●David Beckworth, “The Gold Standard Was an Accident of History”(Macro Musings Blog, March 5, 2014)
ルイス・レアマン(Lewis E. Lehrman)の『Money, Gold, and History』の書評をナショナル・レビュー誌に寄稿したばかりだ。本書は、レアマンがこれまでにあちこちで発表してきたエッセイを一冊にまとめたものであり、「国際的な金本位制へ直ちに復帰せよ!」というのが中心的な主張だ。レアマンは、金本位制の歴史についてかなり楽天的な見方に立っており、金本位制は今でもうまく機能すると考えているようだ。確かに、1870年から1914年まで続いた古典的な金本位制に話を限ると、比較的うまい具合に機能していたと言えるが、通貨としての「金」(ゴールド)の歴史は、レアマンが本書の中で描いているよりも、ずっと微妙で複雑だ。私の書評の中から、その点を突いている箇所を引用しておくとしよう。
まずは、金本位制の歴史を振り返ってみるとしよう。金本位制は、「文明を支える共通通貨」を後ろ盾とした「由緒ある通貨制度」であり、「100年間にわたって物価を安定させてきた実績ある門番」というのが、レアマンの本書での主張だ。しかしながら、通貨としての金(ゴールド)の歴史は、ずっと微妙で複雑だ。金属本位制の歴史を振り返ると、金(ゴールド)よりも前に、銀(シルバー)が数百年にわたって主要な本位通貨としての役割を担っていた。銀が金に取って代わられた主たる理由は、金のほうが銀よりも通貨として優れた性質を備えていたからというわけではない。その理由は、イギリスやアメリカといった主要な国々が、金銀複本位制(バイメタリズム)を採用した――金貨と銀貨が法貨として定められた――ことに求められる。それも、法定の金銀比価と市場相場(市場における金銀比価)との間にずれが生じて、銀が過小評価される事態に至ったことに求められるのである [1] … Continue reading。銀の過小評価という事態が生じた結果として、銀貨は最終的に市中から姿を消すことになった。金が本位通貨となったのは、歴史の偶然によるところが大きいのだ。
アメリカで金銀複本位制が導入されたのは、1792年。それから間もなくして、金と銀の市場相場が法定の金銀比価からずれて、銀が過大評価されることになる。その結果として(銀だけが造幣局に持ち込まれることになり)、アメリカでは、1834年まで事実上の銀本位制が続くことになった。1834年に連邦議会は法定の金銀比価を見直し、その結果として、今度は金が過大評価されることに。その後のアメリカでは、金が本位通貨としての役割を務めることになり、1834年から1861年までの期間にわたり、事実上の金本位制が続いたのだった。1834年の連邦議会の決定(法定の金銀比価の見直し)は、アンドリュー・ジャクソン大統領が第二合衆国銀行を相手に繰り広げた、かの有名な「銀行戦争」の一環――銀に裏付けられた銀行券を発行していた第二合衆国銀行を弱らせてやろうとの意図が込められていた――という面を持っている。(事実上の)銀本位制から(事実上の)金本位制への移行は、市場主導でもなければ、自然発生的なものでもなかった。政治闘争の産物だったのだ。
金本位制は歴史の偶然の産物だということを証拠立てるエピソードは、他にもある。南北戦争後に、「金本位制か、金銀複本位制か」をテーマに繰り広げられた激しい論争がそれだ。南北戦争中にドル(紙幣)と金属(金ないしは銀)との兌換は一時的に停止されたが、連邦議会は1879年までに兌換を再開する意向を示した。しかしながら、連邦議会が新たに見直した法律(貨幣鋳造法)の中には、銀貨の自由鋳造は盛り込まれなかった。つまりは、ドルは金とだけ兌換できることになったのである。仮に銀貨の鋳造が続けられていたとしたら、当時の市場相場から判断して、銀は1879年までに事実上の本位通貨としての役割を担うことになっていただろう。事実上の金本位制への移行を後押しした連邦議会の決定は、多くの人たち――特に、金本位制への移行はアメリカ経済に対するかなりのデフレ圧力になると考えた面々――の怒りを買い、「金本位制か、金銀複本位制か」というのが1896年の大統領選挙での一番の争点になった。銀本位制の可能性が完全に潰(つい)えるには、1900年まで待たねばならなかった。1900年に金本位法が成立したのである。レアマンが語るように、何世紀にもわたって「文明を支える共通通貨」として君臨するにふさわしい資格が金に備わっているのだとしたら、金が本位通貨としての地位を手にするのに歴史の偶然に頼らねばならなかったのは、どうしてなのだろうか? 本位通貨をどれにすべきかをめぐって、アメリカの歴史の中で激しい論争が何度も繰り返されねばならなかったのは、どうしてなのだろうか?
不換紙幣は政治家によって恣意的に操られる可能性があるが、金本位制にはその可能性はない。なぜなら、通貨としての金の量は、どれだけの金塊を掘り出せるかという制約によって縛られているからだ。レアマンは、そうも語る。しかしながら、金本位制も、政治家による人為的な操作からは逃れられない。そのことは、これまでに言及してきたエピソードだけでなく、その他の実例――南北戦争中における(ドルと金ないし銀との)兌換停止の決定、F・D・ルーズベルト大統領が下した金の没収命令(1933年)等々――によっても明らかだろう。
アメリカで金本位制が採用されたのは、歴史の偶然に過ぎない。金が他の候補に脅かされずに本位通貨の地位にとどまり続けた期間は、最長でも四半世紀に過ぎない。そのことを踏まえると、ふとこんな疑問が浮かんでくる。18世紀および19世紀を通じて、長期にわたって物価が安定し続けていたのは、金本位制それ自体のおかげだったのだろうか? それとも、その理由はもっと深いところ――物価安定の達成に向けた政治的ないしは制度的なコミットメント [2] … Continue reading――に求められるのだろうか?
「物価の安定」ではなく、「貨幣的な安定」をこそ目指すべきであり、「貨幣的な安定」を達成する一番の方法は、将来にわたる名目支出(名目GDP)の伸び率に関する人々の予想を安定させることにある。書評の残りの箇所では、そのような持論も展開している。書評のpdf版も用意したので、是非とも全文に目を通していただけたらと思う。
References
↑1 | 訳注;アメリカでは、1792年の貨幣鋳造法で金銀複本位制が導入されたが、それに伴って、1ドル=371.25グレイン(24.056グラム)の重量の銀=24.75グレイン(1.604グラム)の重量の金と定められた。言い換えると、「金1オンス=19.3939・・・ドル/銀1オンス=1.2929・・・ドル」(1オンスは28.3495グラム)と定められたことになり、金1オンスは銀1オンスの15倍の価値があるというのが法律上の評価となった(法定の金銀比価が15対1と定められた)。しかしながら、金や銀には通貨以外の用途もあり、その時々の需給状況に応じて、それぞれの市場価格は変動する。そのため、市場における金と銀との価格比(市場相場)と法定の金銀比価(15対1)との間にずれが生じる可能性がある。市場相場と法定の金銀比価との間にずれが生じると、金か銀のいずれか一方(過大評価となる側)だけが造幣局に持ち込まれることになる。例えば、市場における金と銀との価格比が15.5対1となった場合、市場では金(1オンス)は銀(1オンス)の15.5倍の価値があると評価されていることになるが、法律上は金(1オンス)は銀(1オンス)の15倍の価値があるとの評価(法定の金銀比価は15対1)になっている。つまりは、市場相場に照らすと、金の価値は法律の上で過小評価(反対に、銀は過大評価)されていることになるわけだが、金の過小評価(銀の過大評価)が続くようだと、銀だけが造幣局に持ち込まれることになる。というのも、銀15オンスを造幣局に持ち込めば、金1オンス相当のドル(19.3939・・・ドル)と交換してもらえることになるが、金1オンス相当のドルがあれば(市場における金と銀との価格比が15.5対1だと)市場で15.5オンスの銀を買えることになる。銀15オンスがあっという間に銀15.5オンスに化けるわけだ。こんなうまい儲けの機会があるとなれば見逃されるわけがなく、結果として銀だけが一方的に造幣局に持ち込まれる(造幣局で銀貨に鋳造されるか、あるいは、造幣局で紙幣と交換される)ことになる。金銀複本位制下では、市場相場と法定の金銀比価との間にずれが生じると、金か銀のいずれか一方(過大評価となる側)だけが造幣局に持ち込まれ、その結果として、事実上の単本位制に――金の過大評価が生じる場合は事実上の金本位制に、銀の過大評価が生じる場合は事実上の銀本位制に――落ち着く傾向にあるわけである。 |
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↑2 | 訳注;金本位制の(金の流出入に伴って国内のマネタリーベースが変化しても、決して不胎化せずにそのまま放置せよと説く)「ゲームのルール」に何が何でも忠実に従おうとする、政策当局者らの強い意志。あるいは、「ゲームのルール」が破られるのを防ぐ制度的な仕組み。 |
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