マーク・ソーマ 「賢くなっていく機械、ケインズ再訪、非効率的市場仮説」(2012年12月24日)

まだ目を通していないが、ちゃんと読んでおくべきっぽい論文をいくつか紹介しておこう。
画像の出典:https://www.photo-ac.com/main/detail/26081800

まずは、サックス(Jeffrey Sachs)&コトリコフ(Laurence Kotlikoff)の共著論文(二人が財政赤字や累増する国債について何か意見を述べるのを妨げてくれるものは何であれ、社会にとってプラスになるんじゃないかと思う)。

●“Smart Machines and Long-Term Misery” by Jeffrey D. Sachs&Laurence J. Kotlikoff(NBER Working Paper No. 18629, Issued in December 2012):

どんどん賢くなっていく機械は、我々の子供たち(スキルが未熟な若い世代)の友なのだろうか? それとも、敵なのだろうか? 高いスキルを身につけた親たちを利する一方で、スキルが未熟な子供たちやそのまた子供たちに害を及ぼすんだろうか?

賢い機械が若い未熟練労働者の代わりとなる(代替する)一方で、年を重ねた熟練労働者を補完するようであれば、その答えは「(どんどん賢くなっていく機械は、スキルが未熟な若い世代にとっての)敵」というのが本稿で提示するモデルから導かれる陰惨なメッセージである。機械がどんどん賢くなっていくと、若い世代(子の世代)の賃金が低迷し、そのせいで貯蓄する余裕が小さくなるので投資――スキルを身につけるための投資(人的資本への投資)、物的資本への投資――も抑えつけられることなる。すると、若い世代(子の世代)の次の世代(孫の世代)が未熟練労働者として世に出ると、人的資本も物的資本もあまり蓄積されていないので、孫の世代の賃金も抑えつけられることになってしまう。このプロセスを食い止めるような力も働くが、次の世代(新世代)が前の世代(旧世代)よりも貧しくなるという事態が繰り返される可能性は残っている。

本稿では、極度に定型化された二期間の世代重複モデルを使って、賢くなっていく機械が世代を超えて悲惨を生むに至る可能性を跡付ける。適切な世代間政策(旧世代から新世代への再分配)を通じて、賢い機械のおかげで旧世代が得をする一方で新世代が損をするというサイクルに歯止めをかけ、すべての世代が得をする方向へと持っていける可能性があることも示す。

次に紹介するのは、ジョルディ・ガリ(Jordi Gali)の論文。ケインズが再訪(再検討)されている。

●“Notes for a New Guide to Keynes (I):Wages, Aggregate Demand, and Employment” by Jordi Galí(NBER Working Paper No. 18651, Issued in December 2012):

本稿では、ケインズが『一般理論』で論じている賃金と雇用の関係――賃金が雇用の決定に果たす役割――をニュー・ケインジアンのモデルに照らして再検討する。本稿で得られた分析結果によると、(中央銀行の行動を規定する)金融政策ルールは、賃金と雇用との間にどのような関係が成り立つかを左右する上で重要な役割を果たすだけでなく、賃金の伸縮性の程度が経済厚生にどのような効果を及ぼすかを左右する上でも重要な役割を果たすことが示されている。 賃金の伸縮性が高まれば、経済厚生が改善されるとは限らないとの結果も得られている。

最後に紹介するのは、ファーマー(Roger Farmer)&ヌーリー(Carine Nourry)&ヴェンディッティ(Alain Venditti)の共著論文。「競争的な金融市場がリスクを効率的に配分する」かどうかというと、「ノー」というのが彼らの答えのようだ。

●“The Inefficient Markets Hypothesis:Why Financial Markets Do Not Work Well in the Real World” by Roger E.A. Farmer&Carine Nourry&Alain Venditti(NBER Working Paper No. 18647, Issued in December 2012):

これまでの研究では、現実世界のデータで確認されている確率的割引ファクターのボラティリティ(変動)を納得いくかたちで説明できずにいる。そのような説明を提示するのが本稿の目的である。そこで、摩擦/市場の不完備性/取引費用には頼らずに、確率的代表的主体モデルに二通りの修正を加えることにする。すなわち、誕生と死を通じた新陳代謝(世代の入れ替わり)の可能性を組み込むだけでなく、主体(個人)ごとに割引ファクターが異なる可能性――主体間の異質性――を組み込むことにする。競争的な金融市場がリスクを効率的に配分するわけではないことを示すためには、無限に生きる主体というアロー&ドブリュー流のパラダイム(枠組み)に上記のような二通りの些細(ささい)で現実的な修正を加えるだけで十分なのだ。金融市場がパレート効率的な結果に落ち着くことは、その特性からしてあり得ないのだ――パレート効率的な結果に偶然落ち着くことはあるにしても――。 本稿のモデルでは、一人ひとりの主体は合理的だが、市場はそうではないのだ。


〔原文:“Smart Machines, A New Guide to Keynes, and The Inefficient Markets Hypothesis”(Economist’s View, December 24, 2012)〕

Total
0
Shares

コメントを残す

Related Posts