●Noah Smith, “Should you lambaste your intellectual adversaries?”(Noahpinion, February 27, 2015)
Lambaste=Lam+`baste´
《他動詞》 1. ムチで殴りつける 2. こき下ろす、難詰する、激しい言葉でなじる
ポール・クルーグマンと言えば、論争相手に激しい言葉を投げつけて口撃を加えることで有名だ(論争相手の多くも同じ調子でやり返してくる)。ところで、そのような論争スタイル(論法)をとるのはどうしてなんだろうか? クルーグマン本人曰く、
経済学者としてまだ駆け出しだった頃のことだ。・・・(略)・・・優れたアイデアは、そのうち世の中に受け入れられていくのが通例だと信じていた。貿易のパターンだったり為替レートの変動だったりを説明するのに使えそうなモデルを自分なりに作ってみて、そのモデルが他のモデルよりも現実のデータとしっくりいったり、他のモデルでは未解決だった謎を解けたりするようなら、その道の専門家の多く――大半とまではいかなくても――に受け入れてもらえるに違いないと当て込むことができたのだ。
経済学のほとんどの分野では、今でもそうなっていると思う。しかしながら、今まさに一番大事なはずの分野では、事情がまったく違う。「ケインズ主義なんてナンセンスで(馬鹿げていて)、金融緩和は必ずや悪性インフレを招く」。2009年にそう高らかに宣言していたあの連中が6年後の今になって何を語っているかというと、相も変わらずまったく同じ主張を繰り返しているのだ。この間にインフレ率は横ばいだったし、財政緊縮は景気の足を引っ張るというケインジアンの警告が正しかったことを裏付ける証拠がうず高く積み上がっているというのにだ。
「あの連中」というのは、専門家とは言えないような変わり者だけを指してるわけじゃない。・・・(略)・・・ノーベル経済学賞の受賞者も含まれているのだ。・・・(略)・・・学術的な(マクロ)経済学は、開かれた知のアリーナであるかのように取り澄ましているが、実際のところは政治色が濃厚な分野に変質してしまっているように思われるのだ。
開かれた知のアリーナと思われていた世界の一員になるのを夢見ていた者たちは、どうしたらいいんだろうか?
・・・(中略)・・・
読者の注目をひきつけるような手口を使って、論敵の間違いを指摘するという手もある。必要に応じて嘲(あざけ)りもし、皮肉も交える。名指しで批判する。そうすれば読んでもらえるだろう。熱心な信者がつく一方で、憎悪に燃える敵をたくさん作る羽目にもなるだろう。ただし、やれないこともある。閉ざされた心を開けはしないのだ。
・・・(中略)・・・
こんな手(こき下ろし論法)を使わずに済めばいいのだけれど、そういうわけにはいかないというのが現実なのだ。とは言え、さっきも指摘したように、いくらか報いもある。論敵をこき下ろすと、一抹の楽しみを味わえるのだ。
クルーグマンの言い分を価値関数のかたちに書き換えてみるとしよう。
V = K氏がこき下ろし論法を弄(ろう)することによって生み出される価値の総計
V_p = こき下ろし論法を弄(ろう)するK氏の主張に沿う方向に公共政策が転換された場合に生じる価値
V_e = K氏のこき下ろし論法に備わる娯楽としての価値
V_d = こき下ろし論法を弄(ろう)するK氏が討論の質に及ぼす価値
V_pr = K氏の主張が正しい場合のV_pの値
V_pw = K氏の主張が間違っている場合の V_pの値
p_r = K氏の主張が正しい確率
V_es = K氏本人にとってのV_eの値
V_eo = 論争を眺めている観衆にとってのV_eの値
V = p_r×V_pr + (1-p_r) V_pw + V_es + V_eo + V_d
(いかめしくなって申し訳なく思う。面倒くさがりなので、楽(らく)をしてしまったのだ。もう一つ言い訳をさせてもらうと、ウェビナーに参加しながらこの記事を書いているのだ)。
まずは、V_es について。これについては本人がよくわかっている。論争相手をこき下ろしてどれくらい楽しめるかは、本人が知っている。
次に、V_eo について。この値を知るのは難しい。誰かがこき下ろされているのを見て楽しみを覚えるという人はたくさんいるだろう。その一方で、誰かがこき下ろされているのを見ると怒りを覚えるというも人もたくさんいるだろう。どっちの数が多いかを見極めるのは難しいし、それぞれが感じる満足感と嫌悪感の強さを測るのも難しい。K氏が論客として人気があるのかどうかというのも、V_eo の値を知るための手掛かりにはあまりならない。観衆の10%に礼賛されていて残りの90%に憎まれていても、「超人気」の論客と評価されるだろうからだ。
V_d の値を測るのも滅茶苦茶難しい。例えば、こき下ろし論法を弄(ろう)するK氏の主張が取り入れられたおかげで、争点となっている公共政策が改善されたとしても、K氏がこき下ろし論法を弄(ろう)するせいで、討論空間の政治色が強まってしまうかもしれない。その結果として、別の公共政策によからぬ影響が及んでしまう可能性があるのだ。
p_r は、K氏が自分の主張にどれくらい自信を持っているかを測った値だ。メディアでマクロ経済について論じている論客たちは――おそらくは、マクロ経済学を専門に研究している多くの学者も――、自分の主張に自信を持ち過ぎというのが、世間の見方のようだ。その通りだと思う。
どんなスタイル(論法)で論争に挑んだらいいかというのは、不確実性が高い状況下での意思決定問題の一つである。観衆のうちの誰かを楽しませることができたとしても、その倍の数の観衆が気分を害して怒ってしまうかもしれない。政治色の濃い論敵をこき下ろして無事に撃退できたとしても、討論空間の政治色がさらに強まってしまうかもしれない。一番厄介なのは、自分の主張が間違っているかもしれないことだ。
どんな論法を選べばいいかというのは難しい問題だが、どの論法を採用するにしても、随伴するリスクを軽減するのに役立つような心得(こころえ)というのがいくつかあると思う。以下に列挙してみよう。
1. 悪意満々で侮辱するのではなく、面白おかしく揶揄う(からかう)べし。直接的な証拠もないのに、相手の卑劣さをなじってはならない。「お前は馬鹿だ」と断言してはならない。相手を必要以上にイラつかせるだけだからだ。個人的な経験に照らすと、相手を(面白おかしく)揶揄うというのは、論敵の評判を落とす上で侮辱するのと同じくらい有効だ。それに加えて、相手を侮辱するのに比べると、討論空間の政治色を強めてしまう危険性も低いし、観衆の気分を害してしまう可能性も低い。
(言うまでもないが、相手を揶揄うことにもリスクが付きまとう。ブラッド・デロングの突っ込みは、私としては愉快で陽気な揶揄い(からかい)に感じられるけれど、悪意ある侮辱に感じる人も多いようだ。ネット上の論争では、「揶揄い」なのか「侮辱」なのかを見分けるのがとりわけ難しいようだ。何をユーモアと感じるかは人によって違うようだ)
2. 根に持ってはならない。いつぞやの論争で相手が頓珍漢(とんちんかん)で政治的な偏向丸出しの姿勢で突っかかってきたからといって、その相手がいつだって同じ調子に違いないと速断してはならない。過去の話をしつこく持ち出してはならない。「おや、君か。確か2004年だったと思うけど、あの時に『○○』って言ってましたよね」とかいうように掘り返してはならない。過去のことをいつまでも根に持っていたら、かつての敵が味方になってくれるかもしれない可能性を潰してしまうし、論敵の評判を落とす助けにもならない。過去のことを根に持っても何の役にも立たないというのが私の考えだ。
3. 自分が間違っているかもしれないことを認める真摯な姿勢を忘れるなかれ。自分の主張が絶対に正しいと確信していたとしても、間違いが含まれているかもしれないことを口に出して認めよ。
これらの心得を守れば、それぞれの論法に備わる強みを存分に発揮できる一方で、それぞれの論法に備わる弊害の多くを避けることができるだろう。「V_eo」、「V_d」、「V_pw」の値がマイナスになるようなリスクを減らせるだろう。
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