ジョセフ・ヒース「有名人による支配?:俳優が政治家として成功しない理由」(2016年1月17日)

民主主義社会における政治システムの最上層(つまり、テレビが最も重要な情報伝達媒体となっている領域)は、なぜ俳優に乗っ取られていないのだろう?

ケヴィン・オレアリー〔カナダの有名な実業家で、テレビ番組のパーソナリティもつとめていた人物〕がカナダ保守党の党首選への立候補を検討しているらしい。このニュースは床屋政談好きの人々(chattering class)に、ここ数カ月渇望していた話の種を与えてくれた。

もちろん、オレアリーが当選する見込みはない。オレアリーはフランス語を話せないからだ。自分はモントリオール生まれで、理屈抜きで「ケベックを理解している」から、フランス語を話せなくても問題はない、というのがオレアリー自身の主張だ。言うまでもないが、本当にケベックを理解している人なら、ケベックのフランス語話者が何よりも嫌っているのは、ケベック出身でフランス語を話せない人だと知っている。サスカチュワン出身者には少なくとも言い訳があるが、モントリオール出身の彼にはそういう言い訳もない。

いずれにせよ、私はこの話を聞いて、タイラー・コーエンがしばらく前に書いていた非常に良い疑問を思い出した(今さっき確認したところ、この疑問はロビン・ハンソンが提起したもので、コーエンはそれを引用していただけだった)。その疑問はこうだ。民主主義社会における政治システムの最上層(つまり、テレビが最も重要な情報伝達媒体となっている領域)は、なぜ俳優に乗っ取られていないのだろう?

これが印象に残ったのは、民主主義理論を研究する人々がほとんど全く提起しない類の疑問だからだ。これは、民主主義の「熟議」的構想(のなんらかのタイプ)にコミットする人々に特に当てはまる。「熟議」に基づく政治システムにおいて、嘘をついたり「荒らし」をしたりする人間にどう対処すべきか、という問題がまったく提起されないのだ。政治理論家は、夜には現実の民主政治のひどいありさまを見て嘆くが、翌朝仕事に戻ると「熟議民主主義が市民と代表に与えるよう求める理由は、協力の公正な条件を見出そうと努める個人が理に適った仕方で拒否できない原理に訴えかけるべきだ」というような文章を書いたりする。「もし人々がそうしなかったら?」という問いかけはめったに出てこない(そういう問いが出てきたとしても、「いや、人々はそうすべきであって…」以上の有益な答えが出てくることはめったにない)。

私は、「耐デマゴーグ性」(demagogue-proof)をそなえた熟議政治システムの設計にどうすれば取り掛かれるか、という問題に本当に興味を持っている。特定のトピックに関する熟議の場を設計することになり、あらゆる社会的立場の市民100人を連れてきて参加させるとしよう。だが、100人全員が熱心な参加者になることはなく、熟議に取り組まず邪魔をするという明確な意図をもってやってくる人が数人はいるとしよう。あるいは、集められた市民の中に、実は「一般市民」(average citizens)ではなくて、ある政党からお金をもらい、政党の意向から逸脱しないよう厳しい訓練を積まされ、話すべきテーマや「間違った事実」を教え込まれた人がいるとしよう。あるいは、人の動かし方を知っていて、かつ熟議を失敗させたいと思っている非常にカリスマ的な参加者がいるとしよう。そうした参加者がいる場合でも機能し得るような熟議の手続きを想像するのは、私には非常に難しい。熟議を機能させるには、そうした人物を追い出すしかないかもしれない。だがこれは、民主的な政治システムにおいてはご法度だ。

さて、俳優の問題に戻ろう。有名な例外(例えばアーノルド・シュワルツェネッガー)もあるとはいえ、俳優がなぜ政治においてそれほど成功を収めていないのかという問いについては、説得的な回答があると私は考えている。有名人であることはもちろん、民主政治においては大きなメリットとなる。投票の多くは、名前の認知と感情的反響の組み合わせでなされているからだ。だが問題は、政治という「ゲーム」には他にもたくさんの側面があり、俳優はそれらに不得手なことが多いことである。政治は、スピーチを行い、議論し、テレビに出ることだけでなく、もっとたくさんの要素からなっている。ネットワークを作る、内部集団内で密な忠誠を生み出す、などなど。俳優の多くは、様々な状況で人間の自然なリアクションをシミュレートするのが得意なだけだ。例えば、大ファンの俳優と会い、本人がとろくて平凡で感じが悪いことを知ってひどく失望したと言う人はよくいる。私たちは、俳優が喋っているのはプロの脚本家が書いたセリフだということを忘れて、俳優本人が一般人よりも面白く、思考が深く、感受性豊かで、自分の考えていることを表現するのが得意だ、と自然と勘違いしてしまうのだ(言葉を発する前にプロの脚本家チームに逐一相談できれば、私たちの会話はどんなに輝いて見えることだろう)。なので、テレビや映画はほぼ常に、俳優が現実の本人よりもすごい人物だという幻想を抱かせる。

より興味深い問題は、リアリティ番組の出現がこの事態を変え得るかどうかだろう。ドナルド・トランプとケヴィン・オレアリーの2人に特徴的なのは、彼らが俳優ではなく、(まずなによりも)リアリティ番組のスターであることだ。もちろん彼らは有名人でもあり、知名度を利用して広い政治的支持をとりつけようとしているのは明らかだ。だがリアリティ番組のスターが俳優と違うのは、単にスクリーン映えするだけでなく、その人生を成功に導いた他の特徴も持っていることが多い点だ(ここでは一般化している。このことは、「ビッグ・ブラザー」の出演者にはもちろん当てはまらない。これは完全にジャンルによる。トランプとオレアリーに当てはまるのは、単にテレビに映るのが得意だからテレビに出ていたのではないということだ。2人とも既にテレビ以外の領域で成功しており、その後テレビで人気者になったのだ)。そのため、俳優が持っているのと同じハンディキャップをトランプとオレアリーが持っているとは考えにくい(ジャーナリストの多くが政治の世界に飛び込んで成功してきたことにも注意しよう。繰り返すが、知名度がある状態で選挙に出ることは大きな利点となる)。

では、民主主義は「有名人による支配」へと進んでいく可能性が高いのだろうか? こうした事態を指す新しい用語を作るべきだろうか? 例えば、有名人制(Celebocracy)とか? これはあまりよくない。共和党員たちはバラク・オバマを「有名人大統領」だと非難したが、この非難は現実に即していなかった。オバマは選挙戦に立候補するまで有名ではなかったからだ。オバマは単に、大統領になってから有名人のオーラのようなものを獲得した政治家だ。対照的にジャスティン・トルドーは、政治の世界に入る前から有名だった(カナダ人のほとんどがその名前を知っていた)。そのためトルドーを有名人首相と見なすのはより正当だ。有名人と戦うにはこちらも有名人を立候補させるしかないと保守党員が考えるなら、それは昔ながらの人民民主主義にとって良い兆候ではないだろう。

[Joseph Heath, The meaning of O’Leary, In Due Course, 2016/1/17]
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