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マーク・ソーマ 「『誘拐犯とは一切交渉しない!』 ~時間整合性問題入門~」(2010年12月8日)

●Mark Thoma, ““Barack Obama’s Time Consistency Problem?””(Economist’s View, December 08, 2010)


オバマ大統領は将来的に政治の世界で「人質事件(誘拐事件)」が起きる可能性を高める結果を招いてしまったのだろうか?

Barack Obama’s Time Consistency Problem?” by Twenty-Cent Paradigms:

大学の講義で「時間整合性」(time consistency)の問題を教える機会がやってくると、説明の導入としてきまって投げかける問いがある。「誰かが誘拐されて人質にとられ、誘拐犯が政府に交渉を持ちかけてきたとする。そのような場合に政府はどう対応するつもりだと公言しているだろうか? 誘拐犯との交渉方法に関する政府の公式の立場はどのようなものだろうか?」という問いがそれだ。その答えは学生の誰もが知っている。「誘拐犯とは一切交渉しない」というのが政府の公式の立場だ。

国の如何を問わず、どの国の政府も「誘拐犯とは一切交渉しない」との立場を打ち出しているが、それはどうしてなのだろうか? その理由はこうだ。政府が交渉のテーブルにつく気がないということになれば、誰かを誘拐して人質にとってやろうと企む輩も出てこないだろう。そうなること(誘拐の抑止)を期待してどの政府も「誘拐犯とは一切交渉しない」との立場を打ち出しているわけだ。しかしながら、誘拐事件が実際に起きてしまったらどうなるだろうか? 政府としては(「誘拐犯とは一切交渉しない」との約束(公式の立場)を反故にして)誘拐犯との交渉に応じる方向に傾くことになるだろう。というのも、政府としては(「誘拐犯とは一切交渉しない」との立場を貫いて誘拐犯との交渉に応じなかった結果として)人質が殺されてしまった場合に(すべては人質を見放した政府に責任がある、と)その責任を負わされたくはないからだ。そのあたりの事情は誘拐を企んでいる輩もよくよく承知しているところであり、その結果として「政府には『誘拐犯とは一切交渉しない』との立場を何が何でも貫く気なんてないだろう」と見透かされてしまうことになる1わけだ。

と、まあこういう具合に誘拐事件の例を使って「時間整合性」の問題を説明するのがお決まりになっているわけだが、来学期からはそれももうできなくなってしまうかもしれない。以下に引用するオバマ大統領が記者会見の席上で語った発言が(来学期以降に私の講義を受講する)学生たちの目に触れてしまえば誘拐事件の例はもう使えなくなるかもしれないのだ。

「富裕層向けの減税」もセットだと言うのであれば「中流層向けの減税」も認めるにやぶさかではないとでもいったような論調があり2、そのような論調を指して『「中流層向けの減税」が人質にとられているようだ』と発言したことがあります。人質に危害が及ばない限りは誘拐犯とは交渉する気はないというのが私なりの姿勢なのですが、そのような姿勢に一体いかばかりの知恵があるというのかと疑問に思われる方もいらっしゃることでしょう。というのも、この場合の「人質」というのは「アメリカ国民」のことであり、正直なところ私としても「人質」に危害が及ぶのを目にしたくはないのです。

誘拐犯と交渉する「裁量」を政府に持たせないようにする。そうすればよりよい結果がもたらされる。「時間整合性」の問題に関するこれまでの学術的な研究からはそのような示唆の一つが導き出されるわけだが、「完璧なコミットメント」を可能にする3ようなテクノロジーは現実のこの世の中には存在しない。そこで考えねばならないのが(約束の)「信憑性」(”credibility”)だ。言い換えるとこういうことだ。「誘拐犯とは一切交渉しない」との約束(発言)が本気だということを未来の誘拐犯(誘拐を企む輩)に信用してもらうためには政府はどういう手段に打って出ればいいか、という問題に頭を捻らねばならないわけだ。

さて、ここで質問だ。オバマ大統領が記者会見の席上で語った発言はどのような意味合いを持っているだろうか? あのように語ることでオバマ大統領は(「誘拐犯」とは交渉する気はない、との)自らの約束(姿勢)の「信憑性」を損なう結果となってしまい、将来的に政治の世界で「人質事件(誘拐事件)」4が起きる可能性を高めてしまう羽目になってしまったのだろうか? それとも単に周知の事実を暴露したに過ぎない5のだろうか? 「年収25万ドルを超える富裕層もブッシュ減税の延長措置の対象に含めろ。嫌だというならブッシュ減税の延長法案には反対するぞ6」。共和党側はそのような「脅し」をかけている(「人質」の殺害予告7を行っている)わけだが、その脅しは「信憑性のある脅し」と言えるのだろうか?8

  1. 訳注;そのため誘拐事件は根絶されないということになる []
  2. 訳注;この当時は2010年末で期限が切れる「ブッシュ減税」を2011年以降も続ける(延長する)かどうかをめぐって民主党と共和党との間で意見が対立しており、民主党側は「低中所得層(年収25万ドル以下の世帯)に限って減税措置を続けるべき」という立場、共和党側は「年収25万ドルを超える富裕層も含めて全世帯をその対象とすべき」という立場だった。 []
  3. 訳注;政府に「裁量」を許さずに何が何でも「約束」を守り通させる []
  4. 訳注;こちら側の言い分を認めないとお前の支持者が痛い目を見ることになるぞ、との共和党側からの脅し []
  5. 訳注;「誘拐犯とは交渉する気はない」との発言(約束)は口先だけのものに過ぎない(簡単に反故にされる)、ということは誰もが気付いている周知の事実(わかりきったこと)であり、オバマ大統領はそのことを明け透けにしたに過ぎない、という意味。 []
  6. 訳注;その結果として法案が否決されたら所得税が(ブッシュ減税が実施されるよりも前の)2000年の水準に戻ることになり、年収25万ドル以下の低中所得層も所得税の負担が高まることになるぞ []
  7. 訳注;「年収25万ドル以下の低中所得層(「人質」)も所得税の負担が高まることになってもいいのか?」との脅し []
  8. 訳注;最終的には共和党側の意向を汲むかたちで決着することになり、年収25万ドルを超える富裕層も含めて全世帯がブッシュ減税の延長措置の対象に含まれることになった。 []

マーク・ソーマ 「至福点との向き合い方」(2005年12月25日)

●Mark Thoma, “Dealing with Bliss Points”(Economist’s View, December 25, 2005)1


親戚一同が集まってクリスマスディナーをいただく機会があると、大叔父の一人が「食事の前にデザートをくれないか。それもたんまりとだ」と主張して譲らないのがお決まりになっている。食事の後にデザートが出るという通常の順番だと食事を全部平らげた後に果たしてあとどのくらいお腹の中にデザートを入れる余裕がありそうか事前には予測が付かない。そのような不確実性を考慮すると、その大叔父の主張は私には「合理的な」意見であるように思われるものだ。何と言ってもデザートはクリスマスディナーの中でも最も高い効用(満足)をもたらしてくれる花形であり、食事をついつい食べ過ぎてしまって(満腹のために)折角のデザートを見送らざるを得なくなるなんて事態はできれば避けたいところだ。しかしながら、他の親戚の面々は大叔父の主張を「合理的な」意見だとは見なしてはいないようだ。さて、その大叔父はと言うと、大量のデザートを無事平らげた後に食事に取り掛かり、文字通りもう限界というところまでお腹を満たした末にソファーに倒れ込む(そしてやがて寝息を立てる)というのがお決まりのパターンになっている。その様子を目にするたびに私の脳裏には(モンティ・パイソン/人生狂騒曲の)あの場面が思い出されるものだ。

ウェイター:お客様。最後のメニューになります。ミント・ウエハースでございます。

クレオソート氏:もう結構。

ウェイター:左様でございますか。こんなに薄いウエハース一枚なんでございますが。

クレオソート氏:いらん・・・。腹いっぱいだ・・・。

ウェイター:左様でございますか・・・。この薄いウエハース一枚だけなんでございますが。

クレオソート氏:見てわからんのか。もう何も入らんのだ。腹十分目なんだよ。

ウェイター:左様ですか。・・・たったこれだけ、たったこれっぽっちでございます。

クレオソート氏:わかった、わかった。 それだけだぞ。

動画はこちらだ(特に食事中の視聴には要注意)。

  1. 訳注;至福点(Bliss point)というのは効用の上限をもたらす消費の組み合わせを指しており、そこからさらに消費の量を増やすと効用は低下することになる。満腹でもう何も食べたくないという状態はその一例。 []

マーク・ソーマ 「トランプ大統領=制度への脅威?」(2016年11月5日)

●Mark Thoma, “More Jobs, a Strong Economy, and a Threat to Institutions”(Economist’s View, November 05, 2016)


アダム・デヴィッドソン(Adam Davidson)がニューヨーカー誌で次のように書いている。

More Jobs, a Strong Economy, and a Threat to Institutions”:

・・・(略)・・・「制度」は経済学者にとって極めて重要な意味合いを持っている。一国が繁栄するのは天然資源に恵まれているためでも国民の教育水準が高いためでも先進的なテクノロジーを手にしているためでもない。その国に優れた制度が備わっているからだ。経済学者はそのような考えに落ち着くに至っている。フォーマルな(成文化された、法的な裏付けのある)制度的な構造はインフォーマルで(成文化されていない)その内容が口にされることも稀な「社会的な合意」によって支えられている、という点は決定的に重要である。必要なのは裁判所だけではない。「裁判所は公平な裁きを下してくれる」。国民の間でそう信じられている必要もあるのだ。・・・(略)・・・

少数のエリートが貧民から富を掠め取る。これまでの歴史を振り返るとそういう例は枚挙に暇がない。支配者たちの宮殿暮らしと権力維持――そのためには兵士を養う必要がある――を目的としてルールが形作られ、そのルールのもとで暮らす農民たちは重税を課せられて生存水準ぎりぎりの生活を余儀なくされる。しかしながら、支配者たちが被治者(あるいはその一部)の要求を飲まざるを得ない状況に追いやられ、その結果として新たなシステムが姿を現すという場合が時としてある。・・・(略)・・・権力者が権力なき者たちの要求のいくらかに応じざるを得ない。そのことを保証するに足るだけの頑強なシステムを備える社会には繁栄と平和がもたらされることになる。・・・(略)・・・カネと権力を手にした者たちの勝手気ままで醜悪な衝動にタガをはめるような制度が備わっていない国家の多くは貧困と混乱からいつまでも抜け出すことができない。・・・(略)・・・

今回の米大統領選挙はいくつかの理由で経済学者に対して警鐘を鳴らす格好となっている。ドナルド・トランプが掲げる経済政策のプランを支持している経済学者は一人もいない――いや、一人いた――が、そのことよりももっと重要な懸案事項がある。仮にトランプが大統領に選ばれたとしたらこれまでアメリカ経済の安定を支えてきた制度そのものを突き崩そうとするのではないか、という懸念がそれだ。裁判所や言論の自由、(国家間で結ばれた)国際条約、「アメリカ流の生活」を支える支柱の数々。トランプは選挙キャンペーンの最中もそういった一連のものにあからさまな侮蔑を加えて憚らない姿勢を貫いている。「トランプも大統領になれば少しは態度を和らげるだろう」なんて考えるべき理由はほとんどないのだ。・・・(略)・・・

・・・(略)・・・「トランプ大統領」が最高裁の権威に刃向かうような事態が起こることも容易に想像できることだ。アンドリュー・ジャクソン大統領もよく心得ていたように、最高裁を中核とする裁判制度を尊重する姿勢がなければ、最高裁が下す判断も何の効力も持ち得ないのだ。トランプが大統領になったら一体何をするだろうか? そのことは誰にもわからない。しかしながら、トランプが選挙キャンペーンの最中に口にした発言の数々に照らす限りでは、裁判所や軍隊、言論・集会の自由に対して国民が大して信頼を寄せていない国家がこの地に生まれる可能性を想像するのも不可能ではない。仮にそのような想像通りになったとしたらどうなるだろうか? 教育や新たなビジネスプラン、新しいアイデアに投資した先にはあんなことやこんないいことが待っているかもしれない。国民がそのような夢を抱くことももうなくなる。それが歴史の教えであり、やがて国民の意識は別のところに向かうことになる。他人の富をいかに奪うか、手元に蓄えた富を他人に奪われないようにいかに守り抜くか。国民はそのことに汲々とするようになるのだ。人間のうちにある勝手気ままで醜悪な衝動にタガをはめるような制度を欠いた社会ではやがて豊かさに陰りが生じ始めることになる。不穏な雰囲気が漂い、暴力が蔓延ることになる。こうして国家は衰退していくのだ。

マーク・ソーマ 「ハロウィンに伴う期待損失 = E[(a)(Tricks)**2 + (1-a)(Leftover Candy)**2]」(2007年11月1日)

●Mark Thoma, “Expected Loss = E[(a)(Tricks)**2 + (1-a)(Leftover Candy)**2]”(Economist’s View, November 01, 2007)


ハロウィンに付き物の非対称的なリスクは実に健康に悪い。一方ではアメの在庫が尽きてしまって居留守を使わないといけなくなる(家中の電気を消してアメをねだりにやってくる子供たちから身を隠さねばならず、居留守がばれてしまえば悪戯されてしまう)可能性(Tricks)があり、もう一方ではアメを大量に用意しすぎて余ってしまう(余ったアメをすべて自分で食べてしまわないといけなくなる)可能性(Leftover Candy)がある。期待損失(コスト)で考えると、一体どちらの可能性がより厄介なリスクだろうか?(期待損失の計算は事前確率を使って計算するものとする。つまりは、(余った)アメの食べ過ぎで体を壊してしまう前の時点で計算するものとする。また、(Leftover Candy)は余ったアメの数そのものではなく最適な量(あなたにとって食すのにちょうどいいアメの数)からの乖離を表すものとする1。余ったアメを翌日職場に持っていけばすぐに捌けるかもしれないが、仮にそうなったとしても同僚からは喜ばれないものとしよう)。私にはその答えは明らかだ。悪戯なんかされたくない。アメが(最適な量よりも多く)余ってしまうことに伴う損失よりも悪戯されてしまうことに伴う損失の方により高いウェイトを置く2。それが私の答えだ。ところがどうやら無意識のうちにかなり大き目のクッションを用意してしまっていたようだ。aの値が1に限りなく近くなってしまっていたようなのだ3

昨夜はハロウィン当日だったわけだが、夜が深まるにつれて明らかになったことがある。アメをあまりにも大量に用意しすぎてしまったのだ。これはまずいと思って何かいい手はないかと頭を捻った。アメのねだり屋がやってくるたびにそれまでよりも多めにアメをくれてやるようにすればいい。ただし、一回の訪問ごとにくれてやるアメの数を増やしすぎると在庫が尽きてしまう恐れがあるのでいくらか抑え気味にしよう。「これが最後のねだり屋だ」ということがわかりさえすればねだり屋たちも上々の取り分を手にすることができてウハウハになれたに違いないがそれはまあしょうがない。そう考えたところでふと気になることが頭をよぎった。夜が更ける(時間帯が遅くなる)につれてくれてやるアメの数を増やすようにすると来年以降に厄介な問題が生じることになるのではないか。夜が更けるにつれてもらえるアメの数が増えるとわかっていると、来年以降にねだり屋たちが少しでも取り分を増やそうと競い合って我が家にやってくる時間を遅らせるのではないか。最後のねだり屋が我が家を去る時間が年とともに遅くなってしまうのではないか。そういう懸念が頭をよぎったのだ。夜が更けるにつれてくれてやるアメの数を増やすというのはどうやらいい案とは言えないようだ。

そんなことは百も承知。そのおかげで今ではスニッカーズ(チョコレートキャンディ)のファンサイズ(小型サイズ)の限界的な(もう一個の)価値はゼロ以下だ(もうしばらく時間が経てばその価値も元通りになるだろうが)4。M&M’s(エムアンドエムズ)のピーナッツチョコレートなら一袋であればどうにかお腹に収まるかもしれないが。

  1. 訳注;例えば、あなたにとって食すのにちょうどいいアメの数が10個でありハロウィン翌日にアメが全部で30個余ったとすると、(Leftover Candy)は20個(=30-10)ということになる。 []
  2. 訳注;a >(1-a) []
  3. 訳注;アメの在庫が尽きる(そのため子供たちにアメをあげられずに仕返しとして悪戯される)ことに伴う損失をどうしても避けたいと思って事前にアメを大量に用意しておいた、という意味。 []
  4. 訳注;上にあるように翌年以降のことが頭をよぎってアメを出し惜しみしてしまい、アメが大量に余ってしまったのだろう。そして余ったアメを食べているうちに満腹になってしまい、「スニッカーズなんて見たくもない」という境地に達してしまったのだろう。 []

マーク・ソーマ 「大学で使われる教科書は何であんなにも高価なのか? ~その背後に潜むプリンシパル=エージェント問題~」(2014年10月16日)

●Mark Thoma, “‘Thoughts on High-Priced Textbooks’”(Economist’s View, October 16, 2014)


大学の講義で使われる教科書はどうしてあんなにも高価なのだろうか? ティモシー・テイラー(Timothy Taylor)がこの疑問に対する答えを探っている。

Thoughts on High-Priced Textbooks”:

大学の講義で使用される教科書は多くの大学生にとって靴の中に入り込んだ小石のように厄介の種となっている。かなり値が張るのだ。高価な教科書は大学生が抱える金銭面の問題の中でも最大の問題だとまではさすがに言えないが、多くの学生にとっては学業の妨げとなる何とも厄介で迷惑な頭痛の種の一つとなっていることは間違いない。

・・・(中略)・・・

つい最近のことだが、デヴィッド・ケステンバウム(David Kestenbaum)とジェイコブ・ゴールドシュタイン(Jacob Goldstein)のタッグがナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)の番組の一つである「プラネット・マネー」のポッドキャストでこの問題(「大学で使われる教科書はどうしてあんなにも高価なのか?」)に真正面から切り込んでいる。・・・(略)・・・経済学者にとってはゲストとして登場するグレッグ・マンキューへのインタビューが番組のハイライト(一番の聴きどころ)ということになるだろう。マンキューといえばベストセラーとなっている入門経済学の教科書の執筆者でもあるが、番組の中での情報によるとマンキューの教科書はAmazonで286ドル(日本円だと3万円近く)の値が付いているという。この問題については私は中立的な観点から意見できる立場にないとそろそろ断っておくべきだろう。というのは、私も入門経済学の教科書を執筆しているからだ。ちなみに、最新の版である第三版はTextbook Media経由でも購入可能だが、一番安くて25ドル(オンライン版)、一番高くて60ドル(白黒印刷のペーパーバック+オンライン版)という価格設定になっている。

番組の中では大学で使われる教科書が高価な理由についていく通りかの説明が候補として挙げられているが、その中でもよく聞かれる説明は次のようなものだ。出版社は教科書を売り込む対象として学生ではなく教授に狙いを定めており、売り込みのターゲットとなる教授連は教科書の価格がいくらかを細かく気にするわけでは必ずしもない(教科書の価格が大幅に値上がりして今のように高価になる前の時代であれば、教授連のそのような(教科書の価格をそれほど気にしない)態度もそれなりにもっともなところがあったとは言えるだろうが)。教科書のマーケットは限られた数の大手の出版社が取り仕切る競争の少ない市場であり、大手の出版社は教授連の気を引くことを狙ってあれやこれやのオプションを取り揃える。多彩な色を使って印刷されたカラフルなハードカバーの教科書にはDVDや(教科書の内容を補足する情報が提供されているウェブ上のページにアクセスするための)オンラインアクセスキーが付いてくるだけではなく、テストバンクまで用意されている(ウェブ上で学生にクイズを解いてもらって教科書の内容をどれだけ理解しているかを確かめることもできるというわけだ)。多くの大学では経済学入門の講義は大教室を使って行われるのが普通だ。何百人、場合によっては千人単位の学生が受講することもあり、何人ものTA(ティーチング・アシスタント)の手を借りないとやっていけない。そのような実状を踏まえると、成績評価や(講義内容についての質疑応答やクイズの出題などといった)フィードバックの一部をコンピューター(インターネット)に委ねざるを得ないという話にもなる。出版社から教授のもとに「この教科書の草稿をチェックしていただけませんか? もちろん謝礼もお支払いします」との依頼が舞い込むことがあるが、これもまた教授に対する売り込みの一つだ。その教授にも自分の講義でその(草稿のチェックを引き受けた)本をテキストとして使用してもらいたいというのが出版社の魂胆なのだ。

NPRの件の番組では教科書市場を突き動かしている以上のような事情が「プリンシパル=エージェント問題」の枠組みを使って読み解かれている。「エージェント」(代理人)に仕事ないしは課題の遂行を委ねた「プリンシパル」(依頼人)はその「エージェント」がこちら(依頼人)の利益を第一に考えて振る舞ってほしいと願っているが、「プリンシパル」には「エージェント」がその仕事なり課題なりにどれだけ真剣に取り組んでいるかを完全には観察も評価もできない。そのような状況で生じる様々な問題を総称したものが「プリンシパル=エージェント問題」であり、その問題を分析するための道具立てが「エージェンシー理論」と呼ばれているものだ。エージェンシー理論は経営者(「プリンシパル」)と従業員(「エージェント」)との間で起こる問題(従業員に怠けずに精を出して働いてもらうためにはどのような動機づけを与えればいいか)の分析によく持ち出されるが、教科書選びをめぐる教授と学生との駆け引きを分析するためにも援用可能だ。「プリンシパル」である学生は「エージェント」である教授に講義で使う教科書の選択を委ねているが、学生側としては教授に価格や質といった要因をすべて事細かに考慮した上で学生のニーズに一番合った教科書を選んでもらいたいと思っているわけだ。NPRの件の番組の中で紹介されている専門家の話によると、高校で使われる教科書の利幅は5~10%程度に過ぎない一方で、大学で使われる教科書の利幅は20%近くに及ぶという。どうしてそのような違いが生まれるかというと、高校の教科書はそれぞれの学区や州ごとに自治体が事細かな検討を経た上で選んでいるが、大学で使われる教科書はその値段がいくらなのか知りもしないなんてこともありかねない教授連にその選択が一任されることが多いからだ。

NPRの件の番組では「プリンシパル=エージェント問題」の枠組みを使ってこの問題(大学で使われる教科書が高価な理由)を説明できるかどうかがマンキュー(お値段「286ドル」のベストセラー教科書の執筆者)に面と向かって問われているが、「プリンシパル=エージェント問題」は取り立てて大騒ぎするような問題ではなくあちこちの場面で遭遇するありふれた問題だとはマンキューの弁だ。例えば、あなたが手術を受ける場合は「エージェント」である医者にお世話になることになるが、手術の費用を払うのは「プリンシパル」であるあなた自身だ。自家用車が故障した場合は「エージェント」である整備士のお世話になるが、その費用を払うのは(「プリンシパル」である)あなた自身だ。家の傷みを修理したいということになれば「エージェント」である業者のお世話になることになるが、そのための費用を払うのは(「プリンシパル」である)あなた自身だ。このようにいくつか例を挙げた上でマンキューは指摘する。教科書選びを委ねられた(「エージェント」である)教授は(「プリンシパル」である)学生のためを思って「時間」と「お金」との間で賢明なトレードオフを図らねばならず、学生のためを思うなら安価な教科書(例えば「256ドル」の教科書)を選んで「ちょっとしたお金の節約」に貢献するよりも「質の高い」教科書(「286ドル」の教科書)を選ぶ方が大事だ、と1。つまりは、30ドル分のお金を節約するために『「286ドル」の「質の高い」教科書』の代わりに『「256ドル」の「質の低い」教科書』を選ぶというのは賢い判断だとは言えない(「エージェント」である学生の利益に反する)というわけだ。

言うまでもないが、世に出回っている教科書は『「286ドル」の「質の高い」教科書』と『「256ドル」の「質の低い」教科書』の2種類に限られるわけではない。非営利組織である「公益調査研究団体」(PIRG)が大学生を対象に行った調査結果によると、調査に回答した学生のうち3分の2はいい成績がとれないかもしれないとびくつきながらも教科書を買わずにいるか、テキストとして指定されている教科書の値段が安めの講義を履修するようにしているという。アルバイトで週に10時間働いて時給が(税引き後で)8ドルだとすると、「286ドルの教科書」を買うか「60ドルの教科書」(私が執筆している入門経済学の教科書)を買うかでアルバイト28.25時間分――およそ3週間分――の違いがある。講義の進め方も成績の付け方も同じだが、教科書だけは学生ごとに別々の本をランダムに割り振る。そして学生には毎日のスケジュールも記録しておいてもらう。そのような準備を整えた上で高価な教科書にどんな効果があるかを検証した例というのはあるのだろうか? 値段が高い教科書ほど学生の「時間の節約」にもなるし、学業成績を高める効果もある。そのことを示す証拠というのはあるのだろうか? 少なくとも私は知らない。大手の出版社から出されている「高価な教科書」の方が「安価な教科書」(例えば私が執筆している教科書)よりも学生のためになるかというと決して自明ではないのだ。人によってはもっと言葉を強めて語るところだろうが、このくらいにしておこう。

大学で使われる教科書の価格を高めている別の要因としては「古本市場」が絡む悪循環の存在も挙げられるかもしれない。NPRの件の番組が伝えるところによると、3年ごとに新版が出る教科書の場合、2年目の売り上げは1年目(新版が出たばかりの年)の売り上げの半分になり、3年目の売り上げは2年目の売り上げの半分になるのがよく見られるパターンだという。そうなるのは新版が出たばかりの年に教科書を買った学生が講義の全日程が終了するとともに「古本市場」でその本を(次の年にその教科書を使う学生に)売るためだ。ところで、「古本市場」があるおかげで新品の教科書を買う学生たちは実質的にはその教科書を「定価」以下の値段で手に入れていることになる。新品を手に入れるために支払った金額(新品の「定価」)と「古本市場」で売り払って得られた金額(古本の「売値」)の差額分しか支払っていないことになるのだ2。さて、「古本市場」が一体どのようにして(大学で使われる)教科書の価格を高める働きをしているかというとこういうことだ。新品の教科書の価格が高まるほど「古本市場」は活況を呈することになる。新品を買った学生たちが古本として売って少しでもお金を回収しようと試みるからだ。「古本市場」が活況を呈するとそれと並行して新品の売れ行きは年とともに落ち込んでゆくことになり、出版社は売れ行きの悪化を埋め合わせるために新版が出るたびにその値段を引き上げることになる。しかし、新版の値段が上がると「古本市場」はますます勢いづくことになり、・・・と悪循環にはまり込むことになるわけだ。

教科書が抱える今後の課題に話を転じることにしたいが、重要な課題の一つは教科書のデジタル化の行方がどうなるかということになるだろう。「デジタル教科書」の導入が進むにつれて機能性も高まり値段も安くなる可能性もあるにはある。しかしながら、そのような明るい未来の到来は必至かというとそうではない。少なくとも今のところはだが、「デジタル教科書」は文字を読んだりメモを書き込んだりといった機能性の面で「紙の教科書」に追いつけていないというのが私の意見だ。スクリーン技術の開発が今後も進めば「デジタル教科書」が機能性の面で「紙の教科書」を追い抜く日もやがてはやってくるかもしれないが、長時間スクリーンで字を読んだりスクリーン上にメモを書き込んだりといったことに伴う問題はひとまず脇に置いておくにしても、ちょうど今読んでいるページから見直したいページに行きつ戻りつしたりグラフや表を読み飛ばしたりといった面については今のところ「紙の教科書」の方が「デジタル教科書」よりも依然として優れている。つまりは、今のところは勉強するには「デジタル教科書」よりも「紙の教科書」の方が色々と便利な面があるということだ。

教科書の出版社がオンラインの世界に進出するに伴って、顧客にお金を出させるための手練手管も一緒にオンラインの世界に持ち込まれることになるだろう。イーサン・セナック(Ethan Senack)は次のように指摘している。

「デジタル化された教科書のマーケットは拡大を続けており、消費者である学生の選択肢はこれまでになく広がっている。『デジタル教科書』はラップトップやタブレットで読むことができるデジタル化された文書である。『デジタル教科書』にはPDF文書と同様の機能が備わっている。注釈を入れたりラインマーカーを引いたりできるだけではなく、文字検索もできるのだ。金額は『紙の教科書』の40~50%程度とお手頃だが、閲覧期限(例えば180日)が設けられている。『デジタル教科書』の分野に足を踏み入れた出版社はこれまでの『紙の教科書』とほぼ変らないラインナップを取り揃えている。KindleやiPadといった電子書籍リーダーの登場やデジタル教科書のレンタル(貸し出し)サービスの開始も追い風となり、『デジタル教科書』は大学の教科書市場の今後に明るい展望を開いてくれているように思える。明るい兆しが見えるのは確かではあるが、『デジタル教科書』には閲覧期限や一回きりしか使えないアクセスコード、印刷枚数の制限といった妙技が織り込まれている。そのような妙技は消費者にとっては使い勝手を悪くしてコストを高める役割しか果たさない。学生にとっては不幸な話ではあるが、『デジタル教科書』の分野では『紙の教科書』の分野と同じように市場を独り占めするための出版社の巧みな試みが繰り返されることだろう。」

  1. 訳注;同じ時間だけ勉強するにしても「質の高い」教科書で学んだ方が学習効率が高く、それゆえ「質の低い」教科書を使って学ぶよりも時間を有効に使うことができる。そういう意味で、『「質の高い」教科書(「286ドル」の教科書)を使って学ぶか、それとも「質の低い」教科書(「256ドル」の教科書)を使って学ぶか』という問題は、『「時間」を有効に使うか、それとも「お金」を節約するか』という問題であり、「時間」と「お金」との間のトレードオフの問題と読み替えることができる。「質の高い」教科書(「286ドル」の教科書)を使って時間を有効に使う機会を提供する方が「質の低い」教科書(「256ドル」の教科書)を使って学ばせる(30ドル分のお金を節約する機会を提供する)よりも学生のためになる、というのがマンキューの見解ということになる。 []
  2. 訳注;例えば、「286ドル」で購入した新品の教科書が古本として「100ドル」で売れたとすると、その教科書を買うために支払った金額は186ドル(=286ドル-100ドル)ということになる。 []

マーク・ソーマ 「プリンシパル=エージェント問題を解決する術 ~身体交換のケース~」(2008年12月20日)

●Mark Thoma, ““A Solution to the Principal-Agent Problem””(Economist’s View, December 20, 2008)


身体交換(二人が互いに身体を取り替える)に付き纏う「モラルハザード問題」を解決するにはどうしたらいいだろうか? ロバート・シェクリイ(Robert Sheckley)の(SF小説である)『Mindswap』(邦訳『精神交換』)の中で次のような巧みな工夫が紹介されている1

The Bible Meets Science Fiction: A Solution to the Principal-Agent Problem”(Suggested by Lawrence H. Officer, Journal of Political Economy, Back Cover, vol. 110, no. 1):

「次なる手順としましては貴君と火星の紳士殿との間で損害賠償条項を含む双務契約を取り交わしていただくことになります。契約の内容を具体的に説明しますと、貴君が火星の紳士殿から借り受けた身体に(作為か不作為かにかかわらず、あるいは不可抗力であろうとそうでなかろうと)何らかの損傷を与えてしまった場合、①惑星間の慣習に則って確立された相場に照らして適当と思われる額の賠償金の支払いを求められるとともに、②レクス・タリオニス(同害復讐法)の精神に則って貴君の身体にも火星の紳士殿の身体に加えられたのとまったく同様の損傷が加えられることになります。」

「ハァ?」とマーヴィン。

「つまりは『目には目を、歯には歯を』というわけです。」 ブランダース氏の説明は続く。「シンプル極まりない話です。例えば、貴君が火星滞在最終日に足を骨折する怪我をしたとしましょう。(火星の紳士殿から借り受けた)借り物の身体だとはいっても貴君も骨折の痛みを感じるには違いありませんが、それからしばらく続くであろう不都合にも悩まされねばならないかというとそうではありません。何の傷も負っていないご自身の身体に戻ってしまえるわけですからね。しかし、そのような話は公正とは言えません。足の骨折というアクシデント2は貴君が誘発したアクシデントです。そのアクシデントの結果を貴君がご自身で引き受けないでいいわけがあるでしょうか? 貴君が誘発したアクシデントの結果を貴君の代わりに別の誰かが引き受けねばならないなんて話が成り立つでしょうか? 現行の星間法(interstellar law)によりますと、貴君が火星の紳士殿の身体を離れてご自身の身体に戻り次第貴君の足も(可能な限り科学的で痛みのない方法で)折られてしまう決まりになっていますが、それもこれも正義のためなのです。」

「火星で足を折ったのがアクシデント3の場合でもですか?」

「アクシデントの場合こそです。損害賠償条項を含む双務契約が交わされるようになってからというものそのようなアクシデントの数が大幅に減ったことが確認されているのです。」[Robert Sheckley, Mindswap (New York: Dell, 1966), p. 17.]

ウォール街では「他人の身体」ではなく「他人のお金」を借りて商売が行われているわけだが、「他人のお金」の運用を引き受けたマネー・マネージャーが「他人の足」を折るような所業をしでかしても――資金の運用に失敗して損失を出しても――マネージャー当人がその結果を引き受けるようには必ずしもなっていない。それどころかマネー・マネージャーの多くは「他人のお金」を疑わしいやり方で運用することで巨額のボーナスを自らの懐に入れるだけではなく、「他人のお金」に損失が発生した後もなお巨額のボーナスをもらい続けているのだ(この点についてはクルーグマンのコラムを参照あれ)。「他人の足を折ったら自分の足も折られる」というのはいささか残忍なやり方であり、それよりは金銭的な罰則を課す方が受け入れやすい案ではある。ともあれ、マネー・マネージャーが直面しているインセンティブの歪みを正す4ためには(運用を委ねられた「他人のお金」に損失が発生した場合には)マネージャー当人も自らの身の上に「他人(顧客)の痛みを感じる」ようにする必要があることは確かだろう。身体交換のケースから得られる教訓をまとめるとそういうことになるだろう。

  1. 訳注;以下の引用は拙訳。 []
  2. 訳注;ここでの「アクシデント」は「事故」という意味合いが強い。 []
  3. 訳注;ここでの「アクシデント」は「不慮の出来事」という意味合い(自ら狙って足を折ったのではなく思いがけず骨折してしまった)が強い。 []
  4. 訳注;インセンティブの歪みを正す=(エージェントである)マネー・マネージャーが(マネー・マネージャーにお金の運用を委ねたプリンシパルである)顧客を犠牲にしてまでも自らの利益を追い求めるに任せておくのではなく顧客の利益を第一に考えるように仕向ける、という意味。 []

マーク・ソーマ 「経済学界隈の推薦図書(変わり種多め)」(2005年3月30日)

●Mark Thoma, “Interesting Books on Economics”(Economist’s View, March 30, 2005)


つい昨日のエントリーで大学の同僚であるビル・ハーバウ(Bill Harbaugh)の研究成果を紹介したばかりだが、そのついでに彼が自分のホームページで(経済学部の学部生に向けて)お薦めしている経済学関係の「面白い本」のリスト1を以下に転載させてもらうことにしよう。

とっかかりとして格好の一冊

  • アダム・スミスの『国富論』: おそらくこの本の名前はこれまでに耳にしたことがあることだろう。オンライン版はこちら

経済学的な考え方(経済学者流の考え方)を知るのに格好のキャッチーなタイトルの本

  • The Undercover Economist』(邦訳『まっとうな経済学』) by ティム・ハーフォード(Tim Harford): 出版社の宣伝文句によると、「『The Way Things Work』(邦訳『新版 道具と機械の本―てこからコンピューターまで』)の経済学版」ということだ。悲しいかな、私自身はまだそんな芸当ができるようなレベルにまで達していない。
  • Freakonomics』(邦訳『ヤバい経済学』) by スティーヴン・レヴィット&スティーヴン・ダブナー(Steve Levitt and Stephen Dubner): 目新しい問題に経済学的な考え方で挑んだ本。
  • Naked Economics』(邦訳『経済学をまる裸にする』) by チャールズ・ウィーラン(Charles Wheelan): 経済学者は経済問題についてどういった独自の考え方をするのだろうか? この本はそのことを知るための格好の入門書だ。大変読みやすい文章で書かれており、楽しみながら目から鱗がポロポロと落ちながら経済学者流の考え方に触れることができる。経済学的な考え方を応用して政府の行動を説明している章なんかはすごくいい。

個別の特殊な問題に経済学的な考え方を応用した本

  • Global Crises, Global Solutions』 by ビョルン・ロンボルグ(Bjorn Lomborg): この本ではコスト・ベネフィット分析(費用便益分析)の力を借りて地球規模の様々な課題のうちで一体どの課題から真っ先に取り組むべきか(解決すべき課題の優先順位)が検討されている。真っ先に取り組むべき課題は(破壊されたり汚染された)自然環境の修復だろうか? それとも医療サービスの質の向上だろうか?
  • The Skeptical Environmentalist』(邦訳『環境危機をあおってはいけない』) by ビョルン・ロンボルグ: 「地球環境の質は着実に改善している。大半の指標はそのことを指し示している」。そう主張する本書が2001年に出版されるやメディアから高い注目を集めることになった。「そんな話は嘘だ。信じたくない」。そう考える御仁にも本書はお薦めだ。青筋を立てながら読み進めていけば少なくとも持論を鍛える助けにはなるだろう。
  • In Praise of Commercial Culture』 by タイラー・コーエン(Tyler Cowen): フランス政府は多額の補助金を使って国内の芸術活動を支援しているが、アメリカ政府は国内の芸術家に自分の力だけで生き抜くように求めている。しかしながら、世界のアートシーンの中心地はニューヨークであり、パリはアートシーンの中心から遠く外れた僻地へと追いやられている。どうしてそうなっているのだろうか? その答えが知りたければこの本を読むことだ。
  • Choosing the Right Pond』 by ロバート・フランク(Robert Frank): 手元にどれだけの数のモノを所有しているかではなく、手元に所有しているモノの数が他人と比べて多いかどうか。ヒトは周囲(他者)との比較を通じて我が身の幸・不幸を判断しがちな存在なのかもしれない。本書は人間本性(human nature)をめぐる疑問の数々(とりわけ、ステータス争いをめぐる疑問の数々)に経済学の観点からアプローチした優れた一冊だ。本書では経済理論を現実の世界に適用した際に持ち上がってくる「パズル」の数々の解決が試みられている。
  • The Red Queen』(邦訳『赤の女王』) by マット・リドレー(Matt Ridley): 性の進化の歴史を辿りつつ、性の進化が人間の本性に及ぼした影響が詳しく探られている。一夫一婦制や性的・人種的な偏見、思春期、フェミニズム、美といったあれやこれやの物事に備わる重要性とその目的(ゴール)が生物学や心理学の研究成果を踏まえた上で、自然界や人間社会から数多くの実例を引きつつ解き明かされている。経済学を学ぶ学部生だけではなく一般の人々にも言えることだが、本書を進化心理学の優れた入門書のつもりで読むという読み方もできるだろう。
  • The Moral Animal』(邦訳『モラル・アニマル』) by ロバート・ライト(Robert Wright): 人類の進化が日常生活――結婚や育児といった日常を彩る様々な現象――に及ぼしている影響を扱った本。著者のロバート・ライトはジャーナリスト(Economist誌の元編集者)だが、関連分野の最新の研究動向とこれまでに得られた研究成果を調べ上げ、その調査結果を見事に一冊の本にまとめあげることに成功している。
  • Passions within reason: the strategic role of the emotions』(邦訳『オデッセウスの鎖-適応プログラムとしての感情 』) by ロバート・フランク: 怒りに震えたり恋に落ちること(「怒り」や「愛」といった「感情」に突き動かされること)は状況次第で合理的な帰結をもたらす2場合がある。一体全体どうしたわけでそうなるのだろうか? 「感情」にも合理的な側面があるのだとしたら、経済学の道具立てを使って「感情」の分析に挑んでみるという試みがあっても当然だ。そうじゃないだろうか?
  • アダム・スミスの『道徳感情論』: アダム・スミスの本をもう一冊。『国富論』とは大違いの内容だ。オンライン版はこちら
  • Stone Age Economics』(邦訳『石器時代の経済学』) by マーシャル・サーリンズ(Marshall Sahlins): かなり昔に読んだきりになっているが、経済学の道具立てを使って未開社会に生きる人々の行動の分析を試みた(その試みがうまくいっているかどうかはさておいて)「その心意気や良し」な一冊という記憶がある。本書の出版後にこの線に沿った研究が他にも現れているかもしれないが、そのような最近の試みを知っているようならご一報いただけたら幸いだ。
  • The Rise and Decline of Nations』(邦訳『国家興亡論』) by マンカー・オルソン(Mancur Olson): 利益集団が政治的な意思決定に及ぼす影響が経済理論の道具立てを使って解明されており、その議論を踏まえた上でローマ帝国からアメリカ合衆国(この本が書かれたのはジミー・カーターが大統領の座にあった頃だ)にまで及ぶ歴史上の数々の文明の衰退の原因が好奇心をそそられる筆致で探られている。
  • Peddling Prosperity』(邦訳『経済政策を売り歩く人々』) by ポール・クルーグマン(Paul Krugman): 経済理論と現実世界の問題との間の相互作用を例証する実例の数々が盛り込まれた一冊。
  • Manias, Panics and Crashes : A History of Financial Crises』(邦訳『熱狂、恐慌、崩壊-金融危機の歴史』) by チャールズ・キンドルバーガー(Charles P. Kindleberger): 金融危機に関する内容テンコ盛りで胸躍る歴史読み物。18世紀初頭の南海泡沫事件にはじまって1930年代の世界大恐慌、そして1970年代初頭のミニ危機までがカバーされている。
  • Against the Tide: An Intellectual History of Free Trade』(邦訳『自由貿易理論史-潮流に抗して』) by ダグラス・アーウィン(Douglas Irwin): 自由貿易の是非を巡る論争の歴史を辿った本。アリストテレスからアダム・スミスを経てクルーグマンまで。
  • The Pecking Order』 by ダルトン・コンリー(Dalton Conley): あなたは家族の中でどのように位置付けられているだろうか? 厄介者(black sheep)扱い? それとも可愛い我が子(The favorite child)として遇されているだろうか? 本書はあなた自身を含む兄弟姉妹(家庭内の序列関係)がテーマの本だ。

ゲーム理論および実験経済学に関する進んだトピックを扱った本

  • Game Theory Evolving』 by ハーバート・ギンタス(Herbert Gintis): 「ゲーム理論とは何か?」が知れるゲーム理論の優れた入門書。進化論的な捻りも加えられていてその分だけさらに興味深く読むことができる。最初は簡単なゲームの話から。読み進めていく上では経済学についていくらか予備知識が必要だが、ゲーム理論についての予備知識は必要ない。
  • Thinking Strategically』(邦訳『戦略的思考とは何か-エール大学式「ゲーム理論」の発想法』) by アビナッシュ・ディキシット&バリー・ネイルバフ(Dixit and Nalebuff): 「ゲーム理論とは何か?」が知れるだけではなく、ビジネスや日常生活をうまく生き抜いていくための術についてゲーム理論からどんな手掛かりが得られるかも学べる。
  • The Handbook of Experimental Economics』 by ジョン・カーゲル&アルヴィン・ロス(John H. Kagel and Alvin E. Roth)編集: 実験経済学の入門書としてスタンダードな一冊。読み進めていく上では経済学について少々の予備知識が必要。
  • Experimental Economics』 by ダグラス・デービス&チャールズ・ホルト(Douglas D. Davis and Charles A. Holt): 同じく実験経済学の本だが、上の本に比べると市場における行動により多くの関心が払われている。関係する経済理論についても逐一説明が加えられている。
  • Economic Choice Theory : An Experimental Analysis of Animal Behavior』 by ジョン・カーゲル&レイモンド・バタリオ&レオナルド・グリーン(John H. Kagel, Raymond C. Battalio and Leonard Green): 動物の行動を記述する上で経済学のアイデアがいかに役立つかを検証した魅力的な一冊。
  1. 訳注;推薦図書のリストはソーマがこのブログエントリーで取り上げて以降にいくらか修正が加えられているようだ。以下では修正後のバージョンを訳してある。 []
  2. 訳注;合理的な帰結をもたらす=その人の利益に適う(自己利益を促進する)、という意味 []

マーク・ソーマ 「『インターネットと生産性スランプ』」 (2016年4月3日)

Mark Thoma, “‘The Internet and the Productivity Slump’” (Economist’s View, Sunday, April 03, 2016)


Gavyn Daviesの記事から:

インターネットと生産性スランプ: 平均的アメリカ人の年間可処分所得は42,300ドルとなっているが、彼らにまる1年のあいだ携帯電話とインターネットへのアクセスを諦めてもらうとしたら一体幾ら必要になってくるだろうか? …この問いは実はもっと親しみの有る論題と関わっている。生産性の成長が主要経済国全体に渡ってこれほどまでに減速しているのは何故なのだろうかという問いがそれだ…

Chad Syversonの計算によると、同生産性ギャップ全体を説明しようと思えば、一般市民にとって未だ計測されていないデジタル経済の価値が一年あたり8400ドル分も在るとしなければならないという。この額は一人あたりの年間実質可処分所得の5分の1にあたるのだが、つづいて彼は取り合えずは妥当であると思われる諸理由から、デジタル経済へのアクセスに自分の可処分所得の5分の1もの価値を認めている人は殆どいないだろう旨を示唆している。

確かにそうかもしれないが、では適切な額は幾らになるのだろうか?…いざ選択の場面を向かえたとき、最早時代遅れとなった十年前のテクノロジーに舞い戻ってその見返りに年あたりにして多くてまあ数千ドルを貰うことにしますかと問われても、人々にその覚悟ができているのか、私には甚だ疑問である…

この推測が妥当であるなら (そしてこれは推測の域を出るものでは無いのであるが)、要するに計測誤差仮説は何事か言うべきものをもっているという事なのだろう。とはいえ実証データの示唆するところでは、これが生産性瓦解の主因という訳ではないようである。

 

マーク・ソーマ 「『Brexitの真の教訓』」 (2016年6月29日)

Mark Thoma “”The Real Lesson From Brexit“” (Economist’s View, Wednesday, June 29, 2016)


ProMarketのルイジ・ジンガレスの記事から:

Brexitの真の教訓: …英国で…そしてトランプのいる合衆国で観察されているのは、ますます深まる投票権者の専門家に対する不信である。Brexitをめぐる議論ではヨーロッパ連合からの離脱を肯定する経済学者をたった1人見つけるのさえ困難だった。事実、多くの経済学者は相当悲観的な予測を出すことを敢えて厭わず、その為に大げさな誇張で不安を煽り立てていると非難されるほどだった。だがこれら予測は残留派の票を集めることができなかっただけでなく、おそらく離脱派の勝利の一因ともなったのである。

フィナンシャル・タイムズ紙ではクリス・ジャイルズがこの現象を投票権者の非合理性の一例だと嘆いていた。だが私は、この現象は非合理性とは全く無関係であって、不信と大いに関係したものなのではないかと恐れる。誇張が有るとはいえ、この不信には相当の合理的根拠がある: それは平たく言って、知的エリートと国民の断絶である – 世論調査官や選良達またジャーナリストをして勢い付くBrexitの高波を見過ごさせることになった、まさにその断絶である。…

今日では富の局在化のおかげで富裕な個人が幾人か集まれば他からの援助無しにシンクタンクへの資金援助ができるようになっており、シンクタンクは公共政策熟慮の中心地というよりむしろ既存権益の声高な支援組織の性格をますます強めている。選挙運動資金調達や新たな時代のロビー活動業のために、選挙で選ばれた公務就任者は国民の代表から 『産業権益に仕える使用人』 へといよいよ変貌してゆく、と有名な告発的表現を借りればこうなる。

その影響は誰の目にも明らかだ。医者はランチのスポンサーである企業の医薬品を売り込むものだと、みな考えている…; 科学者はラボの資金援助をしてくれる企業が生み出だす汚染物質の影響を可能な限り低く見積もると; 経済学者はたんまりコンサルティング料を払ってくれる銀行の権益を擁護すると。ジャーナリストであっても、広告主とオーナーの権益増進に励んでいるのだろう思われていない、そんな時も在るかと思えば、それは上記職業人の問題行為を見て見ぬふりしていることで非難を受けている最中というありさまなのだ。…

専門家の見解を歪めるような金銭的インセンティブが全く無いときでさえ、専門家や経済・政治エリートの間には文化的親近性というものが存在する。レガシー入学 [legacy admissions] と、学生の出身ハイスクールの質に基づく (したがってまた国勢調査に基づく) 選別の組み合わせによって、トップ大学のアカデミック層はますます同質化を進め、この国の大多数から遊離したままだ。科学者やジャーナリストそして知的エリートはみな同じ世界に所属している、だから彼らが世界を見る視点も同じものとならざるを得ない。

こういった要素全てが相合わさって専門家に対する不信につながる。こういった要素は、専門家に頼らないことを誇りとし、まさにその為に支援を集めるような大統領候補につながる。こういった要素は、例えばBrexitの様に、それを支持したまさにその人々にとってのネガティブな結果をうみかねない政治的意思決定につながる。…

過ちは我々に不信を突き付ける人々の側にあるのではない。だから我々が、失われた信頼を再び築き上げなくてはならない。医者や知識人またジャーナリストの殆どはきちんと立派な仕事をしている、というだけでは十分でないのだ。我々は、彼ら職業人が対立する利害関係から自由であることを確保にするために、透明性ルールを設けなくてはならない。民族的多様性だけでなく、経済的また社会的多様性の奨励にも努める入学ルールを定めなくてはならない。我々の代表を既得権益の軛から解放する選挙資金調達ルールを設けなくてはならない。

要するに、我々はこの専門家への不信の根を断つ為の環境を作り出す必要があるのだ。これこそBrexitのもたらした最も重要な教訓である。

マーク・ソーマ 「量的緩和が試みられていなければ」(2014年3月21日)/「ユーロをめぐる反実仮想」(2013年9月6日)

●Mark Thoma, “‘The Counter-Factual & the Fed’s QE’”(Economist’s View, March 21, 2014)


つい最近のコラム1で私が言わんとしていたことをバリー・リソルツ(Barry Ritholtz)がもっと巧みかつ簡潔にズバリと表現しているようだ(私自身は財政政策をテーマとしており、リソルツは金融政策をテーマにしているという違いはあるが、言わんとしているところは同じだ)2

Understanding Why You Think QE Didn’t Work” by Barry Ritholtz:

おそらく次のようなコメントを耳にしたことがあることだろう。「FRBが資産購入プログラム――別名「量的緩和」――に乗り出したにもかかわらず景気回復の足取りは遅々としている。この事実はFRBの資産購入プログラムが効果を上げていないこと(無効であること)の何よりの証拠だ」。

あなた自身もこの種の発言を口にしたことがあるとしたら「反実仮想」というものを理解していない証拠だということになる。

・・・(中略)・・・

このような欠陥含みの「ものの見方」は投資家の世界だけにとどまらず様々な方面でお目にかかるが、その背後には次のようなロジックが控えている。

「Xを試してみたがこれといった変化は見られない。結論:Xは無効である。」

「結果的に『何も起こらなかった』⇒Xは無効だ」式の発想が抱えている問題は「Xが試されていなければどういうことになっていたか」という観点が抜け落ちていることだ。「何の変化も無い」(「何も起こらなかった」)という結果は「Xが試されていなかった場合の結果」と比べたらまだマシだ。そういう可能性もあるんじゃないだろうか? 「何の変化も無い」という結果の方が「フリーフォール」(急降下)という事態に比べたらまだマシだ。そうじゃないだろうか?

何らかの腫瘍を抑えることを目的に開発された新薬の効果を調べるつもりだとしよう。その場合、その薬を投与されなかった患者グループ(「コントロールグループ」)にどういう変化が見られるかも確かめたいと思うことだろう。「コントロールグループ」に属する患者たちの間では時とともに腫瘍の量が急速な勢いで増えたとしよう。その一方で、新薬を投与された患者たちの間では(新薬が投与される前と比べて)腫瘍の量にこれといって変化が見られなかった(腫瘍の量が増えている様子は確認されなかった)としたら非常に好ましい(ポジティブな)結果として受け止められることだろう。

量的緩和の効果を測るにしても同様の問題に出くわすことになる。・・・(略)・・・「コントロールグループ」が欠けているようでは3量的緩和の効果がどれほどのものだったのかはっきり言ってよくわからないのだ。 ・・・(略)・・・

[Read more…]

  1. 訳注;内容の一部を訳しておくことにしよう。
    「・・・金融政策だけでは景気回復の足取りを加速させる上で十分ではないとしたら経済にさらなる刺激を加えるために(できるだけ早く完全雇用を達成するために)財政政策にも頼ればいいのではないだろうか?
    理論的には答えは「イエス」だ。現代マクロ経済学の理論が伝えるところによると、財政政策は通常の状況では大して効果的な手段ではないものの、経済がゼロ下限制約に突き当たっている(名目金利がゼロ%に達している)状況では大いに効果的な手段だという話になっている。
    ところが、そのような見方に異を唱える声が数多く上がっている。「現実の証拠はそうなっていない」というのだ。標準的なケインズ経済学のモデルだと、政府支出の強制削減措置は景気の足を引っ張る力として働くという話になるはずだ。しかしながら、政府支出の強制削減が発動された後もアメリカ経済の調子はまずまずいい感じだ。財政政策はマクロ経済に対してそれほど大きな効果を持たない。そのことを示す格好の証拠じゃないか。・・・というようにして異論が続出しているのだ。
    しかしながら、そのような理屈では財政政策の有効性をめぐる疑問に最終的な結論を下すことはできない。なぜそう言えるのか? 経済史の世界から例を引いてその理由を説明することにしよう。
    「クリオメトリックス(数量経済史)」(cliometrics)と呼ばれる経済史の研究分野がある。クリオメトリックスの専門家たちは精緻な経済理論と高度な統計手法(計量経済学的なテクニック)の助けを借りて歴史上の疑問に取り組んでいる。クリオメトリックスの分野の中でも広く知られている研究成果の一つに鉄道がアメリカ経済の発展にどれだけ貢献したかを計測しようと試みたロバート・フォーゲル(Robert Fogel)の先駆的な業績がある。鉄道が発明されていなかったとしたらアメリカ国民の生活水準は一体どのくらい悪化していただろうか? 鉄道の発達こそが1800年代におけるアメリカ経済の成長の原動力だ。それまで多くの専門家はそう考えていたが、そのような通説は厳密な実証分析に一体どこまで耐えられるだろうか?
    フォーゲルは経済理論の助けを借りながら「鉄道が発明されていなかったと仮定した場合にアメリカ経済が辿ったと思われるシナリオ」を跡付けた。鉄道が発明されていなければその代わりに道路の整備が進んでいたかもしれない。鉄道が発明されていなければ道路の整備はどこまで進んでいただろうか? 道路は一体どこまで有効に鉄道の代わりを務められただろうか? 鉄道が発明されていなければ道路だけではなく運河網(重くてかさばる荷物を輸送する別の手段)も発達していたかもしれない。鉄道が発明されていなければ運河網はどこまで発達していただろうか?
    フォ-ゲルが見出した答えは驚くべきものだった。鉄道はそれまで多くの人々の間で信じられていたほどには(アメリカ経済の発展を支えた要因として)重要なものではない。彼はそういう結論に辿り着いた。フォーゲルの推計結果によると、鉄道が発明されていなかったとしたら1890年時点のアメリカ経済のGNP(国民総生産)は現実の値をほんの2.7%程度下回っていたに過ぎなかっただろうというのだ。
    フォーゲルの研究が物語っているのはベースライン(比較基準)の重要性である。「特定の政策が試みられていなければ(あるいは特定のテクノロジーが開発されていなければ)経済全体のパフォーマンスはどうなっていただろうか」というベースラインをはっきりさせる必要があるのだ。政府支出の強制削減が発動された後のパフォーマンスを調べるだけでは十分ではない。政府支出の強制削減が発動された後のパフォーマンスだけを見て「何だ。経済の調子はいいじゃないか。強制削減措置は大した問題じゃなかったんだ」と結論付けるのは早計に過ぎるのだ。政府支出の強制削減が発動されていなかったとしてもアメリカ経済のパフォーマンスは(政府支出の強制削減が発動された後の)現状よりもよくはなっていなかったはずだ。そう言えるだろうか?
    ・・・(略)・・・
    まずは経済理論の助けを借りて「特定の政策が試みられていなければどういうことになっていたか」というベースラインを定める。そしてそのベースラインと特定の政策が試みられた後の現実の状況とを比較する。政策の有効性を測るためにはこうするしかないのだ。・・・(略)・・・」 []
  2. 訳注;王一川(Yichuan Wang)が2013年11月にQuartzに寄稿している記事(“Stop the taper talk—the Fed has actually done too little”)もあわせて参照するといいかもしれない。導入の部分を少しだけ訳しておくことにしよう。
    「つい最近公表された議事録によると、FRBはテーパリング(量的緩和の規模縮小)の準備を進めているようだ。しかしながら、景気回復を後押しする上でFRBがこれまでに果たしてきた絶大な役割を考えると、今の段階でテーパリングに踏み切ることは間違っている。そう言い切ってほぼ間違いないだろう。確かに失業率は下落傾向にあるが、長期失業者(失業期間が長期に及ぶ求職者)の数はまだかなり多いままだ。さらには労働参加率も低いままだ。景気回復は着実に進行中だが、今後もその調子が続くと保証されているわけではない。景気回復に伴って生じる果実を確実なものとするためにはFRBが金融緩和を通じて側面支援を続けるかどうかが決定的に重要な役割を果たすことだろう。
    この点をしっかりと飲み込むためには経済分析の中核に位置する概念を理解する必要がある。その概念とは「反実仮想」である。「反実仮想」というのは「起こり得た歴史」のことを指している。軍事史の世界から例を引くと、「ナポレオンがワーテルローの戦いで勝利を収めていたらその後の展開はどうなっていただろうか?」という問いへの答えが「反実仮想」ということになる。今回のケースでいうと、「FRBが量的緩和に乗り出していなかったら景気の成り行きはどういうことになっていただろうか?」という問いへの答えが「反実仮想」にあたる。この度の景気回復局面では連邦政府はベルトをきつく引き締める(財政緊縮に傾斜する)一方だった。・・・(略)・・・FRBが量的緩和に乗り出すことで財政緊縮に伴う政府支出の大幅な縮小の効果を打ち消していなければ、アメリカ経済はほぼ間違いなく不況に逆戻りしていたことだろう。」 []
  3. 訳注;「量的緩和が試みられていなかったとしたらどういうことになっていたか」という反実仮想との比較をしてみないことには、という意味。 []