ウェンディ・ブラウンの『いかにして民主主義は失われていくのか 新自由主義の見えざる攻撃』を読むことに決めたのは、ブラウンのLSEでの講義に関連するツイートを見たからだ。私は新自由主義なる概念について確固たる見解を持っていない。「新自由主義」が何を意味するのか分かっていないのだ。ラディカルな著述家たちは、「経済学のほとんど」を指してこの言葉をよく使う(フィリップ・ミロウスキの“Never Let A Serious Crisis Go to Waste”が好例だ)。そして、マルクス主義者や、間違いなく異端派と言える経済学者だけが例外とされる。私は、ヤニス・ヴァルファキスが新自由主義者ではないと分かる程度にはこの言葉を理解している。しかし、そうした例外を除く経済学の大部分を新自由主義だと切り捨ててしまうなら、私見では、この概念は全く役立たずなものになる。もちろん、イデオロギー的に右翼の経済学者は存在するが、経済学の内部には、政治についても経済についても多様な見解が存在している。
ブラウンの本はもっと鋭い議論を行っていると私は思っていた。ブラウンは新自由主義を以下のように定義している。「新自由主義とは、国家が経済を放任することではない。それどころか、新自由主義は、経済のために国家を活性化させる。といってもそれは、国家が経済的機能を引き受けたり、経済的影響に介入したりすることではなく、経済的競争と成長を促進し、社会を経済化する(フーコーの言葉を使えば、「市場によって社会を統制する」)ことを目的としている」。ブラウンは、新自由主義は「公共的価値、公共善、人々の政治生活への参加の劇的な縮小」を必然的に伴うと付け加えている。この定義なら私にも理解できる。つまり、新自由主義は、市場は卓越した制度であるという主張を用いて、特定の政治秩序を生活のあらゆる領域へと拡張していこうとする政治イデオロギーのことだ。これはマイケル・サンデルが“What Money Can’t Buy”〔『それをお金で買いますか』〕で行った議論に似ている。
しかし、ブラウンは続けて新自由主義的な経済学者を列挙するのだが、そこにはミルトン・フリードマン、フリードリヒ・ハイエク、ゲイリー・ベッカーだけでなく、ジョセフ・スティグリッツも含まれている。ちょっと待って、スティグリッツはベッカーと同じ陣営にいるの? バラク・オバマも、レーガンやブッシュとともに新自由主義者というラベルを貼られている。こうして新自由主義は空虚な概念に戻ってしまうのだ。
〔市場の導入が〕不適切な領域にまで、市場の卓越性を主張する議論が浸透してきているという議論は真剣に受け止める必要がある。だからこそ、〔ブラウンのこうした論は〕残念極まりない。人々がダフ屋行為を不公正だと見なしている(そこには多くの経済学者も含まれる)以上、経済学徒である我々は、経済的効率性を上回る何らかの諸価値が存在するという事実を尊重すべきなのだ。自由、市民の一体性、公正さといった価値はどれも重要である。効率性を優先するのが適切な領域や、効率性を含む様々な結果を実現するために市場プロセスを利用するのが適切な領域はどこなのか、という問題は、常に公的・政治的に討議されるべきだ。私が付き合ってきた経済学者のほとんど(応用ミクロ経済学の研究者たち)は、こうした問題が、人々の政治的選択と、実際の状況に依存するだろうと考えている。アメリカでは二酸化硫黄の排出権取引が成功を収めたが、EUでの二酸化炭素の排出権取引は成功しなかった。医療職や腎臓のマッチング市場に関するアルヴィン・ロスの研究は魔法のようだ(そしてこれは金銭を媒介にした取引ではない)。私が気に入っている経済学者たちは、市場が常に最善だと主張する政治家と違い、プラグマティストであることが多い。
この本では現実のジレンマも扱われている。本書の後半でブラウンは、「ガバナンス」は政治より重要であるという議論を軽くあしらって、中央銀行などの〔民主的コントロールから〕独立したテクノクラシー的制度体は、政治的影響を与えるような意思決定を行うべきでないとしている。欧州中央銀行(ECB)の批判者の多くや、連邦準備銀行(FRB)を批判する右翼は、間違いなく心からブラウンに賛同するだろう。しかし、この主張がそれほど自明とは思えない。中央銀行は、独立している方が(経済成長率の変動が小さく、インフレ率が低いという非常に具体的な意味で)「望ましい」意思決定を行える。とはいえもちろん、中央銀行は正統性を必要としている(そのため、議会に応答し、政府により課された任務を果たす)。そしてギリシャ危機は、大きな圧力がかかっている場合、中央銀行の運営が政治的になることを証明した。ブラウンの主張は正しいのかもしれないが、テクノクラートによる専門的なアドバイスや意思決定が望ましい結果をもたらすような政策領域において、この議論が当てはまるとは思えない。もちろんこれは議論の余地ある主張だが。
いずれにせよ『いかにして民主主義は失われていくのか』は、最終的にほとんどの主張に同意できなかったが、興味深い本だ。今後「経済学は抽象的で、完全に理論的な学問だ」と言ってくる人がいたら、私は本書を読ませるだろう。しかし本書は、最近読んだミシェル・フーコーの“The Birth of Biopolitics”『生政治の誕生』(ほぼ完全に理解不能な本)を理解する手助けとなった。ともあれ私は、「市場は常に正しい」という主張に偽装してイデオロギー的プロジェクトを推進する政治的スタンスに抵抗することは重要だと考えている。
〔Not all economists are neoliberal, honest, The Enlightened Economist, July 18, 2015.〕