経済学者は,「資本」という単語をゆるく使いがちだ.「資源を費やして構築でき,長期にわたって持続し,価値を生み出すのに使えるもの」ならなんでも資本とされる.なんとも広義だ.たとえば,社会そのものだって資本に該当しうる.また,典型的に,資本と言えば「人的資本」も含まれる.人的資本とは,人がもつ技能・才能・知識を指す.
たいていの経済学者が「資本」をこんな風に定義するのはどうしてだろう? 実は,たんに経済学者が好んでつくる種類のモデルをつくるのにこういう定義がべんりだからだ.この点は,2年ほど前に学者くさいポストを書いて説明を試みた.
とはいえ,「資本」をこんな具合に広く定義するのを好まない人たちもいる.たとえば,経済学者のブランコ・ミラノヴィッチは「資本」のこういう用法に反対する論を何度も繰り返し書いている.マット・ブリューニッヒもそうだし,ポール・クルーグマンも同意見だ.こうした人たちは,「資本」の意味をもっと狭めて,経済学者たちがよく「物理的資本」と呼ぶものに限定する――機械や建物などだけを資本と呼ぶわけだ.
どっちが正しいんだろう? 一般に,言葉に関わる選択でまわりの人たちにああしろこうしろと指図するのはぼくの好みじゃない.使いたいように使えばいい.ただし,どういう意味で使っているのかみんながわかるようにすること.個人的には,「技能資本」みたいな別の用語の方を好んで使ってきた.ただ,「人的資本」が有用なのは,世界に関するいくつかの重要な事実を伝える助けになるからだと思う.「人的資本」という用語のおかげで思い起こしやすくなる世界に関する事実をいくつか並べていこう:
1. 教育も技能もなくて貧乏な方が,教育と技能があって貧乏なのよりいっそうわるい.
ちょっと想像してほしい.いま自分が22歳で,教育はあって,貧乏だとしよう.学資ローンはたっぷり残っていて,預金なんてまったくない.勉強して得た知識もあるし学位もある.でも,いますぐ雇ってもらえるような技能は持ち合わせてないし,履歴書に書けることなんてほんのわずかしかないし,人脈も大してない.友達のシェアルームに厄介になって寝床にし,できるだけ安上がりな食事ですませている.
おめでとう,キミはぼくだ.ぼくは貧乏だったか? さまざまな点で,答えはイエスだ.でも,貧乏だと感じてはいなかった.スタンフォードの学位と一般的な知的技能(数学も得意だし文章もよく書ける)のおかげで,そのうち実入りのいい仕事につけるはずだった.それどころか,じぶんの経済的な将来像について,ぼくはなんの不安も抱えてなかった.ゼロ恐怖だ.
今度は,同じ状況で学位も一般的な文章・数学の技能もない場合を想像してみてほしい.22歳で,同じだけ借金があって,銀行預金も同じくすっからかんなところを想像してみよう.将来の就職状況の見通しはどんなものだろう? 建築作業員? 庭師? 日雇い労働者?
こちらの方がずっとひどい状況でしょ? どちらも22歳だし,ぼくもぼくの教育ナシ版も公式の財産は変わらない.でも,友達の部屋に居候して安上がりな食料をかき集めて暮らしていたにもかかわらず,ぼくは貧乏人のような気分はしていなかった.これにはもっともな理由がある――ぼくの将来に待ち構えているのは貧困ではないと知っていたからだ.
「人的資本」という単語は,この区別をつけてくれる.「教育と技能は一種の富だ」というのを「人的資本」という言葉で語っているんだ.この富を無視すると,文無し大学院生と正真正銘の貧しい人々を同列に扱うはめになってしまう.
2.同じ量の労働をしていながら他人よりお金を稼ぐ人たちがいる.
「人的資本」という用語に反対する人たちは,人的資本ってようするに労働のことじゃないかとよく言う.彼らの好む定義では,「資本」とはなんであれ受動的所得をもたらすもののことされる――ようするに,はたらかずにお金をもたらしてくれるものならなんだって資本にあたる.
でも,ぼくと同じ年齢の食料品店員とぼくとを比べてみよう.ぼくは食料品店員ほどきつい仕事をしない――というか,正直に言うともっと楽だ.起きたら本を読んだり論文を読んだりして,Twitter とニュースに目を通して,ちょっと記事を書いたりする.食料品店員は,倉庫から陳列棚のあいだを行き来して商品を動かし,在庫を確認し,会計レジを担当し,お客の質問に答えたりしてはたらく.労働の投入量が多くてもっと労力がかかってしんどいのは,どっちだろう? おそらく,食料品店員の方だろう.
でも,ちょっと言いにくいことではあるけれど,ぼくの方がお金を稼いでいる.
このちがいは,受動的所得のかたちだとぼくは考える.ぼくとそっくりの食料品店員ほどの労力をかけることなく,ぼくはもっとお金を得ている.この点は,株式や債券や不動産を所有するのと同じくらい受動的だ.ぼくの教育と技能(それと人脈と労働市場の知識)は,一種の富として,余計に労力をかけることなく所得をもたらしてくれる.
他でもなくとくに受動的所得獲得力を指す単語を用意するのは,ぼくにとっては理にかなっている.そして,「人的資本」はまさにこれを指している.
3.政府の教育支出は,将来への投資にあたる.
政府は国民の教育に多額のお金を払っている.国民誰もが通える公立学校があるし,州が支える大学・短大もある.そのうえで,家計は大学の学費・部屋代・入試費用・個人指導などの費用を払っている.
この支出は一種の消費だろうか? たんにご大層なデイケアサービスにすぎず,合コンに助成金を出しているだけなんだろうか? 冷笑家のなかには,「そうだとも」と言う人たちもいる.でも,ぼくの考えでは,答えはごく明瞭に「ノー」だ.こうした支出の多くは,将来への投資にあたる.今日の支出が,明日には見返りをもたらす.国民の生産性が高まるというかたちでの見返りだ.
今日払ったお金を上回る額があとで返ってくるとき,その人は富を築いている.そして,「資本」は実のところ,「富」と同じだ――将来,所得を(受動的に!)もたらしうるものの所有権を指している.教育は,べつに物理的なかたちで価値を貯蔵するわけではない――トラックや建物や工作機械とはちがう.でも,技能や知識は耐久性がある――コンピュータ・プログラムの組み方や,弁護士らしい考え方の記憶は長く残る.
将来に所得をうみだす耐久性のある価値の貯蔵が投資によってつくりだされるとき,それを「資本」と呼ぶのは理にかなってるとぼくは思う.私見では,アメリカの抱える大問題の1つは,政府が十分に投資していない点だ.生産的な資本への投資として教育支出を描き出すのは,政府がもっと教育に支出すべきだという論を立てるのに役立つだろう.
以上,技能や教育を資本の一種だと考えるのが理にかなうことがよくある理由を3つ見てきた.一方,反論はどうだろう? ひとつには,人的資本から得られる所得は受動的でないという反論がよく言われる――でも,論点 2 で説明したように,実はちゃんと受動的だ.なぜなら,人的資本によって,さらなる労力を投じることなくもっと多くの所得を得られるようになるからだ――あるいは,同じ量の所得を少ない労力で手に入れられるようになるからだ.
2つめの反論として,年季強制労働がない以上,人々の教育や技能は売り買いできないという言い分がある.基本的にはそのとおりだ(ただし,グレーな領域もある.たとえば長期契約や競合禁止合意,学資ローンに対する賃金の差し押さえがそうだ).でも,それはたんに法律の問題だ.オフィスビルの売買を禁じて最初に建てた人や企業が未来永劫ずっと所有しないといけないと命じる法律だってかんたんにつくれる.この法律のもとでは,オフィスビルは月単位や年単位でのリース利用の賃貸しかできなくなる.
じゃあ,こういう法律があることで,オフィスビルは「資本」にあまり該当しなくなるだろうか? それはちがうとぼくは考える.同様に,年季強制労働を禁じる法律があることで人的資本がその経済でどう使われるかは変わる.でも,教育や技能の物理的な性質はなんにも変わらない.教育や技能が受動的所得をうみだす耐久性のある投資だという点に変わりはない.
こんな具合に,「人的資本」という用語を使うことで,いくつか重要な事実をみんなが思い出せる:
1. 教育のある「貧乏な」人たちは,教育のない貧乏な人たちほど貧しくはないことが思い出せる.
2.技能のある労働者は,技能のない労働者ほどはげしくはたらかないことが思い出せる.
3. 教育への政府支出は将来への投資だということが思い出せる.
どれも,心にとどめおくべき素敵で大事なことだとぼくは思う.