――現在フランスで起こっている暴動についてどう思われますか?
正直なところ、状況を完全に理解できていません。しかし、入手可能なフランスのデータを表面的に見ると、フランスでは所得格差は拡大していません。データを見てみると、この5年間だけでなく、過去30年間でもそうです。なので、ジニ係数の上昇や、所得上位1%の割合増加のような、暴動の発生を説明できるだけの十分な直接的説明はないように思えます。この件で、フランス国内での見解では、地方の問題を重視しているようです。注目すべきは、今回の一連の暴動は個別の事件ではなく、数年前から相当の期間にかけて繰り返し続いてきた現象なのです。少し前にも、年金改革をきっかけにした反対運動も起こっていますよね。よって、〔一連の暴動には〕単純な不平等の観点よりも、根源的で根深い問題があると考えるのが妥当でしょう。
――社会内の不平等感が、特にアイデンティティや不安感と混じり合っているなら、それは問題とはならないのでしょうか?
はい、そう思います。私には、一時期パリ近くの郊外で政治家としてキャリアを積んだ友人がいます。彼は、私のような旅行者が経験するようなパリの都市環境と大きく違う世界を教えてくれました。なので、あなたが言うように、「除け者にされている」という認識が、大きな役割を果たしているのは大いにありえるでしょう。ツイッター上でも、今回の問題に、ある種の「アメリカ化」があると示唆する議論を目にしましたが、ある程度真実でしょう。どちらの状況(2020年のアメリカと現在のフランス)にも、「アイデンティティ」と「除け者にされている」に関する問題を含んでいます。しかし、こうした洞察は、純粋に外側から、部外者からの意見であることを強調しておかねばなりません。正直なところ、今回の暴動の唐突さと、かなりの水準の暴力に、純粋に驚かされました。
――あなたは、旧ユーゴスラビア共和国のジニ係数と格差を測定したものを、ツイッターで再公開しました。そのデータは、過去と現在の状況について何を教えてくれるのでしょう?
私の経歴を少し説明させてください。何年も前になりますが、私はユーゴスラビアの格差に焦点を当てた学位論文に取り組みました。1987年のことです。今から考えるに、研究において間違いを犯しました。1960年まで遡って家計調査のデータを使用したのですが、そのデータは2つの異なる組織の原理からなっていたのです。データは、ユーゴスラビアの各共和国を4つの社会集団(都市人口、農村人口、混合人口、年金受給者)に分けられていました。当時の私は、マルクス主義に傾倒し、唯物史観に立っていたため、ユーゴスラビアを構成する各共和国の差を完全に無視し、論文でユーゴスラビア全土の水準だけに焦点を当てました。しかし、共和国間の差異が、政治的にはるかに重要であることが分かったのです。スロベニアのような裕福な共和国では、全住民が、所得層の(10段階で)上位5段階に収まる傾向がありました。逆に、コソボのような非常に貧しい州では、住民は圧倒的に下位5段階内にありました。この観察は私の心に引っかかり続け、自身の研究を別の方法で整理すべきだと考えました。
最近、ツイッター上で、ソビエト連邦を構成してた共和国間の収斂についての考察に遭遇し、関心を持ちました。私は、〔ソ連を構成していた共和国の〕GDPデータを調べ、家計調査の数字を比較しました。すると、ソビエト連邦内では、上位共和国と、下位共和国との間には、訳2倍の大きな差があることが判明し、驚きました。
――それは、国家の過去の軌跡や未来について何か教えてくれるのでしょうか?
未来より過去についてですかね。地理的な差(特に地理的に移動が制限されている場合での)が原因となって、国家間の大きな所得格差が維持されてしまう問題の表れとなっています。さらに、歴史的、文化的、宗教的要因もこうした格差の一因となっています。スペインを比較対象とできるでしょう。スペインを調べてみると、上位と下位の州の所得格差は、1.5対1程度となっています。ユーゴスラビアでは5対1でした。なので、スペインと比較すれば、ユーゴスラビアで統一国家を維持するのがはるかに困難なのが分かってもらえるはずです。
しかし、ユーゴスラビアを構成していた各共和国は、今ではそれぞれ独立国家となっているため、この観察事例から現在の状況の包括的理解に繋がるとは思えません。そうした国は〔独立の結果〕、民族、宗教、所得において均質的になっています。これは〔ユーゴスラビアとの〕決定的な違いであり、各国は、内的な結束力を持つように進化していったのです。
――ウクライナ・ロシア戦争は、格差や、格差の進化とどの程度まで関係あるのでしょう。
あまりあるとは思えませんね。私は、ブログで、今回の紛争の原因として提唱されている4つの説を検証しました。4つの内、個人的に最も妥当だと思う理論は、戦争勃発のタイミングを直接説明していませんが、社会主義体制と、その体制下での一党独裁体制の長期的な影響に関係しているとするものです。〔社会主義連邦国内の〕各共和国は、〔ソ連のコミンテルンという〕単一政党の統治下にありましたが、この政党は各国単位での支部からなっていました。やがて、こうした各共和国内の政党支部の指導者達は、〔統治〕正当性を確保するために、民族主義的なアジェンダを採用し、支持するようになりました。複数政党制だったなら、政党ごとに異なる政治理念を代弁していたので、こうした民族主義的アジェンダの採用は困難だったでしょう。しかし、一党独裁だったために、党の指導部は民族主義的な立場を頻繁に採用することになりました。結果、ソビエト連邦の解体途中にあっても、それぞれの共和国には(ウクライナを含み、エリツィン政権下でソ連邦解体を積極的に推し進めたロシアにおいてさえも)、それを支配する民族主義政党によって実質的に統治されていたのです。なので、〔ソ連邦を形成した各共和国の〕ナショナリズムは、〔ソ連邦の〕創設者に期待に反して、〔ソ連邦の〕制度に本質的に組み込まれていたと思います。もっとも、この理論は、長期的な動態についての洞察を提供してくれますが、2022年2月24日の戦争勃発という具体的事例について、直接説明してはくれませんが…。
――各国で台頭するナショナリズムや怒りの感情と、その国の格差の水準との間に何か関連性はあるのでしょうか?
正直に言って、答えを出すのに難しい質問です。入手可能なデータだけでは、明確な理解は得られないからです。研究者たちは、「格差はどのように実感されるか」について探求してきましたが、断定は未だに困難となっています。もっとも、具体例を挙げて考察してみると、いくつかの傾向を観察できます。例えば、ロシアでは、過去10年にわたって格差が減っています。一方、ウクライナは興味深い事例を示しています。ウクライナでは「格差は大きいという実感」があるにも関わらず、(家計調査のデータは不完全はあるものの)国内での格差の水準は非常に低いことを示しています。富が1%の閾値を超えて、0.1%や0.01%といった最上位に集中し〔最上位層以外には比較的格差がない〕場合には、こうした〔強い格差があるとの〕実感が表れるのはそれほど驚くべきではないでしょう。こうした格差は総合的な尺度では十分に捉えられないことが多いのです。あなたの質問の直接的な答えになっていないかもしれませんが、これは問題の複雑さを浮き彫りにしています。つまり、これはハッキリとした解答を出すのが難しいままであり、私は決定的な答えを持っていないのです。
――あなたの研究では、国家間格差は縮小傾向にあり、各国内部でも格差は拡大していないことが示されています。しかし、格差の問題は、特に先進国において中心的なテーマなっていて、ほとんど強迫観念になってしまっています。このパラドクスはどう説明できるのでしょう? このテーマは、どこまで解きほぐされているのでしょうか?
私見ですが、タイムラグによるものと思います。まず格差の有り様が変化し、次に研究者間でこの変化が情報となって共有され、さらに一般大衆間で情報が広まります。これにはかなりのタイムラグがあるのです。これを認識しなければいけません。例えば、ほとんどの欧米諸国では、1980年代ないし1990年代から、21世紀初頭まで数十年かけて格差は拡大しましたが、これが完全に実感を持って認識されたのは、金融危機と中産階級の所得窮余が起こってからでした。今、我々は、〔格差が縮小される〕逆進化の渦中にあるかもしれないのです。米国、ドイツ、日本、フランスでは、少なくとも10年間にかけて所得格差の水準は悪化していません(年次での変動は少ない)。イギリスだと、格差は2000年代の初頭のピークから縮小してきています。しかし、人々は関心を格差に向けると、格差が悪化していなくとも、悪化していないと考えるのは難しいのではないかと思います。実際、悪化していなくても、多くの人は格差が大きすぎると感じるかもしれません。前述したように、人々の実感が変化するまでには、かなりの時間が必要なのでしょう。
――格差は、どの程度まで異なる国家間や地政学的ブロック間の問題になっているのでしょう? 格差は〔社会主義や民主主義といった〕権力体制の問題なのでしょうか?
権力体制によって格差に問題が生じるかどうかについて、私は確固たる見解を持っていません。競い合っている政治体制の間で、格差に顕著な違いがあると思えないからです。実際、中国はアメリカよりも(所得分配において)格差が大きいのです。政治的資本主義にはさらなる平等を達成できる傾向がある、といった主張は信用できるできません。あるいは、少なくとも公的に西側諸国と異なる価値観を擁護すると主張しているロシアを例にしてみましょう。ロシアは、権力、所得、富の分配で大きな格差があり、「格差は小さい」ことはありえないでしょう。戦争の徴兵において、〔格差的〕出自や背景が反映されたように、戦争によって所得と実存的格差が深まったことは間違いないでしょう。
――最近、フォーリン・アフェアーズ誌に「大収束」についての記事を寄稿してらっしゃいます。「大収束」とは何なのでしょう?
実証データに基づいて答えられるので、さきほどより簡単な質問ですね。過去数十年にかけて、主に中国の経済成長と、他の様々な国の進歩によって、世界水準で所得は大幅に上昇しました。例えば、中国はこの40年間で一人当たりのGDP成長率が年次で約8.5%になる成長を遂げました。この中国の成長は、アジアをはじめとする人口の多い国の経済発展と相まって、2つの注目すべき影響をもたらしました。
第一に、国家間格差の大幅な減少をもたらしたことです。これは、それ以前の過去2世紀のトレンドから大きな逸脱です。なぜこのような結果が生じたのでしょう? フランスような国を想定すると分かりやすいでしょう。この想定に立って、相対的に裕福な個人の所得が2%増え、相対的に貧しい個人の所得が10%増加したと考えてみてください。当然、全体での格差は縮小します。個人を国に置き換えて同じロジックを敷衍することができ、国家間格差は縮小したことになります。しかし、こうした国家間格差の減少が生じたにも関わらず、中国では国内格差が拡大しています。これは、アメリカ、インド、ロシア、イギリスのような国でも同じように観察された事例です。よって、各国で国内格差は増加しましたが、アジアによる高い成長率による国家間格差の減少を帳消しにするほど強くなかったのですが、〔国家間格差を〕相殺する役割を果たしました。
国家間格差の減少がもたらした第二の影響は、個人間の地位の入れ替えです。つまり、中国やインドのような国の出身者が突如として世界の上位10%の一員となる一方で、豊かな国の中間層・下位中間層が世界の順列において押し下げられたのです。こうした相対的な地位変化は、特に裕福な国の中間層の人々に、様々な政治的・社会経済的影響を与える可能性があります。欧米の富裕国の一部の人は、相対的な世界的地位の低下を経験するかもしれません。これらは、同じ根本的な原因がもたらす2つの異なる要素ですが、相互に関連しています。
結論として重要になっているのは、「国家間格差の減少」と聞けば、人はそれを支持する傾向にありますが、それがアメリカ、フランス、イギリスの中間層の世界的な地位の低下を意味すると分かれば、支持において難があるかもしれないと認識することです。つまり、個人の実質的な購買力が増加していても、この〔相対的な地位低下の〕側面によって、政治的にデリケートとなる可能性があるのです。そして、この2つの側面を分離できないことが極めて重要なのです。
――そうしたパラドックスに政治はどう対応すればいいのでしょうか?
政治的には複雑な問題だと思います。言葉使いを慎重にし、格差の縮小について語る際には、それが相対的な縮小であることを強調することが重要です。つまり、実質的な購買力が増え続けていても、自身の地位が他の人に比べて低下していれば、いつかは横並びになるでしょう。もっとも、人は相対的地位を気にするのだ、といっても、普通の人は、比較対象とするのは周囲の人や、友人や知人であり、気にしなくても良い、といった意見もあります。確かにそうかもしれませんが、グローバルに価格付けされている商品を、欧米の中間層の個人が購入・入手することが困難となる可能性があります。例えば、カタールでのサッカー・ワールドカップのようなイベントへの参加や、アジアでのバカンスなどは、信じられないほど高額になるかもしれません。こうした変化は、中間層に所属する人々による特定の体験へのアクセス能力に影響を与えるかもしれないのです。
あなたの政治的な問題意識は理解できます。そして、欧米の中間層の懸念を解き明かすのは困難ですし、無視して済むものではありません。国家間格差の縮小と、グローバルな機会格差の縮小を主張しつつ、先に説明したようなグローバルな所得地位の再編論との間にバランスを取るのは、たしかに政治的に非常に困難なのです。
あなたの問題を敷衍してみると、アダム・スミスが『国富論』の中で行っている、イングランドとフランスを比較を挙げられるでしょう。スミスは、フランスの人口が、イングランドやスコットランドより多いことに着目しています。純粋な人道的立場に立てば、フランスでの所得の上昇は、〔他国での所得上昇〕より多くの人に影響を与えるため、優先上位として重要だと主張できるかもしれません。しかし、スミスは問題提起しました、イングランド人やスコットランド人による自国の幸福の優先は、偏狭な愛国主義を見なさるべきだろうか、と。これは、根本的なジレンマの提示であり、我々はこれに対する明確な解答を持っていないのです。万人の繁栄を望むコスモポリタン的な見解と、自身の所得地位への関心との間で、我々は板挟みになっていることに気づくでしょう。このジレンマの解決は容易ではありません。
――しかし、より大きな世界的平等は不可避です。そうしたジレンマは、一部の人が、平等の大規模な拡大を望んでいないかもしれない、ということを意味するのでしょうか?
グローバルな所得分配と、自国家での社会的幸福と地位を優先する国民的立場を鑑みれば、それは妥当な態度なのです。国家主義的な立場に立ちながらグローバリストやコスモポリタンだと自称するよりも、個人として自身の信念を明確に表明し、それを貫いているという意味では立派なのです。それが、政治的に正当な立場であるかは別ですが…。
将来について考慮してみると、中国は著しい経済成長と発展を遂げたことで、もはや国家間格差の縮小を牽引する主要なエンジンではないことが判明しています。実際、現在中国の成長は、インド、ナイジェリア、スーザンといった国々を上回っており、国家間格差を拡大させているかもしれないのです〔訳注:中国が中進国以上になったことで、中国が途上国より経済成長すれば、世界レベルでは格差は拡大する、という意味〕。しかし、これは、さきほど我々が懸念していた2つ目の問題――中国が歴史的に欧米の所得水準に追いつこうとしている――という問題に対処するものではありません。
国家間格差の減少という観点では、今後の状況は、他の地域――特にアフリカの動向に左右されます。アフリカは今世紀を通じて人口増加が予測されているように、人口が増加するであろう唯一の大陸です。アフリカが高い成長率を達成できなければ、国家間格差の減少傾向が停滞する可能性があるでしょう。私の『フォーリン・アフェアーズ』誌で寄稿では、様々な話題を扱いましたが、そこでもアフリカでの非常に高い経済成長の必要性を強調しています。〔国家間格差の〕実質的な進展を達成するには、人口増加に起因する2~3%の経済成長率にプラスして、一人当たりGDPで年間5%の成長が必要です。数十年にわたって8%の実質成長が必要とされているわけですが、控えめに言ってもこれは容易なことではなく、過去50年のアフリカの成長を見れば、楽観的ではいられないでしょう。
――中国がこの短期間でこれほど豊かになったという事実で、現在の中国の行動や攻撃性を説明できると思いますか?
実に複雑で難しい質問ですね。個人的には、中国を攻撃的な大国だと考えていません。しかし、その経済成長と軍事力によって、自信や影響力が増大してるように感じさせてしまっていると認識しています。技術的にも、中国は大きな進歩と遂げ、世界的にも存在感を増しています。中国が、ヨーロッパ列強や日本の植民地支配を受けた19世紀以前の地位に後退するのを期待するのは非現実的でしょう。経済成長は、その国の自己肯定感を高める傾向にあり、他国から攻撃的・傲慢と受け止められるつながる可能性があるのです。こうしたパターンは中国に限ったものではなく、イギリス、フランス、スペイン、アメリカ、ソビエト連邦など、歴史上の多くの国が、強い影響を感じさせる様々な行動を示してきました。もっとも、この分野についての私の知識は限られています。このテーマは主に政治的なものであることを強調しておかねばならないでしょう。
――国家間格差の進化のありようについて、あなたはどうしてそこまで慎重なのでしょう?
実際、現在の世界情勢を評価する際には、注意と慎重さが必要です。我々は不確実性に直面していますが、それは様々な要因からなっています。まず、コロナ・パンデミックの影響です。この影響を完全に把握するまでには時間はかかるでしょうが、永続的な痕跡を残しました。いずれ収まるかもしれませんが、しばらく残存するでしょう。
さらに、2つの大きな危機が事態をさらに複雑にしています。一つ目の危機は、アメリカ、西欧、中国との間にある、予測不可能な関係性です。最悪のシナリオでは、戦争に発展する可能性もあるでしょう。あまり深刻でないシナリオでは、共同での技術開発や、中国の国際協調、経済成長に大きな影響を与える貿易戦争に発展する等でしょうか。さらに、中国によるアフリカの投資は、アフリカ地域の経済の軌跡に影響を与えるかもしれません。
二つ目の危機は、ロシア・ウクライナ間の情勢で、これもまた不確実性を高めています。ロシアとウクライナの人口は、世界規模では小さいため、グローバル格差に影響を与えないかもしれません。しかし、紛争がヨーロッパに広がり、核戦争に発展する可能性になれば、壊滅的な結果に至るでしょう。こうしたシナリオでは、グローバル格差についての考察は無意味となるでしょう。
また、気候変動の激化もあり、その影響も複雑で予想は困難です。
こうした複雑で予測不可能な状況下において、この先5年の世界情勢を正確に予測するのは、誰にとっても困難です。そうした先見性を持っていると主張する人がいるなら、自己欺瞞に取り憑かれている可能性が高いでしょう。多くの要因が絡み合っており、それらの潜在的な進化の可能性から、将来を確実に予測するのは困難となっています。
――私たちは、経済をどのように舵取りすればよいのでしょう?
個々の国が直面している課題は、その国の経済政策や状況による固有のものです。各国は、様々なショックや混乱に適応・調整しなければなりません。例えば、ウクライナ戦争とロシア産のガス・石油の輸入減少の影響は、ヨーロッパに大きな影響を与えました。しかし、去年の冬が穏当だったように、ヨーロッパ諸国はこの難曲を乗り切り、必要とされていた調整を実施しました。
にもかかわらず、私には懸念事項があります。それは、各国が現在直面しているショックの数が増えていることです。先ほどの考察に戻りますが、西欧、そしてヨーロッパ全体が複数のショックを同時に受けています。戦争の影響、エネルギーに関する問題、気候変動の影響、気象パターンの予測不可能正の高まりなどです。また、社会不安や抗議活動も頻発しています。こうしたショックの蓄積による影響は、それらを効率的に管理・対処するシステムの能力に計り知れない負荷をかける可能性があります。
――グローバル・ファイナンス協定の構想についてどう考えていますか?
それがキャッシュフローの増加に有利に働くのなら、良いことだと思います。しかし、アジェンダや意思決定プロセスの形成において、民間の個人・基金・財団の役割が大きくなっていることに懸念を抱いています。国家や国際期間が伝統的に担ってきた行動を、裕福な個人やその財団によって左右されるようになっているのは着目すべきことです。こうした状況は、富の集中が大きな影響力と意思決定力に繋がっていであろう現行世界の金権政治の性質を反映しているのです。
例えば、私は世界銀行での勤務経験がありますが、ゲイツ財団が多額の資金提供によって、世界銀行の研究の優先順位や活動の決定においてかなりの発言権を有しているのを目の当たりにしました。これは、リソースの効率的な流通手段として考えられているかもしれませんが、権力の集中、公平性、幅広い社会的利益への潜在的な影響を問題視することになっているでしょう。
簡潔に言いますと、優先順位影響においてリソースの流れを効率化することは望ましいですが、研究課題や意思決定に富裕層の影響力が増大することには慎重であるべきなのです。社会における権力と影響力において、よりバランスの取れた公平な配分に務めるべきです。
アフリカにお金を使うのなら、富裕層に課税して、国が課税によって得たお金の使い道を決めるほうが理にかなっていると私は思います。富裕層に善意があることに意を唱えるつもりはないですが、スタジアム建設、ワクチン接種、飲料水の提供を決定する権限を持つべき人は富裕層でないことは明らかでしょう。端的に、富裕層はそうした決定を行うべきだと思いません。
インタビューのフランス語版はここで読むことが可能。
[Branko Milanovic , “On global inequality, China’s rise, the war in Ukraine” Global nequality and More 2.0, Monday, July 17, 2023]