門職的経営に服するような)に統合しなければ、アメリカにおける取り締まりの問題を解決することなど文字通り不可能だ。そのため、アメリカにおける取り締まりを改善する最初のステップは、ほぼあらゆる郡の警察力と保安官事務所を、州の警察署に吸収することだろう。これは「メインが先、デザートが後」的な警察改革だ。これは、社会正義のチェックリストに載っている様々な問題を進展させるための前提条件である。それでもアメリカの進歩派は、この種のアドバイスを聞きたがらない。すぐプリンに飛びつきたがるのだ。アメリカの進歩派は社会正義を求めているが、社会正義の実現のための制度的前提条件を整えてこなかったのである。

どうすればこうした傾向を是正できるだろう? 最後に、ケベックの政治から引き出せるもう1つの教訓を提示したい。1995年、ケベック独立の是非を問う住民投票に敗れた後、ケベックの分離主義者たちは次のように考えた。ケベック住民がカナダに留まりたがる大きな理由は、経済的な不安だ。ケベックがカナダで最も高い税を徴収しながら、公共サービスの資金を賄うために他の州から多額の金銭移転を受けているという事実は、ケベックの独立の推進にはプラスに働かない。そのため分離主義者たちは、再び住民投票を実施するためのキャンペーンを行うのではなく、住民投票の「勝利条件(winning conditions)」の創出を優先することに決めた。つまり、経済状況の改善、政府債務の削減、公共サービスの質の改善(そしてついでに、先住民との関係改善)に焦点を当てて、独立によって暮らし向きが良くなるとケベック人が自信を持てるようにしよう、と考えたのである。

これはある意味で、ケベック政治における最良の出来事だった。「勝利条件」は主権主義者〔分離主義者〕のスローガンとなった。このスローガンによって、ケベック人の日常につきものだったバカげた厄介ごとを解決することに焦点を当てながら、それをラディカルなナショナリスト的プロジェクトの推進という大義の下で行うことができたのだ。アメリカ人に今必要なのは、こういう類のものだ。アバンダンスのアジェンダは基本的に、アメリカの政府規制(特に、インフラや住宅建造の領域)において蓄積されていったバカげた厄介ごとの一部を取り除くことだ。アメリカの進歩派は、これをネオリベラリズムへの降伏などと考えるべきではない。左派がより切実な目標を実現するための「勝利条件」を創出する方法と考えるべきである。

[Joseph Heath, My two cents on Abundance, In Due Course, 2025/7/13.]

References

References
1 訳注:ニューヨーク市長選で民主党の候補となったゾーラン・マムダニの公約の1つ。マムダニは民主社会主義者を自称しており、アメリカにおける社会主義の旋風として現在注目を集めている。
Total
0
Shares

コメントを残す

Related Posts