タイラー・コーエン 「保守とリベラルの政府観の違い ~『厳格な父親』と『慈しみのある母親』~」(2004年6月8日)

●Tyler Cowen, “Why are people conservatives or liberals?”(Marginal Revolution, June 8, 2004)


常々思っていることなのだが、多くの政治的な論争での意見の違いは、比較的少数の次元ないしは比較的少数のコアとなる価値判断の違いに還元できるんじゃなかろうか? そして、個々人の価値判断は、基本的なパーソナリティーに根差している場合が多いんじゃなかろうか?

このような私の直観にいくらか肉付けをしてくれているのが、ジョージ・レイコフ(George Lakoff)だ。彼の主張を簡単にまとめると、保守派は「厳格な父親」(“Strict Father”)モデルの側に立ち、リベラル派は「慈しみのある母親」(“Nurturant Mother”)モデルの側に立つということになる。

レイコフは次のように指摘している。

「家族」と「モラル」こそが、保守派とリベラル派双方の世界観の中核を形成しているのだ。・・・(略)・・・家族に根差したモラルには、2種類の異なるタイプがある。家族に根差したモラルを政治と結び付ける役割を果たしているのが、国家を家族の比喩で捉えるお馴染みの発想だ。そこでは、政府は親の比喩で理解されることになる。具体的に言うと、〔「政府」=「慈しみのある母親」と捉える〕リベラル派にとっては、助けを必要としている国民〔子供〕に手を差し伸べるのが政府〔親〕の当然の責務であり、それゆえ、政府は社会福祉プログラムの推進に邁進すべきということになるし、一方で〔「政府」=「厳格な父親」と捉える〕保守派にとっては、国民〔子供〕を自制心を備えた自立した存在に育て上げるのが政府〔親〕の当然の責務であり、それゆえ、政府は国民の自助を促すべきということになる。

詳しくはこちらをご覧あれ。もっと細かいところまで知りたいようなら、彼の大変優れた著作である『Moral Politics』(邦訳 『比喩によるモラルと政治――米国における保守とリベラル』)を手に入れるといい。ところで、レイコフ自身はリベラルの側に肩入れしているようだ。私の個人的な意見になるが、どうもリベラル派の面々は、家庭の中であれば適切なアプローチをそれがうまく当てはまらないような分野にまで誤って持ち込んでしまいがちなように思える。国政だとかいう公的な分野では、いくらか厳格で、いくらか非人格的な(impersonal)アプローチで挑むのが適切なのだ。

雑感:それなりの知性を備えた人なら、レイコフの主張に対して、少なくとも5つはまっとうな反論を思い付くことだろう。とは言え、こういう困難な問題に対してレイコフ以上に鋭く切り込んでいる人物はいるだろうかね? 私は知らないね。雑感ついでに触れておくと、リバタリアンがリベラル(左派)よりも保守(右派)に近い立場をとりがちな理由もレイコフの主張を援用して説明できるんじゃなかろうか? 大半のリバタリアンにとっては、「自己責任」(“Individual responsibility”)こそが道徳的な直観のコアに位置しているが、それだからこそリバタリアンは〔「政府」=「厳格な父親」モデルの側に立つ〕保守派に近い立場をとりがちなのだ。両者の間には大きな違いがあることは確かだとしてもね。

ところで、一人ひとりが抱いている政治的な見解は、その人のコアとなるパーソナリティーに根差しているというのが仮に正しいとしよう。さらには、一人ひとりのパーソナリティーの大なる部分は、その人が自分で選んだわけじゃないというのも仮に正しいとしよう。つまりは、あなたのパーソナリティーは持って生まれたものか、幼少期における家庭でのしつけ(育児)を通じて形作られたものだとしよう。そうだとすると、あなたが肩入れしている政治的な見解への自信は揺らぐんじゃなかろうか? その見解に対してそれほど自信を持てなくなるんじゃなかろうか? だって、あなたが保守派とリベラル派のどちらを正しいと思うかは、単なる遺伝上の偶然なのかもしれないんだからね。

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