●Tyler Cowen, “What’s wrong with long books?”(Marginal Revolution, May 1, 2007)
「後ろめたく思っていることがあります。(トルストイ作の)『アンナ・カレーニナ』に目を通したことがないんです。その理由というのは、あまりに長すぎるからです。600ページある本を一冊読むよりは、300ページの本を二冊読む方を選んでしまう性質(たち)なんです」。
全文はこちらだが、『白鯨』を筆頭に、数々の古典を切り刻んで圧縮しようとする(縮約版の発行に前向きな)出版業界の最近の潮流について詳しく紹介されている。ちなみにだが、もちろんと言うべきか、カルロス・フエンテス作の『Terra Nostra』(邦訳『テラ・ノストラ』)(785ページもある大著)は(持ってはいるが)まだ読んでいない。それはなぜか? 大部の本には良書が多いという事実を否定する人はいないだろう。それなのに、なぜ私は『テラ・ノストラ』を未だ読まずに放置しているのだろうか? モジリアニ=ミラー定理の説くところによると、パイをどう切り分けようとも結果に違いはない(パイの総価値は変わらない)はずじゃなかったか? それなら、『アンナ・カレーニナ』(なり『テラ・ノストラ』なり)を細かく切り分けて、複数の小冊子に分割しちゃえばいいんじゃなかろうか? 数ヶ月前に、エリック・アンブラー(Eric Ambler)の5つの作品を一冊にまとめた小説集を買ったのだが、持ち運びやすくするために、作品ごとに5つに切り分けてやったものだ。
毎度のごとく、この問題(「大部の本が敬遠されがち(あるいは読まれずに放置されがち)なのはなぜ?」という問い)との絡みで、私なりに思い付く仮説をいくつか述べさせてもらうとしよう。
1. (好きな分量だけ容易に取り外し(切り分け)ができる)着脱式の本が(出版物の世界における)今後の潮流となるに違いない。今はまだ、機が熟していないだけに過ぎない。
2. ブログのエントリーは着脱式の本の一種だ。
3. 多くの人は、本を読むことそれ自体が楽しみなわけではなく、本を読み終えること――本を読み終えることに伴う満足感(達成感)――を楽しみにしている。
4. 多くの人は、本を読むことそれ自体が楽しみなわけではなく、本を読み始めることを楽しみにしている。本の1ページ目を開いて読書に取り掛かるというのは、買い物に出かけるのといくらか似ているところがあるが、読み進めていくうちに、すぐにもアンニュイな気分(倦怠感)に襲われることになる。未来の本には、(読者を飽きさせないように)章ごとに新しい商品を試しているかのような感覚に読者を誘う工夫が盛り込まれることだろう(もう既にそうなってる?)。(ブログに備わる真の魅力というのは、「次もまた何か目新しい話題が知れるに違いない」という期待を読者に抱かせ続けるところにあったりするのだろうか? 本ブログのアーカイブ(過去のエントリー)を念入りに読み返しているという読者はどのくらいいるだろうか? 今でも十分通用するし質的にも申し分ないエントリーだらけなんだけれど)。
ところで、トマス・ピンチョンの(1000ページを超える)新作(『Against the Day』)を読み終えて黙想にふけっている読書子がいるようだ。その姿に対する冷ややかなコメントはこちら。私も『Against the Day』(邦訳『逆光』)のページを(あくまでもゆったりとしたペースで)繰り始めたばかりだが、今のところは楽しめている。
過去にも今回と同じ話題について私見を述べたことがある。こちらのエントリー〔拙訳はこちら〕がそれだ。ところで、今日の私は、昔の私を否定するような言動に出ているように思われるのだが、本ブログのアーカイブを読み通した読者であれば、一体どういう意味なのかすっかり了解済みに違いない。