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ソーシエ他「目指せ単一雇用契約? 長所、短所、複雑な感触」

●Nicolas Lepage-Saucier, Juliette Schleich, Étienne Wasmer, “Moving towards a single contract? Pros, cons and mixed feelings”(VOX, July 29, 2013)


<要約>

不況時の企業は、より安定した長期雇用契約よりも、不安定な一時雇用契約1を提供する傾向がある。このコラムでは、その見地から雇用保護改革について検討する。経済学者の議論は、総じてこのニ種類の契約の一元化に重きを置きすぎている。政策担当者は、他のより魅力的で実現しやすい選択肢に目を向けた方が賢明かもしれない。

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  1. 訳注: 「emporary contracts」の訳。 []

タイラー・コーエン「ジェンダー賃金格差に関するクローディア・ゴールディンの主張」

●Tyler Cowen, “Claudia Goldin on the gender pay gap”(Marginal Revolution, January 4, 2014)


クローディア・ゴールディンのフィラデルフィア論文1のpdfはこちら。その結論部分は以下の通り:

この小論の結論は、以下の通りです。所得のジェンダー・ギャップは今でも残っています。それはある時点まで年齢とともに大幅に拡大し、また、職業によって著しく異なります。このギャップは、以前に比べればかなり小さくなりました。その縮小は主に、女性が持つ生産的人的資本2が、男性と比べて相対的に増えたことによります。女性の教育も、男性と比べてあらゆる水準で向上し、女性が大学以降専攻する分野も、より大きな収入につながるキャリア志向的な分野に変わってきました。また女性の職業経験も、労働力参加率の増大に伴って増えています。ジェンダーによる賃金格差のうち、生産特性3の差による部分の多くは解消されました。

では、残った賃金格差の原因は何でしょうか? ごく単純な話ですが、格差が存在するのは、多くの職業では、同じ労働時間でも、特定の時間に提供された労働や、長時間連続して提供された労働の方が、高く評価されるからです。つまり多くの職業では、賃金は時間に対して非線形の関係を持っているのです。フレックスタイムは、特に企業や金融や法務の世界では高価です。

補償格差モデル4では、賃金格差を柔軟性のコストで説明しています。ここで開発された枠組みは、時間柔軟性のコストに高低の差のある理由や、賃金の労働時間に対する非線形性の根底にある原因を示しています。情報伝達の取引コストが十分に低い場合には、各労働者に適当な交代要員がいるかどうかも大いに関係します。O*Net5の職業特性に関する証拠は、時間需要を生み出し労働者間の交代度を減らすような職業特性が、ジェンダー・ギャップの大きさと相関していることを実証しました。

経営学修士や法学博士に関するデータは、卒業後の年数に伴ってジェンダー賃金格差が大幅に拡大することを示しており、ジェンダー賃金格差と、子供ができて時間の柔軟性が必要になることとの関係も明らかにしました。時間の減少は、賃金の非線形的な低下を意味します。高所得配偶者を持つ女性の潜在的な賃金の低さは、多くの場合労働力参加率の低下につながります。逆に薬剤師などの賃金は、労働時間に対して線形です。子供のいる女性薬剤師の多くは、退職することなくパートタイムで働いて、労働力であり続けます。

この論文は全体に興味深い。6

補遺: UCLAからの就職希望者であるメアリー・アン・ブロンソンは、大学専攻間のジェンダー・ギャップや関連する問題に関する、興味深い新論文(pdf)を書いている。また、UCLAのガブリエラ・ルビオによる、見合い結婚がなぜ減っているかに関する就職活動用論文7もある。今年のデューク大学では、博士課程に入学した学生は男性より女性の方が多い

  1. 訳注: 「her Philadelphia paper」の訳。クローディア・ゴールディンは、2014年1月4日にフィラデルフィアで行われたアメリカ経済学会の年次総会で会長として講演をしており、それがこの論文の元になっている。 []
  2. 訳注: 「productive human capital」の訳。 []
  3. 訳注: 「productive characteristics」の訳。 []
  4. 訳注: 「compensating differentials model」の訳。 []
  5. 訳注: 「Occupational Information Network」の略称。アメリカの労働に関する公的なデータベース。 []
  6. 訳注: 同じ論文に言及したマーク・トーマの記事はこちら。 []
  7. 訳注: 「job market paper」の訳。なんか、アメリカの高学歴学生は、就職活動用の論文持って就職活動するらしい。 []

マーク・トーマ 「ジェンダー大収斂:最終章」

●Mark Thoma, “A Grand Gender Convergence: Its Last Chapter”(Economist’s View, January 5, 2014)


以下は、アメリカ経済学会会長クローディア・ゴールディンの講演:

ジェンダー大収斂:最終章」:前世紀の社会や経済のさまざまな進歩の中でも、もっとも大きかったのは男女の役割の収斂です。男女格差縮小は、労働力参加率、有給労働時間、在宅勤務時間、生涯労働経験年数、職種、大学専攻、教育などで起こり、教育では女性が男性を追い抜いきました。また、このような収斂は収入にも起こりました。この小論で強調したいのはこの点です。私の示した証拠はアメリカについてですが、考察のテーマ自体はより広範囲に適用できます。

このようなジェンダー大収斂の要素は、比喩的に言えば、経済や社会における性的役割の歴史において、さまざまな章を構成しています。ですが、真の平等をもたらすための最終章としては、何が必要なのでしょうか?

その答えは、驚きをもって迎えられるかもしれません。その解決には、(必ずしも)政府の介入は必要ありません。女性が向上して張り合おうとする必要もありません。また、必ずしも男性の家庭での負担を重くする必要もありません(別にそうしても悪いことはありませんが)。でも、そのためには労働市場の改革が必要です。特に、仕事の構造や報酬を変えて、時間的な柔軟性を増す必要があります。長時間働いたり特定の時間に働いたりした個人の報酬を、不釣合いに多くするような企業のインセンティブがなくなれば、賃金のジェンダー・ギャップは著しく縮小し、消滅する可能性すらあります。そのような変化は、すでにさまざまな部門で起こっていますが、まだ十分とは言えません。1

  1. 訳注: 同じ論文に関してより詳しく紹介したタイラー・コーエンの記事はこちら。 []

ベントリラ他 「世界同時不況時に、スペインとフランスの失業率があんなに違ったのはなぜ?」

●Samuel Bentolila, Pierre Cahuc, Juan Dolado, Thomas Le Barbanchon, “Why have Spanish and French unemployment rates differed so much during the Great Recession? ”(VOX, January 22, 2011)


<要約>

世界同時不況時のスペインの失業率は、20%にまで跳ね上がり、EU平均の二倍にもなった。このコラムでは、スペインの失業をフランスの失業と比較し、スペインにおける失業の劇的な増加の半分近くを、雇用保護法制1の違いで説明できることを主張する。本稿の知見は、この国に単一労働契約2を求める声に、さらなる支持を加える材料となるだろう。

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  1. 訳注: 「employment protection legislation」の訳。意訳して「解雇規制」とすることも考えたが、日本との制度の違いでニュアンスが変わってしまう可能性を考えて、直訳に近い訳とした。 []
  2. 訳注: 「single labour contract」の訳。常用雇用と一時雇用を大きく分けずに、同じ契約で段階的に条件を変えていくやり方を指す。 []

ノア・スミス 「リスク・プレミアムか行動的狂気か?」

●Noah Smith, “Risk premia or behavioral craziness?”(Noahpinion, December 19, 2013)


ジョン・コクランは、ロバート・シラーのノーベル賞受賞講演にかなり批判的だ和訳)。

コクランは、シラーが「バブル」をもっと厳密に定義してくれたらと思ってる(私もこの上なく賛成)。また、シラーがファイナンスを量的でなく文学的にしようとしてるとも思っている(私はこれにはちょっと懐疑的。というのも、シラーはもともと計量経済学者であって、そんな文学的な奴じゃないから)。

だけど、最も興味深い批判は、シラーの彼自身の研究の解釈に対する批判だ。シラーは、株価が長期的には平均に回帰することを示した。そしてこれを、市場が非効率かつ不合理であるからだと解釈した。言い換えれば、平均への回帰を、私が「行動的狂気」1と呼ぶもののせいにしたのだ。だけど、ユージン・ファーマなどは、長期的予測可能性はリスク・プレミアムの予測可能な緩慢な変動によるものと解釈している。

どっちが正しいんだろうか? コクランが鋭く指摘しているように、どちらが正しいかは、市場だけを見ていてもわからない。それ以外の裏づけとなる証拠が必要だ。もし行動的狂気のせいなら、その狂気の証拠は、どこか他所の場所でも観察できるはずだ。もし予測可能な変動をするリスク・プレミアムのせいなら、そのリスク・プレミアムは、なんらかの独立したデータソースを使って測定できるはずだ。ただもっともらしさに訴えて、バンザイして「カンベンしてよ」などと言っても、問題の解決にはならない。

個人的には行動的狂気を疑っている。というのも、実験的な資産市場が、現実世界の「バブル」の話と見紛うほどよく似た、極めて予測性が高く有意な狂気を示すという事実があるからだ。ただ、コンピュータのラボで学部生6人がする数十ドルの取引が、アメリカの株式市場の代わりとして完全だとは言いがたいので、この実験の証拠は、決定的な証拠ではなくあくまで傍証と考えるべきだろう。

リスク・プレミアムに予測可能な緩慢な変動が存在しうる理由を説明しようとしたモデルもいくつかある。私が見たモデルとしては、例によって消費習慣形成やクレプス・ポルテウス型選好(知らなくても聞かないでね!)を取り入れたDSGE型のモデルがある。このような最新のモデルで謎は解けました! と断言する人もいる。コクランは習慣形成モデルにそれほど確信がないようで、このような意識は、私が話した多くのファイナンスの教授にも共有されていた。(また、私が見たこの種のモデルは、集約的不確実性の源泉としてRBCスタイルの生産性ショックを使う傾向があって、反射的に眉に唾をつけたくなってしまう。でも、これは私だけか。)

現実世界における行動的狂気の直接的な証拠に関しても、目ぼしいものはなかったが、それは多分この間までのこと。ロビン・グリーンウッドとアンドレ・シュライファーによるこの論文を見て欲しい。二人は、株式のリターンに対する期待を尋ねた投資家アンケートに基づく、6つの異なるデータセットを比較対照した。6つのデータ系列は強く相関していた。つまり、市場で一般的ななんらかの現象を実際に捉えていたということだ。その中で表明された期待はすべて「外挿的」であるように見える。つまり、直近のリターンがよければ、以後もずっとよいと考えるということだ。でも、この表明された期待はだいたい間違っていた。みんながリターンは上昇すると思ったときには、リターンはすぐ下落する傾向があった。しかも、この下落は単純な資産評価モデルで予測できた。言い換えれば、この表明された期待は、合理的期待ではなかったのだ。

したがって、この表明された期待が実際に投資家の信念を表現するものであれば、行動的狂気の直接的な証拠が得られたことになる。でもコクランは、これらの調査に回答している人たちは、自分の本当の信念ではなく、「リスク中立確率」を語っているのだ、と指摘している。言い換えれば、彼らは自分の信念に関する表明にリスク回避を忍び込ませている、とコクランは考えている。それがもし正しければ、このような調査は行動的狂気の有力な証拠にはならない。

だから、この問題はまだ決着していない。でも進歩は続いている。私見では、手に入る範囲の証拠は「行動的狂気」による説明を示唆していると思うが、決定的な証拠ではない。重要なことは、これは「永遠の謎」といったたぐいの議論ではない、ということだ。この議論は、より有力なデータが利用できるようになれば、解決できるし、解決されるだろう。科学は進歩するのだ。

  1. 訳注: 「behavioral craziness」の訳。ノア・スミスの造語。 []

ジョン・コクラン 「三人のノーベル賞受賞講演とファイナンスのレトリック」

●John Cochrane, “Three Nobel Lectures, and the Rhetoric of Finance”(The Grumpy Economist, December 17, 2013)


本年のノーベル賞授賞式に出席できたことは、私にとって大きな喜びであり、名誉でもあった。授賞式はノーベル賞受賞講演から始まった。そしてそれは、極めて示唆に富むものであった。 [Read more…]

アレックス・タバロック 「シラーのトリル」

●Alex Tabarrok, “Shiller on Trills”(Marginal Revolution, December 19, 2013)


この短い記事の中で、ロバート・シラーは彼のマクロ市場に関する研究の基本的アイデアの一つを説明している。

世界の政府は、GDPの株式を発行するべきだ。つまり、GDPの指定された割合を配当として永遠に(あるいは、公開市場で政府が買い戻すまで)投資家に払い続ける有価証券だ。政府は、歴史的な負債による資金調達に終止符を打つ必要がある。政府がGDPの株式を発行するのは、企業が株式を発行するのと同じようなものだ。私はカナダ人の共同研究者マーク・カムストラとともに、GDPの1兆分の1の株式を発行することを提案しており、これを「トリル」1と呼んでいる。たとえば去年で言えば、アメリカのトリルは配当として15.09米ドル、カナダのトリルは1.72加ドルを支払うことになる。この配当は、毎年GDPが発表されるたびに変化するので、株式市場と同じで、この変化を予測することが、投資家たちの関心を呼ぶことは間違いない。現在の国債が満期になって、借り換えの必要がある場合には、政府は債務削減プログラムの一部として、トリルを競売にかけることができる。

この記事の中で、シラーは、負債と比較した場合のトリルの利点を強調している。

従来の負債をトリルで代替すると、政府のレバレッジを下げることにつながる。このことの重要性は、ヨーロッパの債務危機で極めて明白になった。トリルによって政府に求められる支払は、GDPによって測られる国の支払い能力に連動している。

トリルはさまざまな種類の保険商品のベースにもなり得る。たとえば、GDPが低下したときに払い戻されるような保険は、ビジネス・サイクルの問題を緩和するだろう。また、トリルの市場は、予測や政策の評価にも利用できるだろう(初期テストについてはGurkaynak and Wolfersを参照)。将来のトリルの価値を増やすのはどの政策だろうか。同じように、トリル市場の変化がアイオワ政治市場2の変化とどのように相関しているかを観察することにより、(株式や債権市場だけでなく)GDPに最も貢献する政治家を特定することもできるだろう。

シラーのマクロ市場に関する研究は、拙著「企業家経済:陰鬱な科学からの冴えたアイデア」3の中でも取り上げている。この研究は、シラーの研究の中でも最も先見的で、ノーベル賞にふさわしいと思う。4

  1. 訳注: 1兆は英語で「trillion」なので、それを略して「Trill」ということらしい。 []
  2. 訳注: 「Iowa Political Markets」の訳。アイオワ大学のティッピー・ビジネス学部で実験的に運営している市場で、選挙の結果などを賭けることができる。詳しくはこの記事この記事を参照。 []
  3. 訳注: 原題は「Entrepreneurial Economics: Bright Ideas from the Dismal Science」。この記事の時点では邦訳はまだなさそう。 []
  4. 訳注: もちろん、ロバート・シラーは2013年にすでにノーベル経済学賞を受賞している。ただし、授賞理由は「資産価格をめぐる実証的な分析(for their empirical analysis of asset prices)」なので、ひょっとしたら、タバロック的にはこのマクロ市場理論の方が評価が高い、と言いたいのかも。 []

カデナ&コバック 「移民は地域格差を減らす」

●Brian C Cadena, Brian Kovak, “Immigrants reduce geographic inequality”(VOX, August 12, 2013)


<要約>

アメリカでは雇用機会を求めて長距離を移動する人が減り続けている。このコラムでは、アメリカのメキシコ移民に関する新研究を示し、労働力の効率的な空間配置には、大きな福祉利益があることを主張する。にもかかわらず、労働の移動による福祉利益の研究は非常に遅れている。移民がネイティブ(原住民)1よりも求職のための移動に積極的ならば、政策立案者はその移動を容易にすべきだ。労働者は、よりよい機会を与える市場に移動する自由を与えられるべきだ。

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  1. 訳注: 「native」の訳。この訳も結構悩んだ。この文脈の「native」は「アメリカで生まれた人」ぐらいの意味で、先祖代々アメリカに住んでいた人という意味ではないんだが、日本語で「原住民」と訳してしまうと、そういうニュアンスが出てきてしまい、「アメリカの原住民は『インディアン』だろ? それ以外はヨーロッパやアフリカからの移民じゃん!」と言われてしまう。でも、他にいい訳を思いつかなかった。 []

ガラッソー他 「女性を説得できないのはどんなとき?-保育の調査からわかったこと」

●Vincenzo Galasso, Paola Profeta, Chiara Pronzato, Francesco C. Billari, “The difficult case of persuading women: Experimental evidence from childcare”(VOX, November 16, 2013)


<要約>

就労率の性差は、いまだに縮まっていない。これには、さまざまな要因の中でも、文化的な要因が影響している可能性がある。このコラムでは、イタリアの女性を対象に行われた、公式保育1が子供の成績に与えるメリットに関する実証研究について説明する。教育水準の高い女性は、公式保育に関する情報に、肯定的な影響を受ける。しかし、教育水準の低い母親は、保育施設の利用や労働供給を増やすことはない。

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  1. 訳注: 「formal childcare」の訳。国によって微妙に定義は違うが(参考 12)、大雑把に言えば、親や家族や親戚や無認可の営利企業による保育が「informal childcare」、公的機関や認可を受けた営利企業による保育が「formal childcare」と呼ばれるようだ。 []

ラルス・クリステンセン 「ベーシック・インカムの保証」を(リバタリアン的でなく)実際的に擁護する議論がある

●Lars Christensen, “There is a pragmatic (but not a libertarian) case for a “Basic Income Guarantee”(The Market Monetarist, December 8, 2013)


私が10代の頃初めてミルトン・フリードマンの「選択の自由」を読んだとき、特に感動したことが2つあった。第一は、言うまでもなくフリードマンのマネタリスト的な思想、第ニは、福祉国家から古典的自由主義社会に移行するための彼の戦略だ。

 私のブログのほとんどは、マネタリスト的な思想に捧げられている。でもこのブログ記事では、古典的自由主義社会に移行するための戦略について、ちょっとだけ書いてみたい。そのような戦略として、ミルトン・フリードマンが「選択の自由」(さらに「資本主義と自由」)で提案したものの中に、教育バウチャーと、いわゆる負の所得税の二つがある。

 私は、このようなアイデアにおおいに共感してきたし、どちらも、今日の西洋社会で知られている福祉政策のほとんどより、はるかに望ましいアイデアであると思っている。でもそれは、このようなアイデアが理想的だと思うからじゃない。このようなアイデアを擁護すべき十分に実際的な理由があるからだ。結局、私は自分のことを実際的な革命家だと思っているんだね。

 負の所得税のアイデアは最近、リバタリアン・ブロガーの間でささやかな注目を浴びている。というより、より一般的な形のベーシック・インカム保証が、と言った方がよいかもしれないが。

 ベーシック・インカム保証とは何か?

ロンドンのアダム・スミス研究所の研究部長であり、私の友人でもあるサム・ボウマンは、先日のブログ記事で、ベーシック・インカムを擁護しながらその基本概念を説明している。以下はサムの発言である。

イギリス政府は、医療保険を除けば、他のいかなる分野よりも、福祉に多く金を費やしている。このような社会保障制度は、複雑怪奇で扱いにくく、さまざまな社会問題をバラバラに解決しようとする異質な試みの寄せ集めである。このような制度は、たとえば、働いて稼いだのと同じだけのお金が社会保障給付から差し引かれるという「社会保障の罠」にはまった人々には有害なインセンティブになるし、住宅手当が住宅市場に影響するように、価格を吊り上げて市場全体を歪めてしまう。

(中略)理想的な福祉制度はベーシック・インカムであり、政府が行っている既存の貧困対策プログラム(税額控除、および、雇用年金局の年金や育児手当て以外の政策)に取って代わるものになる。ベーシック・インカムでは、仕事からの収入がまったくない人にも一定の所得を保証し、収入のある人の場合には、稼ぎに応じて保証額を減らしていき、収入が免税許容点を超えた人から課税される。

例えば、ベーシック・インカムを年1万ポンドに設定し、打ち切り点として年2万ポンド、控除率として50%を採用したとしよう。ベーシック・インカムによる補填は、仕事からの収入と、打ち切り点2万ポンドとの、差の半分に等しくなる。稼ぎのない人は、ベーシック・インカムとして年1万ポンドを貰う。年1万ポンドを稼ぐ人は、副収入として5千ポンドを貰う。年1万5千ポンドの人は、副収入として2千5百ポンドを貰う。そして、年2万ポンドの人は、何も貰わない(そして、それ以上稼ぐごとに税金を払うことになる)。

この数値は、あくまで一つの例だ。1万ポンドじゃ安すぎるとか高すぎるとか言わないで欲しい。重要なのは、この仕組みだ。1

負の所得税

負の所得税

ここでサムが提案しているのは、フリードマンが「資本主義と自由」や「選択の自由」で提案している負の所得税と基本的に同じだ。

マット・ズボリンスキーのリバタリアン的な再分配擁護

 最近になってベーシック・インカム保証を擁護したリバタリアンはサムだけではない。先日のlibertarianism.org上の記事で、マット・ズボリンスキーは「リバタリアンによるベーシック・インカムの擁護」を唱えた。

 私はこのアイデアに基本的に共感しているにも関わらず、マットのブログ記事を読んだとき、その議論に完全には説得されなかったことを認めなければならない。そして、マットのベーシック・インカムに関する主張の一部を論破するブログ記事を書きたくなった。

でも、私よりも先にデビッド・フリードマンが、新しいブログ記事の中でマットの主張を論じていた。

私は、マットのベーシック・インカム保証に関する立場に対するデビッドの反論に、基本的に賛成だ。と言うより、マットのリバタリアン的な所得再配分の擁護に対するデビッドの反論、と言うべきだろうが。でもだからと言って、デビッドの反論すべてに賛成するわけじゃない。それについても後で書く。

 マットは、ベーシック・インカムを支持する理由を3つ挙げている。

 1) ベーシック・インカム保証は、現在の福祉国家よりはるかにマシ

 以下はマットの発言である。

アメリカの現在の連邦社会福祉プログラムは、金を食う上に複雑でグチャグチャだ。マイケル・タナーによれば、連邦政府は2012年に126以上の貧困対策プログラムに6680億ドル以上を費やした。州政府や地方自治体によって費やされる2840億ドルを加えると、その額は全米の貧乏人一人当たり20,610ドルに相当する。

 だったら、その貧乏人に単に小切手を書いた方がマシなのでは?

 このような貧困対策プログラムには、それぞれ別の官僚機構と複雑怪奇なルールがくっついている。政府の規模や権限を縮小したいのなら、このような部署を減らして、事実上コンピュータで管理できるぐらい単純なプログラムに置き換えるのは、いい手始めに思える。肥大した官僚機構を縮小することは、貧乏人の手に渡るお金を増やし、納税者のコストを減らすことにつながる。ウィン・ウィンってわけだ。

 またベーシック・インカム保証は、現在の福祉国家にくらべれば、パターナリズムの度合いははるかに低い。現在の福祉国家は、アンドレア・キャスティリョの言葉で言えば、「貧乏人に対する保守的な品定めと革新的な上から目線の私生児」である。保守派は貧乏人を助けたいとは思っている。だけどそれは、彼らが働いてドラッグをやめて、できれば安定した善良なブルジョア家庭の生活に落ち着く、という意欲を示すいくつものハードルを越えて、支援に値することを証明して見せた場合だけだ。対する革新派は通常、貧乏人にこのような伝統的な価値を押し付けることを拒み、貧乏人が「本当に」必要な支援を確実に受けられるようにする方法として、現金より現物支給をほぼ常に好む。だが、貧乏人に何が必要かは、貧乏人自身の方が連邦政府よりよく知っている。それを信頼すべきではないのか。

 このマットの主張には一理あるし、ミルトン・フリードマンが負の所得税について行った主張とも極めてよく似ている。最終的には所得の再配分が必要だとするなら、最もパターナリズムの度合いが低く、経済的なコストの低い方法で行うべきじゃないのか?

 これは特に厳密なリバタリアン的主張ではないが、純粋に実際的な視点から見ればおおいに納得がいく。そしておそらく、今日の西洋世界の福祉政策の大部分より、国家主義・干渉主義の度合いははるかに低い。

 だが、デビッド・フリードマンは、彼の父上(およびマットと私)がおそらく考えていたほど、ことは単純ではないと言う。以下はデビッドの発言である。

 これ(ベーシック・インカムが現在の福祉制度よりマシということ)はたぶん正しい。特に、ベーシック・インカムが取って代わるのが、福祉政策だけでなく、農場プログラムのような、貧しい人を助けるという理由で擁護されているあらゆる政策であることを考えれば、なおさらだろう。マット自身も気がついているようだが、問題は、最低所得の保証は、現在のプログラムの代わりではなく、追加として導入されるのがほぼ確実だということだ。

 確かにデビッドの主張にも一理ある。でも、悪いけどこれは、完全な非国営化でないあらゆる自由市場改革を根本的に否定する主張であり、負の所得税やベーシック・インカム保証にヒントを得た、現在の福祉制度よりもマシな福祉改革を予見することは容易だ。

 デンマークの広範な福祉制度の場合を例にとっても、異なる数多くの福祉政策を、「18~35歳の健康な人すべてを対象とする負の所得税」のような負の所得税的な制度に「統合」することを簡単に想像できる。これはたぶん、現行制度よりはマシだろう。では政治的に現実的だろうか? たぶん違うだろうね。でも、議論に値する程度には現実的だし、真の福祉改革のアイデアを生み出すにも役立つだろう。

 2) ベーシック・インカム保証は、リバタリアンの立場から、過去の不正義に対する補償として必要かもしれない

 マットがベーシック・インカムを擁護する二番目の理由に戻ろう。

 リバタリアニズムの最も際立った原理は、私的所有権をほとんど神聖不可侵なものと考える信仰だ。だけど、この原理から即、既存の所有権の配分を不可侵と見なすべき、ということにはならない。なぜなら、既存の配分は、いろんな意味で過去の収奪や暴力の産物であって、それがまだ補償されていないからだ。リバタリアニズムが理論的にいかに魅力的だったとしても、「じゃあ今からリバタリアニズムね!」と言うのは都合がよすぎるように聞こえる。特に、それを言う人の大多数が、人類の流血と殺戮の歴史の頂点から来た人であるなら、なおさらだ。

 ラディカルなリバタリアンは、過去の不正義に対処する方法をいくつか提案してきた。だけど、多くの人が忘れているように見える提案が一つある。それは意外な人によるものだ。ほとんどの人は、ロバート・ノージックの「アナーキー・国家・ユートピア」を、極めて妥協なき自然権的リバタリアニズムの擁護として記憶している。そしてノージックが、市民の消極的権利を保護するという最小限の機能を越えるあらゆる国家は、それ自体が権利侵害であり不正義である、と書いたことを記憶している。

 だけど、ノージックの正義の権原理論は歴史的なものであり、この理論の重要な構成要素の一つは、過去の不正義に対処するための「匡正の原理」だ。この原理の性質や正しい適用方法の詳細について、ノージック自身はまったくと言っていいほど言及していない(他の人による推測はあるが)。でもノージックは、ある魅惑的な一節で、(ロールズの格差原理のような)正義のパターン化原理を、匡正の原理を厳密に適用した結果を近似するための「大雑把な経験則」と見なせるかもしれない、と示唆している。ノージックの発言は以下の通り。

 「おそらく、配分的正義のパターン化原理の一部は、不正義の匡正の原理を適用した一般的な結果を近似するための、「大雑把な経験則」として見るのがよいだろう。例えば、歴史的な情報が大幅に不足していて、(1)不正義の犠牲者はそうでない場合より一般に恵まれない、(2)社会で最も恵まれていない集団に属する人たちは、最も深刻な不正義の犠牲者(の子孫)である確率が最も高く、その不正義の恩恵を受けた者(加害者も恵まれない集団に属することもあるが、ここでは恵まれていると仮定する)から補償を受ける資格がある、と仮定すると、不正義を匡正するための大雑把な経験則は、このようなものかもしれない。つまり、社会の中で最も恵まれない集団の地位を最大化するように、社会を組織するのだ。」(原書231ページ)2

 もし、あらゆる財産が労働の混入や自発的な取引によって平和裏に取得されるような世界であれば、税金の投入によるベーシック・インカム保証はリバタリアンの権利を侵害している、という主張も成り立ったかもしれない。だけど、私たちの世界はそんな世界じゃない。そして、過去の不正義の厳密な匡正を保証するために必要な情報がなく、また、そのような不正義を単に無視するのも不公平だと思われるとすれば、匡正の近似としてベーシック・インカム保証的な何かも正当化されるのではなかろうか?

 私はマットの議論に特に説得力を感じなかったことを認めなければならないし、(大昔に「アナーキー・国家・ユートピア」を読んだときに)ノージックの議論も説得力があるとは思わなかった。私見では、問題は、マットがリバタリアン的に擁護しようとしているのが、(単なるベーシック・インカム保証というより)再配分自体であるということだ。そのような議論が一般に成立するとは思わない。デビッドも同意見のようだ。

 彼(マット)も指摘しているように、現在の世界の状態の一部は、過去の権利侵害の産物だ。リバタリアン理論における土地所有権は、土地に最初に労働を混入した人から始まる自発的移転の連鎖に基づいているかもしれないが、現実世界の土地所有権の多くは、武力による占領に遡る。同じように、それ以外の形の富も、リバタリアン道徳理論においては、その富を最初に生み出した人に遡る自発的取引の連鎖によって正当化される必要がある。

 そのような連鎖の少なくとも一部は、非自発的な取引によって途切れている。奴隷労働によって建てられた家を考えてみよう。正当な所有者とは、その家の所有権を現在持っている人なのだろうか。それとも、その家を建てさせられた奴隷の子孫なのだろうか。それとも、一部は一方の正当な財産で、一部はもう一方のものなのだろうか?奴隷所有や奴隷貿易を行っていて、犠牲者に借りがあるのに返していない。そんな先祖からの連鎖によって受け継がれた、それ以外の形の財産についてはどうだろう?

 リバタリアンのほとんどは、このような問題が正当であると認識しているが、そのような場合に正当な所有権を確立することの実際的な困難を指摘し、遠い過去の過ちに関してある種の時効を正当化する人も多いだろう。マットがノージックの一節を引用して示唆した代替案は、過去の権利侵害の恩恵を受けた者の子孫は、被害を受けた者の子孫より平均して恵まれているので、最低所得の保証という形で金持ちから貧乏人へ再配分を行うことは、過去の不正義の匡正の近似になる、という主張である。

 この議論は、金持ちから貧乏人への移転が、ランダムな移転に比べれば、過去の不正義の匡正として優れている、とは示唆しているが、そのような移転が、何もしないよりも優れている、つまり、不正義全体を増やさずに減らす、ということは意味していない。リバタリアン道徳理論の見地からして、現在の富の一部は不正義に起因するかもしれないが、すべてがそうだというわけではないだろう。私が貴方から合法的に40セント借金していたとして、私から1ドルとって貴方に渡したら、結果として再配分の不正義は減るどころか増えてしまう。(これを支持するリバタリアンはほとんどいないと思うが)不平等のほとんどが過去の権利侵害から受け継がれたものでない限り、この主張の論理は破綻してしまう。

 3) ベーシック・インカム保証は、貧しい人の一次的欲求を満たすために必要かもしれない

 再びマットの三番目の主張に戻る。

 先の2つの主張は、どちらもベーシック・インカムをある種「次善」の政策と見なしており、それ自体が望ましいというよりは、現在の政策よりは害が少ない、もしくは、過去の不正義を正すために必要だという立場だった。でも、それ以上のことをリバタリアンが言えるのだろうか?リバタリアンが、ベーシック・インカムを妥協ではなく理想として擁護できるのだろうか?

 できる。そして、そういう主張はすでにある。

 ミルトン・フリードマンとフリードリヒ・ハイエクは、どちらも、ベーシック・インカム保証を政府の正しい機能として擁護しているが、その根拠は微妙に異なる。フリードマンの議論は、「資本主義と自由」の第9章にあり、私的な貧困救済の試みは、彼が「近隣効果」ないし正の外部効果と呼ぶものを伴う、というアイデアに基づいている。そのような外部効果により、ボランティアによる私的な慈善事業は過少供給になる、とフリードマンは主張する。

 「私たちは誰もが、貧困救済に喜んで貢献したいと思っているかもしれないが、それは他の誰もがそうする場合だけである。その保証がなければ、同じ金額を喜んで貢献する気にはなれないかもしれない。」3

 だからこそ、 なんらかの「政府による貧困対策」が正当化されるのだ、とフリードマンは結論付ける。具体的には、政府は「コミュニティの各メンバーの最低限の生活水準」を設定することが正当化される。この最低水準が、彼の有名な「負の所得税」の提案を構成する。

 私がフリードマンの主張を初めて読んだとき(あるいは、もっと後かも)、再分配の擁護としては極めて弱いと感じたことを認めなければならない。そして、その感想は今でも変わらない。ここでも、私はデビッドと同意見だ。

 一例として、私的な慈善事業は公共財の問題に直面するので、誰もが必要だと思ってはいるが、お金は誰か他の人に払ってもらいたいと思っているような慈善事業は、政府が私たちから税金を取って提供する方が、結局はみんなが得をする、というような指摘がある。これは特にリバタリアン的な主張ではないが、多くのリバタリアンが国防の文脈で受け入れている主張と本質的に同じだ。

 この主張の問題の一つは、所得移転のメカニズムを、私たちが望む方向にだけ働くようにする方法がない、ということだ。そのようなメカニズムがいったん成立してしまうと、個人はその裏技を探したり骨抜きにしたりして、移転元ではなく移転先になろうとする。既存のルールの裏技を探したりロビー活動で骨抜きにしたりするために、リソースが費やされることになり、それが現実のコストとして圧し掛かることになる。そして過去に何度も経験したように、最終的に、所得が下ではなく上に移転したり、あらゆる方向に同時に移転したりすることもあり得る。

 私も完全に同意見だ。実際私は、公共財による政府介入の擁護は、非常に弱いと思うことが多かった。というのも、公共財の問題を解決するには、政府の介入以外のメカニズムもあるし、さらに公共選択理論の教えによれば、公共財問題が政府の介入によって解決される保証はないからだ。

 ベーシック・インカム保証は、福祉改革のヒントとして考えるべき(ただし、再配分をリバタリアン的に擁護することはできない)

 結論としては、私は、マットのベーシック・インカム保証の提案に共感するところ大であるが、所得再配分の議論には大きな問題がある、ということになる。したがって、ベーシック・インカム保証や負の所得税は、パターナリズム的でない古典的自由主義社会の理想に(少しでも)近づけるための非国営化戦略としては、依然としていいアイデアだと思っている。

 その意味で、マットの政策提案(ベーシック・インカム保証)には同意するが、その提案の根拠となる議論全体には同意しない。私には、マットの「血の通ったリバタリアン4プロジェクト 全般も、リバタリアン的に所得再配分を擁護する議論に見える。その議論は全体に興味深く示唆的だとは思うが、説得されたことはほとんどない。残念ながら今回もそうだった。

 二伸 私は、自分を「血の通ったリバタリアン」(あるいは、「左派リバタリアン」)だと思ったことはないが、彼らの「社会正義」全般の重視や、古典的自由主義社会は特定の「階級的利害」のためにあるわけではない、という主張には、少なからず共感する。資本主義は、資本家だけが恩恵を受ける理想ではない。

三伸 私が将来政治哲学者の地位を狙っているとか思わないで欲しい。私は経済学者で、頭は貨幣の問題で一杯だ。これは将来もそうだろうし、こと政治哲学に関しては、マットのような人より賢いフリをしようと思ったことは1秒もない。実際違うしね。

  1. この図は、訳者が独自に作成したもので、元のブログ記事にはない。 []
  2. 既刊の訳書からの引用ではなく、訳者が独自に訳したものである。 []
  3. 既刊の訳書からの引用ではなく、訳者が独自に訳したものである。 []
  4. 英語は「Bleeding Heart Libertarian」。「Bleeding Heart Liberal」という言葉は昔からあるのだが、これは保守派がリベラル派を揶揄して使う言葉で、基本的に悪い意味しかない。こちらの方はおそらく、それをもじって付けられた名前で、アイロニカルな意味があると思われるが、そのニュアンスを訳に出すことはできなかった。すいません。 []