ジョセフ・ヒース「富裕層と一般市民が同じ空間を共有すること:待合室での一幕」(2025年9月23日)

どんな社会にも、強制的連帯の場となる制度が少なくとも1つ必要なのだとしたら、医療システムにその役割を担わせるのは、そんなに悪い選択ではないだろう。

先週末、ロジャーズ・コミュンケーションズ〔カナダの大手通信企業〕の前CEO、ナディル・モハメド(Nadir Mohamed)が亡くなったという悲しいニュースが入った。モハメドは、カナダを代表する大物の1人だった。私自身は彼と知り合いだったわけではない。だが一度だけ、病院の待合室でたまたまモハメドと一緒になる機会があった。それは、私が機会がある度に語りたくなるような、大変愉快なエピソードであった。以下の文章は10年前、ワルラス誌(The Walrus)に掲載されたものだが、ワルラスのウェブ版はひどい出来なので、ここで再掲してもよいだろう。(念のため言っておくが、この記事のエピソードは10年以上前の話であり、モハメドの死因となった病気とは無関係である。)

ナディルと私:待合室での「強制的連帯」

去年の夏、私は「カナダ的な場面」に出くわした。それはトロントの病院の待合室でのことだった。待合室は殺風景で、70年代後半から一度もリノベーションされてこなかったかのように見えた。私は、自分の前に来ていた男性が受付を済ませるまで待たされていたのだが、その間、受付の職員はその男性に、自分の携帯電話プランについて事細かに語っていた。会話の内容から、彼はロジャーズ・コミュニケーションズの人間だろうと勘づいた。彼が仕立ての良いスーツを着ていることにも気づいた。

受付を済ませて待合室の席に座ると、私はその男性とちょうど真向いの位置になった。先ほどの会話で彼のラストネームも聞こえてきたので、私はそれとなくその名前をググってみた。そして、今自分の前に座っている人物が、ロジャー・コミュニケーションズの代表兼CEOであるナディル・モハメドだということが明らかとなった。

私は、少し立ち止まって考えた。彼(フォーブス誌によれば、2010年だけで800万ドル以上稼いだ人物)と、(どう見ても彼よりはるかに収入の低い)私が、同じ医者にかかっているという事実についてだ。アメリカでは、フォーチュン500企業のCEOが近所の病院に行くことはないだろう、ということがふと頭に浮かんだ。だがここはトロントであり、ロジャーズ・コミュニケーションズのCEOは私と同じ待合室で座っていた。

そんな私の思考は、隣に座っていた女性によって中断された。彼女は待合室のテレビをいじり、チャンネルを変えてもいいのかと受付に尋ねたのだ。「ウィンブルドンの開幕戦が見たかったんです」、と。そして今度は、ロジャーズ・コミュニケーションズのケーブルのプランについて不満を述べ始めた。そのプランには、開幕戦を放映しているTSN(ザ・スポーツ・ネットワーク)が入っていないのだが、プランを変更したら、欲しくもない余計なチャンネルにもお金を支払わなければならなくなる、などなど。

彼女の愚痴が終わりかけた頃、受付の職員は親切にも、「そういう話ならそちらの方に言ってみては?」とモハメドの方を指さした。

患者の個人情報保護の観点からすれば、これは不適切な対応と言えるだろう。だがその結果、興味深いことが起きた。「ロジャーズにお勤めなんです?」と形ばかりの確認をした後、彼女はゆうに10分以上も、積もりに積もった不満と恨みをぶちまけたのだ。それはもう、人がケーブル会社か所得税の話をするときにしか見せないような興奮具合だった。

そして、そこにいたロジャーズのCEOは、逃げ場もなく身動きがとれない状態で、顧客の不満を聞かされるはめになった。私は笑いをこらえるのに必死だった。地獄には企業の重役専用の特別な空間があって、そこは70年代後半風の内装で誂えられており、不満を抱えた自社の顧客が押し寄せてくる。そんな想像をして、愉快になってしまったのだ。

ありのままを話すと、彼女の話が終わった後で、彼はもっともらしい言い訳を述べた。CRTC(カナダ・ラジオテレビ通信委員会)の規制があるとか、新しいインターネット技術によって全てが改善するだろうとか。そして、彼女が次のターンに入る前に、医師が彼の名前を呼んで、彼はすぐ待合室から出ていった。

この場面に出くわして、私は考えた。ケーブル会社の重役とその顧客が、同じ医者にかかるために同じ待合室で待たされる。そんな社会に暮らすというのは、なんと奇妙で驚くべきことだろう。これは、カナダの単一階層(single-tier)の医療制度が持つ、過小評価された側面の1つかもしれない。

もちろん、こうした考えにあまり酔いしれてはいけない。単一階層システムを支持する議論の多くは、「レベリング・ダウン」式の主張となっている。このシステムは平等を促進するのだが、それは「底」にいる人々の状況を改善するのではなく、「頂点」にいる人々が享受する機会を制限することによってである、というのだ。こんな風な仕方で単一階層システムを擁護すべきではない。裕福な人はより高品質な医療を受けられるという理由だけで、富裕層が高品質な医療を購入するのを制限するのは間違っている。

それでも、民主的な社会を維持するには、全員が平等な立場(footing)にあり、全員が同じように扱われる、そういう経験や制度が必要である。例えば、投票したり運転免許を取得したりするために、同じ列に並ぶといったことである。理論家の中には、こうした状況を「強制的連帯(forced solidarity)」の場と呼ぶ者もいる。それはまず何よりも、超富裕層が自分たちの小さい世界に閉じこもって、普通の人の苦労が見えなくなってしまうという傾向を抑制している。

カナダでは、ほとんどの医療システムが「強制的連帯」の場となっている。

対照的に、アメリカで「強制的連帯」の機能を果たしていると思われるのは、司法制度だ。国境の南側〔アメリカ〕では、誰であろうと刑務所に放り込まれる。マーサ・スチュワートやコンラッド・ブラック〔どちらも実業家の著名人〕はこのことを身をもって知ったが、大変に驚かされたようだ。スチュワートは、株取引スキャンダルに関与して5ヵ月の禁固刑に処されたが、それは調査官に嘘をついたからだった。ブラックは、裁判所の命令に逆らいトロントのオフィスから箱を運び出したことが司法妨害に当たるとして、有罪になった。自分たちにかけられた罪が深刻なものであり、自分たちも普通の人と同じルールに従わなければならないのだと気づくまで、しばらく時間がかかったようである。

エリートが一般社会と関わりを失うという傾向は広く見られる。根底にある病理は、オキュパイ運動が起こった直後にも現れていた。トップ1%に属する人々が、「自分たちはそれほど裕福じゃないのだ」ということを説明する記事を大量に書き始めたのだ。私立学校、BMW、不動産、ヨガ教室などの支払いがバカにならないんだ、と。富裕層は、自分が裕福かどうかを、自分の周りにいる人たちと比べて判断しがちだということが、誰の目にも明らかとなった。それゆえ、人々がなぜ自分たちに怒りを向けているのか(なぜ高額の税を支払うよう期待されているのか)理解できず、本気で困惑していたのである。

社会において最も力を持った人々が、一般市民とは別の「並行宇宙」に入り込んでしまうのを防ぐことには、たくさんの利点がある。病院の待合室での話に戻ろう。私は、モハメドはこの状況をどう感じたのだろうと考えた。その病院は、スタッフが働きすぎだったわけでもなく、順番待ちもほとんどなかった。同時に、贅沢な要素も全くなく、あらゆる意味で「そこそこ」の水準だった。どんな社会にも、強制的連帯の場となる制度が少なくとも1つ必要なのだとしたら、医療システムにその役割を担わせるのは、そんなに悪い選択ではないだろう。

(2012年6月12日)

[Joseph Heath, Not quite leveling down, In Due Course, 2025/9/23.]
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