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タイラー・コーエン 「チョコレートの大ブーム期」(2016年7月14日)/「チョコレート版大停滞の時代の終わり?」(2017年9月10日)

●Tyler Cowen, “The Great Chocolate Boom”(Marginal Revolution, July 14, 2016)


世界全体のカカオ豆の生産活動を襲った劇的なショックの例としては1880年代以降の「チョコレートの大ブーム」(“The Great Chocolate Boom”)――チョコレートの大衆向け市場の急速な発展――に勝るものはない。その間(1880年代から1914年にかけての「チョコレートの大ブーム期」)に西洋世界におけるチョコレートの消費量はコーヒーや紅茶の消費量を上回るペースで増える一方で、その価格はコーヒーや紅茶の価格に比べると安定を保っていたのである。・・・(略)・・・1870年から1897年までの間にカカオ豆の世界全体での輸入量は9倍も増えている。その一方で、同期間に紅茶の世界全体での輸入量はどれだけ増えたかというと2倍、コーヒーに関しては50%増にとどまっている。・・・(略)・・・イギリスでは1870年から1910年までの間にカカオ豆の一人当たりの消費量は6倍近くも増えたが、紅茶に関しては一人当たりの消費量の伸びは2倍に満たず、コーヒーに至っては一人当たりの消費量は半減している。

以上はつい最近出版されたばかりの優れた一冊である(自学用に買い求めた)『The Economics of Chocolate』(編者はマラ・スクイッチャリーニ(Mara P. Squicciarini)とヨハン・スウィネン(Johan Swinnen)の二人)に収録されているウィリアム・クラレンス=スミス(William G. Clarence-Smith)の論文の一部を引用したものだ。

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●Tyler Cowen, “Is the Great Chocolate Stagnation over?”(Marginal Revolution, September 10, 2017)


チョコレート版大停滞(チョコレートの分野における技術革新の鈍化)の時代はまだ続くというのが私の意見だが、「いや、チョコレート版大停滞の時代は終わった」という意見もあるようだ。

1930年にホワイトチョコレートが開発されてからというもの、チョコレートの分野ではイノベーションが一切起きていない(新種が開発されていない)。それはそれでいいではないかと肯定的な意見もあることだろう。『美女と野獣』に登場するコグスワースの有名なセリフに倣うと、「下手にいじくるな」(“if ain’t baroque, don’t fix it”)というわけだ。

しかしながら、Netflixにかじりつきながらムシャムシャできるチョコレート風のクリーミーな新種のお菓子を開発する努力は地道に続けられていたようだ。

スイスに本社を置くバリー・カレボー社――高品質のカカオとチョコレートの製造を手掛ける世界有数のメーカーであり、カカオの年間生産量は180万トン、年間の売上高は100億ドル近くに上る――で働く研究員の長年にわたる努力の成果が実って遂に新種のチョコレートの開発に漕ぎ着けたというニュースが飛び込んできた。新種のチョコレートの名は「ルビー」(Ruby)。ルビーカカオ豆を原料とする(見ていると朗らかな気分にさせられる)ミレニアルピンク色のチョコレート。着色料も添加物も使われていないが、ベリーのようなフルーティーな酸味がするという。

「ルビーチョコレートは(ミルクチョコ、ホワイトチョコ、ビターチョコに次ぐ)第四のチョコレートです。強烈な感激を伴う味覚体験を約束してくれることでしょう」。バリー・カレボー社の代理人は上海での初披露の際にルビーチョコレートについてそのように語っている。

全文はこちら(偉大なるSamir Varma経由で知ったもの)。

ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 3」(2009年3月2日)

Bill Mitchell, “Deficit spending 101 – Part 3“, Bill Mitchell – billy blog, March 2, 2009.

Part 1 の翻訳はこちら

Part 2 の翻訳はこちら

 

この記事は財政赤字101のPart 3だ。このシリーズは、財政赤字を恐れるべきではない理由の説明のために書いている。この記事では、銀行システムにおける財政赤字の影響を考察することを通じて、「財政赤字が政府借入需要を増やし、金利を引き上げる」という既存の神話を蹴散らすつもりだ。この二つの議論には関係がある。重要な結論は、(a)財政赤字は金利に対して下落圧力をかける動態を持つ、ということと(b)政府債務発行は政府支出の”資金調達”をするものではない、ということだ。そうではなく、債務発行は、(オーストラリア中央銀行(RBA)の目標金利維持志向としての)金融政策をサポートするために行われるものだ。

 Deficits 101 Part 1 (訳注:邦訳はこちら)では、政府と非政府部門の間の垂直関係と、そこでの経済内の金融純資産の出入りについて描写した図を提示した。こうした政府-非政府部門間垂直取引は一体どのようなもので、それを理解することが経済理解にどう重要なのだろうか? こうしたことをつなぎ合わせる手助けになる関連図として、以下のものを提示しておこう(私の最も最近の著書であるFull Employment Abandoned: Shifting sands and policy failuresからの引用)。画像はクリックして別ウィンドウで見てもらって、ここから先のテキストについては印刷して読んでもらった方が良いかもしれない。

金融的垂直関係・水平関係

この図は、政府と非政府部門の本質的な関係を垂直的に示したPart 1のに、さらなる詳細を加えたものだ。

最初に垂直面に注目すると、納税義務が、通貨(currency)の垂直的・外生的な構成部分の最下部となっているのがわかるはずだ。統合政府(財務省+オーストラリア中央銀行)は垂直連鎖のトップにあたる。なぜなら、統合政府は通貨の独占的発行者であるからだ。グラフの中間セクションは民間(非政府)部門に占められている。民間部門は財・サービスを国家貨幣単位と交換し、納税し、残余(会計的には政府赤字支出にあたる)を蓄積させる。蓄積形態は、流通現金、準備預金(商業銀行がオーストラリア中央銀行に対して保有する)、政府(財務省)債券、証券(オーストラリア中央銀行を通じて提供された銀行預金)といった形を取る。

納税に用いられた通貨単位(the currency units)は、支払プロセスにおいて消費(破壊)される。国民政府は任意に紙幣を発行するか、オーストラリア中央銀行に会計情報を発行することが出来るので、納税が政府に対して支出余力を追加(還流)させたりすることはない。

政府の二つの部門(財務省と中央銀行)は非政府部門の金融資産ストック蓄積及び資産構成に影響を与える。(財務省が司る)政府赤字は、民間部門における金融資産ストック累積量を決定する。そして中央銀行は、こうしたストックの組成を、紙幣や硬貨(現金)、ないし(交換尻決済に用いる)準備預金、および政府債券の中で組み替える。

上で示した図では、ストック累積が、我々が「非政府部門のブリキ小屋」(Non-government Tin Shed)と名付けた不換紙幣・準備預金・政府債券の蓄積によってなされるということを示している。「キャンベラのどこかに備蓄地域があって、国民政府がそこにすべての余剰物資を後の利用のために備蓄しているのだ」という大衆の思い込みを解除するために、「ブリキ小屋」(Tin shed)というアナロジーを用いている――それは過去の政府体制における重大主張だったのだ。実際には、そこに備蓄などない。なぜなら、余剰のある限り、購買力は永久に損なわれているからだ。しかし、非政府部門は確かに金融システムのいたるところで「ブリキ小屋」を所有している。

政府部門から非政府部門へ流れるあらゆる支出は、非政府部門に現金・準備預金・債券の形で残っている税負債(the taxation liabilities)を取り上げるものではない。したがって、「ブリキ小屋」に積み上げられている金融資産の蓄積は、累積財政赤字を反映したものであるということが分かる。

垂直の線の一番下は税で、ごみ箱に繋げることで、何かをファイナンスしているのではないことを強調している。税は民間部門の金融収支を減じるが、何ら政府のプラスになるわけではない――その減少分は請求されるものの、どこかへ流れるわけではないのだ。

このように、不換紙幣発行政府による自国通貨貯蓄というコンセプトは、不適切な代物なのだ。

政府が蓄積資産の購入に純支出を用いることもあるかもしれない(例えば、金の余剰分を買い入れたり、オーストラリアの場合なら、オーストラリア未来基金に貯蓄されている民間部門の金融資産を買い入れたり)が、そうした行為は、政府による財政黒字形成(支出を上回る徴税)によって未来のための資金が貯蔵される、ということを意味するものではない。こうした考えは誤りだ。つまるところ、債券売却は、流動性の除去になるのだが、同時に流動性の解体を生じることになるのである。

民間信用市場は(水平矢印で描写されたような)関係を表し、商業銀行、企業、家計(海外含む)による信用レバレッジ活動が行われている。多くのポストケインジアン系経済学者は、これを内生的貨幣循環として考察している。垂直取引との決定的な違いは、水平取引では金融純資産を創造しないということだ――全ての資産創造は同量の負債と一致するので、取引全体ではプラスマイナスゼロになる。このことが示す含意については、政府純支出が流動性に与える影響と、債券発行の役割について考える際にすぐに触れよう。

別の重要なポイントとしては、民間のレバレッジ活動は、全体ではプラスマイナスゼロなので、「ブリキ小屋」の話における通貨(currency)・準備預金・政府債券の役割を担えないという点がある。標準的な教科書には大抵逆のことが書いてあるが、商業銀行は信用を生み出す際に準備預金を必要とはしない。

中央銀行は銀行システム内の流動性を管理することを通じて、短期金利をその時点の金融政策を決めている公式目標に合致させる。こうした目的を達成するため、中央銀行は(a)日常的な資金需給を管理するためにインターバンク市場(例えば、アメリカではフェデラルファンド市場)に介入し、(b)商業銀行から金融資産を現価で購入し、(c)緊急資金を求める銀行にペナルティ的貸出金利を課している。実際、ほとんどの流動性管理は(a)を通じて達成されている。要するに、中央銀行のオペレーションは、準備預金・現金・証券の組成を変更することを通じてシステム運用上のファクターを埋め合わせるものであり、非政府部門の金融純資産を変化させないのである。

金融市場では商業銀行(及びその他の金融仲介機関)は法定準備を満たしたり他の商業目的上の資金獲得を行うために、短期金融商品を相互に取引する。図に従えばこうした取引はすべて水平的なもので、全体ではプラスマイナスゼロになる。

商業銀行は中央銀行に準備預金口座を保持することで、準備預金を管理し、手形交換決済を円滑に行っている。中央銀行は、貸出金利(公定歩合)の設定に加えて、商業銀行が中央銀行に対して保有している準備預金へのサポート金利も設定している。オーストラリア、カナダ、ユーロ圏といった多くの国々では、超過準備に既定金利が支払われる(例えば、オーストラリア中央銀行では、余剰為替決済勘定にかかるオーバーナイト金利に比してより低い25ベーシスポイントの超過準備付利を支払っている)。他の国、例えば日本では、超過準備に付利を行わず、過剰な流動性がそこに留まっていれば、政府による債券売却(あるいは増税)がない限りは、短期金利をゼロまで引き下げることになる(2006年半ばまでの日本のように)。こうしたサポート金利は、経済において金利の底になる。

短期的ないし運用上の目標金利は、現在の金融政策スタンスを示すものだが、中央銀行によって公定歩合とサポート金利の間に設定されることになる。こうした構造は事実上、短期金利が流動性変動と共に変化できる範囲としての回廊(corridor)ないし幅(spread)を作り出す。このspreadこそが中央銀行が日常業務で管理しているものだ。

ほとんどの国では、商業銀行は、ある特定期間の累積で、中央銀行に対する準備預金保有をプラスに保たなければならないと法律で定められている。商業銀行は各日の終わりに準備預金口座の状態を査定する必要がある。準備預金口座が赤字なら、中央銀行から公定歩合で必要資金を借入することが出来る。一方、超過準備を持つ銀行は、何の行動も起こさない場合は、オーバーナイト資金に対する現在の市場金利を下回るサポート金利の稼得に直面する。明らかなことだが、この場合銀行は超過資金を市場金利でほかの銀行に貸し出した方が利益が出る。超過準備を抱えた銀行同士の(慣習に則った)競争によって、短期金利(オーバーナイト金利)には下落圧力がかかり、全体的な流動性の状態に基づいてインターバンク金利は、オペレーション上の目標金利より低い水準まで低下することになる。システム内の流動性が全体で見て過剰である場合、こうした競争が金利をサポート金利まで引き下げるのだ。

資金市場における短期資金需要は、インターバンク金利に対して逆向きに動く。というのは、インターバンク金利が高くなると、予想不足量を他の銀行から借りようとする銀行が減るからだ(準備預金量予想の失敗をカバーするために、中央銀行から末日に資金を借りるはめになるリスクと比較して、の話ではあるが)。公開市場オペレーションを通じた流動性管理のための主要な手段は、政府債務の売買である。オーバーナイト資金市場における競争的圧力によってインターバンク金利が望ましい目標金利より低くなってしまう場合、中央銀行は政府債務売却によって流動性を取り除く。このような公開市場介入はオーバーナイト金利を引き上げる。重要なポイントだが、債務発行は、金利維持を実現するために作られた金融政策手段だと位置付けられているのである。こうした理解は、債務発行が財政の一側面であり、赤字財政支出の資金調達のために必要なものだと主張するオーソドックスな理論と全く以て対照的なものである。

後にさらに発展させていくこうした議論における重要なポイントは、クラウディングアウトが神話であるということを暴くことだ。政府支出(財政赤字)は、中央銀行による流動性管理を考慮しない場合は、商業銀行が中央銀行に対して保有する(準備預金の)精算後差額で見て、超過準備(現金供給)を発生させることになる。我々はこれを「システム全体の余剰」と呼ぶ。この場合、商業銀行は、他の(資金不足の)銀行に貸し出して利益を得ようとしない限り、超過準備に支払われる低いサポート金利に甘んじることになる。事後的に生じる超過準備の押しつけ競争によって、オーバーナイト金利は下落圧力を受ける。しかし、そうした取引は水平取引であり、必然的に総和はプラスマイナスゼロなので、銀行間取引は、システム全体の余剰を解消できない。よって、もし中央銀行が現在の目標オーバーナイト金利を維持しようとするなら、流動性余剰を政府債務売却によって除去しなくてはならない。これは垂直取引だ。

 

神話としてのクラウディングアウト

我々は今、「通貨発行権のある政府(currency-issuing government)に金融的制約がある」という考えを永続化させようとする神話の存在を知っている。この神話は、マクロ経済政策における政府の行動主義に対抗する正統派経済学者の議論を支えているものだ。消滅させる必要のあるしぶとい神話は他にもある――「政府支出が金利影響を通じて民間支出をクラウディングアウトする」という神話だ。

これまで見てきたように、中央銀行は必要に応じてリスクフリー金利を管理するのであり、直接的な市場圧力に従属したりはしない。正統派経済学のアプローチでは、永続的財政赤字は国民貯蓄を減らし、金利を引き上げ、投資支出を引き下げると論じられる。2日前に私が書いた 7.30 Report transcriptという記事を思い起こしてほしい。不幸なことに、「財政赤字が債務発行を増やし金利を引き上げる」というロジックの提唱者は、金利がどのように設定されるか、及び債務発行が経済においてどのような役割を担っているかについて理解できていない。明らかのことだが、長期投資金利にとって好ましいかどうかは度外視して、中央銀行がゼロ金利を設定・維持することは可能である。

政府支出はどこからか資金調達しているわけではないし、また集められた税金がどこかに向かって支出されているわけでもない、ということを確認してきたが、それと同時に、政府純支出には流動性面での実体的な影響があるということも議論してきた。債券を購入する資金は、会計的には政府支出によって供給されるので、「政府支出が民間投資用の有限な貯蓄を制限してしまう」といった考えは無価値である。アメリカの金融エキスパートであるTom Nugentは以下のように要約している:

『政府赤字支出の全影響を織り込むと、連邦政府による財務省証券発行は、常に新規発行資金と等しいので、財政赤字拡大による金利上昇への警戒というのは、ほとんど意味がないということも分かる。全体での影響は常に織り込まれ、金利は連銀が常に操作することになる。日本について考えてみればよい。日本は有史以来最大の公的債務を抱えており、繰り返し格下げもされているが、日本の政府証券金利は0.001%なのだ! もし財政赤字が本当に金利上昇を起こすなら、とっくの昔に日本は破綻していないといけない!』

これまで説明してきた通り、連邦政府と民間部門の取引は、システム全体の収支バランスを変化させるだけだ。政府支出や、中央銀行による政府証券(財務省債券)購入は流動性を追加するし、租税や政府証券売却は流動性を除去する。こうした取引は日常的にシステム内の現金量に影響を与え、当該取引による公的部門からの資金流出入の水準に応じて各日におけるシステム全体の黒字(赤字)が決定することになる。システムにおける現金量は、中央銀行の金融政策に関する決定的な暗示である。中央銀行による公開市場オペレーション(債券売買)の決定を反映するものだからだ。

この議論の理解の手助けのため、別の図を用意した。新しいウィンドウで開き、印刷して参照すれば、これまでの議論が分かりやすくなるだろう。

政府のそれぞれの部門の機能は以下のように要約される:(a)財務省による財政政策は、各日における政府支出と租税として要約され、経済全体に対して黒字(政府支出G>租税T)か赤字(G<T)の影響を与える。(b)オーストラリア中央銀行は金利目標の設定を通じて金融政策を遂行する。オーストラリア中央銀行はまた、目標金利を維持するためにシステム全体の現金量を管理する。これは政府債務の売買によって、商業銀行の準備預金を変化させることで行われる。では、政府債務の発行は、政府支出の資金調達に用いられないのに、なぜ行われているのか? 要するにそれは、中央銀行による(特定のオーバーナイト金利の保持を目的とした)準備預金操作のために行われているのである。図のように、政府支出Gは準備預金を加え、租税Tは準備預金を除去する。したがって、各日においては、もしG>T(財政赤字)であれば、準備預金は全体で増加することになる。

特定の銀行が準備預金不足になることはあり得るが、全体で見た準備預金の総額は過剰である。オーストラリアでは、オーバーナイトで残存する準備預金には目標金利以下の付利しか発生しない(いくつかの国では、付利すらない)。したがって各日において商業銀行は不要な準備預金を処分したがる。準備預金の余剰のある銀行は超過準備をインターバンク市場で貸し出そうとする。一部の準備預金不足の銀行はそうした貸出を受け入れて準備預金を補い、オーストラリア銀行の貸出窓口(discount window)で割高な準備預金借入を強いられる事態を回避しようとする。

結局は、準備預金余剰の銀行が自身の超過準備を処分しようとする競争によって短期金利は下落する。しかし、もしあなたが上記で議論した水平取引(全体ではプラスマイナスゼロ!)を理解したなら、非政府銀行システムがそれ自体(インターバンク市場における貸借といった、商業銀行同士の水平取引の遂行)によって(財政赤字によって創造された)システム全体の超過準備を処分することができないということが分かるはずだ。

必要なのは垂直取引――政府と非政府部門の間の相互作用だ。示した図に見る通り、債券売却によって、銀行に対して超過準備を処分できる魅力的な有利子証券(政府債務)を提示することで、準備預金を除去することが出来る。

このように、債券売却(債務発行)によってオーストラリア中央銀行は現金システム内の超過準備を除去し、金利への下落圧力を縮小させることができる。そうすることで、金融政策のコントロールが保たれる。重要なことは:

・財政赤字は金利に対して下落圧力をもたらす;

・債券売却はオーストラリア中央銀行の目標金利水準に金利を維持させる;

 

以上より、債務マネタイゼーションというコンセプトは全く不合理だ。一旦オーバーナイト金利が設定されたら、中央銀行はその目標を維持するのに必要な流動性変化の分だけしか政府証券を取引しない。中央銀行は準備預金をコントロールできないので、債務マネタイゼーションは全く不可能だ。中央銀行が財務省から政府証券を購入し、同時に政府支出が増加した場合を想像してほしい。超過準備の存在によって、中央銀行が同量の政府証券の売却を強いられるか、オーバーナイト金利がサポート水準まで下落するのを看過するかのどちらかになる。金利設定型金融政策のロジックから鑑みると、これはマネタイゼーションというより、単に中央銀行が仲介者として働いたに過ぎないのだ。

究極的には(訳注:政府支出が十分以上に増加した場合)、民間主体はそれ以上の現金・債券の保有を拒絶するかもしれない。債務発行がなければ、金利は中央銀行の設定するサポート下限(ゼロかもしれない)まで下がることになるだろう。これも明らかなことだが、民間部門がミクロレベルで政府証券なしに不要な現金を解消したかったら、民間部門の消費レベルを引き上げるしかない。現在の租税構造においては、このことは全体での貯蓄需要を減らし、民間支出を拡張し、財政赤字を減らし、最終的には、貯蓄需要が低い水準であり続ける限り、民間雇用レベルの上昇と必要な財政赤字の低下という形でポートフォリオがリバランスすることになるだろう。政府にとって、実物の限界を超えて経済を拡大する動機がないことは明らかだ。政府支出がインフレを起こすかどうかは、名目需要増加を満たすような経済の実物産出拡張能力に依存している。財政赤字の大きさそれ自体で決定するのではない。

 

この記事の主要な結論についてまとめておこう。

・中央銀行は自身の政策志向に基づき短期金利を設定する。実務的には、(マクロ経済学の教科書でクラウディングアウトとして描かれている神話とは対照的に)財政赤字は金利に下落圧力をかける。中央銀行はこの圧力に対して、政府債券を売却することで対抗でき、これを行うと政府が国民から借入を行ったのと同じことになる。

・借入を行わない(訳注:国債売りオペを行わない)ことのペナルティとしては、その国の回廊(corridor)の底への金利下落が生じる。回廊の底は、中央銀行が準備預金付利を行わない場合は、ゼロである。例えば日本は、国民からの借入(訳注:国債売りオペ)以上の支出によって形成した財政赤字を通じて、何年もの間ゼロ金利政策を維持することが出来た。このことは、政府支出が国民からの借入から独立して政府支出が可能であることと、国民からの借入というのは政府支出より順番的には後に発生するのだ、ということも示すことになる。

・政府債務発行というのは、財政政策固有の行為というよりは、金融政策手段である。

・会計的観点から見ると、財政黒字が示すのは、政府が何を行ったかであり、何を受け取ったかではない。(訳注:財政黒字は単に民間の金融純資産の除去を行っただけであり、それを通じて政府が何かを獲得することはないということ)

 

端的に言うと、我々は「連邦政府の赤字創出は有害であり、将来世代に負債を残す」という考えを否認する必要があるのだ。政府はあるプラスの短期金利の維持を選択してきているし、現金システムから生じる金利下落圧力に対して債務発行を必要としている。このシリーズの次の記事であるDeficits 101 Part 4ではなぜ短期金利が(現在の日本やアメリカのように)ゼロあるいはその周辺に維持されるべきかについて議論するつもりだ。

 

タイラー・コーエン 「日本におけるバレンタインデーの一幕 ~恋愛資本主義を打倒せよ!~」(2015年2月13日)/「サウジアラビアにおけるバレンタインデーの一幕 ~異教徒の祝祭に浸ることは決して許さぬ!~」(2008年2月14日)

●Tyler Cowen, “The Valentine’s culture that is Japan against the romantic-industrial complex”(Marginal Revolution, February 13, 2015)


(2015年)2月14日に「革命的非モテ同盟」――非モテ男(女性にモテない日本男児)をメンバーとする革命同盟――によるデモの開催が予定されている。場所は東京の渋谷。若いカップルに人気のスポットだ。バレンタインデーおよびその根底に潜んでいる「恋愛資本主義による抑圧」への抵抗の声を上げるのがデモの目的だという。

「革命的非モテ同盟」――通称「革非同」――の誕生は2006年に遡る。そのきっかけは創設者である古澤克大氏が女性に告白して振られた後に家に戻って手に取った一冊の本にある。その本とは『共産党宣言』。『共産党宣言』を読んで「非モテとは階級問題なり」と開眼したというのだ。

革非同によるデモは2006年以降毎年のように決行されているが、いずれも日本において恋愛と結び付けられがちな記念日―――バレンタインデーやクリスマス、ホワイトデー等々――に狙いが定められている。

革非同が掲げるスローガンは日本独自のネット文化と旧来のマルクス主義を融合して出来上がったものだと言える。ネット文化を起源の一つに持つことはその言葉の選び方からも窺い知れる。一例を挙げると、革非同はいわゆる「リア充」に批判の矛先を向けることが多いが、「リア充」というのは2ちゃんねるに代表されるオンラインコミュニティでよく使われる造語だ。「リア充」というのは「リアル」と「充実」を組み合わせて出来た混成語であり、ネットの外の現実の日常生活が充実している連中という意味が込められている。

2月14日に開催予定のバレンタインデー粉砕デモに向けて革非同のウェブサイトに次のような声明が投稿されている。曰く、「チョコレート資本の陰謀に血塗られたバレンタインデーの季節が今年もやってまいりました。モテない人の明るい未来を築き上げるべく、非モテ同志の連帯を呼び掛けてきた革命的非モテ同盟が、バレンタインデー粉砕と恋愛資本主義反対を訴えるデモを開催いたします」。

過去のデモでは「セックスなんかいくらやったって無駄だ」との言葉が書かれたゼッケンを着用して「リア充爆発しろー! でもちょっと羨ましいぞー!」などといったキャッチフレーズを叫びながら練り歩いたという。

全文はこちら。ところで、革非同の公用車はメルセデス・ベンツC220らしい。

情報を寄せてくれたAndrea Castilloに感謝。

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●Tyler Cowen, “Valentine’s Day in Saudi Arabia”(Marginal Revolution, February 14, 2008)


サウジアラビアでは宗教警察である(イスラム教保守派の立場に立つ)勧善懲悪委員会(CPVPV)の面々が2月14日の数日前から商店の取り締まりパトロールを行うのが毎年の恒例となっている。赤いバラや赤い包装紙、ギフト箱やテディベア等々を店舗から撤去するように警告して回るのである。そしてバレンタインデーの前夜に店々を突然訪れて「愛の象徴」となり得る品物が置いてあるようなら根こそぎ没収していくのである。

全文はこちら。情報を寄せてくれたBZに感謝。

タイラー・コーエン 「花の数は愛の深さを示す尺度?」(2015年2月13日)/ アレックス・タバロック 「一経済学者が愛する妻に贈ったバレンタインデーのプレゼント」(2008年2月14日)

●Tyler Cowen, “How much should you spend on Valentine’s Day flowers?”(Marginal Revolution, February 13, 2015)


すべては相手を思いやっていることを目に見えるかたちで伝えるため。

「毎年のように記録が塗り替えられるんです」。そう語るのは(ニューヨーク市の)フラットアイアン地区でフラワーショップの「ベル・フルール」を経営するメレディス・ワガ・ペレス。バレンタインデーに花を買い求めにくるお客の中には5000ドル(およそ53万円)もの大枚をはたくのも厭わない強者もいるという。

昨年のことだ。アレクス・デグチャレフは付き合って3年と少しになる彼女(ルル)に結婚のプロポーズをするためにフラットアイアン地区にある「オーデ・ア・ラ・ローズ」にバラの配送を注文した。デグチャレフがそのために支払った金額は6000ドル(およそ64万円)。

「1114本のバラを手に入れたかったんです」とデグチャレフ。(ニューヨーク市の)ベイ・リッジ暮らしの33歳。「僕たちが付き合ってからの日数と同じ数なんです」。

友人にも手伝ってもらってモンタークの岬一面に1000本を超えるバラをばら撒き、その場で彼女にプロポーズしたという。

リンク先では他にもバレンタインデー絡みの逸話が色々と紹介されているが、全体的な印象としては逆効果になりかねないんじゃないかと思われるところだがどうだろうか? カウンター・シグナリングの支持者1じゃなくてもあるいは革命的非モテ同盟の一員じゃなくても私と同意見なんじゃなかろうか。

情報を寄せてくれたDに感謝。

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●Alex Tabarrok, “What an Economist gets his Wife for Valentines”(Marginal Revolution, February 14, 2008)


「こんな品2をプレゼントしても平気でいられるのは君のことを心の底から本当に愛している人間だけなんだよ」。いくらそう説明しても妻はこちらが期待したほどには心を動かされてはいないように見受けられたものだ。

私に倣いたいようなら(それだけの覚悟をお持ちのようなら)こちら3で適当な品物を見繕うことができる。

  1. 訳注;「カウンター・シグナリング」については本サイトで訳出されている次の記事を参照されたい。 ●タイラー・コーエン 「パジャマを着て交渉、スーツ姿でブログ書き」/「カウンター・シグナリング」(2017年12月9日) []
  2. 訳注;「あでやかなダイヤモンドのネックレス」(stunning diamond necklace)というタグが付いているだけのネックレス []
  3. 訳注;リンク切れ。代わりに例えばこちらを参照されたい。 []

サイモン・レン=ルイス「非伝統的金融政策vs財政政策」(2014年9月6日)

Unconventional Monetary Policy versus fiscal policy(mainly macro, 6 September 2014) Posted by Simon Wren-Lewis

 

前回のエントリ(拙邦訳はこちら)では、極めて単純な設定から、利下げで需要刺激するのがベストであること、減税と政府支出も同様の役割をこなせること、減税と政府支出の場合は需要不足のコストに比してはたいしたことのない厚生コストしか発生しないことを説明した。

したがって、少々専門用語を交えて言うと、利下げはファーストベストだが、もし名目金利がゼロに達してそのファーストベストが利用不可能になってしまったら、財政政策を用いるべきである。もし財政刺激のサイズに資金的制約があるなら、一般的に減税よりも政府支出の方がより効果的である。

では、非伝統的金融政策についてはどうだろうか? 非伝統的金融政策には主に二種類ある: 将来のインフレ目標(およびプラスの産出ギャップ)に対するフォワード・コミットメントと、貨幣発行によって様々な種類の資産を購入すること(QE)だ。それぞれのケースについて、その政策にかかる厚生コストと、財政政策利用の厚生コストの比較を行いたい。しかしながら、効果の不確実性という問題もある: 我々は、どれくらい利用できる政策なのかを知りたい: 不確実性の問題は、前のエントリでは重要ではなかった。なぜなら、我々は伝統的金融政策と財政政策の影響について多くのエビデンスを保有していたからだ。だから次はそれぞれの非伝統的金融政策について考察しよう。

金利がゼロに嵌ったときの需要刺激策の一つとしては、理想水準より高いインフレと産出の組み合わせを将来に約束するというものがある。(これは明示的ないし暗示的に、名目GDPのような何かしらの名目水準を目標として用いることで可能である。このことについてあまり知らない方々は、こちらをご覧になると良い。) この政策のコストは明確だ: 理想水準より高い将来インフレ・産出である。繰り返しになるが、名目金利がゼロに嵌る理由となった現在の不況の深刻さを考えれば、こうしたコストは受け入れるに値する。こうしたコストが政府支出の変更のコストより大きいか小さいかは議論の余地がある。私がここで議論したWerningのペーパーによると、どちらも含んでいるものが最適政策になり得るのだという。

この特定の政策において生ずる問題の一つに、時間的不整合性の問題がある。中央銀行が将来のインフレ目標を引き上げると約束し、今日の不況を和らげるのに役立ったとして、不況が終わったときその約束を守るだろうか? 国民はそれを許すだろうか? 人々がそうならないと考えたとき、政策の有効性は弱まり、政策効果の不確実性は増加する。これは、何らかの名目目標に政策を紐づけるのが有用になり得る理由の一つだ。1

もう一つの非伝統的金融政策はQEだ: これは通貨発行によって資産購入を行うものである。この政策は将来の金利を引き下げるというフォワード・コミットメント以外の何物でもないと見做すことが出来、先ほどの議論に我々を引き戻すことになる。この政策について、それ以上の問題も想定してみよう。未解決の大問題としては、この政策がどれだけの歪みを齎すかという問題があると考えられる。

例えば、Mark GertlerとPeter KaradiによるQEの効果の研究におけるもっともポピュラーなモデルの一つでは、中央銀行が融資を行うか、政府債務を購入する。これによってリスクプレミアムが減少し、厚生が改善する。このことは、QEがなぜ永久的でないかという明かな疑問を提起する。著者たちは、中央銀行が民間銀行よりも「どんな資産を買うべきか」を知るにあたって比較的非効率であると想定することで、この問題を回避している。しかしながら、著者たちを含めて、こうした効率性コストがどんなものか少しでも知っている人がいるのかどうかについては、定かではない。

おそらくこうした歪みは極めて小さいだろう。しかしながら、この議論は、QEに関するさらなる深刻な問題を浮き彫りにしている。それは、我々がQEの効果、あるいは実際にその効果が線型なのかどうか、そしてどの市場で施行するのがベストなのかということについてはっきりした考えを未だに持っていないということである。QEについてのアナウンスメントは明らかに市場に影響を与える。しかし、それはMichael Woodfordが議論したように、シグナリング装置として機能するからかもしれない。Jim Hamiltonもまた懐疑的だ。このことが強烈に示唆するのは、QEの効果についての不確実性が、伝統的金融政策や財政政策に関する不確実性よりはるかに大きいという事だ。

こうして考えると、一部の人々が「非伝統政策が財政政策よりも常に好ましい」と断固主張する理由がわからないのである。最近のNick Roweのエントリへのコメントで、Scott Sumnerはこう書いている。”私の考えは「一度中央銀行が地球上のすべての資産を買い占めてから話を聞こう」というものだ。そうなってから、我々は財政刺激について論ずることが可能になる。” この言明の実質的な意味は、政府の片腕(中央銀行)が莫大な量の貨幣を発行して大量の資産を購入することが、政府のもう一方の腕(財務省)が消費者の支出・貯蓄できる貨幣を減らすことよりも優れているというものである。こうした選好は実に奇妙に思えるが、レーニンなら気に入ったかもしれない!

 

 

  1. もし一時的な政府支出が実際には恒久的だと信じられた場合、政府支出の経済刺激効果は大いに失われる。しかし、このことは時間的不整合性の問題ではない。他の違いとして挙げられるのは、政府支出が通期的に支出を増やしたり減らしたりている一方、先進的な経済における中央銀行がわざと好況を作るのは極めて稀であることである。 []

アセモグル & レストレポ「ロボットと雇用:アメリカからの証拠」

[Daron Acemoglu & Pascual Restrepo, “Robots and jobs: Evidence from the US,” VoxEU, April 10, 2017]

ロボットをはじめとするコンピュータに支援された技術によって、これまで人間の労働によって行われてきたタスクがかわりに担われるようになるにつれて、雇用と賃金の未来についてますます懸念が高まっている。このコラムでは、1990年から2007年にかけて産業ロボットによって雇用と賃金が減少した証拠を論じる。推計からは、労働者1000人あたり1台ロボットを増やすと、人口あたりの雇用率が 0.18〜0.34パーセントポイント減少し、賃金は 0.25〜0.5パーセント減少するらしいことがうかがえる。この効果は、輸入やルーチン作業の減少やオフショアリング、ロボット以外のさまざまな IT 資本、あるいは総資本ストックがおよぼす影響とは別物だ。
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サイモン・レン=ルイス「需給ギャップを埋めるには:金融政策か、減税か、政府支出か」(2014年8月27日)

Filling the gap: monetary policy or tax cuts or government spending (mainly macro, 27 August 2014) Posted by Simon Wren-Lewis 

 

資本のないシンプルな閉鎖経済で非自発的失業の増加を伴う総需要の不足があるとしよう。我々は、民間消費(C)と政府消費(G)のどちらかの引き上げを試みるだろうか? 仮に前者を試みるなら、なぜ減税より金融政策をより好むのだろうか? その理由は?

もし民間生産財と公共生産財に対する選好が安定的なら、理想的にはC/Gの比を最適な水準に保ちたい。したがって、もし総需要の減少がCの急減で生じるなら、何とかしてCを引き上げたいと考える。実質利子率は将来消費に対する現在消費の価格なので、明らかな第一の最善政策は、Cの価格が変化して消費不足が取り除かれる実質金利を達成するよう、名目金利を設定することである。こうした考えは、金融政策を景気安定化装置として好む現代の選好の背後に入る基礎的な直観である: 私が政策割り当てのコンセンサス(the consensus assignment)と呼んでいるものの一部だ。

古典派モデルあるいは実物的景気循環モデルでは、こうした金利調節は魔法のようにひとりでに起こる。そうした調節は通常、 ’価格伸縮性’ という用語を当てにしているが、総需要の不足がどのようにしてより低い実質金利に変換されるかについてあまりよく説明できないので、やはり魔法に過ぎない。現実の世界では、「魔法使い」は中央銀行だ。注意してほしいのだが、私は金融政策と財政政策に関する実施ラグについては一切言及していない。実施ラグは、教科書において政策割り当てのコンセンサスの理由の一つとして挙げられているが、金融政策を選好する理由として私が挙げたものは、それよりもいっそう本質的な代物だ。

もし総需要の不足が技術進歩を通じた ’供給’ の増加によって 起きた場合はどうだろう? この場合でも、第一の最善政策は消費を増やす金利引き下げである。しかし、我々はまた、最適なC/G比を保つために、公共消費も増やしたいと考える。

最後に、より複雑なショックについて考察しよう――フィリップス・カーブに影響を与え、ある水準の産出・総需要に対するインフレ率を引き上げる ’コストプッシュ’ ショックについてだ。既に知られている通り、この場合我々は(負の総需要ギャップを作って)産出を減らし、インフレーションをある程度抑制する政策を求める。産出ギャップにもインフレーションにもコストがあると考えるからだ。しかしながら、こうした場合において金融政策がファーストベストなのかどうかについてはさほど明らかではない。Fabian Eser、Campbell Leith、そして私が執筆したこの論文では、ここでも金融政策がファーストベストなのであると示した。我々はいくつかの方法で(ただし、それ以外の方法は使わずに)モデルを複雑化して、金融政策だけで社会厚生が最大化されるという結果を得た。

消費下落による需要ギャップに話を戻すと、名目金利がゼロ下限で行き詰まり、金融政策が使えなくなったとしよう。民間消費を引き上げたいなら、明らかな代替手段は減税だ。もし定額税(人頭税のような、所得と無関係な税)を用いることが出来るなら、仮に消費者が減税に反応するとして、減税は極めて有効に機能するだろう。そこには二つの問題がある。リカード等価性の問題と、定額税が存在しないという問題だ。

リカード等価性が完全に成り立つ場合は、減税は消費を全く刺激しない。しかしリカード等価性が成り立たないという首尾一貫したエビデンスがある。ただ、こうしたエビデンスは、少なくとも半分、あるいはそれ以上の減税が貯蓄に回されることを示しており、このことは、消費ギャップに比して額面の点で大きい減税が必要だということを意味する。また、減税の効果の不確実性も付加される。何かしらの刺激政策パッケージのサイズにある程度の資金的制約がある場合は(しばしばそうであろう)、それによって所得効果に依存する税の変更政策に深刻なデメリットが生じる。もし資金的制約がないとしても、減税の消費刺激効果の相対的な弱さは、他の理由で問題になる。

定額税は存在しないので、ある程度歪みを齎す税(インセンティブに影響を与える税)を用いなくてはならない。これは、減税は租税の平坦化を侵害することを意味する。最善の政策は、税の歪みを一貫してキープすることだと考えられている。ある年で税率10%、他の年で税率50%とするよりも、税率30%をキープする方が好ましい。したがって、所得税減税(後には増税を行う)で消費ギャップを満たすのにはコストがある。より多くの減税が貯蓄に回されるほど、そうしたコストは大きくなる。こうしたコストのせいで消費ギャップを満たすのをやめるという可能性は極めて低い。なぜなら、失業コストはそうした不公平な税の歪みよりもはるかに重要だからだ。しかしながら、コストの存在により、実質金利変更のようなファーストベストの政策とはかけ離れたものとなる。

対照的に、あらゆる需要ギャップ埋め合わせにおいての公共支出の利用は、はるかに直截的だ。その需要面での影響と雇用面での影響が比較的予想しやすいからだ。しかし、それにもコストがある: CとGのバランスが崩れるのだ(Cに比してGが過剰になる)。Chris Houseの最近のエントリは、代替的財政刺激手段としての減税と政府支出の対立を扱っている(ノア・スミスがそれに続いてエントリを書き 、Chrisはそれに反応している )。彼の提案によれば、政府支出は、その社会的便益が社会的コストを上回るときにのみ刺激手段として用いるべきなのだという。私はそうした考えがこの問題を考えるにあたって大して有用とは思われない。私の考えでは、もっと良い考えは、需要ギャップは必ず埋め合わせられないといけないということを受け入れて(なぜなら、何もしないことのコストは極めて大きいからだ)、付帯的損害を最小化する方法を見つけ出すという事だ。それは減税ではなく、Gの追加だろう。もし財政刺激のサイズに資金的制約があるなら、そのことはほぼ確実だ。

同じような論理が、非伝統的金融政策についても当てはまるが、そのことについては別のエントリで論じよう。

 

 

アレックス・タバロック「Uber運転手報酬の男女差」

[Alex Tabarrok, “The Uber Pay Gap,” Marginal Revolution, February 7, 2018]

Cody Cook, Rebecca Diamond, Jonathan Hall, John A. List, & Paul Oyer の論文では、100万人以上の Uber 運転手と何百万件もの走行にもとづくデータを使って、女性の Uber 運転手の方が男性運転手に比べて報酬が 7% 少ないことを明らかにしている。ただ、この論文の新しいところは、Uber の大量データのおかげで、報酬の落差が存在する理由について非常に詳しく理解できるようになっている点だ。差別ではないんだよ:
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マーク・ソーマ 「iPodってどこ製?」(2007年6月28日)

●Mark Thoma, “Hal Varian: Who makes the iPod?”(Economist’s View, June 28, 2007)


iPodはどこで作られているのだろうか? iPodを作っているのは誰なのだろうか? ハル・ヴァリアン(Hal R. Varian)がニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した論説の中でかような問いに対する答えを探る試みを紹介している。

An iPod Has Global Value. Ask the (Many) Countries That Make It.” by Hal R. Varian, Economic Scene, NY Times:

アップル社のiPod(アイポッド)を作っているのは誰なのだろうか?・・・(略)・・・アップル社ではない。というのも、アップル社はiPod本体の製造をアジアに本社を構える数ある企業――例えば、Asustek(エイスーステック)にInventec Appliances(インベンテック・アプライアンシズ)にFoxconn(フォックスコン)――に外注しているからだ。

しかしながら、今しがた列挙した三社だけでiPodの製造に関わる企業のリストが埋め尽くされるわけではない。・・・(略)・・・Asustek(エイスーステック)にしてもInventec Appliances(インベンテック・アプライアンシズ)にしてもFoxconn(フォックスコン)にしてもiPodの最終的な組み立てを受け持っているに過ぎないのだ。iPodは全部で451種類の部品から構成されているが、個々の部品の製造は一体どうなっているのだろうか? 個々の部品はどこ(どの国)で製造されているのだろうか? 一体誰(どの企業)が製造しているのだろうか?

原価計算の手法を使ってこの問いの調査に立ち上がったのがカリフォルニア大学アーバイン校に籍を置く三名の研究者(pdf)――グレッグ・リンデン(Greg Linden)、ケネス・クレイマー(Kenneth L. Kraemer) ジェイソン・デドリック(Jason Dedrick)――だ。

・・・(中略)・・・

iPodの生産プロセスを細分化された工程の連なりとして捉えることにしよう。それぞれの工程ではインプット(例えばコンピューターチップとまっさらな電子基板)がアウトプット(チップが実装された電子基板)に変換される。インプットの価格(費用)とアウトプットの価格(価値)の差がそれぞれの工程で生み出される「付加価値」であり、それぞれの「付加価値」はその工程を受け持つ企業が立地する国に割り振られることになる。

ねじやボルトといった汎用品は競争が熾烈な産業で製造されており、世界中どこででも製造可能だ。それゆえ、その利幅(付加価値)は極めて小さく、iPodの最終的な価値(小売販売価格)への貢献もごく些細なものにとどまる。その一方で、ハードディスク(HDD)やコントローラチップのような特製品(特化部品)の付加価値はねじやボルトのような汎用品のそれよりもずっと大きい。

リンデン&クレイマー&デドリックの三人の推計によると、(一台のiPodに内蔵されている)東芝製のハードディスク(HDD)は73ドルの価値を備えており、その製造には総額およそ54ドルの部品(インプット)と労働が投下されている。つまりは、東芝はアウトプットたるハードディスクに19ドルの価値(+人件費)を付け加えているわけだ。東芝は日本を拠点とする企業なので東芝製のハードディスクに備わる19ドルの「付加価値」の帰属先は日本ということになる。

リンデン&クレイマー&デドリックの三人は他の部品に関しても同様の計算を繰り返し、・・・(略)・・・iPodの生産プロセスの個々の工程でどれだけの「付加価値」が生み出され、それぞれの「付加価値」がどの国に帰属するかを逐一追跡しようと試みた。決して簡単な作業ではないが、・・・(略)・・・極めてはっきりしていることがある。iPodに備わる「付加価値」の最大の帰属先は米国(米国内で販売されるiPodに関しては特にそう)ということだ。

iPodの小売販売価格(最終的な価値)は299ドル。そのうち163ドル(の「付加価値」)は米国企業(およびそこで働く労働者)に帰属するというのがリンデン&クレイマー&デドリックの三人の推計結果だ。163ドルのうち(米国内の)流通・小売業者が生み出す付加価値が75ドルでアップル社が生み出す付加価値は80ドル。残りの8ドルは米国内の部品メーカーに帰属する。iPod本体の価値(299ドル)のうちで日本が生み出す付加価値は26ドル(そのうちの大半は東芝製のハードディスクによるもの)で韓国が生み出す付加価値は1ドルに満たない。

リンデン&クレイマー&デドリックの三人の調査ではiPod一台の生産に要する部品がすべて捕捉されているわけではなく、補足し切れていない部品の費用に(iPod一台の生産に要する)人件費を加えると合計でおよそ110ドルになるという。リンデン&クレイマー&デドリックの三人はiPod一台の生産に要する人件費を国別に割り振る試みにも乗り出す心積もりのようだが、・・・(略)・・・どうやらそう簡単にはいかなそうだ。

(iPodの生産プロセスのような)国境を越えた複雑な生産プロセスの実態を従来の貿易統計を使って要約しようとすると無理が生じる可能性がある。「付加価値」という観点からすると中国はiPodの価値のうちでわずか1%程度しか寄与していないとしても、中国で組み立てが完了したiPodが米国に輸出されると従来の貿易統計では二国間(米中間)での貿易収支でおよそ150ドル分の貿易赤字(対中赤字)が発生することになるのだ。

突き詰めると、「iPodを作っているのは誰なのだろうか?」「iPodはどこで作られているのだろうか?」という問いへの簡潔な答えなんてないということになろう。・・・(略)・・・iPodの真の価値は個々の部品に宿っているわけでもなければ、個々の部品を寄せ集めることによって生み出されるわけでもない。iPodの価値の大部分はその概念(発想)とデザインにある。iPodに備わる(299ドルの)価値のうちで80ドルもの付加価値――iPodの製造・販売を支えるサプライチェーンのうちで単独で生み出す付加価値としては群を抜いて最大の数値――がアップル社に帰属するのもそれゆえなのだ。

451種類の部品(そのうちの大半は汎用品)を組み合わせて一つの価値ある商品にまとめ上げるアイデアを思い付いたのがアップル社であり、アップル社に集った切れ者集団だ。彼らはiPodを製造してはいないかもしれないが、思い付きはした(生み出しはした)。 結局のところ肝心なのは新たなアイデアを思い付くかどうかなのだ。

エルネスト・ダル・ボ, フレデリコ・フィナン, ウルレ・フォルケ, トーシュテン・パーション, ヨハンナ・リクネ 「政治的淘汰と包摂的能力主義への道」

Ernesto Dal Bó, Frederico Finan, Olle Folke, Torsten Persson, Johanna Rickne, “Political selection and the path to inclusive meritocracy“,(VOX,  26 April 2017)


古代アテネ人は公職に就任する者を決定するのに籤引を用いた。しかし、有能性 (competence) と公平な代表 (fair representation) の間にはトレードオフの関係があるとの主張が、寡頭主義者からなされたのもちょうどその頃 (そしてそれ以来ずっと) だった。本稿では、認知能力やリーダーシップ能力に関するスウェーデンの人口データの活用をとおし、スウェーデンの民主制が、有能であり、しかも、あらゆる生の在り方を代表するような人々による統治を実現している旨を論ずる。スウェーデンの包摂的能力主義は、選挙民主制が代表性と有能性の間の緊張を回避する手掛かりとなる可能性を示唆する。

BC411年の夏のこと、ある市民の一団がアテネの民主制に異を唱える寡頭制 クーデタ を敢行した (Kagan 1987)。政治的内乱と、シチリア人に敗北を喫した近時の経験とを背景に、これら蹶起人は、アテネに優れた統治を施しうるのは、大規模な民主的合議体ではなく、選り抜きの少数指導者集団であるとの意を固めていたのである。こうして誕生した寡頭制政権は短命に終わるが、それに続いたのは古典的なアテネ民主制の復活ではなく、「五千人の国制 (Constitution of the Five Thousand)」 と呼ばれる混合政体であり、これも引き続き最貧層の市民を権力から排斥するものだった。

民主制と寡頭制のこの緊張関係はすでにその頃までに、匿名の 「老寡頭主義者 (Old Oligarch)」 なる人物の手にかかる小冊子のなかで雄弁に論じられていた。それによると、民主制はあまりに多くの出自の低い者に権力への接近を許してしまい、才覚や徳の点で劣った統治を生み出しているのだという (Kagan 1969)。この老寡頭主義者の不満は選挙に向けられたものではなかった。それは当時籤引で行われていた、公職の割当に対するものであった。アテネの民主制ハードウェアとして最も特徴的なものは、投票箱ではなく、クレロテリオン (kleroterion) – すなわち名前を選出し、公職に割り当てる、粘土から作られた無作為選出装置だ。とはいえ老寡頭主義者は公平な批評家でもあった。つまり彼は、籤引による公職の割当が、下層階級の代表を確保するにあたって選挙よりも優れたものだと認めている。しかし彼の主張によると、籤引制度は重用され過ぎているし、またアテネの国制は有能性が極めて重要となる軍事的司令官などの役職については異なる手法を採用しているにもかかわらず、この選出制度は有能性を十分に考慮していないのである。

抽選 (籤引) による公務就任者の選出。そして有能性と公平代表の間にトレードオフの関係があるとの認識。これらはアテネ民主制が消滅した後にも残った。例えば、中世のフィレンツェ共和国は、権門勢家に対する明示的な公職制限と籤引を併用していた。Brucker (1962) は彼のフィレンツェ政治研究にこう書き記している。「籤引による公務就任者の選出手法は、政治能力や政治手腕をほとんど重視しておらず、むしろ凡庸性を奨励する傾向があった」 と。

ブレクジットレファレンダムと合衆国選挙は以上のような民主制の利点と限界に関する議論を再び呼び起こした。これら2つの投票は愚かな選択 (incompetent choices) を生んだと考える者は多い。他方、こうした投票結果は、自らが十分に代表されていないと感じている社会集団に後押しされた政治的ラディカリズムの一環だったのだと主張もある。一連の議論をとおし、抽選もまた再び日の目を見ることとなった。Van Reybrouck (2016) は最近の書籍のなかで、この手法ならばエリート層と投票権者のギャップを橋渡しできるのではないかと論じている。

広範な代表と有能な政治的リーダーシップの双方に価値を認めるのであれば、複数政党の並立する選挙民主制によって得られるものは何か、この点を問い直してみるのが有益と思われる。広範な代表 (これを確保するにあたっては抽選が助けになるだろう) と、有能な統治 (こちらについては抽選も役に立たないだろう)。この二者間の緊張関係を回避する手立てはないのだろうか? とはいえ、この問いに対する実証的な回答を見つけるのは難しい。一社会において政治家がどのように選出されているか、またこれら政治家が彼らの代表する人口とどの程度似通ったものなのか。これを見定めようと思うなら、我々にはまず、市民と政治家についての、有能性と代表性の尺度が必要となるだろう。しかしこうした情報を体系的に収集している国はほとんど存在しない。

我々の最近の研究では、1998年から2010年にかけての、スウェーデンの全体人口、およびスウェーデンで選挙に当選した全ての政治家を扱った行政データを分析している (Dal Bó et al., 近刊)。これらデータは、学歴や所得などといった – ミスリーディングの可能性は否めないとはいえ – 有能性を計るさいに一般的に用いられる様々な尺度を含んでいる。しかし我々の研究では3つの尺度にフォーカスすることにした。1つめは 「収入スコア」 で、これはBesley et al. (近刊) による方法論に基づき算出した。スウェーデン人の男性については、さらに 「認知スコア」(IQ) および 「リーダーシップスコア」(性格類型) も、兵役データに基づき測定した。

代表性の測定にあたっては、本データが持つもう1つの特筆すべき特徴に依拠している – すなわち家族内や世代にわたって個人を関連付けする機能だ。こうして政治家の両親の社会階級に関する情報が確保できた。この情報を活用することで、社会的な代表は政治階級の有能性の低下をともなうという老寡頭主義者の主張を検証できるようになった。

相対的に見て政治家は有能なのか?

まず初めに、これまでスウェーデンで政治家として選出された人物の有能性は、平均的にいって、籤引に基づき選出されたような場合と同じくらいなのか、それより優れている、あるいは劣るのか、この点を問うた。

「逆淘汰 (negative selection)」 によりむしろ無能性が導かれる可能性があるといっても、一部の経済学者は驚かないだろう。政界に進出しようとするさいに直面する機会費用は、能力のある個人ほど高くなる。そこで、能力の無い者が公的生活の大勢を占める事態も生じ得る (Caselli and Morelli 2004)。

さて前述の問いに答えよう。すなわち、市町村議会議員 (municipal council members) として歩み始め、市町村長 (mayors) や国会議員 (national legislators) へと進んで行く政治家は、強い正の淘汰をへて選出されているのである。図1には、リーダーシップ・認知・収入に関する有能性測定値、および学歴の分布を示した。太い中空の棒線はスウェーデン人口における分布である。最も薄い棒線は、市町村議会議員の候補者となったものの当選しなかった個人。続くグレーの棒線は当選した市町村議員候補者に対応する。最も右の2つの棒線はそれぞれ市町村長と国会議員である。

各政治家タイプについて特徴の分布をみると、スウェーデン人口における分布と比べ、右側にシフトしていることがわかる。したがって政治家は平均的な市民よりも適性があるといえる。また、同様のシフトは市町村議会議員候補者・市町村議会議員・市町村長・国会議員 の分布にも確認できる。我々の研究では、これらパターンをエリート層が就くような別の職種と比較しているが、市町村長は中規模企業 (被雇用者が25名から250名の企業) のCEOと同レベルの有能性を持っていることがわかった。

図1 スウェーデン人口と対比した政治家の有能性

出典: スウェーデンの人口データに基づき著者が作成

しかし、有能性が政治権力とともに単調に増加する傾向は、次の3つの異なる体制により生じてきた可能性がある:

  • エリート主義: エリート層の一員であること (富裕な権門勢家への所属) は権力へのアクセスを与える。政治家が有能そうに見えたとしても、それはエリート層の一員であることが能力と相関しているためであって、正の淘汰は寡頭制政治がもたらす偶然の結果にすぎない1
  • 排斥的能力主義: 政治は有能性の篩にかける。しかし、もし有能性が社会経済的地位の相対的な高さと相関しているなら、能力主義的人員募集体制には相対的に低位の社会集団を排斥する副次的効果がある。
  • 包摂的能力主義: 政治は有能性に基づき選別をおこなう。しかしそれは、仮に平均的に見てエリート層が有能性に関する優位をもっていたとしても、広範な社会部門を代表しうる。

正の淘汰はエリート主義の反映か?

エリートの地位が政治的成功を牽引していたのだとすると、家族的な (したがって社会的な) 出自の如何によっては、個人の有能性 (能力) も本人が選出されるかどうかにさほど関わらなくなってしまうだろう。

しかし家族的出自如何によっては、個人の有能性に関する特徴は非常に大きく関わってくる。図2上段の行は、市町村議員とその兄弟姉妹の認知・リーダーシップ・収入スコア分布を示す。3つ全ての特徴について、政治家の分布は明らかに右側にシフトしている。家族内での選別は、3つ全ての特徴に関して政治家と平均的市民との間に見られる差異全体の70%から80%を説明する。図の中段および下段の行は、市町村長と国会議員についてその兄弟姉妹と比較したものだが、ここでも類似の分布がみられる。敢えていうならば、むしろ家族内選別のパターンはより大きな権力を持つ政治家ほど強くなっている。

図2 兄弟姉妹と対比した政治家の有能性

出典: スウェーデンの人口データに基づき著者が作成

図2が示すように、選別は純粋なエリート主義に基づくものではない。しかしそれは依然として排斥的能力主義と両立するものかもしれない。つまりスウェーデンは政治家たるに値する有能な人物を選出しているかもしれないが、それでもこうした個人がエリート層の出身である可能性はある。能力というものには、恵まれた社会的出自と正の相関があるからだ (スウェーデンでさえ、これが実情となっている)。

スウェーデンは包摂的能力主義の国か?

もしスウェーデンが包摂的能力主義の国であるなら、スウェーデンは有能な人物を高い地位に就けながらも、広い代表性を維持していることになる。この問いに答えるべく、我々は政治家の社会的出自を調査した。そのさい着目したのが、1979年における彼らの父親達の所得分布だ。理屈からすれば、全体国民人口に対応するパーセンタイルの形で表した所得分布は、0.01水準で一様になるはずであることに注意されたい。

図3の左パネルは、2011年時点で活動していた政治家に関する所得分布を示す (これら政治家は2010年に当選した者で、図中の所得は彼らの政界進出に先立つもの)。明瞭に見て取れるように、この歪んだ分布は、政治家はその平均以上の能力を反映し、高い収入を得る傾向があることを示している。同図はさらに、政治家は平均的な人より大きな機会費用に直面するにもかかわらず、あえて政界に進出していることを示唆する。次に右パネルだが、これはかなり印象的だ。図は、2011年度の政治階級の父親達 – 1979年に測定したものなので、父子はちょうど同じくらいの年代にあたる – が、平均的にはけっして高給取りではなかったことを示している。実際のところ、彼らの所得パーセンタイル分布は、全人口における一様分布に非常に近い。換言すると、政治家の社会的出自に目を向けるならば、全体人口と同じ所得分布が確認できるのである。スウェーデンの政治家は有能なだけでなく、あらゆる生の在り方を代表してもいる。スウェーデンは包摂的能力主義の国だといってよさそうだ。

図3 政治家とその父親達の所得分布

出典: スウェーデンの人口データに基づき著者が作成

民主制と徳

BC411年のクーデタの後、寡頭主義者が最初に実行したことの1つは、アテネにおける公務就任者の賃金撤廃だった。近代経済学者ならば、こうした政策は有能な人物に政界進出を敬遠させるものだと考えるだろう。これでは機会費用の補償がないわけだから。しかしアテネの寡頭主義者はそれとは異なる理論を持っていた。公の問題に時を惜しまず尽力する余裕があるのは富裕層のみであるから、賃金を撤廃すれば政治家の有能性を高めることができる、これが彼らの考えだった。どちらの理論が正しいのかは、アテネ人がスウェーデンのような包摂的能力主義を生み出す条件を満たしていたのかに掛かっている。

スウェーデンでは、有能な人物が市政に時を惜しまず尽力している。市政職は – クーデタ後のアテネと同様 – (大部分が) 無給なのにもかかわらず。しかも職務に邁進している人物に、エリート層がとびぬけて多いわけでもない。以上が示唆するのは、選挙民主制によっても、きわめて有能なリーダーを選出しつつ、しかも抽選を採用した場合に期待される人口代表的なリーダーシップを維持できることだ。

これは勿論、民主制なら常に望ましいアウトカムにつながるとの旨をいうものではない。しかし選挙民主制は、古代ギリシアこの方、社会の観察者を悩ませてきた代表性と有能性の緊張関係を回避する手立てにはなりそうだ。今回の研究結果は、社会の持つどういった性質が以上のようなアウトカムを生み出しているのかについてのさらなる調査を促すものとなった。

集者注: 本稿は研究の要旨であり、オックスフォード大学出版によるQuarterly Journal of Economicsに近日掲載される論文  “Who Becomes a Politician?” から図を引用している。本稿で使われた図の再利用許可については、journals.permissions@oup.comに連絡のうえ、元論文を参照されたい。

参考文献

Besley, T, O Folke, T Persson, and J Rickne (forthcoming), “Gender Quotas and the Crisis of the Mediocre Man: Theory and Evidence from Sweden,” American Economic Review.

Brucker, G (1962), Florentine Politics and Society, 1343-1378, Princeton, NJ: Princeton University Press.

Caselli, F and M Morelli (2004), “Bad Politicians,” Journal of Public Economics 88: 759–782.

Dal Bó, E, F Finan, O Folke, T Persson, and J Rickne (forthcoming), “Who Becomes a Politician?” Quarterly Journal of Economics.

Kagan, D (1969), The Outbreak of the Peloponnesian War, Ithaca, NY: Cornell University Press.

Kagan, D (1987), The Fall of the Athenian Empire, Ithaca, NY: Cornell University Press.

Van Reybrouck, D (2016), Against Elections: The Case for Democracy, London: Bodley Head.

原註

[1] 選挙民主制においても、エリート主義の可能性の考察は無駄ではない。あのアテネ人にしてすら、寡頭制の要素には世論を勝ち取り影響力を確保するうえで有利な点があろうと考えていた; ペリクレスもしばしば民衆扇動をしていると非難を受けたのである。共和制ローマにおいてもパトリキによる同様の戦術が繰り返し観察された。共和制ローマでは、金と名声によって支持を購うことができたのだった。