Paul Krugman, “It’s True: An Economy Can Be Damaged by Too Little Spending,” Krugman & Co., May 9, 2014. [“Macroeconomics and Class Warfare,” The Conscience of a Liberal, April 28, 2014.]
ほんとだよ:支出が少なすぎると経済は打撃を受けるのよ
by ポール・クルーグマン
20009年,オバマ大統領が経済の後押しに支出プランを提案して,ぼくなんかがもっと大きなプランにしてくれと訴えていた頃,右派からもどうかしてる中道派からも,よくこんな声を耳にした.「これは策略だ,財政刺激にみせかけてリベラルどもの優先事項を忍び込ませようと試みてるんだ」
ちなみに,これは完全に誤りだった――それに,右派連中の場合は,自分たちの写し絵を他人に見ていた.なんといっても,オバマ氏は短期の刺激策として恒久的な支出拡大を売り込もうとしなかったしね――でも,ジョージ・W・ブッシュ大統領は,まさしく減税推進でそういうことをやってのけた.
それだけじゃない.やったとしても,うまく機能しなかったはずだ.むしろ,そういうときには逆をやった方がうまくいく見込みが高い――インフラ建設および/または格差縮小をやりつつ経済の刺激になる方策を提案する一方で,売り文句の中心に据えるのは長期的で〔右派がよく非難する〕「階級戦争」めいた要素にするんだ.
へんな言い分に思えるかもしれない.みんなの状態を(あるいはほぼ全員の状態を)よくする「ウィン-ウィン」の考えを売り込んだ方がかんたんなはずじゃない? えっとね,もし世間がケインジアン経済学を「ガッテン」してくれるなら,きっとそうなるだろう.でも,教育を受けた読者ですら,需要の不足で経済全体が苦しむことになるって考えを理解しない傾向があるわけだよ(「つーかさ,シカゴ大学の教授どもだってわかってねーみたいじゃん」).それに,この要点を理解させようって努力が足りてないってわけでもないと思う.
つまづきの元は,最初の一歩にある.金融政策や財政政策がどうのって話以前に,支出が少なすぎて経済が苦しむことがあるって考えそのものが,実はなかなか理解しにくいんだ.一般向けに話すとき,ぼくはツカミのつもりで聴衆にこう質問する.「みんながいっせいに自分の支出を切り詰めたらどうなると思います?」 それから,こう指摘する.「ぼくの支出はあなたの所得だし,あなたの支出はぼくの所得なんですよ」. でも,多くの人の心にはこの話はそう長く残らないんだろうと思ってる:たいていは,経済を家計になぞらえる考えの方がしっくりきて,そっちに負けてしまうんだ.
これは,たんに勘だけをもとに言ってるわけじゃない.ちょっとした計測もある――不完全ではあるけれど,それでも有用な計測だ.
たとえば,本の売り上げを見てみるといい.景気後退への対処について書かれた本で,化け物なみにバカ売れした本なんて,いままで見たことある? 経済成長を主眼にして書かれた本ですら,超ベストセラーになんてなってないでしょ.いつだって,バカ売れしてるのは「自分らvsあいつら」について書かれた本だ――フラットな世界で互いに抜きつ抜かれつの競争がどうのとか,いまなら「1パーセントの隆盛をどうにか止められないか」みたいな本だよね.こう言ったからって,べつに最新ベストセラーをおとしめようってつもりはない.トマ・ピケティの『21世紀の資本論』はすごい良作だし,いま受けてる称賛に値するだけの代物だ.でも,労働市場が落ち込んでいるさなかに最大の関心事になってるのが長期的な格差だっていうのは,目を見張るね.
もっと自分に近いところの話をすると,もちろんぼくは,『ニューヨーク・タイムズ』に書いたコラムが「いちばんメールされた記事」リストでどれくらい健闘してるか気にしてる.で,需要側マクロ経済学について書いたコラムより格差について書いたコラムの方が大きな反響を得ているのは疑いない.
だからって,不況の経済学について世間に事実を広める努力をやめるべきだってことにはならない(やめるつもりもないよ).でも,この観察は興味深いし,政治家たちが正しいことを推し進めるときどう事を運ぶかについて,なにかと含意がでてくるんじゃないかと思ってる.
© The New York Times News Service