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マーク・ソーマ 「今の世代のインテリたちが目の前の戦争にその身を捧げようとしないのはなぜ?」(2009年8月30日)

●Mark Thoma, ““Why Doesn’t This Generation’s Intellectuals Fight This Generation’s Wars?””(Economist’s View, August 30, 2009)


今の世代のインテリたちは戦争にその身を捧げる意思なんて持ち合わせていないと言えるかどうかはわからないが、とりあえずそうだということにしておこう。さて、その理由は何だろうか?

Cowards, every single one of us?” by Chris Blattman:

20世紀初頭に起きたスペイン内戦では西洋の知的エリート(知識人)層の面々は我先にと戦場に赴いていった。第二次世界大戦についても同じくそうだったと言えるだろう。しかしながら、今現在はどうだろうか? 今の世代の知的エリートたちが先を争って戦場に赴く姿を想像するのは難しい。一体全体何があったのだろうか?

・・・(中略)・・・

今の世代のインテリ(知識人)たちがそこにある(目の前の)戦争にその身を捧げようとしないのはなぜなのだろうか?

一人残らず「臆病者」になったから?

その可能性もあるが、その他にいくつかの仮説が思い浮かぶ。

私の中の「経済学者としての私」はこう語る。「比較優位」が関係しているのではないか、と。戦争の勝敗を左右する上でテクノロジーが果たす重要性は時とともにますます高まってきている。高い教育を受けた知的エリートの愛国者の中に戦争にその身を捧げる意思を固めた人物が仮にいたとしても賢明な政府であればその人物を戦地に送るのではなく(その人物が比較優位を持っている)軍事技術の開発や諜報活動の分野に割り振ることだろう。

理想に燃える知的エリートを獲得する上で軍隊は昔よりも激しい「競争」にさらされるようになってきている、ということもある。過去60年の間に国際的な活動を展開するNGOの数は物凄い勢いで(10,000%近い伸び率で)増えてきている。「不正義」と闘うことを志す人間が選べる選択肢の数は昔と比べて大きく増えているのだ。

軍隊は我々にとってもはや居心地のよい場所ではない。知的エリートたちの間でそのような認識が共有されるようになっているというのもある(その認識は思い込みではなくおそらく真実を捉えたものだろう)。どうしてそのような認識が広まるようになったのだろうか? 上で挙げた「比較優位」や「競争」の帰結ということなのだろうか? 

知的エリートたちは過去3世代にわたってガンジーやキング牧師の例を目撃し、非暴力主義の教えに触れてきた。これも一因かもしれない。

・・・(中略)・・・

個人的に一番しっくりくる仮説を最後に述べておくとしよう。今の戦争はイデオロギー上の対立ではなく宗教上の対立という性格が強い、というのがそれだ。スペイン内戦は「左派 vs ファシズム」という図式で争われた戦争だった。左派が搾取されている労働者階級の側に立って争われた戦争だった。西洋社会のあり方を巡って争われた戦争だった。心(ハート&マインド)を賭けた争いは今の西洋社会の内部には見られないのだ。

皆さんはどう考えるだろうか?

ベトナム戦争は宗教上の対立ではなくイデオロギー上の対立(共産主義への対抗)という性格を備えていたと言えるだろうが、知的エリートたちがベトナムにある戦場に我先にと赴くようなことはなかった。そういうわけで、ブラットマン(Chris Blattman)が最後に挙げている仮説がどこまで正しいかは疑問だ。とは言え、それに代わるような適当な仮説を持ち合わせているわけでもない。「今の世代のインテリたちは戦争にその身を捧げる意思なんて持ち合わせていない」というのは果たして正しいのだろうか? 仮に正しいとすればその理由は何だろうか? 皆さんはどう思われるだろうか?

マーク・ソーマ 「ウォルト・ロストウ ~1960年代におけるアメリカの外交政策の立案に深く関与した『テイクオフ』(離陸)理論の提唱者~」(2007年9月2日)

●Mark Thoma, ““The Paul Wolfowitz of the ’60s””(Economist’s View, September 02, 2007)


ウォルト・ホイットマン・ロストウ(Walt Whitman Rostow)は「同世代の経済学者の中でも最も論争を呼んだ一人」だったが、どうやらその理由は彼の独自の経済成長理論や経済発展観だけにとどまらず他のところにも求められるようだ。

The Paul Wolfowitz of the ’60s” by David Milne1, Commentary, LA Times:

・・・(略)・・・ジョン・F・ケネディおよびリンドン・B・ジョンソン両大統領の側近として仕えた主要メンバーの一人にウォルト・ロストウがいる。ロストウがべトナム戦争時に果たした(軍事戦略を練り上げるブレーン(参謀)としての)役割はアメリカのイラク侵攻を後押しする上でポール・ウォルフォウィッツが果たした役割と驚くほど酷似している。

ウォルト・ロストウ。イェール大学で博士号を取得した優れた頭脳の持ち主。その胸のうちに燃えたぎる崇高な理想。己に対する揺るぎなき自信。第二次世界大戦中は米国戦略情報局(OSS)の機関員として活躍し、その功績を讃えて勲章も授与されている。1950年代にはマサチューセッツ工科大学(MIT)にて経済発展理論の分野で世界的な名声を博する研究を手掛ける。アイゼンハワー大統領のスピーチライターを務めた時には大統領に対して対外援助予算の増額を辛抱強く奨励した。対外援助は(冷戦の相手側である)東側陣営に対抗する上で戦術的にも重要な意味を持っているだけではなく、アメリカのように経済的に豊かな国が他国を援助するのは道義的な観点からしても当然のことだ、というのがその理屈だった。

ロストウは言うなれば「世界規模のニューディール政策」を訴えたわけだが、アイゼンハワー大統領はその訴えには心を揺さぶられなかった。しかしながら、後任の大統領は違った。ケネディ大統領は政権発足後直ちにロストウを呼び寄せ、国家安全保障担当大統領次席特別補佐官に任命したのである。第三世界の貧しい国々がワシントン(西側世界)の側につくようにして欲しい。モスクワだとか北京だとか(東側世界)といちゃつくことがないようにして欲しい。・・・(略)・・・この経済学者にそのための手助けをしてもらいたいというのがケネディ大統領の願いだった。ロストウの登用はリベラル陣営(左派)からは歓迎されたものの、財政保守派には評判が悪かった。貧困の削減(第三世界の近代化の支援)を通じて共産主義陣営に対抗するという戦術は高くつく(お金がかかる)と思われたからである。ロストウは「どこのわらぶき小屋にも必ずテレビが一台はある」世界を思い描いているんだ。ロストウの友人の中にはそのようにからかう者もいた。

アメリカには第三世界の近代化を支援する責務がある。ロストウはそう固く信じ込んでいたが、共産主義の「病気」を根絶せねばならないという信念もそれに負けず劣らず頑ななものだった。自由な社会2は共産主義社会よりも道徳的な面で優れているばかりか、自由な社会が発展に向かうことは歴史の必然(不可避)でもある。共産主義が自由な社会の発展を邪魔するようなら欠かさず叩かねばならない。ロウトウはそう考えていたのである。・・・(略)・・・ロストウはケネディ政権ならびにジョンソン政権に仕えた文民メンバーの中でも一番のタカ派(対ベトナム強硬派)だった。

1961年の夏、ロストウはケネディ大統領に対して南べトナムに米軍の戦闘部隊を投入するように文民の中で誰よりも先に直言した。また、誰よりも先に北爆(北ベトナムへの空からの爆撃)を薦めたのもロストウだった。「ホー・チ・ミンには守るべきものがある。産業だ。ホー・チ・ミンはもはや単なるゲリラ兵なんかではない。失うものなど何も無いゲリラ兵などではないのだ」3。それゆえ、空爆で脅せば北べトナム側の気持ちも萎えるだろう。ロストウはそのように考えたのだった。第三世界の経済発展を後押しするためにアメリカに何ができるか? ロストウはそのための指南役を務めるのではなく、発展途上国(たるベトナム)に対する残忍な爆撃を推奨することを通じてアメリカを史上最悪の敗戦に引き摺り込むシナリオを書き上げてしまったのである。

ロストウは自らの判断に絶対の自信を持っていた。・・・(略)・・・戦線の段階的な拡大(エスカレーション)を指南し、CIAの報告書に手を加えもした。ジョンソン大統領に対して戦況がアメリカ側に有利に働いているかのように見せかけるためである。そして1967年から1968年にかけてはジョンソン大統領に対して北べトナムと妥協的な和平を結んではならないと直言もした。ロストウはポリアンナのごとくにどうしようもないほど底抜けの楽天家であり、敗戦が濃厚な状況になってもなおアメリカが敗れる可能性を心に思い浮かべることさえまったくできずにいた。ロストウは正真正銘のイデオローグと呼ぶにふさわしい人物だった。アメリカは他の国々を民主化する責務を負っており、そのような「善行」を施すためとあらばコストがどれだけかかろうが構わない。ロストウはそう信じていたのである。

・・・(中略)・・・

時代は下ってつい最近のこと、・・・(略)・・・国際関係の捉え方の面でロストウと瓜二つの考えを持ち合わせる集団が表舞台に登場してきた。ポール・ウォルフォウィッツをはじめとするネオコンの面々である。曰く、アメリカには世界一の大国として果たすべき責務がある。それは全世界に民主主義を広めることだ。そのような「善行」を施すために必要とあらば武力の行使も辞さない。・・・(略)・・・

しかしながら、ヒュブリス(傲慢)からネメシス(天罰)へと至る道は古代ギリシャの時代と同様に今でも切れ目の無い一直線の道である。自らが抱くアイデアの効能に絶対の信頼を寄せる人間――現実世界において偶発的な出来事が果たす役割に目を向けることのできない人間――は誰であれアメリカの外交政策を袋小路に追いやる運命から決して逃れられないのだ。

・・・(中略)・・・

・・・(略)・・・・ロストウにしてもウォルフォウィッツにしてもリチャード・パールにしてもその他の面々にしてもそうだが、自由民主主義には「贖罪」を可能にする力があるとの強い信念がある――その様はキリスト教福音派の神に対する信仰とそっくりである――。自分たちが信じる価値体系は神聖なるものであり(神の後ろ盾があり)、(その価値体系に則った)「正しい道」から逸れるものは何でも「異端」と見なす。まるでそのようなのだ。アメリカが武力で自由民主主義を押し付けるのではなく、その素晴らしさを身をもって示していたとしたらどうなっていただろうか? そうしていたら「異端者たち」も時間はかかってもゆくゆくは西洋の模倣に熱狂していたのではないだろうか? 死に体の独裁者というのは立ち向かう敵がいなくなると往々にして周囲を包む神秘的な雰囲気がたちどころに霧消してしまうものなのだ。

・・・(中略)・・・

アメリカの外交政策の行方がどうなるかは誰にも予測がつかないが、歴史がまたもや繰り返してアメリカが今よりも幾分か控え目な役割に身を引く可能性は十分にあり得ることだ。ここしばらくアメリカは国際政治の舞台で猪突猛進な積極主義(行動主義)の立場を貫いてきたわけだが、オバマ大統領(やその他の大統領候補の面々)は外交政策のアドバイスを求める相手としてロストウやウォルフォウィッツのようなイデオローグではなく、(ジョージ・ケナンやキッシンジャーのような)プラグマティスト(実際家)に白羽の矢を立てるに至るかもしれない。そのような可能性は大いにあり得るように思える。世界中に「善」を広めるというのはへとへとに疲れる重労働であり、イラクへの侵攻はアメリカ国内にも深刻な政治的波紋を投じつつあるのだ。

  1. 訳注;デビッド・ミルン(David Milne)氏はこのテーマ(ロストウがアメリカの外交政策の分野で果たした役割)で一冊を物している。次の本がそれだ。 ●David Milne(著)『America’s Rasputin: Walt Rostow and the Vietnam War』 []
  2. 訳注;自由な社会=リベラルデモクラシー(自由民主主義;経済体制としての資本主義(市場経済)+政治体制としての民主主義)という意味で使われているものと思われる。 []
  3. 訳注;北べトナム側もその他の発展途上国と同様に経済の発展を極めて重視しており、インフラや工場等を爆撃されて経済面で損害が生じればすぐにでも態度を軟化させるに違いない(経済面での損害なんてなんのそので、死に物狂いで徹底的に最後まで戦い抜こうという意思まではさすがに持ち合わせていないだろう)、という読み。 []

マーク・ソーマ 「経済モデルの意外な起源 ~戦争に起源を持つ経済モデルといえば?~」(2012年2月28日)

●Mark Thoma, ““Economics and Its Military Patrons””(Economist’s View, February 28, 2012)


ジュディ・クライン(Judy Klein)がインタビューの中で経済モデルの起源(+その他の話題)について次のように語っている1

・・・(略)・・・私が自らの研究を通じて驚かされたことは、経済学の分野で当たり前のように使われているモデルの多くが戦争にその起源を持っており、コンピュータの計算資源の稀少性が制約となってモデルの構築戦略が一定の方向に方向付けられることになったという事実です。フリードマン(Milton Friedman)やケーガン(Phillip Cagan)の名前と結び付けられることの多い「適応的期待」にしても、ボックス(George E. P. Box)とジェンキンス(Gwilym Jenkins)がその後時系列分析の分野で一般化を試みた「指数加重移動平均」(EWMA)にしても、その起源はB-17(戦略爆撃機)に搭載された(自動操縦装置(アナログ計算機)と連動していた)照準器と爆撃手との間でやり取りされる情報フローをどうにかしてモデル化しようとした第二次世界大戦中の試みに求められるのです。「合理的期待」はデジタル計算機の時代の産物です。リチャード・ベルマン(Richard Bellman)の「動的計画法」もそうですね。動的計画法は1940年代後半に空軍が抱えていた問題を解決しようと試みられる過程で磨き上げられることになりました。ソ連内にある競合する標的に向かって多段階(異時点間)にわたって核攻撃を行うとした場合に稀少な核爆弾をどのように割り振るのがベストか?という問題を解く過程で動的計画法に磨きがかけられることになったのです。  

私がLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)で大学院生として経済学を学んだのは1970年代初頭に遡りますが、その当時学んだ最先端のモデルのあまりに多くが戦争に起源を持っていると知った時は驚いたものです。「適応的期待」然り、(線形計画問題を解く手法の一つである)「シンプレックス法」然り、「数理計画法」全般然りです。

カーネギー工科大学と政府(軍部)との間では10年にもわたる業務契約が結ばれ、そのようなかたちで政府の支援を受ける中で(カーネギー工科大学の経済学部に在籍していた教授やそこで学んだ大学院生たちの手によって)あれこれのモデルが磨き上げられることになったわけですが、その過程では政府介入に「ノー」を唱えるタイプのモデル(消費者は合理的であり、それゆえ雇用の増加を目的とした政府の介入は不必要なばかりか有害でさえある、との結論が導き出されるノーベル経済学賞受賞対象ともなった一連のモデル)ばかりが続々と生み出されることになったというのは何とも皮肉な話であり、驚きを禁じ得ませんね。

  1. 訳注;もっと詳しい話は次の論文を参照。 ●Judy Klein, “The Cold War Hot House for Modeling Strategies at the Carnegie Institute of Technology” []

マーク・ソーマ 「経済学者はいかにして第二次世界大戦でのアメリカの勝利に貢献したか? (その2)」(2011年6月12日)

●Mark Thoma, “How US Economists Won World War II”(Economist’s View, June 12, 2011)


デビッド・ウォーシュ(David Warsh)がFRB議長の候補者選びをめぐる騒動に絡めてジム・レイシー(Jim Lacy)の『Keep From All Thoughtful Men』を引き合いに出している。

———————————(引用ここから)———————————

Kept from All Thoughtful Men” by David Warsh:

先週のことだが、ピーター・ダイアモンドが・・・(略)・・・FRB議長の候補者レースから身を引く意向を示した。このようなかたちで決着がつくまでにどのような紆余曲折があったかよく御存知の方もいることだろう。話は昨年に遡る。ホワイトハウス(オバマ大統領)はダイアモンドをFRB議長に指名したが、そのような動きに対して真っ向から「ノー」を唱えたのはアラバマ州選出の上院議員であり、米上院銀行委員会の共和党側の急先鋒であるリチャード・シェルビー。ダイアモンドは・・・(略)・・・金融政策の専門家ではない、というのが反対理由だった。オバマ政権の経済政策に対して共和党側から横槍が入る例はこれまでに何度も見られたが、ダイアモンドのFRB議長指名をめぐるひと悶着もそのような小競り合いの一つだ。そんな中、昨年の秋(2010年10月)にダイアモンドにノーベル経済学賞が授与される運びとなった。・・・(略)・・・サーチ理論(特に労働市場におけるサーチ(職探し)に伴うコスト)の研究で際立った功績を残したことが讃えられての受賞だった。そしてホワイトハウス(オバマ大統領)は再度ダイアモンドをFRB議長に指名する意志を固め、残すは議会の判断待ちということになったのである。

どういう展開が待っていたか? 共和党所属の上院議員たちはダイアモンドのFRB議長就任を阻止するためにこれまで以上に頑なに抵抗したのである。

・・・(中略)・・・

今回の騒動はその道の専門家(学者)と政治権力とが真っ向からぶつかった事例の一つと言えるわけだが、過去にも似たようなエピソードがあったことを思い出す。さて、ここでようやく登場するのがジム・レイシー(著)『Keep From All Thoughtful Men: How U.S. Economists Won World War II』だ。本書では専門家と政治権力(正確には軍事権力)との間で繰り広げられたぶつかり合いの一部始終が描き出されているのだ。 [Read more…]

マーク・ソーマ 「『誘拐犯とは一切交渉しない!』 ~時間整合性問題入門~」(2010年12月8日)

●Mark Thoma, ““Barack Obama’s Time Consistency Problem?””(Economist’s View, December 08, 2010)


オバマ大統領は将来的に政治の世界で「人質事件(誘拐事件)」が起きる可能性を高める結果を招いてしまったのだろうか?

Barack Obama’s Time Consistency Problem?” by Twenty-Cent Paradigms:

大学の講義で「時間整合性」(time consistency)の問題を教える機会がやってくると、説明の導入としてきまって投げかける問いがある。「誰かが誘拐されて人質にとられ、誘拐犯が政府に交渉を持ちかけてきたとする。そのような場合に政府はどう対応するつもりだと公言しているだろうか? 誘拐犯との交渉方法に関する政府の公式の立場はどのようなものだろうか?」という問いがそれだ。その答えは学生の誰もが知っている。「誘拐犯とは一切交渉しない」というのが政府の公式の立場だ。

国の如何を問わず、どの国の政府も「誘拐犯とは一切交渉しない」との立場を打ち出しているが、それはどうしてなのだろうか? その理由はこうだ。政府が交渉のテーブルにつく気がないということになれば、誰かを誘拐して人質にとってやろうと企む輩も出てこないだろう。そうなること(誘拐の抑止)を期待してどの政府も「誘拐犯とは一切交渉しない」との立場を打ち出しているわけだ。しかしながら、誘拐事件が実際に起きてしまったらどうなるだろうか? 政府としては(「誘拐犯とは一切交渉しない」との約束(公式の立場)を反故にして)誘拐犯との交渉に応じる方向に傾くことになるだろう。というのも、政府としては(「誘拐犯とは一切交渉しない」との立場を貫いて誘拐犯との交渉に応じなかった結果として)人質が殺されてしまった場合に(すべては人質を見放した政府に責任がある、と)その責任を負わされたくはないからだ。そのあたりの事情は誘拐を企んでいる輩もよくよく承知しているところであり、その結果として「政府には『誘拐犯とは一切交渉しない』との立場を何が何でも貫く気なんてないだろう」と見透かされてしまうことになる1わけだ。

と、まあこういう具合に誘拐事件の例を使って「時間整合性」の問題を説明するのがお決まりになっているわけだが、来学期からはそれももうできなくなってしまうかもしれない。以下に引用するオバマ大統領が記者会見の席上で語った発言が(来学期以降に私の講義を受講する)学生たちの目に触れてしまえば誘拐事件の例はもう使えなくなるかもしれないのだ。

「富裕層向けの減税」もセットだと言うのであれば「中流層向けの減税」も認めるにやぶさかではないとでもいったような論調があり2、そのような論調を指して『「中流層向けの減税」が人質にとられているようだ』と発言したことがあります。人質に危害が及ばない限りは誘拐犯とは交渉する気はないというのが私なりの姿勢なのですが、そのような姿勢に一体いかばかりの知恵があるというのかと疑問に思われる方もいらっしゃることでしょう。というのも、この場合の「人質」というのは「アメリカ国民」のことであり、正直なところ私としても「人質」に危害が及ぶのを目にしたくはないのです。

誘拐犯と交渉する「裁量」を政府に持たせないようにする。そうすればよりよい結果がもたらされる。「時間整合性」の問題に関するこれまでの学術的な研究からはそのような示唆の一つが導き出されるわけだが、「完璧なコミットメント」を可能にする3ようなテクノロジーは現実のこの世の中には存在しない。そこで考えねばならないのが(約束の)「信憑性」(”credibility”)だ。言い換えるとこういうことだ。「誘拐犯とは一切交渉しない」との約束(発言)が本気だということを未来の誘拐犯(誘拐を企む輩)に信用してもらうためには政府はどういう手段に打って出ればいいか、という問題に頭を捻らねばならないわけだ。

さて、ここで質問だ。オバマ大統領が記者会見の席上で語った発言はどのような意味合いを持っているだろうか? あのように語ることでオバマ大統領は(「誘拐犯」とは交渉する気はない、との)自らの約束(姿勢)の「信憑性」を損なう結果となってしまい、将来的に政治の世界で「人質事件(誘拐事件)」4が起きる可能性を高めてしまう羽目になってしまったのだろうか? それとも単に周知の事実を暴露したに過ぎない5のだろうか? 「年収25万ドルを超える富裕層もブッシュ減税の延長措置の対象に含めろ。嫌だというならブッシュ減税の延長法案には反対するぞ6」。共和党側はそのような「脅し」をかけている(「人質」の殺害予告7を行っている)わけだが、その脅しは「信憑性のある脅し」と言えるのだろうか?8

  1. 訳注;そのため誘拐事件は根絶されないということになる []
  2. 訳注;この当時は2010年末で期限が切れる「ブッシュ減税」を2011年以降も続ける(延長する)かどうかをめぐって民主党と共和党との間で意見が対立しており、民主党側は「低中所得層(年収25万ドル以下の世帯)に限って減税措置を続けるべき」という立場、共和党側は「年収25万ドルを超える富裕層も含めて全世帯をその対象とすべき」という立場だった。 []
  3. 訳注;政府に「裁量」を許さずに何が何でも「約束」を守り通させる []
  4. 訳注;こちら側の言い分を認めないとお前の支持者が痛い目を見ることになるぞ、との共和党側からの脅し []
  5. 訳注;「誘拐犯とは交渉する気はない」との発言(約束)は口先だけのものに過ぎない(簡単に反故にされる)、ということは誰もが気付いている周知の事実(わかりきったこと)であり、オバマ大統領はそのことを明け透けにしたに過ぎない、という意味。 []
  6. 訳注;その結果として法案が否決されたら所得税が(ブッシュ減税が実施されるよりも前の)2000年の水準に戻ることになり、年収25万ドル以下の低中所得層も所得税の負担が高まることになるぞ []
  7. 訳注;「年収25万ドル以下の低中所得層(「人質」)も所得税の負担が高まることになってもいいのか?」との脅し []
  8. 訳注;最終的には共和党側の意向を汲むかたちで決着することになり、年収25万ドルを超える富裕層も含めて全世帯がブッシュ減税の延長措置の対象に含まれることになった。 []

マーク・ソーマ 「至福点との向き合い方」(2005年12月25日)

●Mark Thoma, “Dealing with Bliss Points”(Economist’s View, December 25, 2005)1


親戚一同が集まってクリスマスディナーをいただく機会があると、大叔父の一人が「食事の前にデザートをくれないか。それもたんまりとだ」と主張して譲らないのがお決まりになっている。食事の後にデザートが出るという通常の順番だと食事を全部平らげた後に果たしてあとどのくらいお腹の中にデザートを入れる余裕がありそうか事前には予測が付かない。そのような不確実性を考慮すると、その大叔父の主張は私には「合理的な」意見であるように思われるものだ。何と言ってもデザートはクリスマスディナーの中でも最も高い効用(満足)をもたらしてくれる花形であり、食事をついつい食べ過ぎてしまって(満腹のために)折角のデザートを見送らざるを得なくなるなんて事態はできれば避けたいところだ。しかしながら、他の親戚の面々は大叔父の主張を「合理的な」意見だとは見なしてはいないようだ。さて、その大叔父はと言うと、大量のデザートを無事平らげた後に食事に取り掛かり、文字通りもう限界というところまでお腹を満たした末にソファーに倒れ込む(そしてやがて寝息を立てる)というのがお決まりのパターンになっている。その様子を目にするたびに私の脳裏には(モンティ・パイソン/人生狂騒曲の)あの場面が思い出されるものだ。

ウェイター:お客様。最後のメニューになります。ミント・ウエハースでございます。

クレオソート氏:もう結構。

ウェイター:左様でございますか。こんなに薄いウエハース一枚なんでございますが。

クレオソート氏:いらん・・・。腹いっぱいだ・・・。

ウェイター:左様でございますか・・・。この薄いウエハース一枚だけなんでございますが。

クレオソート氏:見てわからんのか。もう何も入らんのだ。腹十分目なんだよ。

ウェイター:左様ですか。・・・たったこれだけ、たったこれっぽっちでございます。

クレオソート氏:わかった、わかった。 それだけだぞ。

動画はこちらだ(特に食事中の視聴には要注意)。

  1. 訳注;至福点(Bliss point)というのは効用の上限をもたらす消費の組み合わせを指しており、そこからさらに消費の量を増やすと効用は低下することになる。満腹でもう何も食べたくないという状態はその一例。 []

マーク・ソーマ 「トランプ大統領=制度への脅威?」(2016年11月5日)

●Mark Thoma, “More Jobs, a Strong Economy, and a Threat to Institutions”(Economist’s View, November 05, 2016)


アダム・デヴィッドソン(Adam Davidson)がニューヨーカー誌で次のように書いている。

More Jobs, a Strong Economy, and a Threat to Institutions”:

・・・(略)・・・「制度」は経済学者にとって極めて重要な意味合いを持っている。一国が繁栄するのは天然資源に恵まれているためでも国民の教育水準が高いためでも先進的なテクノロジーを手にしているためでもない。その国に優れた制度が備わっているからだ。経済学者はそのような考えに落ち着くに至っている。フォーマルな(成文化された、法的な裏付けのある)制度的な構造はインフォーマルで(成文化されていない)その内容が口にされることも稀な「社会的な合意」によって支えられている、という点は決定的に重要である。必要なのは裁判所だけではない。「裁判所は公平な裁きを下してくれる」。国民の間でそう信じられている必要もあるのだ。・・・(略)・・・

少数のエリートが貧民から富を掠め取る。これまでの歴史を振り返るとそういう例は枚挙に暇がない。支配者たちの宮殿暮らしと権力維持――そのためには兵士を養う必要がある――を目的としてルールが形作られ、そのルールのもとで暮らす農民たちは重税を課せられて生存水準ぎりぎりの生活を余儀なくされる。しかしながら、支配者たちが被治者(あるいはその一部)の要求を飲まざるを得ない状況に追いやられ、その結果として新たなシステムが姿を現すという場合が時としてある。・・・(略)・・・権力者が権力なき者たちの要求のいくらかに応じざるを得ない。そのことを保証するに足るだけの頑強なシステムを備える社会には繁栄と平和がもたらされることになる。・・・(略)・・・カネと権力を手にした者たちの勝手気ままで醜悪な衝動にタガをはめるような制度が備わっていない国家の多くは貧困と混乱からいつまでも抜け出すことができない。・・・(略)・・・

今回の米大統領選挙はいくつかの理由で経済学者に対して警鐘を鳴らす格好となっている。ドナルド・トランプが掲げる経済政策のプランを支持している経済学者は一人もいない――いや、一人いた――が、そのことよりももっと重要な懸案事項がある。仮にトランプが大統領に選ばれたとしたらこれまでアメリカ経済の安定を支えてきた制度そのものを突き崩そうとするのではないか、という懸念がそれだ。裁判所や言論の自由、(国家間で結ばれた)国際条約、「アメリカ流の生活」を支える支柱の数々。トランプは選挙キャンペーンの最中もそういった一連のものにあからさまな侮蔑を加えて憚らない姿勢を貫いている。「トランプも大統領になれば少しは態度を和らげるだろう」なんて考えるべき理由はほとんどないのだ。・・・(略)・・・

・・・(略)・・・「トランプ大統領」が最高裁の権威に刃向かうような事態が起こることも容易に想像できることだ。アンドリュー・ジャクソン大統領もよく心得ていたように、最高裁を中核とする裁判制度を尊重する姿勢がなければ、最高裁が下す判断も何の効力も持ち得ないのだ。トランプが大統領になったら一体何をするだろうか? そのことは誰にもわからない。しかしながら、トランプが選挙キャンペーンの最中に口にした発言の数々に照らす限りでは、裁判所や軍隊、言論・集会の自由に対して国民が大して信頼を寄せていない国家がこの地に生まれる可能性を想像するのも不可能ではない。仮にそのような想像通りになったとしたらどうなるだろうか? 教育や新たなビジネスプラン、新しいアイデアに投資した先にはあんなことやこんないいことが待っているかもしれない。国民がそのような夢を抱くことももうなくなる。それが歴史の教えであり、やがて国民の意識は別のところに向かうことになる。他人の富をいかに奪うか、手元に蓄えた富を他人に奪われないようにいかに守り抜くか。国民はそのことに汲々とするようになるのだ。人間のうちにある勝手気ままで醜悪な衝動にタガをはめるような制度を欠いた社会ではやがて豊かさに陰りが生じ始めることになる。不穏な雰囲気が漂い、暴力が蔓延ることになる。こうして国家は衰退していくのだ。

マーク・ソーマ 「ハロウィンに伴う期待損失 = E[(a)(Tricks)**2 + (1-a)(Leftover Candy)**2]」(2007年11月1日)

●Mark Thoma, “Expected Loss = E[(a)(Tricks)**2 + (1-a)(Leftover Candy)**2]”(Economist’s View, November 01, 2007)


ハロウィンに付き物の非対称的なリスクは実に健康に悪い。一方ではアメの在庫が尽きてしまって居留守を使わないといけなくなる(家中の電気を消してアメをねだりにやってくる子供たちから身を隠さねばならず、居留守がばれてしまえば悪戯されてしまう)可能性(Tricks)があり、もう一方ではアメを大量に用意しすぎて余ってしまう(余ったアメをすべて自分で食べてしまわないといけなくなる)可能性(Leftover Candy)がある。期待損失(コスト)で考えると、一体どちらの可能性がより厄介なリスクだろうか?(期待損失の計算は事前確率を使って計算するものとする。つまりは、(余った)アメの食べ過ぎで体を壊してしまう前の時点で計算するものとする。また、(Leftover Candy)は余ったアメの数そのものではなく最適な量(あなたにとって食すのにちょうどいいアメの数)からの乖離を表すものとする1。余ったアメを翌日職場に持っていけばすぐに捌けるかもしれないが、仮にそうなったとしても同僚からは喜ばれないものとしよう)。私にはその答えは明らかだ。悪戯なんかされたくない。アメが(最適な量よりも多く)余ってしまうことに伴う損失よりも悪戯されてしまうことに伴う損失の方により高いウェイトを置く2。それが私の答えだ。ところがどうやら無意識のうちにかなり大き目のクッションを用意してしまっていたようだ。aの値が1に限りなく近くなってしまっていたようなのだ3

昨夜はハロウィン当日だったわけだが、夜が深まるにつれて明らかになったことがある。アメをあまりにも大量に用意しすぎてしまったのだ。これはまずいと思って何かいい手はないかと頭を捻った。アメのねだり屋がやってくるたびにそれまでよりも多めにアメをくれてやるようにすればいい。ただし、一回の訪問ごとにくれてやるアメの数を増やしすぎると在庫が尽きてしまう恐れがあるのでいくらか抑え気味にしよう。「これが最後のねだり屋だ」ということがわかりさえすればねだり屋たちも上々の取り分を手にすることができてウハウハになれたに違いないがそれはまあしょうがない。そう考えたところでふと気になることが頭をよぎった。夜が更ける(時間帯が遅くなる)につれてくれてやるアメの数を増やすようにすると来年以降に厄介な問題が生じることになるのではないか。夜が更けるにつれてもらえるアメの数が増えるとわかっていると、来年以降にねだり屋たちが少しでも取り分を増やそうと競い合って我が家にやってくる時間を遅らせるのではないか。最後のねだり屋が我が家を去る時間が年とともに遅くなってしまうのではないか。そういう懸念が頭をよぎったのだ。夜が更けるにつれてくれてやるアメの数を増やすというのはどうやらいい案とは言えないようだ。

そんなことは百も承知。そのおかげで今ではスニッカーズ(チョコレートキャンディ)のファンサイズ(小型サイズ)の限界的な(もう一個の)価値はゼロ以下だ(もうしばらく時間が経てばその価値も元通りになるだろうが)4。M&M’s(エムアンドエムズ)のピーナッツチョコレートなら一袋であればどうにかお腹に収まるかもしれないが。

  1. 訳注;例えば、あなたにとって食すのにちょうどいいアメの数が10個でありハロウィン翌日にアメが全部で30個余ったとすると、(Leftover Candy)は20個(=30-10)ということになる。 []
  2. 訳注;a >(1-a) []
  3. 訳注;アメの在庫が尽きる(そのため子供たちにアメをあげられずに仕返しとして悪戯される)ことに伴う損失をどうしても避けたいと思って事前にアメを大量に用意しておいた、という意味。 []
  4. 訳注;上にあるように翌年以降のことが頭をよぎってアメを出し惜しみしてしまい、アメが大量に余ってしまったのだろう。そして余ったアメを食べているうちに満腹になってしまい、「スニッカーズなんて見たくもない」という境地に達してしまったのだろう。 []

マーク・ソーマ 「大学で使われる教科書は何であんなにも高価なのか? ~その背後に潜むプリンシパル=エージェント問題~」(2014年10月16日)

●Mark Thoma, “‘Thoughts on High-Priced Textbooks’”(Economist’s View, October 16, 2014)


大学の講義で使われる教科書はどうしてあんなにも高価なのだろうか? ティモシー・テイラー(Timothy Taylor)がこの疑問に対する答えを探っている。

Thoughts on High-Priced Textbooks”:

大学の講義で使用される教科書は多くの大学生にとって靴の中に入り込んだ小石のように厄介の種となっている。かなり値が張るのだ。高価な教科書は大学生が抱える金銭面の問題の中でも最大の問題だとまではさすがに言えないが、多くの学生にとっては学業の妨げとなる何とも厄介で迷惑な頭痛の種の一つとなっていることは間違いない。

・・・(中略)・・・

つい最近のことだが、デヴィッド・ケステンバウム(David Kestenbaum)とジェイコブ・ゴールドシュタイン(Jacob Goldstein)のタッグがナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)の番組の一つである「プラネット・マネー」のポッドキャストでこの問題(「大学で使われる教科書はどうしてあんなにも高価なのか?」)に真正面から切り込んでいる。・・・(略)・・・経済学者にとってはゲストとして登場するグレッグ・マンキューへのインタビューが番組のハイライト(一番の聴きどころ)ということになるだろう。マンキューといえばベストセラーとなっている入門経済学の教科書の執筆者でもあるが、番組の中での情報によるとマンキューの教科書はAmazonで286ドル(日本円だと3万円近く)の値が付いているという。この問題については私は中立的な観点から意見できる立場にないとそろそろ断っておくべきだろう。というのは、私も入門経済学の教科書を執筆しているからだ。ちなみに、最新の版である第三版はTextbook Media経由でも購入可能だが、一番安くて25ドル(オンライン版)、一番高くて60ドル(白黒印刷のペーパーバック+オンライン版)という価格設定になっている。

番組の中では大学で使われる教科書が高価な理由についていく通りかの説明が候補として挙げられているが、その中でもよく聞かれる説明は次のようなものだ。出版社は教科書を売り込む対象として学生ではなく教授に狙いを定めており、売り込みのターゲットとなる教授連は教科書の価格がいくらかを細かく気にするわけでは必ずしもない(教科書の価格が大幅に値上がりして今のように高価になる前の時代であれば、教授連のそのような(教科書の価格をそれほど気にしない)態度もそれなりにもっともなところがあったとは言えるだろうが)。教科書のマーケットは限られた数の大手の出版社が取り仕切る競争の少ない市場であり、大手の出版社は教授連の気を引くことを狙ってあれやこれやのオプションを取り揃える。多彩な色を使って印刷されたカラフルなハードカバーの教科書にはDVDや(教科書の内容を補足する情報が提供されているウェブ上のページにアクセスするための)オンラインアクセスキーが付いてくるだけではなく、テストバンクまで用意されている(ウェブ上で学生にクイズを解いてもらって教科書の内容をどれだけ理解しているかを確かめることもできるというわけだ)。多くの大学では経済学入門の講義は大教室を使って行われるのが普通だ。何百人、場合によっては千人単位の学生が受講することもあり、何人ものTA(ティーチング・アシスタント)の手を借りないとやっていけない。そのような実状を踏まえると、成績評価や(講義内容についての質疑応答やクイズの出題などといった)フィードバックの一部をコンピューター(インターネット)に委ねざるを得ないという話にもなる。出版社から教授のもとに「この教科書の草稿をチェックしていただけませんか? もちろん謝礼もお支払いします」との依頼が舞い込むことがあるが、これもまた教授に対する売り込みの一つだ。その教授にも自分の講義でその(草稿のチェックを引き受けた)本をテキストとして使用してもらいたいというのが出版社の魂胆なのだ。

NPRの件の番組では教科書市場を突き動かしている以上のような事情が「プリンシパル=エージェント問題」の枠組みを使って読み解かれている。「エージェント」(代理人)に仕事ないしは課題の遂行を委ねた「プリンシパル」(依頼人)はその「エージェント」がこちら(依頼人)の利益を第一に考えて振る舞ってほしいと願っているが、「プリンシパル」には「エージェント」がその仕事なり課題なりにどれだけ真剣に取り組んでいるかを完全には観察も評価もできない。そのような状況で生じる様々な問題を総称したものが「プリンシパル=エージェント問題」であり、その問題を分析するための道具立てが「エージェンシー理論」と呼ばれているものだ。エージェンシー理論は経営者(「プリンシパル」)と従業員(「エージェント」)との間で起こる問題(従業員に怠けずに精を出して働いてもらうためにはどのような動機づけを与えればいいか)の分析によく持ち出されるが、教科書選びをめぐる教授と学生との駆け引きを分析するためにも援用可能だ。「プリンシパル」である学生は「エージェント」である教授に講義で使う教科書の選択を委ねているが、学生側としては教授に価格や質といった要因をすべて事細かに考慮した上で学生のニーズに一番合った教科書を選んでもらいたいと思っているわけだ。NPRの件の番組の中で紹介されている専門家の話によると、高校で使われる教科書の利幅は5~10%程度に過ぎない一方で、大学で使われる教科書の利幅は20%近くに及ぶという。どうしてそのような違いが生まれるかというと、高校の教科書はそれぞれの学区や州ごとに自治体が事細かな検討を経た上で選んでいるが、大学で使われる教科書はその値段がいくらなのか知りもしないなんてこともありかねない教授連にその選択が一任されることが多いからだ。

NPRの件の番組では「プリンシパル=エージェント問題」の枠組みを使ってこの問題(大学で使われる教科書が高価な理由)を説明できるかどうかがマンキュー(お値段「286ドル」のベストセラー教科書の執筆者)に面と向かって問われているが、「プリンシパル=エージェント問題」は取り立てて大騒ぎするような問題ではなくあちこちの場面で遭遇するありふれた問題だとはマンキューの弁だ。例えば、あなたが手術を受ける場合は「エージェント」である医者にお世話になることになるが、手術の費用を払うのは「プリンシパル」であるあなた自身だ。自家用車が故障した場合は「エージェント」である整備士のお世話になるが、その費用を払うのは(「プリンシパル」である)あなた自身だ。家の傷みを修理したいということになれば「エージェント」である業者のお世話になることになるが、そのための費用を払うのは(「プリンシパル」である)あなた自身だ。このようにいくつか例を挙げた上でマンキューは指摘する。教科書選びを委ねられた(「エージェント」である)教授は(「プリンシパル」である)学生のためを思って「時間」と「お金」との間で賢明なトレードオフを図らねばならず、学生のためを思うなら安価な教科書(例えば「256ドル」の教科書)を選んで「ちょっとしたお金の節約」に貢献するよりも「質の高い」教科書(「286ドル」の教科書)を選ぶ方が大事だ、と1。つまりは、30ドル分のお金を節約するために『「286ドル」の「質の高い」教科書』の代わりに『「256ドル」の「質の低い」教科書』を選ぶというのは賢い判断だとは言えない(「エージェント」である学生の利益に反する)というわけだ。

言うまでもないが、世に出回っている教科書は『「286ドル」の「質の高い」教科書』と『「256ドル」の「質の低い」教科書』の2種類に限られるわけではない。非営利組織である「公益調査研究団体」(PIRG)が大学生を対象に行った調査結果によると、調査に回答した学生のうち3分の2はいい成績がとれないかもしれないとびくつきながらも教科書を買わずにいるか、テキストとして指定されている教科書の値段が安めの講義を履修するようにしているという。アルバイトで週に10時間働いて時給が(税引き後で)8ドルだとすると、「286ドルの教科書」を買うか「60ドルの教科書」(私が執筆している入門経済学の教科書)を買うかでアルバイト28.25時間分――およそ3週間分――の違いがある。講義の進め方も成績の付け方も同じだが、教科書だけは学生ごとに別々の本をランダムに割り振る。そして学生には毎日のスケジュールも記録しておいてもらう。そのような準備を整えた上で高価な教科書にどんな効果があるかを検証した例というのはあるのだろうか? 値段が高い教科書ほど学生の「時間の節約」にもなるし、学業成績を高める効果もある。そのことを示す証拠というのはあるのだろうか? 少なくとも私は知らない。大手の出版社から出されている「高価な教科書」の方が「安価な教科書」(例えば私が執筆している教科書)よりも学生のためになるかというと決して自明ではないのだ。人によってはもっと言葉を強めて語るところだろうが、このくらいにしておこう。

大学で使われる教科書の価格を高めている別の要因としては「古本市場」が絡む悪循環の存在も挙げられるかもしれない。NPRの件の番組が伝えるところによると、3年ごとに新版が出る教科書の場合、2年目の売り上げは1年目(新版が出たばかりの年)の売り上げの半分になり、3年目の売り上げは2年目の売り上げの半分になるのがよく見られるパターンだという。そうなるのは新版が出たばかりの年に教科書を買った学生が講義の全日程が終了するとともに「古本市場」でその本を(次の年にその教科書を使う学生に)売るためだ。ところで、「古本市場」があるおかげで新品の教科書を買う学生たちは実質的にはその教科書を「定価」以下の値段で手に入れていることになる。新品を手に入れるために支払った金額(新品の「定価」)と「古本市場」で売り払って得られた金額(古本の「売値」)の差額分しか支払っていないことになるのだ2。さて、「古本市場」が一体どのようにして(大学で使われる)教科書の価格を高める働きをしているかというとこういうことだ。新品の教科書の価格が高まるほど「古本市場」は活況を呈することになる。新品を買った学生たちが古本として売って少しでもお金を回収しようと試みるからだ。「古本市場」が活況を呈するとそれと並行して新品の売れ行きは年とともに落ち込んでゆくことになり、出版社は売れ行きの悪化を埋め合わせるために新版が出るたびにその値段を引き上げることになる。しかし、新版の値段が上がると「古本市場」はますます勢いづくことになり、・・・と悪循環にはまり込むことになるわけだ。

教科書が抱える今後の課題に話を転じることにしたいが、重要な課題の一つは教科書のデジタル化の行方がどうなるかということになるだろう。「デジタル教科書」の導入が進むにつれて機能性も高まり値段も安くなる可能性もあるにはある。しかしながら、そのような明るい未来の到来は必至かというとそうではない。少なくとも今のところはだが、「デジタル教科書」は文字を読んだりメモを書き込んだりといった機能性の面で「紙の教科書」に追いつけていないというのが私の意見だ。スクリーン技術の開発が今後も進めば「デジタル教科書」が機能性の面で「紙の教科書」を追い抜く日もやがてはやってくるかもしれないが、長時間スクリーンで字を読んだりスクリーン上にメモを書き込んだりといったことに伴う問題はひとまず脇に置いておくにしても、ちょうど今読んでいるページから見直したいページに行きつ戻りつしたりグラフや表を読み飛ばしたりといった面については今のところ「紙の教科書」の方が「デジタル教科書」よりも依然として優れている。つまりは、今のところは勉強するには「デジタル教科書」よりも「紙の教科書」の方が色々と便利な面があるということだ。

教科書の出版社がオンラインの世界に進出するに伴って、顧客にお金を出させるための手練手管も一緒にオンラインの世界に持ち込まれることになるだろう。イーサン・セナック(Ethan Senack)は次のように指摘している。

「デジタル化された教科書のマーケットは拡大を続けており、消費者である学生の選択肢はこれまでになく広がっている。『デジタル教科書』はラップトップやタブレットで読むことができるデジタル化された文書である。『デジタル教科書』にはPDF文書と同様の機能が備わっている。注釈を入れたりラインマーカーを引いたりできるだけではなく、文字検索もできるのだ。金額は『紙の教科書』の40~50%程度とお手頃だが、閲覧期限(例えば180日)が設けられている。『デジタル教科書』の分野に足を踏み入れた出版社はこれまでの『紙の教科書』とほぼ変らないラインナップを取り揃えている。KindleやiPadといった電子書籍リーダーの登場やデジタル教科書のレンタル(貸し出し)サービスの開始も追い風となり、『デジタル教科書』は大学の教科書市場の今後に明るい展望を開いてくれているように思える。明るい兆しが見えるのは確かではあるが、『デジタル教科書』には閲覧期限や一回きりしか使えないアクセスコード、印刷枚数の制限といった妙技が織り込まれている。そのような妙技は消費者にとっては使い勝手を悪くしてコストを高める役割しか果たさない。学生にとっては不幸な話ではあるが、『デジタル教科書』の分野では『紙の教科書』の分野と同じように市場を独り占めするための出版社の巧みな試みが繰り返されることだろう。」

  1. 訳注;同じ時間だけ勉強するにしても「質の高い」教科書で学んだ方が学習効率が高く、それゆえ「質の低い」教科書を使って学ぶよりも時間を有効に使うことができる。そういう意味で、『「質の高い」教科書(「286ドル」の教科書)を使って学ぶか、それとも「質の低い」教科書(「256ドル」の教科書)を使って学ぶか』という問題は、『「時間」を有効に使うか、それとも「お金」を節約するか』という問題であり、「時間」と「お金」との間のトレードオフの問題と読み替えることができる。「質の高い」教科書(「286ドル」の教科書)を使って時間を有効に使う機会を提供する方が「質の低い」教科書(「256ドル」の教科書)を使って学ばせる(30ドル分のお金を節約する機会を提供する)よりも学生のためになる、というのがマンキューの見解ということになる。 []
  2. 訳注;例えば、「286ドル」で購入した新品の教科書が古本として「100ドル」で売れたとすると、その教科書を買うために支払った金額は186ドル(=286ドル-100ドル)ということになる。 []

マーク・ソーマ 「プリンシパル=エージェント問題を解決する術 ~身体交換のケース~」(2008年12月20日)

●Mark Thoma, ““A Solution to the Principal-Agent Problem””(Economist’s View, December 20, 2008)


身体交換(二人が互いに身体を取り替える)に付き纏う「モラルハザード問題」を解決するにはどうしたらいいだろうか? ロバート・シェクリイ(Robert Sheckley)の(SF小説である)『Mindswap』(邦訳『精神交換』)の中で次のような巧みな工夫が紹介されている1

The Bible Meets Science Fiction: A Solution to the Principal-Agent Problem”(Suggested by Lawrence H. Officer, Journal of Political Economy, Back Cover, vol. 110, no. 1):

「次なる手順としましては貴君と火星の紳士殿との間で損害賠償条項を含む双務契約を取り交わしていただくことになります。契約の内容を具体的に説明しますと、貴君が火星の紳士殿から借り受けた身体に(作為か不作為かにかかわらず、あるいは不可抗力であろうとそうでなかろうと)何らかの損傷を与えてしまった場合、①惑星間の慣習に則って確立された相場に照らして適当と思われる額の賠償金の支払いを求められるとともに、②レクス・タリオニス(同害復讐法)の精神に則って貴君の身体にも火星の紳士殿の身体に加えられたのとまったく同様の損傷が加えられることになります。」

「ハァ?」とマーヴィン。

「つまりは『目には目を、歯には歯を』というわけです。」 ブランダース氏の説明は続く。「シンプル極まりない話です。例えば、貴君が火星滞在最終日に足を骨折する怪我をしたとしましょう。(火星の紳士殿から借り受けた)借り物の身体だとはいっても貴君も骨折の痛みを感じるには違いありませんが、それからしばらく続くであろう不都合にも悩まされねばならないかというとそうではありません。何の傷も負っていないご自身の身体に戻ってしまえるわけですからね。しかし、そのような話は公正とは言えません。足の骨折というアクシデント2は貴君が誘発したアクシデントです。そのアクシデントの結果を貴君がご自身で引き受けないでいいわけがあるでしょうか? 貴君が誘発したアクシデントの結果を貴君の代わりに別の誰かが引き受けねばならないなんて話が成り立つでしょうか? 現行の星間法(interstellar law)によりますと、貴君が火星の紳士殿の身体を離れてご自身の身体に戻り次第貴君の足も(可能な限り科学的で痛みのない方法で)折られてしまう決まりになっていますが、それもこれも正義のためなのです。」

「火星で足を折ったのがアクシデント3の場合でもですか?」

「アクシデントの場合こそです。損害賠償条項を含む双務契約が交わされるようになってからというものそのようなアクシデントの数が大幅に減ったことが確認されているのです。」[Robert Sheckley, Mindswap (New York: Dell, 1966), p. 17.]

ウォール街では「他人の身体」ではなく「他人のお金」を借りて商売が行われているわけだが、「他人のお金」の運用を引き受けたマネー・マネージャーが「他人の足」を折るような所業をしでかしても――資金の運用に失敗して損失を出しても――マネージャー当人がその結果を引き受けるようには必ずしもなっていない。それどころかマネー・マネージャーの多くは「他人のお金」を疑わしいやり方で運用することで巨額のボーナスを自らの懐に入れるだけではなく、「他人のお金」に損失が発生した後もなお巨額のボーナスをもらい続けているのだ(この点についてはクルーグマンのコラムを参照あれ)。「他人の足を折ったら自分の足も折られる」というのはいささか残忍なやり方であり、それよりは金銭的な罰則を課す方が受け入れやすい案ではある。ともあれ、マネー・マネージャーが直面しているインセンティブの歪みを正す4ためには(運用を委ねられた「他人のお金」に損失が発生した場合には)マネージャー当人も自らの身の上に「他人(顧客)の痛みを感じる」ようにする必要があることは確かだろう。身体交換のケースから得られる教訓をまとめるとそういうことになるだろう。

  1. 訳注;以下の引用は拙訳。 []
  2. 訳注;ここでの「アクシデント」は「事故」という意味合いが強い。 []
  3. 訳注;ここでの「アクシデント」は「不慮の出来事」という意味合い(自ら狙って足を折ったのではなく思いがけず骨折してしまった)が強い。 []
  4. 訳注;インセンティブの歪みを正す=(エージェントである)マネー・マネージャーが(マネー・マネージャーにお金の運用を委ねたプリンシパルである)顧客を犠牲にしてまでも自らの利益を追い求めるに任せておくのではなく顧客の利益を第一に考えるように仕向ける、という意味。 []