トランプ政権は現在、DEI(Diversity, Equity, and Inclusion: 多様性、公平性、包摂)プログラムを連邦政府機構から追い出そうとしている。これを受け、DEIとは実のところなんであるか(あったか)を巡って、大きな混乱が存在することが明らかとなった。こうした混乱は、DEIの提唱者たちが自身の主張を、1960年代の公民権運動を突き動かした思想やアイデアの直接の延長線上にあると論じがちなために生じている部分がある。実際には、DEIの主張の多くは公民権運動のそれよりはるかに論争的だ。目下生じている本格的な攻撃に抵抗できる望みがあるとすれば、より擁護しやすい言説体系の構築を視野に入れつつ、DEIの主張を再検討することから始めるべきだろう。
大規模な官僚制組織で働いている人の多くと同様、私も過去十年、いくつかの多様性セミナーや勉強会に出席する機会があった。さらに、子どもの高校で開かれている似たような講演会にも参加してみた。どのケースでも、私は不吉な感覚を抱いた。そうした場所で提示されていた人種的正義に関する考え方は、単に論争的なだけでなく、不必要に論争的だと思ったのだ。具体的に言うと、講師たちはDEIプログラムの目的を果たす上でする必要がないような主張を行い、聴衆に喧嘩を売っているように感じたのである。
最も明白なのは、DEIの支持者たちがアファーマティブ・アクションに関して極度に論争的なアプローチを推進してきたことだ。そうしたアプローチは多くの場合、目標となる結果を達成するために、手続きの公正さへの考慮を完全に放棄するものだった。DEIに不満を述べる共和党員の多くは、DEIという語をこの種のアファーマティブ・アクションの同義語として用いている。だが私がこのエントリで焦点を当てたいのは、アファーマティブ・アクションではなく、至る所で開かれているDEIセミナーで重要な役割を果たしている、論争的な理論的・哲学的主張である(暗黙のバイアス、構造的レイシズム、白人特権など)。
そういうセミナーに参加したことのある人なら、私が以下に挙げていく主張には見覚えがあるはずだ(もし見覚えがないなら、おめでとう、あなたは私が参加したのよりもマシなセミナーに出席していたのだ)。このエントリでは、再検討が必要だと私が考える5つの主張を取り上げたい。最初の3つは事実に関する主張だ。これらの主張はアメリカでの人種問題を巡る議論で進歩派が広く受け入れてきたものだが、虚偽であるか、複雑な事態を極端に単純化してしまっている。最後の2つは正義に関する〔規範的〕主張で、これらは不正確か、さもなくばひどく論争的である。
私は、DEIの支持者がこうした主張により注意深くあれば、現在のバックラッシュを避けることができたと主張したいわけではない。しかし、公共に関わる重要な問題を扱おうとするなら、そしてセミナーへの参加を義務付けようとするなら、そのカリキュラムは完全に防弾仕様でなければならない〔批判に対して容易に擁護可能でなければならない〕ように思われる。ハッキリと言えるのは、誤っていたり、推測に基づいていたり、不必要に論争的だったりする主張をカリキュラムに含めるべきではないということだ。さもなくば、こちらから敵に弾薬を送ることになってしまう。残念ながら、DEIの標準的なカリキュラムはまさにこのような形で組み立てられている。一般化は難しいが、多くの人は、私が「DEIの5つのドグマ」と考える以下の主張を容易に理解できるだろう。
1. 人種は社会的構築物である
「人種」は現在では有用な科学的概念と考えられていない、ということを人々に知らせるのは重要である。また、異なる地域の人間集団間に見られる主要な生理的差異(皮膚の色、髪質、まぶたが一重か二重かなど)は、生物学的観点からすると非常に些細であることを伝えるのも重要だ。外見が大きく異なるように見えるとしても、そうした差異は表層的なものであり、生物学的観点からすると私たちは非常に似通っていて多くの特徴を共有している。
だが反レイシズムの講師の多くは、こうした広く受け入れられている事実を教えるだけに留まらず、より極端で、複雑で、ある面では誤った主張を行ってしまっている。それは、人種の根底には生物学的「事実」などなく、人種というのは「社会的構築物」だという主張だ。この主張が提示される仕方は様々だ(人種は現実でない、人種は生物学的なものではない、人種は遺伝的基盤を持たない、人種は生物学的神話だ、などなど)。このような見解を取り上げたものとして恐らく最も影響力があるのは、PBS〔アメリカ公共放送サービス〕で放映された「人種:幻想の力(Race: The Power of an Illusion)」という教育用の動画だ(この動画に付随して公開された教材には、次のような主張が載っている。「人種は遺伝的基盤を持っていません。ある(いわゆる)人種に属する人全員を、他の(いわゆる)人種に属する人全員から区別するような、1つの特徴、特性、遺伝子は存在しません」)。
こうした主張は、控えめに見ても混乱している(これは、非常に難解な哲学的概念を持ち出していることにもよる。例えばあるものが「現実的(real)」であるとはどういうことなのだろうか?)。だが同時に、この主張は少なくとも1つの点で間違っている。人種は、標準的な範囲に収まるどんな用法においても、祖先(ancestry)によって特定される。そして祖先は、明らかに生物学的な概念だ(ここでの「特定される(determination)」という語は、2人の個人が同じ祖先、例えば同じ親を持つなら、その2人は同じ人種に属するはずだ、という意味である)。
「人種:幻想の力」でなされている主張は実のところ、リチャード・ルウォンティンが大昔に行った議論の混乱した解釈となっている。ルウォンティンは、人間に見られる遺伝的変異(genetic variation)の約85%は個人間のものであり、地理的に離れた人間集団間のものは15%だと算出した。これを基にルウォンティンは、人種はヒト生物学において分類上の重要性を持たないと結論付けた。この主張は、人種は「遺伝的基盤」を持たないとか、「現実的なものでない」という主張として解釈されることが多い。
ルウォンティンの議論の問題は、それぞれの遺伝子座(genetic locus)の比較によってある人種に属するメンバーを別の人種に属するメンバーから区別できないとしても、そうした変異全ての内部に存在する相関を調べれば、個人の祖先(そして人種)を特定するのに利用できる、ということだ。唾液のサンプルを採取してDNA検査会社に送れば、自分の人種的背景を知ることができるということは誰でも知っているが、それが可能なのはこのためだ。こうしたよく知られた事実を否定することは、人種的正義の大義を推進することになんら影響しない。
DEIの講師たちが哲学的概念を本当に用いる必要があるなら、人種は「自然種(natural kind)」ではない、と言うべきだろう。人種は素朴概念(folk concept)であり、「風邪を引いた」というのに近い。ある意味で、「風邪」ウィルスなどというものは存在しない。「風邪」という語は、大した共通点もない様々なウィルスの寄せ集めを指しているからだ。それゆえ、自然科学の学術誌では風邪ウィルスという語は出てこず、より具体的な用語が用いられる(ライノウィルス、アデノウィルスなど)。だがこれを根拠に、風邪は「幻想」であるとか、「社会的構築物」だと言うのは非常にミスリーディングだろう。
2. ステレオタイプは誤っている
「男性は女性よりも力が強い(stronger)」というような、集団についての主張を考えてみよう。この主張は様々な仕方で解釈できる。これを平均に関する主張(「平均的に見て男性は女性よりも力が強い」)や確率に関する主張(「ランダムに選ばれたどんな男性も、ランダムに選ばれた女性より力が強い可能性が高い」)と理解するなら、これは正しい。だが普遍的な一般化と見なす(「どんな男性であれ、どんな女性よりも力が強い」)なら、これは誤りだ。それゆえ、このような主張に基づく普遍的な当てはめ(「彼は男性なので、彼女よりも力が強いはずだ」)は妥当でないということになる。
社会心理学者は厳密な議論をする際、このような曖昧さを避けるため、集団に関する「平均で考えれば正しいが、普遍的な一般化として考えれば正しくない」主張を、「正確(accurate)」な主張と呼ぶ(集団についての主張が「不正確(inaccurate)」となるのは、それが平均で考えても普遍的一般化として考えても誤りである場合だ)。よくあるタイプの不正な差別が生じるのは、集団についての「正確」な主張から、根拠のない普遍的な一般化と当てはめによって、その集団に属する個々のメンバーに関する誤った主張がなされるときだ。
この推論を説明したり理解したりするのは難しくないし、公正さに関する直観は非常に広く受け入れられている。ここから学べる教訓は、集団についての主張から個人についての主張へ移る際には、非常に注意深くあらねばならない、ということだ。残念ながら、反レイシズムの講師の多くはこうした注意喚起を行うにあたり、「集団についての信念はステレオタイプであり、ステレオタイプは端的に誤っている(普遍的一般化として誤りなだけでなく、平均、確率、頻度に関する主張としても誤りである)」と受講者に教えている。こうした議論を行う一番の近道は、ステレオタイプを表明する主張は普遍的一般化として誤りだから、「不正確」である、という(間違った)主張をすることだ。
こうした主張によって、何がレイシズムで何がレイシズムでないのかを巡って、アメリカ人の間で大きな混乱が生じてしまった。例えば、「アジア人は勤勉だ」という見解を表明すれば、レイシズム的なステレオタイプとして多くの人に冷笑されるだろう。だが、この主張は普遍的に見て正しくないとしても、「正確」ではある。アメリカにおけるアジア人の学生は平均で見て、白人や黒人の学生よりも学業に多くの時間を費やしている。この言明は「正確」であるだけでなく、世界に関する重要な事実を示している。勤勉であることは、アジア系アメリカ人の教育達成が高いことを説明する主要な要因だからだ。結果、DEIの講師たちは、ほとんどの人が明白な事実を述べているだけだと見なしている主張を否定したり、レイシズム的だと非難したりするという、厄介な立場に陥ってしまうかもしれない。
あらゆるステレオタイプは誤っており、それゆえ「不正確」であるという見解は、「暗黙のバイアス(implicit bias)」や「無意識のバイアス(unconscious bias)」を巡る議論によって助長されている。こうしたバイアスの多くはステレオタイプから生じるからだ(ステレオタイプが暗黙の連想を生み出す、などの仕方で)。問題は、「バイアス」という語それ自体が軽蔑のニュアンスを持っていることだ。「正確なバイアス」というのは矛盾した言葉に聞こえるだろう。だが、反レイシズムの講演会で提示される「暗黙のバイアス」や「無意識のバイアス」の例の多くは、「正確」なステレオタイプに基づいている。厳密に言えば、それらはバイアスと呼ぶべきでない。それらをバイアスと呼んでしまうと、あらゆるステレオタイプは「不正確」だという誤った見解を促してしまい、DEIの講師たちは、世界に関する単純な事実を否定することになってしまう。
3. レイシズムは生得的ではなく、学習行動である
子どもに罪はないと考えたくなる誘惑は強いが、そうした誘惑に駆られて人間本性の研究を歪めてしまうべきではない。残念ながら反レイシズムの講師の多くは、「レイシズムは学習行動だ」という考えを推進することを選んでいる(例えば、「私たちはみな偏見なしに世界に生まれ落ち、その世界の中で、抑圧のシステムを受け入れるよう体系的に教え込まれる」)。これは事実を述べているというより、進歩的な社会変革の可能性を楽観視させるための決まり文句である場合も多い。人間が生得的な性向を制圧できることは明らかだが、レイシズムが完全なる学習行動なら、レイシズムの排除はずっと容易いものになるというのも事実だ。子どもたちにレイシズムを教えるのをやめ、子どもたちがレイシストをモデルにするのを止めさせるだけでよいのだから。
このような楽観的な主張に反して、レイシズムの心理的基盤に関する現代の科学者の見解は複雑だ。社会的世界を内集団と外集団に分類し、内集団のメンバーには外集団のメンバーよりも協力的に関わろうとする基本的な傾向は、明らかに生得的なものだ。だが、内集団と外集団の線引きの基準が生得的に決まっているようには見えない。それゆえ、人種を主な基準として内集団と外集団を区別する人々は、それを社会環境から学んだ可能性が高い。
残念ながら、集団性(groupish)の心理は生得的であり、人種による分類の根底にある生理的差異はかなり目立つので、子どもたちは教えられなくても(あるいは、ごく些細なきっかけさえあれば)自分たちだけで完璧にレイシズムを発明できる。集団間の敵対関係や偏見を目にする必要すらない。異なる人種の人々が互いに助け合う場面を目撃することで、社会的世界を人種的な線引きで見るようになり、これが外集団嫌悪の傾向と組み合わさってレイシズムを生み出すかもしれない。レイシズムは誰かから学習されたものであるはずだという主張に教条的にこだわれば、罪のないはずの子どもが突然レイシズム的言動を見せた原因を突き止めようとする魔女狩りの心理が容易に生じてしまう。こうして、教師は親を、親は教師を疑う、といったことが起こり得てしまう(レイシズムの犯人探しが困難であるために、無意識のレイシズムや暗黙のバイアスが広範に行き渡っているという信念が助長されているのかもしれない)。
言うべきなのは、人間の心理にレイシズムが組み込まれているわけではないが、人間は本性上、集団性と外集団嫌悪の傾向を持ち、これは容易にレイシズムに繋がり得る、ということだ。さらに、この込み入った心理に含まれている社会的感情のために、多くの人はレイシズムを心理的に愉快なものだと感じてしまう。私たちは、社会に汚されさえしなければ全くの潔白である、というわけではない。レイシズムの種は私たちの心の中にある。私たちの仕事は、レイシズムが育っていかないようにすることであるはずだ。そのためには、人間の心理的傾向に関して注意深くなければならない。
4. 多数派特権は不正である
DEIの正典として最も影響力がある論文は、恐らくペギー・マッキントッシュ(Peggy McIntosh)の「白人特権:不可視化されている特権の中身を明らかにする(White Privilege: Unpacking the Invisible Knapsack)」だろう。この論文は「特権チェックリスト」というアイデアを提唱している。白人の学生が列挙された質問に答えていき、自分が白人という人種に属しているおかげで享受している利益を反省する、というものだ。マッキントッシュによるオリジナルのチェックリストはたくさんの模倣者を生み出し、論争に晒されることとなった。
こうしたチェックリストは分断を煽るとして非難されることが多いが、一目で分かるような問題もある。それは、こうしたチェックリストが総じて、様々な特権の間にある重要な区別を引き損ねていることだ。マッキントッシュは、人種特権(白人が、白人という人種集団に属していることで享受している特権)と多数派特権(白人が、人種それ自体のためではなく、単純にアメリカ社会で人口的な多数派を形成する集団に属しているために享受している特権)とをごちゃ混ぜにしている。
このような混乱は、DEIの勉強会の至る所で見られる。例えば、アメリカの多くの高校で用いられているある特権チェックリストには、「店に行ったとき、物を盗むのではないかと人から疑われたりしない」という項目だけでなく、「通っている学校の職員の多くが自分と似た見た目である」という項目も含まれている。この2つは明らかに異なる種類の特権だ。中国の学校に通う白人の学生は、前者の特権を享受しているかもしれないが、後者の特権は明らかに享受できないだろう。それは、後者が実際には人種特権ではなく、人口的な多数派の集団に属していることの帰結を示しているだけだからだ。
両者を区別しないことが問題なのは、人種特権から得られる利益は明らかに不正である(誰もが自身の人種のせいで疑われたりせずに買い物できるべきだ)一方、多数派特権から得られる利益は必ずしも不正ではないからだ(誰もが、自分と同じ人種の教員が多数派となっている学校に通えるべきだろうか?)。多くの場合、多数派特権から生じる便益は、単にその社会の主流派と同じ嗜好や選好を持つことの帰結に過ぎない。
マッキントッシュによると例えば、白人アメリカ人が有能な美容師を〔他の人種よりも〕容易に見つけられることは、白人特権の一種だ。だがマッキントッシュは続けて、白人特権は人種による支配のシステムを生み出すと主張する。この妥当でない推論により、たくさんの問題含みな結論が導かれる。最も明白なのは、特権チェックリストに多数派特権を含めることで、暗黙の裡に反統合主義の立場にコミットしてしまっていることだ。人種的少数派のメンバーは、その人種が少数派である社会(や、より具体的なやりとり)に参加するだけで、支配を受けていることになると示唆しているからである。この結論は、白人が数的多数派を占める組織を記述するために「ホワイト・スプレマシー(白人至上主義)」といった強い道徳的ニュアンスを帯びた語を用いる傾向によって助長されてきた。
昔は、「ホワイト・スプレマシー」という語はKKKをイメージさせたので、「アメリカのホワイト・スプレマシーを終わらせるべきだ」という要求は圧倒的大多数の人々に支持されていた。だが人種特権と多数派特権を混同してしまうと、ホワイト・スプレマシーを終わらせるべきだという主張は非常に論争的なものとなってしまう。なぜならこの理解の下では、白人が人口的多数派でなくなることでしかホワイト・スプレマシーを終わらせることができなくなるからだ。実際この主張は、「グレート・リプレイスメント」理論〔白人を絶滅させ非白人人口で置き換えようとする陰謀が進行している、という右派陰謀論〕を語る敵に塩を送ってしまっている。グレート・リプレイスメント理論は妄想とはねつけられるのが常だ。だがこうした特権チェックリストは、白人特権を終わらせるには、白人がアメリカ人口に占める割合を大幅に減らさなければならないという明白な含意を持つため、陰謀論に意図せぬ形で支持を与えてしまっている。
繰り返すが、これらはどれも、〔DEIを推進する上で〕全く行う必要のない主張だということを強調しておくのは重要だ。アメリカの白人が、マイノリティ集団の経験している明らかに不正な扱いを受けずに済んでいる、ということに焦点を当てたチェックリストを作るのは難しくない。こうしたことに注意を向けさせるのは、有益な教育実践となるだろう。白人に罪悪感を抱かせることが、人種的正義を促進する上で有効な政治戦略なのかを巡っては、ちょっとした議論が存在する。だがこの問題に決着をつけずとも、アメリカ社会の不正ですならい側面に対して白人に罪悪感を抱かせようとするのは、よくて効果が薄く、悪ければ逆効果をもたらす、というのは容易に理解できるはずだ。
5. 人種間格差は(それ自体で)不正である
DEIの取り組みが広めてきたもう1つの重要な概念は、「構造的レイシズム」ないし「体系的レイシズム」である。こうした語は、大規模な社会システムが、必ずしも個別の社会的アクターが差別的行動をとっていなくとも、望ましくない人種的不平等を再生産しているという状況を記述するために作られた。例えば、表面的には中立的に見える職業要件の多くは、特定の人種集団のメンバーのアクセスを制限する効果を持つ可能性がある。それゆえ、人種間格差を生み出し得る職業要件は、正当化可能なものかどうかを判断するためにきちんと検討するのが重要である。
こうした考え方は不幸にも、議論の抜け道を促してしまっている。すなわち、DEIの講師は、人種間格差が存在する事実だけをもって、「体系的レイシズム」が存在する十分な証拠と扱うのである。これは、マット・イグレシアス(Matt Yglesias)の言う「格差主義(disparityism)」を生み出し、構造的レイシズムと、人種間での結果の格差との間にある区別を塗り潰してしまう。格差主義に従えば、結果の不平等の存在は、不正な差別が生じていると疑う理由になる(それゆえ、有罪かどうかを判断するためにさらなる調査が必要となる)のではない。格差主義は、結果の不平等それ自体が必然的に不正である、といきなり結論づけるのだ(これはイブラム・X・ケンディの著作に最も顕著に表れている。ケンディはレイシズムを、人種間で結果に格差が存在することと定義している)。
この見解が問題なのは、ほとんどあらゆる格差は複数の要因の産物であり、その要因の中には不正なものもそうでないものもあるからだ。例えばケンディは、白人アメリカ人と黒人アメリカ人の住宅所有率の差を挙げ、これを彼の考えるレイシズムの典型例としている。似たところだと、白人アメリカ人と黒人アメリカ人の家計資産の差の統計は誰でも見覚えがあるだろう。だが、こうした状況にどんな問題があるのかを探るには、不正でない(が結果に影響を与える)様々な要因を「統制」する必要がある。例えば、アメリカの白人の年齢中央値は、黒人より10歳高い。これは明らかに、住宅のような財の分配における人種間格差を評価する際には取り除くべき要因だ(住宅を所有するのは高齢な人でありがちなため)。このような理由で、集団間の平等・不平等を判断するのは非常に難しい。
だが、こうした「減刑要因」に言及すると、ひどく非生産的な論争が起こるのが常である。レイシズムの糾弾により共感的な人々が、格差に寄与している可能性のある他の要因を指摘し始めるのだ。こうした指摘が正しいことはままあるだろう。だがここで見落とされているポイントは、格差それ自体を示すだけでは、結果の正・不正を立証できないということだ。こうした問題を研究する社会科学者が、レイシズムを非難する際に慎重になりがちなのはこのためだ。こうした格差は多くの場合、不正な不平等が働いていると疑う完全にもっともな理由を持つかもしれないが、それを証明するのは骨が折れる仕事になり得る。最初に不正でない要因を全て取り除かないといけないからだ。だがDEIの実践者たちの大部分は、こうした困難を完全に無視し、「体系的レイシズム」という語を抜け道的に利用して、アメリカ社会のほとんどあらゆる制度をレイシズム的だと非難しながら、そうした主張を立証するのに必要な仕事を行っていない。
ここから学べる教訓
冒頭で述べたように、こうした5つのドグマのどれも、完全なる誤りというわけではない。問題は、それが完全に真実なわけでもなく、それゆえこうした主張を広めることで、全く余計な疑念や論争が生じてしまうことだ。その上、こうした主張はどれも、反レイシズムのカリキュラムが果たそうとしている基本的な教育目的にとって重要ではない。どの主張についても、誠実さを全く損なうことなしに、正しくかつ論争的でない主張で置き換えることが可能だ。
DEIの支持者たちに馴染み深いであろうスタイルで提示すると、次のような主張を私は推奨したい。

DEI教育、反レイシズムセミナー、「批判的人種理論」の授業に対してなされてきた攻撃の不愉快さを考えれば、こうしたカリキュラムを熱心に擁護したくなるかもしれない。だがそうした擁護が可能となるためには、あらゆる経験的主張が明確な科学的エビデンスに基づいており、あらゆる規範的主張が念入りに考え抜かれたものである必要があるだろう。
現実には、DEIはアメリカにおける人種やレイシズムの問題に関してたくさんの混乱を生み出してきた。説明が難しい事柄があることは私も承知している。上の表の右側に挙げられた主張は、左側に挙げられた主張よりずっと込み入っている。だが同時に、右側の主張の方がはるかに正確だ。左側の主張を行う人々の動機には共感するが、こうした主張は結局のところあまりにいい加減で、議論をひどく簡単なものに見せかけようとしている。DEIの支持者は、市民全体が受け入れられると理に適った形で期待できるような、より強力な言説体系を携えて再起する必要がある。
[Joseph Heath, The Five Dogmas of DEI, Persuasion, 2025/3/5.]〔本エントリは、政治学者のヤシャ・モンク(Yascha Mounk)氏が創設したオンライン・マガジンPersuasionに掲載されたものであり、ジョセフ・ヒース教授の許可に基づいて翻訳・公開している。〕