大学は新聞の衰退から何か教訓を学べるだろうか? 最初に答えを言ってしまうと、学ぶべき重要な教訓があると私は考えている。それは、研究大学の基本的なビジネスモデルが、伝統的な新聞のビジネスモデルと似通っているからだ。どちらのビジネスモデルも、公共財と私的財の2つの財を集めて、「抱き合わせ(bundle)」にして売ることで成り立っている。このビジネスモデルは、消費者が一方〔公共財の方〕を買わずに他方〔私的財の方〕を得る方法を見つけたとき、終わりを迎える。インターネットは新聞の各「欄」を分解することで、伝統的な新聞を殺した。大学にとって問題は、「抱き合わせ」をこれまで通り維持できるのか、それとも2つの財は繋がりを解かれる運命にあるのか、である。
これがどういうことかを説明してみたい。ある種の「財」は便益が極度に分散しており、消費者に料金を支払わせるのが難しい。天気予報が良い例だ。正確な天気予報を行うのに必要な装置を設置するには莫大な時間と労力がかかるが、設備投資が済んでしまえば、正確な予報に対して人々に料金を支払わせるのは非常に難しくなる。それは単純に、情報は複製するのがとても簡単なためだ。正確な予報を知るために料金を支払ってくれる契約者を少しばかり見つけられたとしても、そうした人々は他人に情報を教えてしまえるし、教えられた人はさらにその情報を他人に教えてしまえるし、……(以下略)。それゆえ、天気予報は大きな経済的価値を持つが、民間の市場アクターによっては過少生産になりがちだ。経済学者が好んで言うように、この財は非排除的〔料金を支払わずに便益を享受しようとする人々を排除できない〕で、所有権を行使するのが難しいのだ。
こうした財の生産を促す方法の1つとしてよく知られているのが、課税を資金源とした政府による供給だ。(全員が天気予報から便益を得るとの想定の下)国民全体に課税し、カナダ環境省に一定の資金を与え、環境省は気象台を国中に設置し、定期的に天気予報を行う(その情報は他の誰でも好きなように複製できる)。
この編成には一定の利点があるが、よく知られた問題もある(少なくとも、受益者の多くがそのサービスを自明視して、税金で天気予報を行うことに絶えず文句を言うことになる)。大きな欠点は、市場の分散的な生産メカニズムのかわりに、中央集権的な国家のコントロールを用いていることだ。これは様々な負の影響を生み出し得る(消費者に選択肢がない、独占企業的行動をとる、官僚的な非効率性が生まれる、など)。
だがこうした便益を供給するモデルは他にも存在する。そのうちの1つは、特に過小評価されている。基本的なアイデアは、非排除的な財(つまり、相対的に排除可能性が低い、あるいは排除に大きなコストがかかる財)を、排除が容易な別の財と組合せ、それを「受け入れるか否か(take-it-or-leave-it)」のパッケージにし、両方の財の生産コストをカバーできる価格で売るというものだ(経済学ではたくさんの研究がある。例えばここを参照)。これはもちろん、競争者の間での結託や参入障壁を一定程度伴わざるを得ない。このモデルは実質的に、排除的な財を市場水準以上の価格で売るということなのだから。それゆえこの仕組みは基本的に、非排除的な財との抱き合わせをせずに排除的な財だけを(低価格で)売るような新規参入者に対して脆弱だ。
具体例として、伝統的な新聞を考えよう。新聞がスキャンダルや調査報道、あるいは動静を追うことで政治家に説明責任を課すという役割は、本質的に公共財であり、その便益は極度に分散している。それはまた非常にコストが高い。消費者は一般に、このサービスに料金を支払おうとしない。フリーライドが容易だからだ。ニュースを他人から入手することもできるし、ニュースを得ることすらせずとも、ジャーナリストの注意深い監視下に置かれた比較的腐敗の少ない国で暮らすという便益を享受できる。広告を使うとしても、ニュース欄自体に料金を払わせる方法は存在しない。
では新聞社はどうやってニュースを報道できているのだろう? 伝統的なやり方は、コストは非常に低いが皆が読みたがるような欄とニュース欄とを抱き合わせにすることだ。新聞に自動車欄やスポーツ欄、「住宅」欄などがあるのはこのためだ。その全体を「一括販売」で広告主と消費者に売るのである。このビジネスモデルの鍵となるのは、情報の非対称性だ。新聞社は広告主に発行部数を教えるが、広告主の側は、新聞の各欄をどれだけの人が実際に読んでいるのか、どれだけの人が広告を見ているのかを知ることができない。新聞を買い、スポーツ欄だけ抜き取って他はゴミ箱に捨てている人を見た経験は誰にでもあるだろう。広告主は概してこの現象に気づいていたが、実際にどれだけの人が読んでいるかについて具体的な数字を持ってはいなかった。
まとめよう。伝統的な新聞では、他の欄からニュース欄への莫大な内部補助(cross-subsidization)が行われていた。これを可能にしていたのは、お金を出す側の人間から内部補助の大きさを覆い隠す情報の非対称性が存在したからだ。
このビジネスモデルについて考える1つの方法は、それを「たかり(blackmail)」と捉えることだ(スポーツ欄や広告欄を見たいなら、ニュース欄も一緒に購入しろ)。「抱き合わせ」はこれを良く言い換えているだけだ。重要なポイントは、このやり方は全体のレベルで見れば便益をもたらしていたということである。それは、国家介入なしに公共財の生産を可能にしていたからだ。そして、報道の目標の1つは国家を監視して権力の濫用を防ぐことだから、そうした財を民間で生産できることは非常に重要である。
しかしインターネットが全てを変えてしまった。インターネットは、新聞の様々な「欄」の抱き合わせを解いたのだ。特定の欄だけをオンラインで提供できる競争者(例えばCraigslist)が登場しただけでなく、新聞がオンラインになったことで、広告主はどれくらいの数の読者が何を読んでいるのか(そして実際に広告を見ている人がどれくらいいるのか)を正確に把握できるようになった。こうして新聞はもはや、新聞全体の発行部数を基にして広告枠を売ることができなくなった。その欄を読んでいる人がどれくらいるのかを完全に透明化した上で、各欄ごとに広告枠を販売しなければならなくなったのだ。
ここで大学に話を移そう。大学の研究と新聞の調査報道には大きな類似点がある。どちらも、生み出す便益が極度に分散しており、非排除的だ。ほとんどの部分がマネタイズ困難で、できたとしても、それが最も効率的な編成かは明らかでない(パテントは市場にその後莫大な効率性の損失をもたらすので、基礎的な発見は公に発表できるような知的生産のモデルの方がずっと良い。加えて、基礎科学、社会科学、人文学の生み出す分散した便益は、どれもパテント化不可能だ)。
つまり、研究はほぼ完全に非排除財なのだ。では研究の資金はどう賄えばよいのだろう? 多くの研究は、助成機関などを通じて、課税によって資金を賄っている。だが、研究者は、排除的な財と抱き合わせることで研究資金を確保してもいる。その排除的な財とは、教育だ。教育は研究と違って、まずもっての受益者に容易に料金を課すことができる(出席者のリストを作り、出席をとって、登録していない学生を教室から追い出せばよい)。大学は、教育から研究へと内部補助を行っているのだ(その主たる方法は、教員への報酬を、双方の仕事をこなしたことに対して支払うことだ)。
この編成について考える1つの方法は、繰り返しになるが、(最良の種類の)たかりとして捉えることだ。ここで生じているのは基本的に、インテリ層が団結して「私たちから教育を受けたいなら、研究にもお金を支払ってもらいます」と言っているということなのだ。ここでも重要なのは、この編成が全体のレベルで見れば有益であることだ。公共財を国家介入なしに生産できるからである。
研究と教育の「抱き合わせ」を解くのを妨げているのは何なのだろうか? 2つの要因が考えられる。第一に、大学の威信度は教員のステータスと結びついており、教員のステータスは研究業績で決まる。そのため、教育しか行わない大学は威信度が低い。研究を切り離して教育だけを提供するようになったら、教育の方の質が落ちてしまう(本当に質が劣化しているというより、質が劣化していると見なされてしまうだけであることも多い。しかし質が劣化していると認識されることも、その大学のシグナリングにおける価値に影響するならば、質の劣化と同じくらい深刻な問題だ)。第二に、〔威信と関係なく〕教育の質は本当に下がることになる。研究の世界には、いわゆる「最先端研究(research frontier)」、つまり、人々が目下取り組んでいる一群の未解決問題がある。10年も経てば、最先端研究に取り組むために持っておくべき知識の量は劇的に増大する。研究を行っていない教授は大抵、最先端研究から10年離れた内容なら学生に教えられる。だがここで「ラストワンマイル」現象が生じる。つまり、そこから最先端研究へ至る最後のステップが最大の難所なのだ。最先端研究に追いつくには、ジャーナルを継続的に読み、積極的に研究活動を行う必要があるからである。大抵の場合、学生を最先端研究のすぐそこまで導けるのは、研究を行っている教員(全員ではなく一部だが)だけである。
いずれにせよ、大学教授は自分の生活がどうやって成り立っているのかを忘れがちなので、自分の研究は素晴らしいのだから社会は喜んで研究資金を支払おうとするだろう、と夢想してしまう。結果、教育活動を可能な限り減らそうとする。これは個人としては合理的だが、大学教員の集合利益には適わない。大学でたくさんの授業を院生や非常勤講師が担当している、という話が近頃よくなされている(カナダではアメリカほど状況は悪くないが)。これは大学が資金節約のために推進しているのだが、重要なのは、院生の講師や非常勤講師の授業は、教員に比べてそれほどコストが低いわけではない、ということだ(私の大学の私の分野では、院生に支払う時給は大抵、若手教員よりも高い)。違いは、教員には研究に対しても給与を支払う必要があるが、教育のために雇った講師に対しては、教育に対してのみ報酬を支払えばよい、という点にある。だから問題は、契約講師が教育の仕事に対して極端に低い額しか受け取っていないことではなく、研究に対して報酬を受け取っていないことにある。
この基本的なビジネスモデル(教育から研究への内部補助)はまだ死んでいないと私は考えている。その理由は主に、大学の威信度システムの働き方にある。例えば、学生の大学選びにおいて大学ランキング(国内のものであれ国際的なものであれ)の重要性が高まるほど、大学は研究に多くの資金を投じるようになるという間接的な効果が生じる。なぜなら、そうしたランキングで一番重要なのは教員の研究業績だからだ。インターネットが状況をどれほど変化させるかについても、私は大きな疑いを持っている。確かに原理的には、インターネットは抱き合わせを解く強力な要因となり得る。だが、このビジネスモデルが滅びるとすれば、それはむしろ教員たちの近視眼的な選択によるものだろう。大学教員たちはますます教育から逃れるための交渉を行うようになり、そうすることで、「社会」に研究への資金を支払ってもらうよう説得する際に自分たちが使える最大の武器を手放すことになるのだ。
[Joseph Heath, What lesson should universities learn from the decline of newspapers?, In Due Course, 2014/11/19.]