ジョセフ・ヒース「なんでも人種化に抗して」(2018年4月25日)

[Joseph Heath, “Against the racialization of everything,” In Due Course, April 25, 2018]

私も含めていろんな学者が飽きもせず繰り返し語ってきたように,人種は社会的な構築物だ.だが,こう語る多くの人たちは,社会的構築物ですよとそっけなく語ってすませて,そのあとは人種が永遠不変の自然種であるかのように扱いつづける.私に言わせれば,人種が「構築物であること」を強調する要点は,人種がそれ抜きですませられない社会的カテゴリではないことを強調するところにある.人種というのは,個々人の素性や対人的なやりとりの特定の側面を切り取る独自の方法だ.だが,ものごとの切り取り方なら他にもあるし,必ず人種という切り取り方をしなくてはいけないわけでもない.こう考えると,どんな場面であっても,いったい今ものごとを切り取るのに人種が最善の方法なんだろうかと問うのは理にかなっている.問題は,カテゴリとしての人種が本当にその場面で重要なことをうまくとらえるのかどうかだ.

この問いには,いまこそとりわけ顕著な意義がある.というのも,カナダで掲げられているいろんな社会的正義・公正によって,これまで伝統的に移民や民族(や多文化主義)の観点で切り取られてきたいろんな社会問題が,人種(と反差別)の観点で切り取られ直されるようになっているからだ.とくに『トロント・スター』紙は,ものすごくたくさんの問題を人種問題にするキャンペーンを執拗に展開している.(連邦政府もあやうくこれに取り憑かれかけているらしく,体系的な人種差別に関する委員会をもうける提案をしている.) 私見では,この動きでは,こうした問題の大半の性質が間違って考えられている.それでは,最終的に問題をいっそう解決しにくくなってしまう.

私から見ると,カナダの社会問題を人種の観点で考えるのはろくでもない考えだし,社会的正義の大義を後退させてしまう(それに,言わせてもらえば多文化統合だって後退させてしまう).また,正直に言ってしまうと,こうした私の懸念のもとをたどれば,〔人種問題化は〕忍び寄るアメリカ主義の一種の一端を示しているのではないか,カナダの活動家やエリートたちがアメリカの公的言論によって「知的にからめとられている」のではないか,という疑念がある.その一部は Twitter の結果であり,「黒き人命を守れ」(Black Lives Matter) オンラインのような各種の運動に影響された結果でもある.また,一部は「権力と闘う」ことをのぞむ人々が連帯した結果でもある(たとえば,〔銃社会のアメリカで〕銃器による暴力に抗議する「我らが人命のための行進」(March for Our Lives) )を奇妙にもカナダでも展開しなくてはならない使命感にかられたさまざまなカナダ人たちがそうだ.銃器による暴力はアメリカの問題であって〔カナダのような〕外国でアメリカ政府の政策に抗議してみてもあまり大義の助けにはなりそうもないのだが).だが,この件について考えてもらうと,アメリカ人たちからして,アメリカの人種問題を1つとして首尾よく解決できていないのに気がつく.解決どころか,実にひどい状況にある.だったら,アメリカの政策をカナダで模倣したがるのはどういうわけだろう? どうして問題をアメリカと同じように考えたがるのだろう? ケベックが分離独立の悲願のためにカシミールを参考にするようなものだろう.

それだけではない.人種は社会的に構築されているのだと言ったからといって,その基盤に生物学的な現象がないと主張するわけではない.ここのところを多くの人は誤解している.私見では,言葉で表されるカテゴリはすべて社会的な構築物だ.だから,実のところ,人種だろうと性別だろうと「これは社会的構築物だ」と言うのは冗長なんだ.コーヒーだって社会的構築物だ.だが,なかには他より「自然をその節目で区切る」(哲学業界でよく言う表現)のに近いものもある.人種のなにが問題かと言えば――とくにアメリカ人の用法でいう人種のなにが問題かと言えば――人種が恣意的かつ一般的すぎて,そのために,いわゆる「自然種」をもっとうまくとらえられるわけではないという点だ.もちろん,最高にわかりやすく馬鹿げているのが,あらゆるアジア人の扱いで,「アジア人」にはインド出身者も中国出身者ももれなくひとつの「人種」にまとめられる(この「アジア人」はアメリカの国勢調査でうまれた人工物だ.アメリカでは個々人に当人の「人種」をたずねるときに5つの選択肢しか提示しない.)

だが,アメリカ人たちはこういう馬鹿馬鹿しい事情を見て見ぬ振りですませるのに慣れている.「人種」について語るとき,アメリカ人はたったひとつのことしか語らない.それは「白人」と「黒人」の関係だ.そして,アメリカ人たちが「黒人」について語るとき,そこで語られているのは実は「黒人」ではない.「アフリカ系アメリカ人」という言葉は,近年アフリカからやってきた移民たちを指して使われない.こうした言葉は,本人の意志に反してアフリカからむりやり連れてこられた奴隷の子孫にあたるアメリカ人を指し示すあいまい表現でしかない.学術用語では,この集団は――厳密な意味での「アフリカ系アメリカ人」は――「民族集団」と呼ぶのが一番ふわさしい.人種集団などではまったくない.南北戦争の時代から,非白人移民が大量にやってきた1970年代までのあいだには,この民族集団を多数派の国民から区別するいちばんかんたんな方法がその人種的な特徴,とくに肌の色を利用することだった,ただそれだけのことだ.多くの差別的な態度・対応はこうした人種的な特徴ばかりに固執して向けられたので,人種がらみの言葉は,この問題について語る方法としてアメリカでは定着することになった.

言い換えれば,アメリカ人が人種について語るとき,彼らは人種について語ってすらいない.実際には,間接的に奴隷制の遺制について語っている.しかも,こうした語り方は時がたつにつれてますます紛らわしく厄介になってきている.たとえば,近年アフリカからアメリカにやってきた多くの移民たち(「黒人」と呼ばれがちな人たち)は,アメリカ生まれアメリカ育ちのアフリカ系アメリカ人の集団に対して非常に偏見の強い態度をとっている.だが,人種がらみの言葉のせいで,現に起こっていることを的確に言い表すのがとても難しくなっている.逆に,問題をぼやかして混乱させてしまうばかりだ.問題を的確に言い表したいなら,もっと自然な方法がある.民族間の衝突として特徴づければいい(「政治学」の言葉を使って).

これはぜひ言っておくべきだろう――近年の「交差性」(“intersectionality”) 論議の核心にある要点がこれだ.人々はそれぞれ複数の集団に同時に属していて,複数の素性(アイデンティティ)を同時にもちあわせている〔たとえばこの訳者なら,「日本人」で「男性」で「みじめな低所得者」で…という具合に複数の集合に同時に含まれている――つまり,そうした集合の交差に位置する〕.ダメな交差はこれを一種の地位競争に変えてしまい,よりひどい烙印を押されている人たちがそうでもない相手に向かって「俺の方がおまえより抑圧されとるんじゃ」と言うようになる.よい交差では,いろんな不利はさまざまなかたちで生じうることが認識されている.また,そうした効果は必ずしも累積的でないことも認識されている.たとえば,アメリカにいるアフリカ系アメリカ人女性たちは,アフリカ系アメリカ人男性たちよりずっと差別される経験が少ない――つまり,この場合には女性であるおかげで,人種差別の効果が部分的に相殺される効果が生じている.

さて,カナダの状況はどうだろうか.アメリカ流の人種語りを大規模に輸入することで国民論議に有用な貢献がなされるのかどうかを考えよう.私としては,どちらかというと「なされない」の方に傾いている.なぜなら,カナダには,アフリカ系アメリカ人のかなり独特な状況に対応する状況におかれている人はほぼいないにひとしいからだ.カナダは奴隷制に経済的に依存していた過去がないし,イギリス帝国は奴隷制を1833年に廃止している.カナダが国になる前のことだ.ある時点では,逃亡奴隷の集団がそこそこ大勢いた.〔アメリカ南部から〕「地下鉄道」によって北に向かいカナダに逃れた人々だ.だが,アメリカで南北戦争が終結すると,彼らはほぼ全員がアメリカに戻っていき,ほんの少数だけがノヴァスコシア州にのこった.

このため,いまカナダにいる黒人人口のほぼ全体を構成しているのは移民第一世代か第二世代で,彼らはもともと「黒人」の素性をもっていたわけでもないし,いま「黒人」としての素性を共有しているわけでもない.当然,これはたとえばソマリア人やマリ人にも当てはまる.だが,カリブ海からの移民たちですら,じぶんのことをトリニダード人だとかハイチ人だとかジャマイカ人などなどだと考えがちだ.だから,『トロント・スター』紙が「黒人」集団について語るとき,そこで言及されているのはほぼ例外なく,移民とその直近の子孫たちからなるきわめて異質なものがひとくくりにされた集団だ.

すると,すぐさま疑問が浮かぶ.こうした集団が不利や差別を経験するとき,それは彼らの「人種」のせいなのだろうか,それとも,もっと限定された民族や宗教,あるいは移民としての地位のせいなのだろうか? 交差を分析してみるとほぼ必ず,移民や民族から派生したもっときめ細かなカテゴリがあれこれと明らかになるし,そうした集団が経験している特定のかたちの抑圧を的確に言い表わせるようになるのではないかと思う.(この文脈では,移民に対する敵対心と人種的な嫌悪感は別物だという点は留意しておいていい.両者が重なる場合もよくあるが,いつでもというわけではない.たとえば,イギリスの EU離脱投票の原動力になった反移民感情はとりわけ東欧からの近年の移民(なかでもポーランド人)にもっぱらむけられていた.イギリスへのポーランド系移民は圧倒的多数が白人のキリスト教徒だ.この事実からは,人種と外国人嫌いのあいだに必然的なつながりがないことがわかる.

そこで,カナダの文脈で最初に問うべき問いはこうなる――多くの黒人カナダ人が経験しているさまざまなかたちの不利は肌が黒いことによるのだろうか,それとも移民であることによるのだろうか? この点は重要だ.肌が黒いことによる不利の問題を是正するためにとる必要がある対策は,移民であることによる不利の問題を是正するためにとる必要がある対策とはかなり異なっているかもしれないからだ.それなのに,証拠がないときにすら,なにかにつけて人種のせいだと説明される傾向がある.(たとえば,『トロント・スター』紙に先日掲載された記事は,雇用市場における人種差別を示すものとされる研究を伝えている.見出しはこうだ:「黒人求職者は同等の白人より小売業サービス業での仕事探しが困難との研究」 紹介されている研究は標準的な種類の研究で,〔架空の人物の〕求職書類をあちこちに送るというものだ.書類に記される名前はさまざまに変えてあるが,それ以外の条件は同じに揃えてある.だが,この研究の場合には,「白人」らしい名前に使われたのはケイティ・フォスターなのに対して,「黒人」らしい名前に使われたのはハディジャ・ンゼオグウーだった.後者の名前は,たんに黒人らしく聞こえるだけでなく,ムスリムやナイジェリア人も思わせる.呆れたことに,移民かどうか,言語能力,宗教という項目について雇用主がどう受け取ったかを統制しようと試みた形跡はない.それでも『スター』紙は,これが求職者の人種に関するちがいだという想定に飛躍した.)

この件を私が心配する理由を述べよう.私にわかるかぎりでは,アメリカでの人種関係は行き詰まりに陥っている.「アメリカの呪い」と呼ばれるだけの理由はあるわけだ.この問題が解決不可能になっている理由は,ひとつには,国民全体が対立軸の少ないあれこれの見解に閉じこもっていて,誰も自分の見解を変える気がなく,それによって本質的な力学が再生産されている.私見では,現在の不幸な均衡は,あらゆる陣営によって維持されている.リベラルも保守も,白人も黒人も,この状況を維持しているのだ.これと対照的に,カナダの「人種」問題ははるかに解決しやすいように私には見える.ひとつには,カナダの「人種」問題は実はまったく人種の問題ではなくて,移民の統合に関わる課題だからだ.また,アメリカとその人種問題とちがって,こと移民統合の問題に関してカナダはかなりよい実績をこれまで残している.もっと一般的に言えば,アメリカ式の人種と格差是正措置(アファーマティブアクション)の言語に比べて,〔カナダの〕多文化主義の言語の方が,解決策を首尾よく考案しやすい枠組みを提供している.そうであればこそ, こうした衝突を人種問題にせずにいられない傾向が私には理解しかねるのだ――〔「人種」一本やりでないいろんなカテゴリの表現ができる〕語彙を投げ捨て,それなりに成功してきた実績のある考え方を放棄して,えぐいまでの失敗となった考え方をとろうというのは理解しがたい.

(これも注記しておいた方がよさそうだ.『トロント・スター』紙は,目につきやすい少数派集団のことを「人種化されている」と好んで表現する.この表現を使う人たちは,暗黙理に,その人種化をやっている悪玉がどこかにいるとほのめかしている.だが,私の理解がおよぶかぎりでは,カナダへの移民を誰より激しく人種化しているのは当の『スター』紙だ.エチオピアやジャマイカからやってきた移民たちは,もともと「黒人」という素性をもってやってきたわけではない.少なくとも公の論議では,彼らに対して「黒人」〔という素性〕を誰よりも押し付けているのは,進歩的とされる左派だ.)

最後に,私の考えでは,アメリカ式の人種語りがもたらすもっとも有害な帰結は,カナダ先住民に自分たちの問題を人種の観点で考えるようあのように促してしまっている点であり,さらに悪いことに,黒人と先住民が同様の問題と障害に直面していると夢想させてしまっている点だ.問題は,課題とカナダ社会への統合の要請に関して,この2つの集団が完全に異なる状況に置かれていることだ.わかりきったことではあるが,居留地に暮らす先住民たちは(ほぼ全員が都市部に暮らす)黒人カナダ人よりもフッター派との共通点の方が多い.だがそれより重要なのは,それぞれに悲願としていることや求めているものがちがっているということだ.「ファーストネイション」〔先住民〕は,自治とみずからの主権をのぞんでいるし,そうのぞむだけの資格がある.移民たちは統合をのぞんでいる(そしてのぞむだけの資格がある).これら2つの政治目標は進む方向が真逆だ(先住民の視点から見れば,黒人カナダ人たちは「移住者」であり「植民地主義者」だという点に留意しよう.) この2つの集団を同じカテゴリにまとめて,どちらも同じ基本的困難に――「人種差別」に――直面しているとほのめかすと,先住民が置かれた状況をひどく歪曲して描き出すことになる.

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2 comments
  1. すみません,何年も前の記事に対する些細な点の指摘になってしまい申し訳ないのですが,6段落目末尾の

    民族内部の衝突として特徴づければいい
    という文章は,原文だと
    would be to characterize it as inter-ethnic conflict
    となっているので,「民族内部」ではなく「民族間」ではないでしょうか。

    というのは,ここで「民族内部」とすると文意が通らないからです。ヒースはここで,アメリカの黒人をひとかたまりの人種として見てしまうと,奴隷の子孫と(たとえば)ナイジェリア移民との間に存在する対立を理解することができないが,それぞれ「奴隷の子孫」と「ナイジェリア人」という別々の民族であると考えればこの対立をinter-ethnic conflictとして理解することができる,という話をしているはずなので,「民族内部の衝突」ではなく「民族のあいだの衝突」でないとおかしいと思います。

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