●Tyler Cowen, “Behavioral public choice: the next subfield in economics”(Marginal Revolution, February 20, 2007)
ジェーン・ガルト(Jane Galt)が次のように語っている。
つい先ほど投稿したばかりのエントリーで展開した議論は、行動経済学にも当てはまる。行動経済学は、政府介入の慈悲深さを証明する学問。どうやら、左翼の面々はそう信じているようだ。結局のところ、人間というのは愚かな存在なのであり、市井の人々が自らの愚かさから己を守るためにも、政府の助けが必要というわけだ。しかし、私の立場はもう少し微妙なものだ。
1) 人は、しばしば愚かな振る舞いをする。
2) 官僚もまた一人の人間であることに変わりはなく、やはり愚かな振る舞いをすることがある。それに加えて、官僚は、歪んだインセンティブに直面してもいる。
経済学の個別の分野は、個々の現象を説明するメカニズムをあれこれと組み合わせることで(それこそ、考え得る限りのありとあらゆる組み合わせを探ることで)、徐々に磨きがかけられてきている。そのような流れから無縁な分野を見つけることは困難なのだが、ここにその数少ない分野の一つが残されていると言えよう。官僚が抱える心理的・認知的なバイアスがいかなる帰結をもたらすかについて一般化できそうな結論を得ることは困難だろうが、そのような困難を抱えているにしても、新たな学問分野が産声を上げる妨げになるわけではない。過去を振り返ると、似たような困難を抱えながらも、数多くの分野が花開いてきている(例えば、・・・そう、行動経済学がいい例だ)。おそらく、あと15年もすれば、行動公共選択論(Behavioral Public Choice)に関するサーベイ論文がJournal of Economic Literatureあたりに掲載されることだろう。この分野の黎明期にいち早く参入して論文の一つでも書いておけばよかった、と後悔する御仁も出てくるに違いない。
あと何点か付け加えておこう。行動公共選択論は、政府が実施するプログラムがうまくいくのはどういう時なのかについて、我々の知見を広げる助けとなるはずだ。例えば、役人の士気(morale)が高いようだと、彼らは「私たちのやっていることは重要なんだ」と感じ――実際には、そんなことはなくとも――、結果的に非常に優れた仕事ぶりを発揮する可能性がある。つまりは、行動公共選択論は、必ずしも政府バッシング一色 [1] 訳注;政府の介入に全面的に反対する学問分野 というわけではないのだ――政府介入に異を唱える新たな論拠を提供する可能性があるのは確かだけどね――。人間が抱える心理的・認知的なバイアスを考慮に入れることで、汚職が蔓延る場合とそうじゃない場合があるのはなぜかを理解するヒントが得られることにもなるだろうし、複数の均衡を持つゲームにおいて実現可能な均衡の数が絞り込まれることにもなるだろう。
References
↑1 | 訳注;政府の介入に全面的に反対する学問分野 |
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