マシュー・イグレシアスが最近挙げたシリーズ記事「新自由主義とその敵」は一読の価値ありだ。イグレシアスの記事は、人気を博しているとあるナラティブに対する解毒剤となっている。そのナラティブというのはこんな感じだ。今日の経済・社会問題は1980年代から2010年代にかけての「新自由主義の時代」の帰結である。この時代に、規制緩和、市場原理主義、政府緊縮といったイデオロギーが、アメリカ、そして世界中の政策エリートの心を掴んだ。
イグレシアスは、「新自由主義の時代」が存在したことを否定してはいないが、それが完全に悪であるとか、広く蔓延っているといった主張には異議を申し立てている。結局、ビル・クリントンが「大きな政府の時代は終わった」と宣言してからほぼ30年間、規制も政府支出も多少の揺れはあれ一貫して増え続けてきたのだ。レーガンも、巨額の財政赤字を出しながら、日本との貿易戦争を戦い、防衛技術や半導体事業の産業政策を推し進めた。過去半世紀における最も重大な「規制緩和」は、航空や運送業における公益事業型の価格規制の撤廃だが、これを実行したのはジミー・カーターで、1970年代後半のことだ。他方で現在、アメリカ中の都市が住宅危機の問題に取り組んでいるが、その直接的要因は「新自由主義」が足りないことである(すくなくとも、ゾーニングと土地利用の規制緩和については)。
国際貿易に関して言うと、新自由主義の批判者は、中国という特殊事例を持ち出して過剰な一般化を行おうとしている、とイグレシアスは論じている。貿易は実際にアメリカ、そして世界を豊かにする。だが中国との貿易の急速な自由化は大幅な調整コストをもたらす(そして中国の政治的自由化をもたらせないことは明白だ)。つまり、私たちはチャイナ・ショックから教訓を学び取るべきだが、学びすぎてはいけないのだ。ヨーロッパやアメリカが重要な財や技術を中国に依存していることは、まずもって国家安全保障の問題であり、古典的な貿易擁護論それ自体に反対する論拠とはならない。むしろ、中国のサプライチェーンから離れて貿易相手国を増やしていくためには、中国以外のほとんどあらゆる国との貿易を深めていく必要があるだろう。
とはいっても、「新自由主義の時代」は確かに、経済学者の政治的影響力を強めるという長期的影響を持っていた。だがこれは必ずしも悪いことではなかった。経済学者は、モデルを使って推論し、トレードオフについて真剣に考えている。「自由市場」を支持する経済学者はたくさんいるだろうが、市場の失敗や分配の問題を診断しそれに対処するための豊富な道具も経済学は提供している。イグレシアスが述べるように、
みんなが「新自由主義」という言葉で何を意味しているのか、みんな同じような使い方をしているのかについて、100%確信を持てる人なんて誰もいない。だが私の考えでは、新自由主義への反発は実質的に、スロッピーな経済分析や間違った主張を提示してもOKだと人々を唆すものにしかなっていない。
このイグレシアスの言葉には同意してもしきれない。一群の新自由主義批判者たちと、そのスポンサーとなっている巨大な財団群は、産湯と一緒に赤子まで流してしまっているのだ。結果、「新ブランダイズ主義(Neo-Brandeisianism)」だとか、「グリードフレーション(greedflation)」、MMTといった、危険でバカげた考え方に人気が集まっている。だが反トラスト政策や財政政策を再び盛り上げていくことは、主流派経済学の枠組みできちんと擁護できる。違うのは、〔主流派経済学が〕実際にモデルを構築することで、政策に伴うトレードオフを明確にしていることだ。
だが、それを明確にしないことこそがポイントなのかもしれない。ジョセフ・ヒースが言うように〔原文はここ、邦訳はここで読める〕、学術的な批判的研究では長らく、「新自由主義」という語が「ごにょごにょ規範主義」的な仕方で、つまり事実を記述しているという装いで語られざる規範的コミットメントを密輸するための語として使われてきた。
ずいぶん前のことだけど,ハーバマースがフーコーを批判する論稿を書いた.そこでハーバマースはフーコーのことを「ゴニョゴニョ規範主義」だと言って非難していた.どういうところを非難しているのかと言うと,フーコーの著作は明らかにあれやこれやの道徳的な懸念・関心にかきたてられて生まれているのに,当人はそうして傾倒している道徳的な事柄がどういうものなのか頑としてはっきり述べようとしなかった.そのかわりに,とかく「権力」「体制」といった規範的な意味合いがにじむ語彙を修辞的な装置に使って,じぶんの規範的な判断を読者が共有するよう仕向けつつ,その一方で,公式にはじぶんはべつにそんなことをしちゃいないと否認していた.つまり,問題は,フーコーがじぶんの価値観をこっそり忍び込ませつつそんなまねはしてませんとうそぶいていたところだ.ハーバマースに言わせれば,まがいものでない批判理論にそんなごまかしは無用だ.規範的な原理原則を明示的に導入して,それを擁護する合理的な議論を提示すべきだとハーバマースは論じた.
それゆえ、「新自由主義」、「新植民地主義」、「スティグマ化」といったごにょごにょ規範主義的用語は真の批判理論を後退させる。それは合理的分析のかわりにレトリックのこん棒を理論家に与えてしまうからだ。そうした用語を使えば、自身の規範的コミットメントを明示化することなしに、自身の反対する政策を批判できてしまう。例えば、
政府の社会プログラムで〔受給資格を満たしているかどうか確かめるために〕家計調査をするのは「ネオリベラル」だろうか? 「ネオリベラルだ」と考える著者たちもいるし,そう考えない著者たちもいる.どちらにしても,どうしてその結論になるのか説明する人はいない.どうやら,直感で判定しているらしい――「家計調査は給付を拒否する手段なんだ」と考えるか,それとも「家計調査をすることで社会プログラムは累進的になり格差是正がはかられるんだ」と考えるかでちがってくるわけだ.ともあれ,福祉給付の申し込みにあたって書類記入が必要になるという事実だけでも,批判的研究をやっている人たちは「従順な身体の(再)生産につながる」「ネオ植民地国家(だかなんだか)を正常化する目的を推し進めるねらいである」といって非難しがちだ。
新自由主義の真実と嘘
あいにく、そうはいっても私は「新自由主義者」を自認していないし、新自由主義について真に批判すべき点もあると考えている。左翼が新自由主義という言葉をもっぱら揶揄的な語として使っているせいで、新自由主義の本質や、それの何が問題なのか、といったことが分かりにくくなっている。結果、平均的な左派はハサン・パイカー(Hasan Piker) [1]訳注:アメリカの左翼インフルエンサー。〕 レベルのぼんやりした「新自由主義」理解しか持ち合わせていない。レーガン、サッチャー、シカゴ・ボーイズたちが新自由主義を始めたといったいつもの話だ。これはせいぜい、事態の半面しか捉えていない。
私の考えでは、「新自由主義」の真の歴史は、20世紀中盤から後半にかけての、西洋民主主義国おける政治経済の根本的な再構築に関わるものだ。19世紀から20世紀初頭までの「埋め込まれた自由主義」は、民主主義制度と切り離された「解き放たれた」自由主義に道を譲った。このストーリーは、保守派だけでなく進歩派の改革者にも関わってくる。だが私が何を言わんとしているのかを述べるためには、まず標準的な哲学的意味で、新自由主義と自由主義がどう違うかを明らかにしなければならない。第2部ではこれに焦点を当てる。
[Samuel Hammond, What “neoliberalism” isn’t, Second Best, 2024/8/26.]References
↑1 | 訳注:アメリカの左翼インフルエンサー。〕 |
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