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アレックス・タバロック 「ミツバチが『失業』した先に待っているのは?」(2016年2月15日)

●Alex Tabarrok, “The Sharks Get Stung”(Marginal Revolution, February 15, 2016)1


金曜日にテレビで『Shark Tank』(大成功を収めた百戦錬磨の社長たち(「シャーク(鮫)」)が番組に応募してきた出場者のプレゼンを聞いて「これは!」と思った相手に出資する番組)を視ていたらミネソタ出身の二人の麗しい女性が「Bee Free Honee」なる商品(リンゴから作られたはちみつ)を売り込んでいた。安くてベジタリアンの希望にも沿うはちみつ。いいアイデアじゃないだろうか? そうかもしれない。しかしながら、その二人の女性のプレゼン中に納得しかねる発言があった。「私たちの商品はミツバチを救うことにもなるのです」というのだ。リンゴから作られたはちみつのおかげで従来のはちみつに対する需要が減れば養蜂家もミツバチを酷使するのをやめるでしょうし、そうなればミツバチの数も増えるでしょう。そう主張していたのだ。bee-jop

「シャーク」の一人であるケヴィン・オーレアリー(Kevin O’Leary)が本領を発揮して件の二人の女性が語る「誤謬」をけちょんけちょんに叩くに違いない。そう思っていた。あるいは別の「シャーク」であるマーク・キューバン(Mark Cuban)が「常識」っぽく聞こえる話を口にする面前の二人の女性をやり込めるに違いない。そう思っていた。しかし、どちらも当てが外れた。「シャーク」たちはこぞってこの「血迷った」商品に舌なめずりして食いついたのだ。というわけで、私にお鉢が回ってきたというわけだ。

従来のはちみつに対する需要が減ればミツバチに対する需要も減る。従来のはちみつに取って代わる安くて高品質の代用品(リンゴから作られたはちみつ)の出現はミツバチたちが花粉媒介者(ポリネーター)として優雅に自然の中を飛び交うのどかな世界の誕生を意味しはしない。待っているのは「ミツバチの絶滅」(beepocalypse)なのだ。「Bee free honee」がミツバチを「救う」ことになるとすれば、それは内燃機関が馬を「救った」のと同じ意味で「救う」ことになるに違いない。

(追記)蜂群崩壊症候群(CCD)のことが気になっている人がいるかもしれないが、誰よりも気になっているのが他でもない養蜂家たちだ。養蜂家たちはCCDにうまいこと対処しているようでミツバチによるはちみつの生産にしても「送粉サービス」の提供にしてもどうにか持ちこたえているようだ。そればかりか、アメリカ国内におけるミツバチのコロニー(群)の数は過去20年間で今が一番多いらしいのだ(最新のデータはこちら)。CCDはまだ完全に解決されたとは言えないが、従来のはちみつとミツバチによる「送粉サービス」に対する需要こそがCCDの解決策を探る(養蜂家の)インセンティブを支えているのだ。覚えておいてもらいたい。従来のはちみつなんて要らないなんてことになれば、ミツバチの受け皿となってくれるのは「私の趣味ですか? クローゼットの中でミツバチを飼うことです」と語る人間くらいしかいないのだ。

(追々記)件の二人の女性は(デレク・パーフィットが語るところの)「いとわしき結論」(repugnant conclusion)に対する洗練された一つの立場を表明しようという・・・、いや、それはおそらくないだろう。

今回の記事を書くきっかけをくれたMaxに感謝。

  1. 訳注;原エントリーのタイトルを訳すと「まんまと騙されたシャークたち」となるだろう。おそらく「ハチに刺された」(get stung by a bee)という意味も込められているものと思われる。 []

ジョセフ・ヒース『トランプ大統領の省察』(2016年11月10日)

Thoughts on President Trump
Posted by Joseph Heath on November 10, 2016 | political philosophy, United States

トランプの当選については、多くの論点が言及済みだが、まだ大きな関心が払われていない幾つかについて指摘しておきたい。

まず最初に。この結果に本当に驚いたことを表明するのを許して欲しい。数週間前から正解を予言していたアンドリュー・ポター1 には祝福を! 昨夜までは思っていたのだ、ポターは間違えていると。有権者の投票行動においては、「政党の地方支部の活動」の重要性がほぼ全てだと信じていた。トランプが選挙キャンペーン組織をまとめあげられなかったことで、受けた打撃は、個人的に思っていたほどではなかった。

この[トランプの当選]結果は、政治学による評論家への偉大な勝利である事も記さねばならない。選挙時のディベートにおける立ち振舞やそこでのヘマのような事象は、大した事象ではない、と政治学は教えてくれる。政治学においては、選挙結果は、極少数の『マクロ』要因に「左右される」――この要因の最重要要素は、政権与党を変更させたいという[有権者の]要望であるとされている。2

火曜日のニューヨーク・タイムズで、トランプとロブ・フォード3 の類似性に私は言及した。トランプとフォードの2人が、選挙戦を行うのに際してとった行動は、従来のメディアの知見からみれば、行いうる限りにおいてほぼ全て間違えていた。にも関わらず彼らは勝利を収めたのだ。(ただ、トランプは総投票数では敗北し、選挙人制度においてのみ勝利を収めたことで、彼の勝利は価値を持たないことを私は示唆しておきたい)。トランプとフォードの強い類似を鑑みた時に、私が推察するのは、選挙戦におけるトランプの変遷が、フォードのそれと多くの点で似通っていた事だ。選挙の初年度、トランプは自らの意思で有権者を威圧しようとしていた。しかし時が経つにつれて、トランプは、自らの掟破りの言動の蓄積によって、自縄自縛に陥ることになっていった。

ただ、私がここで言及したいのは上記の件ではない。それよりも以下の2つの事項について省察を行いたい。

[1つ目はこの現象が]どのように起こったのかだ。

トランプの当選結果は、多くの異なる要素の集約によって出来上がっている。人種や経済的要因のような特徴的な要素を過小評価しないなら、個人的に追加言及しておきたいのが、トランプの支持者達が皆一様に表明していた一つの動機である。トランプの支持者達が希求していたのは、『腐敗した』現行政治制度への『チェンジ』だった。この点において、2人の候補者間には明らかな対照性が存在した。ヒラリー・クリントンの(自身が確実に行ってきた過去の事例に基いている)特化された専門性は、連邦政府の政治構造に居座っている様のような周知事実によっても、彼女が年期を経た政治的インサイダーであることを知らしめていた。『Citizens United(シチズンズ・ユナイテッド)4 』への不満を言うのを少し控えると、アメリカの統治形態が多様化しすぎている事に対して、ヒラリーが全く関心を持っていないことは明白だった。ヒラリーは現状在り方の推進に強く関心を持っていたのだ。正確に言うなら、彼女が主に売り込んでいた主張は、現行制度の複雑な回路を操作する能力だった。ここにヒラリーとトランプの対照性が現れている。この対照下において、トランプに投票するのは、雑貨屋に猛り狂った雄牛を送り込むような事だった。トランプは、既存の政治構造に、可能な限りにダメージを与えることが予測できたのだ。

ここで疑問が生じる。なぜこれほど多くのアメリカ人が、ここまで極端な方法でもって、自国の政治制度にダメージを与えることを欲したのだろう? 私が考える答えは、アメリカの政治制度には、極端なバクチ要素が内包されているということだ。これは、根本[制度]を改良できないという事実に起因している。以上の観点に立てば、アメリカは極めて異常な政体だ。過去数十年に遡って西洋民主主義国家を参照すれば、ほとんどの国では、顕在化した様々な[政治・社会的]問題や病理に、構造上の改良処置を立法化することによって、継続して解決策を見出してきた。(例えば、イギリスにおけるスコットランドへの自治権委譲や、上院の改定。他にはオーストラリアやニュージーランドの投票制度の変更が挙げられる)。

合衆国政府への私の見解は、長期の政治の衰退に陥っているということだ。(この見解は、他の論者も提唱している。特にフランシス・フクヤマが有力な論者だ)。ただ、だからといって、アメリカの崩壊を予言することは、無益な作業ではあるのだが…。私が発見した[アメリカの]今日の状況を突き動かしている物がある。それはアメリカが衰退に陥っている理由でもある。私が発見したのは、アメリカにおいて、現行の問題や政治的病理の進行に対処する、(広義の意味での)政治制度の自己改革能力が欠けてしまっている事だ。

カナダにおける選挙制度改革に関する近年の議論と、アメリカにおける選挙人制度を巡る状況は、非常に対照的だ。繰り返しになるが、ヒラリー・クリントンは総投票数では勝利を収める一方で、選挙人制度では敗北している。従って、アメリカの政治制度は、大統領選挙において、多数派の指名に失敗した事になる。これは、2000年のアル・ゴアとジョージ・W・ブッシュとの大統領選挙時に起こった出来事が本質的に繰り返された事になる。カナダ国民なら、多数決による選挙制度に基いている立法府において、もし政党与党が総獲得票数で過半数を下回っている事態になれば、不平を言うに違いない。しかして、カナダにおいて、国会に選任されることになった全ての議員は、選挙区での最高得票を得るルールの勝者であることが求められる。つまり(議員に選任される)いかなる老若男女も、対抗議員より多数の票を得ねばならないと問われる事実が、現として存在しているのだ。[カナダとは]対照的に、合衆国政府の大統領選出制度は、この[対抗候補より得票数で上回っていないといけないという]原則に反する事になっている。ドナルド・トランプは50%を超える投票数を得るのに失敗しただけでなく、選挙戦で最高得票数を得る競争の勝者ですらない。ヒラリー・クリントンは[当然トランプより]多くの票を獲得することになっている。

これは[アメリカの]政治制度に非常に大きな欠陥があると見なすことができる。そして、トランプの勝利後では、もはや驚くべきではないが、選挙人制度が崩壊していると公然と語られるようになってしまっている。カナダでは対照的だ、誰もここまで深刻に捕らえていない。[アメリカにおいて選挙人制度の変更に]言及することが、不可抗力的で無益であるという感覚が存在する事が、この論文で言及されているのは興味深い。この論点について尋ねられた人々は、皆一様にこう言う。「その通りだ。それは愚かで、非民主的だ。でも、それについて何とかする方法は存在しないじゃないか!」

似たような諦めの態度を他にもいくつか見つけることができる、ゲリマンダー5ロビー活動、選挙資金集めのような問題は、この問題[大統領選挙の投票制度]に比較して相対的に小さな『問題』だろうし、同じような大きな『問題』では、議会の構造や、選挙制度そのものを例示できる。実例を挙げて考えるなら、アメリカは、多数決制度の深刻な病理の酷い症状に侵されている。この病理は、(デュヴォルジェの法則によって)二大政党制の生成に向かわせ、有権者を大きく区分するという巨大な不満を産むに至っている。にもかかわらず、アメリカの投票制度の変更に関する議論は、全く存在しない。なぜだろう? この件について私が問いただしたアメリカ政治の理論家は、皆同じことを言う。「この事について話すのは不毛だ。なぜなら何も変えることができないからだ」と。一方、カナダはこのような問題(多数決による多数派専横の病理)を抱えてはいない。もちろんカナダでも、しばしば選挙制度改革についての深刻な議論に従事することがある。(ただ、私はその『カナダの選挙制度』について言及しておかねばならない。カナダでは議論が明後日の方向に行ってしまうのを心配することはないし、制度の変更が成し遂げられないかもしれないとか、制度が変更不可能かもしれないと疑う事はありえない。もちろん今のカナダでは選挙制度の変更は必要ないので、変更は起こらないと考えているが…。)

改革が不可能という答えが存在する状況では、アメリカの制度は、スティーブン・テレスが『Kludgeocracy(バグ取り主義)』と呼んでいるモノにゆっくりと巻き込まれる事になっている。改革を立法することより、アメリカ人は、ルールを捻じ曲げて解釈すような方法で、現制度への対処療法を施してきた。アメリカ人は皆、この方法がルールの変更より容易である事で受け入れてきた。(というわけで、ついでながら言っておくと、アメリカ人は皆、『権力の分立』が、自身をバカにしてるかのようなトランプ大統領を抑制することを望んでいる。ただ合衆国において『権力の分立』は、対処療法やバグ取りによる数十年にも及ぶ毀損の蓄積によって、激しく品位が低下している。)

ここまで述べたことに基づくなら、合衆国政府は、“output legitimacy(市民の公的政策結果への評価)”の圧倒的な欠乏に陥いっている。この欠乏によって、合衆国政府は、他の豊かな先進国住民なら自国政府に期待して良いであろう公共政策を行う事に、一貫して失敗している。(他の西洋民主主義国家における市民の受難とは、全く別の恐ろしい受難をアメリカ市民が抱えている事を、合衆国の統治について研究した者なら皆知ってる。)この立法部門の機能不全は、市民に満足な解決策を何も提示できない事にもなっており、アメリカ人は皆、多くの緩慢なバグ取り[対処療法的な問題解決]の蓄積に直面している。(例示しておくと、安価な医療制度や、再生可能エネルギー政策などである。)

ほとんどのアメリカの人々は、制度についてはもはや思考放棄している。彼らは政府による悪いパフォーマンスを見た時、手近の[悪いパフォーマンスを演じているように見える]役者に不満を溜める。そして、アメリカの人々は、物事を変えると約束している新しい役者を送り込む事で対応することになる。何十年もアメリカの人々はこれを続けてきた。そして、未だに何も変えることができていない。なぜだろう? それは、現法下の個人行動では変更不可能な、構造的問題であるからだ。アメリカの人々は、この変更不可能な問題に、どう対応しているのだろう? 多くの人は、硬直した[政治]状況に自身が送り込んだ役者が、懐柔されたか、十分にタフでなかったか、役割に相応しくなかった、と結論づけることになる。そして、物事をチェンジすると約束した、より過激で絶叫する人物を送り込む事になる。それでも[送り込んだ人物が]仕事を果たせずにいる[ように見える]と、さらにより過激な人物を送り込んできた。

ドナルド・トランプに投票することが、この過程の最終到達点だ。少なくとも、我々はこれが最後になることを望みたいものだ…。いずれにせよ、トランプが目立った失敗をしでかすことや、ポジティブな変化を起こせない事、そしてそれらが破滅的な悪循環の継続へと至ることは、既に予測可能だ。何よりもまず、トランプは、プロセスを積み重ねることや、組織的な観点について考えることができない。トランプは、悪い政策結果を目にした時、関係者が「愚かだ」と推定するだろう。そして代わりに「頭が良い」人物を起用すれば、良い結果を生むと考えるだろう。このやり方は、失望を生む処方箋となる。続いて、特効性のあるチェンジを(主に議会の会期中には)約束する事なり、これも単により悪い結果に至るだけだろう。一方で、彼が約束している裁判官人事は、憲法上の制約をより強化することになる。それによって、選挙資金集めの改革や、ゲリマンダーを終わらせることも不可能になるだろう。

[2つ目は]トランプの当選が意味する物である。

アメリカ人は、「トランプの当選がアメリカ人にとって何を意味するのか」という問題に夢中になっている。私はアメリカ人でないので、「トランプの当選は世界にとって何を意味するのか」という問題に興味がある。以下は過剰な心配かもしれない、しかし、昨日[のトランプの当選]は、ベルリンの壁崩壊のような世界文明の方向性が変わった瞬間の1つであるように、私には感じられた。ドナルド・トランプが合衆国大統領になった事は、西洋民主主義の信用を深く毀損する事になるだろう。この事実に沿って個人的に考えるなら、火曜の[大統領]選挙の国際的な大勝利者は、中国式の権威主義ではないだろうか。なので、ソ連の崩壊が共産主義の破滅を導いたのと同じように、トランプの当選は、自由民主主義からの世界的な離反に至るターニングポイントに相当するかもしれない。

アメリカ人がトランプについてどう考えようとも、グローバルな見地で観察する限り、最も重要な事実は、世界中の人々がトランプを無能な道化と見なしている事だ。言及せねばならないが、中国の人々は、トランプが任命された小事でもって既に祭り状態だ。中国は過去にジョージ・W・ブッシュが大統領である事で巨大なプロパガンダを貼る利益を得ている。当時の中国のプロパガンダは「我々の政治制度の方が優れている。なぜなら、我が国ならこのような無能者を国家元首にする事は許されていない」だった。トランプ大統領の任期中にも同じようなプロパガンダが貼られるだろう。(追加するに、この道化の狂った男は、ジュリアーニ、ギングリッチ、ペイリン、ボルトンのような内輪の人事を行うだろう)。中国への民主化圧力が不可能になることは確実だ。

より重要な事に、気候変動のような問題でグローバルな指導的地位に何が起こるか考えねばならない。この件でヨーロッパ諸国は、気まぐれで、自己中心的だ。その上、気候変動の件では、重要な国際的地位を占めていない。合衆国政府は、破滅的な統治の失敗を被っている。そしてその元首[トランプ]は、この問題を完全に否認している。よって[世界の]人々は、[気候変動問題で]指導的地位を探索することになる。その探索の自然なる集結地は、中国になるだろう。ざっくり考えるなら、人類の未来が中国にあるように見える出来事の始まりとなる。より憂鬱なことに、([合衆国と同じく]限定的な改良統治に従事しているにすぎない)中国の政治制度が、安定と繁栄を保証するような1つ[の政治制度の選択肢]として見え始めている。中国が地球上で最も進歩していなかった300年はだんだんと例外に見え始めており、今では伝統的な[国際社会における]支配的地位に返り咲きつつある。

自由民主主義政体の在り方は[アメリカの]他にも多数存在し、そのほとんどはアメリカより優れていることから、以上の結論は確定された見解ではない。(私が過去に何度も指摘してきたように、アメリカは、海外では自身の制度[大統領制]を再設計しようとはしていない。例えば、イラクに侵略した後、アメリカは議会制民主主義を押し付けている――議会制民主主義は大統領制より優れていることを、アメリカ人の一部は暗黙裡に認めているのだ)。にもかかわらず、合衆国政体は世界で最も名声ある民主主義政体なので、合衆国の統治の失敗は、民主主義理念の失敗として広く認識されることになる。アメリカという一国家の失敗にすぎないのだが…。

だからたとえ、トランプが『孤立主義』でなかったとしてしても(例えば、彼がTPPをぶち壊さなかったり、NATOを軽視しなかったりしても)、今回の選挙は中国にとって巨大な勝利であり、中国の政治制度を賞賛し擁護する人々にとっての巨大な景気づけにもなっているのだ。

※訳者による補足の単語等は基本は[]で括っている
※訳注:初訳時に、誤訳を指摘してくれたoptical_frog氏に強く感謝を!

  1. 訳注:ヒースと『反逆の神話』等の共著があるジャーナリスト []
  2. 訳注:ディベート等で両候補者の立ち振舞いを見て「ヒラリーの勝ち」等を断定していた評論家への、ヒースの嫌味と思われる。 []
  3. 訳注:トロント市長(2010-2014年期)。トランプと同じく奇矯な振る舞いで話題を集めた。 []
  4. 訳注:右翼団体シチズンズ・ユナイテッドによるヒラリー・クリントンを排撃する偽ドキュメンタリーと、その放映の是非を巡る最高裁での裁判。さらには該当ドキュメンタリーの放映の合法判決によって、プロパガンダ的なTV番組によるキャンペーンが可能になった現象全般を指していると思われる。リンク先で詳しい解説を日本語で読むことが可能。 []
  5. 訳注:政治家が、自身や自政党に都合が良いように選挙区の区割りを行う事。最初に問題視された政治家の名称がゲリーであったことと、区割りした地域が想像上の怪物『サラマンダー』に似ていたことで、『ゲリマンダー』と呼ばれるようになった。 []

タイラー・コーエン 「失業中の象 ~象の失業率は40%!?~」(2016年1月31日)

●Tyler Cowen, “Hysteresis for legally protected ZMP elephants in Myanmar”(Marginal Revolution, January 31, 2016)


「失業の問題は本当に厄介ですね。一体どうすりゃいいんだか」。そう語るのはウー・ソオ・タ・ペイニョ氏。ペイニョ氏が所有する6頭の象は過去2年にわたって仕事がない状態が続いているという。「木が少なくなってるもんですから伐木の仕事もないんです」。

ミャンマーを代表する「象専門家」であるダウ・カイン・ウー・マー氏が語るところによると、今現在失業中の象の数は全部で2500頭に上るのではないかと推計されており、その多くは(タイ国境から2時間半のところにある)ミャンマー東部にあるジャングルを主戦場とする象だという。失業率に換算するとおよそ40%。ちなみに、ミャンマー国内の(人間の)失業率はおよそ4%だ。

カイン・ウー・マー氏は語る。「象たち自身もその多くは何をすればいいのか途方に暮れてる状態ですね。象の持ち主にもかなりの負担がかかっています。象を養うのにはお金がかかりますからね」。

大人の象の体重はおよそ1万ポンド(およそ4500キログラム)にも上り、一日に食べる餌の量は400ポンド(およそ180キログラム)にもなるという話だ。象の主な仕事にはサーカスへの出演や伐木があるが、その他の仕事となると選択肢は限られているという。

伐木の仕事はきつくて大変だが、ミャンマーの象が比較的健康な体を維持できている理由の一つは伐木仕事(重労働)のおかげでもあるのではないかと語る「象専門家」もいる。2008年に実施された調査によると、ミャンマーで伐木に従事している象――「よく働きよく遊ぶ」を日々実践している象――はヨーロッパの動物園にいる象と比べて2倍近く長生きする傾向にあるとの結果が報告されている。ヨーロッパの動物園にいる象の寿命の中央値(メディアン)は19歳1。その一方で、ミャンマーで伐木に従事している象の寿命の中央値(メディアン)は42歳2だというのだ。

全文はこちらだ(このニューヨーク・タイムズ紙の記事はMichelle DawsonおよびOtis Reid経由で知ったもの)。ミャンマーの象は労働法で厳重に守られてもいるらしい。

ミャンマーの歴代の軍事政権はイギリスに統治されていた時代に作られた規則ずくめの労働法を象にも適用し続けてきた。週5日8時間労働(1日の法定労働時間8時間、週休2日制)に定年55歳、産休の義務付け、夏季休暇、そして適切な健康管理。さらには、政府が運営する象のためのマタニティキャンプ(妊娠中の象を一同に集めたキャンプ)に定年退職した象のためのコミュニティまで揃っている。軍事政権による独裁が続いていた間は(人間向けの)基本的な社会保障の仕組みも未整備なままだったわけだが、その間も象向けの労働法は厳重に遵守されていたのだ。

はじめから終わりまで全編を通じて興味深い話題が目白押しだ。ところで、ふとこんな疑問が頭をよぎる。象に対する労働法の適用が緩められたとしたら象の「自然失業率」は一体どのくらいになるんだろうか?

  1. 訳注;19年生きる []
  2. 訳注;42年生きる []

アレックス・タバロック「疲労困憊した医師は間違いをおかしやすく患者の害になる」

[Alex Tabarrok, “Fatigued Physicians Make Mistakes and Harm Patients,” Marginal Revolution, March 12, 2017]

疲れ果てた状態で車を運転すると事故をおこす.この当たり前の事実への対応策として,バスやタクシーの運転手は8時間連続して休憩をとったあとで最大10時間までしか運転できないように制限されている.ところが,内科医の場合,現行の基準はこれより大幅にゆるい.1年目の研修医の交代勤務時間はなんと16時間だ.これだけでもすでにどうかしてる.ぼくは午後 7:20から10時の夜学クラスをよく教えている.いつも,むずかしい題材は早めの時間に教えるように心がけている.なにしろ,9時ごろになると,もう調子がすっかり落ちてしまっているからだ.言うまでもなく,教師よりも研修医たちにかかるストレスの方がはるかに大きいし,疲労も大きい.さらに,1年目の研修医たちが働けるのは16時間までだけれど,2年目になると連続24時間ずっと働けるどころか,最大30時間まで働けるようになっている.睡眠をとらずにまともに稼働できる秘訣を1年の研修で内科医たちに教えられるんだとしたら,すごくない?
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ピーター・シンガー「私たちが肉を食べるのを止めない限り、動物たちへの虐待は終わらない」(2015年2月11日)

・Peter Singer, “The abuse of animals won’t stop until we stop eating meat“, Guardian, 11 February, 2015.

 

1975年に『動物の解放』を出版した時には、40年後には屠殺場が存在しなくなっており、したがってイングランドの北部にある食肉処理場で行われたような残虐行為についての記事が新聞に載ることもなくなっていること私は望んでいた。人間による動物の虐待に反対する議論はあまりにも明白で反論の余地もないものであるように私には思えたし、反奴隷制運動がアフリカの奴隷貿易を終わらせたのと同じように動物虐待も歴史の遺物としてしまうような強力な運動が確かに起こることだろう、と思っていたのだ。

少なくとも、それが楽観的な時に(あるいはナイーブな時に)私が考えていたことだ。より悲観的な時には(あるいは現実的な時には)、肉を食べることなどの人々に深く根付いている習慣を変えること、また哲学的な見解を種差別主義(speciesism)のように根元的なレベルから変えることなどの課題がどれ程巨大なものであるかということは私も理解していた。奴隷貿易が廃止されたから200年経っても我々の世界にはまだ人種差別が存在しているのであり、奴隷制ですらも、全ての国で違法になっているとはいえまだ存在している。人種差別や人間を対象にした奴隷制を終わらせるよりも簡単にまたは迅速に種差別や動物を対象にした奴隷制を終わらせることはできる、ということが期待できる筈がないではないか?

上記の現実的な予測の背景には、動物たちに対する虐待は現在でも甚大な規模で行われているという事実が存在しているのであり、それに直面して嘆くことはできるだろう。しかし、絶望をしてはならない。ヨーロッパとアメリカを含む世界中の多くの国では、動物に対する人々の態度の変化は素晴らしく進んできた。それらの国では強力な動物愛護運動が登場したし、そのことは数十億もの動物たちの境遇に変化をもたらしてきたのである。

1971年のオックスフォード大学にて、自分たちが食べている卵や仔牛がどのように生み出されているかということを通行人に示すための展示を私は他の複数の学生と共に行っていた。畜産業界が持っている政治的力や経済的力に対して自分たちが勝つことができると本気で思っているのか、と人々は私たちに訊ねたものだ。しかし、動物愛護運動は畜産業界に対して挑戦してきたのであり、その挑戦は成功して、農場の動物たちがより広い空間で飼われてより良い生活状況で育てられることを命じる法改正ヨーロッパ全国で実現してきた。同様の法改正はカリフォルニア州でも行われている。無論、これらの変革が行われた後であっても、工場畜産の下で育てられる動物たちがまともな生活を過ごせるようになることを実現することからは現在はまだまだ程遠い。しかし、法改正が実効されたことは、それ以前に標準的であった習慣に対する大幅な改良をもたらしたのだ。

法改正以上に喜ばしいかもしれないのが、動物を食べることを完全に止めてしまった人々や倫理的な理由に基づいて肉の消費量を減らした人々の数が増えたことである。1970年代には、ベジタリアンであることは変人[crank]であることだった…当時のロンドンで最高の ベジタリアンレストランであった Cranks の店名は、当時の価値観を自虐的に反映したものである。もしあなたが”ビーガン”という言葉を口に出したら相手はポカンとしただろうし、あなたはその言葉の意味を説明しなければならなかっただろう。

法改正やベジタリアンの増加にも関わらず、人間の手によって苦痛を負わされている動物の数は現在が過去最大である、ということはおそらく事実である。現在の世界では豊かな生活を過ごしている人の数が過去最大であるということがその理由であり、特に中国でそうであるように、豊かになった人々の要求を満たすということは工場畜産が大規模に拡大されるということを意味しているのだ。しかし、この事実を動物愛護運動が何も成果を成し遂げてこなかったことの証拠として見ることは、現在の世界における奴隷の数は1800年よりも増えているのだから反奴隷制運動は何の成果も成し遂げてこなかった、と主張するようなものである。現在の世界人口は1800年の7倍になっていることをふまえると、数字だけで物事の全体を語ることはできないのだ。

進歩は確実なものではない。自分たちが無益に立ち往生しているように思える時は常に存在するだろうし、運動が後退しているように思える時すらも存在しているだろう。たとえば、毛皮を着用する人の数が昔のように増えていることを伝える記事は定期的に掲載される。しかし、40年前には毛皮は誰からも問題にされずに受け入れられていたものだったが、40年前と同じような扱いをまた毛皮が受けることは最早ないだろう、と私は思う。(犬や猫、あるいは馬に対する虐待についてだけでなく)食料にされるために屠殺される動物たちに対して行われている虐待について新聞が大々的に取り上げるようになったという事実それ自体が、進歩を表しているのである。

さて、動物愛護団体の Animal Aid が公開したハラール用食肉処理場の内部告発ビデオからは一つのシンプルな教訓を得ることができる。動物を人間が利用する道具にしてしまって、彼らをどう扱うかということを現場の労働者たちに全て委ねてしまったとすれば、ビデオの中で告発されているような虐待が発生するのを止めることは永遠に不可能である、という教訓だ。労働者を一人か二人クビにしたとしても、スケープゴートを作ることにしかならない(ところで、スケープゴートという単語が動物に対する私たちの伝統的な態度をいかに伝えてくれるか、考えてみてもいいだろう)。問題は一人か二人の労働者にあるのではないし、ハラール式の屠殺という習慣にあるのでもない。システムが問題なのであり、そして人々が肉を買うのを止めない限りはこのシステムを変えることはできないのだ。

アレックス・タバロック 「人間以外の動物(アニマル)も『アニマルスピリッツ』を持ち合わせているか?」(2010年1月29日)

●Alex Tabarrok, “Do Animals have Animal Spirits?”(Marginal Revolution, January 29, 2010)


自然界で「実物的景気循環」(リアルビジネスサイクル)が起きる様を想像するのはいとも容易いことだ。例えば、色んな生き物がウヨウヨとたむろしている池を思い浮かべて欲しい。ある時のことだ。池に浮かぶスイレンが寄生虫の魔の手にかかりすべて枯れてしまった。困ったのはカエルたちだ。ハエを捕まえようにも大事な足場(スイレン)が無くなってしまって捕まえようがないのだ。おかげでハエたちはわが世の春を謳歌することになるが、カエルたちはやせ細る一方。(カエルを捕食する淡水魚の)ノーザンパイクもショボイ獲物しか見つからずに困り果てるばかり。・・・と、まあこんな感じだが、「池国」内総生態(GPB;Gross Pond Biota)の計測を試みてみたら「池経済」における「景気」循環を跡付けることも可能になることだろう。「池経済」内の異なる部門(カエル部門、ハエ部門等々)も別々に計測すれば、当初のショック(寄生虫の襲来)に対してそれぞれの部門がどう反応し、一方の部門(カエル部門)で生じた変化が他方の部門(ハエ部門)にどんな変化を巻き起こしたかを跡付けることも可能になるだろう。つまりは、当初のショックが「池経済」内に引き起こした連鎖反応を時系列順に辿ることも可能になるわけだ(何だかベクトル自己回帰(VAR)モデルを使った時系列分析みたいな話だ)。

「池経済」でケインジアン流の景気循環が起きる余地はあるだろうか? あるいはこう言い換えてもいい。「アニマルスピリッツ」が自然界での景気循環の原動力になる可能性はあるだろうか? 「実物的景気循環」なら想像しやすい。しかし、こっちのケース(ケインジアン流の景気循環)は・・・、う~む。(悲観的なムードが個体から個体へとたちどころに伝染するのに伴って)「流動性への逃避」だとか突然の「投資の冷え込み」だとかいった現象が起きるためには「お金」(貨幣)ないしはそれに似た何かが必要になるだろう。群集(同調、模倣)行動(herd behavior)が(ロジャー・ファーマーが説いているようなかたちの)「コーディネーションの失敗」型の景気循環を引き起こす余地はもしかしたらあるかもしれない。この点との関わりで興味深いことがある。あくまでも私が知っている範囲での話に過ぎないがと断っておくが、それぞれの個体が互いの行動を模倣し合う群集行動は集団全体にとって最適な振る舞いだというのが生物学の今のトレンド(流行)の立場のようなのだ。しかしながら、必ずしもそうとは限らないように思われるのだ1(単細胞生物の)粘菌も過酷な環境にさらされると自己組織化して群体となって振る舞うことが知られている(邦訳『創発-蟻・脳・都市・ソフトウェアの自己組織化ネットワーク』)が、そういった自己組織化のプロセスが外的なショックもなしに(あるいは外的なショックが些細なものに過ぎなくても)突然始まるなんてことは果たしてあり得るのだろうか? 自然界における景気循環を説明するモデルというのは果たして見つかるんだろうか? 「アニマルスピリッツ」を持ち合わせているのは人間だけなのだろうか? それは何だか違和感がある。どうやら生物学者と経済学者が助け合える余地がたくさんありそうだ。

  1. 訳注;群衆行動が「コーディネーションの失敗」へと誘い、その結果としてその生物種の「経済」が「悪い均衡」に嵌ってしまう可能性もあるのではないか、という意味。 []

マーク・ソーマ 「『アニマルスピリッツ』という語の来歴」(2009年3月15日)

●Mark Thoma, “Animal Spirits”(Economist’s View, March 15, 2009)


「アニマルスピリッツ」という語の来歴について少々。

・・・(略)・・・何よりも求められているのは「アニマルスピリッツ」が息を吹き返すことだ。そう語る変わり者がいる。その名はロバート・シラー(Robert Shiller)。シラーといえばノーベル経済学賞受賞者でもあるジョージ・アカロフ(George Akerlof)との共著本――『Animal Spirits』。気が滅入るほど長たらしい副題付き――が出版されたばかりだが、そんな彼が数週間前のニューヨーク・タイムズ紙に論説を寄稿している。・・・(略)・・・シラーは件の論説の中で次のように述べている。「ここ最近の経済論争の様子を眺めていると1930年代の大恐慌が引き合いに出されている例をよく見かけるが、そのような『大恐慌物語』への注目こそが目下の低迷を後押しする原因の一つとなっている。どういうことか? そのような『物語』が広く語られることで大恐慌が今後の先行きを占う参照基準となってしまい1、その結果としてジョン・メイナード・ケインズが『アニマルスピリッツ』と呼んだものに冷や水が浴びせられる格好となってしまっているのだ。『大恐慌物語』があちこちで語られるおかげで消費者の購買意欲や企業の(雇用の拡大や事業の拡大に向けた)攻めの姿勢を背後で支える『アニマルスピリッツ』が萎えてしまっているのだ。『大恐慌物語』は『自己成就的な予言』となる資格を備えているのだ」。

1936年に出版されたケインズの『一般理論』(“The General Theory of Employment, Interest and Money”)が「アニマルスピリッツ」という語を広める上で大きな役割を果たしたことは間違いない。ケインズが『一般理論』の中で述べているところによると、経済がたびたび動揺にさらされるのは・・・(略)・・・「投機」の結果であったり、あるいは次のような事実のためでもあるという。「企業による投資の決断は将来収益の期待値を事細かに計算した結果に基づくというよりは内から湧き上がってくる楽観論によって左右される面が強い。・・・(略)・・・人々が何か積極的なことをやろうと決心するに至るのは大抵の場合アニマルスピリッツ――何もしないでいるよりは何かやらなきゃと駆り立てる内から湧き上がってくる衝動――に突き動かされた結果としか言いようがないのであり、何かすることで得られると予想される(数値化された諸々の)便益に(これまた数値化された)確率を掛け合わせた加重平均(予想便益の期待値)を計算した結果なんかではないのだ」。

たった今引用したばかりの箇所ではアニマルスピリッツが人をして自信過剰にしてしまう傾向に警鐘が鳴らされているわけだが、別の箇所ではアニマルスピリッツの好ましい面(リスクテイクを促す面)に目が向けられている。「アニマルスピリッツが萎えるのに伴って内から湧き上がる楽観論が鳴りを潜めてしまい、予想便益の期待値の数字以外に何も頼れるものがない。そんなことになってしまえば事業も衰退しやがては死に絶えてしまうことだろう」。うん。個人的にはこっちの方が好きだ。

ケインズが経済学の世界で有名にした「アニマルスピリッツ」という語には実は長い歴史がある。バーソロミュー・トラヘロン(Bartholomew Traheron)が1543年に海外のとある外科医(イタリアの医師であるジョヴァンニ・ダ・ヴィーゴ)の著作を翻訳しているが、その中に次のような記述が見られる。「医学を専門とする者たちの教えによると、人間のスピリット(霊気)には3種類あるという。アニマルスピリット、ヴァイタルスピリット、ナチュラルスピリットである。アニマルスピリットは脳に宿る霊気であり、魂――ラテン語では「アニマ」(anima)――の第一の手先を務める霊気であることからアニマルという語が冠されている」2

・・・(中略)・・・

イギリスの作家たちは「アニマルスピリッツ」という語に備わっている躍動感を敏感に嗅ぎ取り、自らの小説の中にも熱意を込めて取り入れている。ダニエル・デフォーは『ロビンソン・クルーソー』の中で次のように書いている。「(刑の執行直前に刑の取りやめが決まったことを知らされた罪人たちは)あまりに驚き、そのためにアニマルスピリッツ(動物精気)が心臓で足止めを食う(心臓の外にいつまでも流れ出ないままでいる)可能性があるからである」。ジェーン・オースティンも『高慢と偏見』の中で「アニマルスピリッツ」という語を使っているが、あふれんばかりの活力(ebullience)という意味を込めて次のように書いている。「彼女(リディア)はアニマルスピリッツ(活力)に溢れる女性」。ベンジャミン・ディズレーリ(英国の元首相であり小説家としても活躍)も1844年に(『コイングスビー』の中で)オースティンと同じく「活力」という意味を込めて次のように書いている。「彼はアニマルスピリッツ(活力)に溢れる人物であり、愉楽に対する鋭い感覚の持ち主でもあった」。いい感じじゃないだろうか?

  1. 訳注;「この先に待っているのは大恐慌のように長くて厳しい不況なのではないか」との悲観的なムードを後押しする役割を果たし、という意味。 []
  2. 訳注;「アニマルスピリッツ」という語の来歴についてはアカロフ&シラー(著)/山形浩生(訳)『アニマルスピリット』でも簡潔に触れられている。その箇所を以下に引用させてもらうとしよう(注ページ pp. 24~25)。「(3)アニマルスピリットという用語は古代に生まれ、古代医師ガレノス(ca.130-ca.200)の著作が昔からその出所として引用され続けている。この用語は中世までは医学でふつうに使われており、Robert BurtonのThe Anatomy of Melancholy(1632)やRene DescartesのTraité de l’Homme(1972[1664], 邦訳『人間論』)まで続いている。スピリット(霊気)には3種類あるとされていた。心臓から生まれるとされる生命精気、肝臓から生まれる自然精気、脳から発する動物精気である。哲学者George Santayana(1955[1923], p.245)は「動物信念」の中心性をもとに哲学大系を構築したが、かれのいう動物信念とは「純粋で絶対的な精気、知覚不能な認知エネルギーであり、その本質は直感である」」。医学(ないしは生理学)の分野における「アニマルスピリット」論の盛衰の歴史についてはこちらのリンク(英語)も参考になるかもしれない。ちなみに、ケインズはデカルトないしはヒューム経由で「アニマルスピリッツ」という語を知ったのではないかという説が有力なようだ。そのあたりの詳しい話は例えば次の論文を参照のこと。 ●D. E. Moggridge(1992), “Correspondence: The Source of Animal Spirits”(Journal of Economic Perspectives, vol.6(3), pp.207-212) []

ジョセフ・ヒース「移民政策について、アメリカがカナダから学べること」(2017年3月7日)

Joseph Heath, “What the United States could learn from Canada on immigration policy“,  In Due Course, March 7, 2017.

 

自国の移民政策を何らかの形で失敗させてしまい、周縁化された民族集団とネイティヴィストのバックラッシュとの不幸な組み合わせを作り出してしまった国々が世界には数多く存在する。そのような国では、人々の周縁化が様々な社会病理を生み出して(失業、犯罪など)、そのことがバックラッシュの背景にある移民に対する差別的な態度の多くを正当化してしまう、そのことがまた周縁化や排除を増させて社会病理を悪化させる、そのことがまた…といった悪循環が容易に生み出されしまう。カナダには数多くの問題があるとはいえ、少なくとも我々カナダ人はこのような形で移民政策を失敗させることはしなかった(ファースト・ネーション[訳注:カナダの先住民集団]との関係と比較しての話だ。ファースト・ネーションに関してはカナダも失敗してしまったし、上述したのとほとんど同じような悪循環を生み出してしまった…また別の複雑な要素もいくつか含まれているのだが)。

いずれにせよ、移民政策を失敗させてしまったどこかの国がその政策を改善するための何らかのアイデアをカナダから得ようとする時、彼らがほとんど反射的に注目するのは、移民を特定のクラスに分別するためのポイント制度をカナダが用いているということである。しかし、大半の専門家はポイント制度は実際には大した事柄ではないと考えているし、カナダの移民政策の成功における最も重要な要素でもないと考えている。だが、ポイント制度に人々に訴えかけるものが含まれていることは明らかだし、おそらく「望ましくない連中は国に入れるな」という主張を実践する制度に見えるがために、特にネイティヴィストたちにとって魅力的である。だから、先日に議会で行われたスピーチにて、ドナルド・トランプがカナダのポイント制度をアメリカにとっても望ましいモデルであると言及したことは意外でもなんでもないのだ。

アメリカの移民制度におけいては他にどれ程多くの要素が崩壊状態になっているかということをふまえれば、トランプの主張は滑稽である。しかし、残念なことに、多くのアメリカ人はこの事実を直視しないだろう。他の国に比べてアメリカの移民政策がいかに特殊であるかということを多くのアメリカ人は単に理解していないか、または、これまで行われてきた政策を当たり前のものとして受け入れてしまっているからだ。だから、一人の外国人として、アメリカが移民政策で犯してきた二つの大きな失敗であると私が見なしていることを以下で指摘しよう。

あらかじめ注意しておくが、私が行う二つの提案のどちらも、非常に右翼的な印象をアメリカの読者たちに与えるかもしれない。しかしながら、カナダでは私の提案は右翼的なものだとは見なされない。私の提案がアメリカでは右翼的だとされるのは、アメリカ人たちは移民問題を人種というレンズを介して見るために(もちろん、この場合の”人種”は実際には人種を意味しているのではなく、黒人と白人との間の関係を意味している)、別の問題として考えるべき数々の事象を曖昧にしたり混同させたりする傾向があるからだ。このため、道理に適っている移民政策の多くが、もしその政策がアフリカ系アメリカ人に向けられるとすれば非友好的であるか不当なものとされるような種類のものになるだろうという理由によって、左派から拒否されてしまっているのだ。

 

1:スペイン語を国語であるかのように扱うのを止めよう

 

カナダ人たちやカナダの全政党の間で満場一致に同意されている物事は数多くある。その一つが、移民たちには”地域の”マジョリティの言語(ケベックではフランス語、他の地域では英語)を習得することとその言語を使って働くことが期待されている、ということだ。この意見の背景には、カナダがバイリンガル国家であり公用語のうちの片方はマイノリティであって消失の危険に常に晒されている、という事実が明らかに影響している。だから、フランス語を習得しようと思っていること(少なくともそう宣言すること)がケベックへの移民の必須条件であることは圧倒的に明白なのだ。同時に、カナダに二つの言語が存在していることは国内の分断の大きな原因ともなってきた(ケベックの分離独立問題など)。このことは、フランス語に認められているようなマイノリティ言語としての地位を”アロフォン”移民[訳注:英語とフランス語以外を母語とする人]が彼らの母国語にも認められることを期待してはならないということを、カナダの英語州における移民政策の必須条件としてきた(この領域に関するウィル・キムリッカの研究の影響力、またキムリッカの定義による民族集団・民族言語とネイション集団・国語との区別の重要性は、この移民政策の原則的な正当化をもたらしている)。要するに、英語州のカナダ人は、自分たちがフランス語に対して行ったのと同レベルの妥協を中国語やヒンドゥー語やペルシャ語にも行うべきだと中国やインドやイランからの移民から要求されたとすれば、その移民を受け入れないということだ。

したがって、カナダへの移民に対して示される言語に関する”取り引き”は実に明白なものである。…あなたはこの国に来た、あなたはこの国のマジョリティの言語を話すことを習得する、もし自分自身はあまり上手く言語を身に付けられなかったとしても自分の子供たちが言語を習得できることを確かにする。そして、カナダ政府がこの”取り引き”を移民に伝える方法の一つは、各地域の民族グループと協力しながら、英語教育(ケベックの場合にはフランス語教育)への大規模な支援と資金を提供することである。なので、例えばロシアから移民がカナダに到着したとすれば彼らは地域のロシア系自治会に取り計られるのであり、その自治会がまず行うのは移民たちを英語学習のコースに通わせることなのである。

カナダ政府とは対照的に、基本的にはアメリカ政府は移民たちの英語学習に対するサポートを全く提供しない。そして、いつものごとく、アメリカ人たちは自分たちが望んだ通りの代償を支払うことになる…マジョリティ言語の習得という関して、アメリカへの移民たちは他の国の移民よりも成績がかなり悪いのだ。実質的には、スペイン語しか喋れない多数の人々をアメリカは国内に抱え込むことになる。移民について賛成的な人たちなら、移民たちのための英語学習にもっと多くのリソースを注ぐことがこの事態に対する当たり前の反応であるはずだ、と思うことだろう。しかしながら、実際には、アメリカのリベラルたちは自国の移民政策の失敗を美徳であるかのように扱ってきたのであり、(訳注:カナダにおけるフランス語のように)英語に与えられている全ての権利が与えられているマイノリティ国語としてスペイン語を扱いはじめたのである。これは酷いことであるし、カナダ人から見れば全くもって不当なことであるのだ。

たとえば、先述したドナルド・トランプのスピーチの後に、民主党が英語とスペイン語との二つの言語でトランプに対する返答を発表したことについて考えてみよう。なぜスペイン語なのか?アメリカでは、スペイン語には何の公的な地位も与えられていないというのに。カナダで議会開会の式辞が行われた後には、ある政党が式辞への公的な応答を英語とフランス語の両方で発表することはあるかもしれない。だが、その政党が標準中国語でも公的な応答を行うことを決定した場合について想像してみればいい。特定の有権者たちに焦点を定めて発表を行うことにはそれはそれで意味があるが、そのことで公用語の地位に関する混乱が生み出されないようにすることは大切だ(同様に、地下鉄や建物などのトロント中の様々な場所に中国語で書かれた標識や広告があらわれだしたとすれば、その場合にもカナダ人たちはひどく怯えてしまうことだろう…しかし、アメリカ人たちはスペイン語の標識や広告を何十年も見続けてきているのだ。実際、スペイン語があれ程までにそこら中にあるということが、私がアメリカに暮らしていた時に最も驚かされたことのうちの一つだ。もちろん、現実問題として情報を伝えることの必要性が他の問題を上回るために他言語の標識がある方が良い、という状況は多く存在するだろう。だが、同時に、ある国の公用語と移民たちの様々な言語との間の区別を曖昧にしないことは、原則問題として重要なのである)。

カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコなどの州全体やワイオミング、カンザス、コロラドなどの州の一部はいずれもメキシコから軍事的に奪った土地であるということをふまえれば、スペイン語話者はアメリカ国内のナショナルなマイノリティ集団であるのだから、カナダでフランス語に与えられているのと同等の権利がスペイン語にも与えられるべきである…そう主張することはできるかもしれない。だが、仮にそうだとしても、それは法律によって認められるべきなのだ。言語に関するアメリカの法律に限って見れば、全ての法律は英語を唯一の公用語として見なす方向にしか書かれていない。この文脈をふまえれば、スペイン語を準-公用語として扱うことは多大な問題を生じさせてしまう。移民に対する重度の反感を生み出していることは言うに及ばないだろう。

 

2:移民たちにアファーマティブ・アクションの恩恵を受けさせるのを止めよう

 

昨年には、アーリー・ホックシールドの著書『自分たちの国の中の異邦人:右派アメリカ人たちの怒りと嘆き(Strangers in Their Own Land: Anger and Mourning on the American Right )』が話題になった。この本は、”赤い州”について数多く存在するエスノグラフィーのうちの一つだ。『自分たちの国の中の異邦人』の中で、ホックシールドは白人の憤りの根底にある”根深い物語”と彼女が呼んでいるものを以下のように表現している。

 

地平線にまで向かって伸びる長い行列の真ん中で、あなたは辛抱強く立っている。その行列の先にはアメリカン・ドリームが待っている。しかし、あなたが行列で待機していると、あなたより先に割り込んでくる人々の姿が見えてくる。割り込んでいる人々の多くはアファーマティブ・アクションや福祉の恩恵を受けている黒人たちだ。一部は、それまでには決して機会がなかったような仕事でキャリアを得ている女性たちだ。そしてあなたは移民たちを目にする。メキシコ人、ソマリ人、まだ到着していないシリア難民たち。ぴたりとも進まないこの行列に待機しているあなたは、彼らのこと全員を可哀想だと感じるように求められる。

 

この物語は真実ではない、とホックシールドは示唆している。「この根深い物語は事実であるかのように感じられる物語であって、人々の意見や投票の背景にある感情を反映したものであり、事実や判断は取り除かれているのだ」。しかし、移民に関して言えば、この物語にもある種の事実が少しは含まれている。アメリカの移民政策の最も厄介な特徴の一つは、国内の人々が直面する問題に対処するために意図されていることが明らかであるアファーマティブ・アクションの政策を利用することを、特定の移民たち…特定のマイノリティ人種に属している人や、「ヒスパニック」という無茶苦茶な人種カテゴリに属している人…に許してしまっていることである。

例えば、大学の入学に関するアファーマティブ・アクションについて考えてみよう。この政策の目的がアフリカ系アメリカ人に対して行われた特定の歴史的不正義の問題を是正することに向けられているのは明らかだ。過去の差別の遺産や現在行われている差別はアフリカ系アメリカ人が学業を達成することへの障壁となっているのであり、その障壁はアファーマティブ・アクションによってしか取り除くことができない、という事情に基づいた政策なのである。この政策は多大な困難を生じさせてきたし、政策の目的通りに適用される場合についてでさえも非常な議論の的となり続けている。とはいえ、アフリカ系アメリカ人に対して適用するという特定の場合においては、アファーマティブ・アクションを支持する議論を行うことは可能であるように私には思える。だが、政策の中心的な対象である集団から離れて、ヒスパニックもアファーマティブ・アクションの恩恵を受けることを認める議論についてはどうだろうか?なぜ、アメリカの大学にメキシコ系の移民(例えば、白人やアジア人の移民に比べてSATのスコアが低い人)を優先的に入学させるべきであり、アルゼンチンやコロンビアからのエリートには優先措置を与えるべきでない(ただし、ブラジルはまた別!)、というのだろうか?

より一般的なことを言えば、なぜクワメ・アンソニー・アッピアのようなイギリスからの移民が、ハーバード大学のアフロ-アメリカンスタディーズと哲学のチャールズ・H・カースウェル教授として任命されているのだろうか?例えてみれば、ファースト・ネーション・スタディーズの学科長を任命しようとしているカナダの大学が、その人材を国内に求めるのではなく、オーストラリアのアボリジニやポリネシアの島民を任命するようなものだ。人々は憤慨する筈だ。外国から人々を持ち込んできて、それは大学の”多様性”を増させることだとみなすのがどれ程奇妙なことなのか、進歩的なアメリカ人の多くはわかっていないのだろう。確かに外国からの教職員たちは移民が多様性を増させるのと同じように多様性を増させるが、アファーマティブ・アクションや教職員多様性イニシアチブなどの政策が意図しているような多様性を増させる訳ではないのだ。

いずれにせよ、肝心なのは、行列の割り込み問題に対して人々は極めて敏感であるということだ。移民が行列に割り込んだという非難の中には事実に基づかない虚偽のものも充分に存在しているのだからこそ、社会は移民が完全に均等に扱われることに保証しようとするべきであるし、移民たちが実際に行列を飛ばすことは一切認められないようにするべきなのだ。だが、こんな単純な忠告にもアメリカは従わない。多くの社会には、過去に起こった特定の種類の不正義や争いに対する解決策として生み出された、マイノリティ集団のための”特別な取り決め”とでも言えるものがいくつも存在している。例えば、ケベックには英語とフランス語との両方の言語の学校が存在していることは、長くて複雑な歴史を持つ争いの結果として、州内のマイノリティである英語話者への譲歩としてもたらされたものである。ケベックに表れだした移民たちが英語学校に入学し始めたことに対して、それは本来移民たちには認められていない社会的取り決めを不当に利用しようとすることだ、とマジョリティであるフランス語話者たちはまことにもっともな認識を抱いた。そして、移民たちは自分の子供をフランス語学校に通わせなければならない、という法律をフランス語話者たちは通過させたのだ。彼らにはそうする権利があった、と私は思う。同様に、アメリカにおけるアファーマティブ・アクションは奴隷制やジム・クロウ法による分離政策の遺産に対処することを意図した特別な取り決めであることは明らかなのであり、そのアファーマティブ・アクションを移民たちが利用することを認めない権利がアメリカ人たちにもあるだろう。

もちろん、アファーマティブ・アクションについて純粋に結果志向的に考えてみて、大学内における “多様性”を特定の水準にまで達成するための試みとして捉えてみれば、その目標を達成するためにアメリカの大学が多数の外国人学生や外国人教員たちを招き入れることは問題にならないかもしれない。しかしながら、ここで論じてきた政策について考える一貫した方法をこの種類の帰結主義が提供できるとは、私は思わない。自分たちが達成しようとしている目標を見てみれば、それは大抵の場合にはアメリカ国内の人口を “反映”しているということがわかるはずだ。そのことは、それらの政策の本当の目標は差別に対抗して機会への平等なアクセスを確保することであるということを示している。そして、それが本当の目標だとすれば、その目標に関係している種類の差別の被害に遭ってきたと判断できる人々だけに政策の対象を限定することは、全くもって筋が通っているのだ。

ジョセフ・ヒース『何が人を陰謀論者にするのか?』(2016年12月5日)

What makes someone a conspiracy theorist?
Posted by Joseph Heath on December 5, 2016 | politics, United States

多くの人が、ドナルド・トランプに指摘している事の1つに、トランプが顕著なまでに陰謀論にハマりやすいように見える事がある。陰謀論について議論される時、「『陰謀論』とは正確に何であるのか」とか、「どのような精神的特徴が、人を『陰謀論者』に陥らせてしまうのか」、といった問題点が明確にされることは滅多にない。私は、自著『啓蒙思想2.0』で、陰謀論の説明を試みている。よって、この自著から、一部抜粋して再掲載するのが、タイムリーかもしれないと考えた次第である。

基本的に、一般的な陰謀論者は、『確証バイアス』の罠にハマっている。どんな男女であれ人は、まず外界にパターンを見る。そして、そのパターンに原因を見出してしまう習性を持っている。ただ一方で、原因を否定する数々の証拠に対しては、はなっから検討しようとしないので、物事を体系だって考えることを失敗してしまうのだ。[反証の検討に]代わって、人は、自身の見たパターンに沿う、より多くの事例が単に目に入るようになってしまう。そして、[目に入った]おのおのの事例を(誤信して)、見出した原因の証拠と扱う事になってしまう。

陰謀論者達は、キース・スタノヴィッチ1 が『合理性障害(dysrationalia)』と呼ぶ現象の最適の事例として見ることができるだろう。陰謀論者達は、おおむね平均以上の知能の持ち主だ。この高い知能によって、彼らは、外界にパターンを発見し、そのパターンに対応する原因、すなわち『理論』を見出してしまう。陰謀論者が欠いているのは、合理的な『反証能力』、すなわち、もしかしたらの矛盾した証拠を意図的に考える能力である。(因みに、陰謀論者達の幾人かは、熟考する質である。その具体的理由を挙げるなら、非常に多くがエンジニアであるからなのだ。彼らは、技術的な教育を受けている故に、非常に複雑な理論を理解し、生成する能力を得ている。そして、それでいながら、「反証事例の重視」といった科学的な思考方法の教育を欠いてもいるのだ)。

『確証バイアス』という現象の詳細に関して、個人的に強く推奨したいのが、レイモンド・ニッカーソンの『確証バイアス:一知半解の積み重ねによる普遍的現象』(“Review of General Psychology (1998)”掲載)である。
という事で、以下が『啓蒙思想2.0』からの一部抜粋(助長な部分は削った編集版)となっている。
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哲学者であることの否定的側面の一つを、私は日々見知ることになっている。それは、カルトの信者からの望まないメールを、大量に受け取る事にある。カルトの信者達は、自身の「哲学」についての、私との議論を望んでいるのだ。最近の、私のメール受信箱には、法輪大法(法輪功)からのメールがやたら並んでいる。法輪功は、ほとんど無害な組織であるにも関わらず、([教団が]組織化された事で)、中国政府を脅かす失態を行ってしまい、それによって、まがうことなき弾圧を被っている。この中国政府による弾圧は法輪功を、結果的に本来よりも有名にしてしまっている。法輪功のコア思想は、伝統仏教の瞑想の実践に、精緻な宇宙人のマインドコントロール理論を融合したものだ。創始者・李洪志によれば、科学とテクノロジーの発展は、宇宙人の策略であるとのことらしい。策略とは、人類間に戦争と破壊を扇動することであり、それによって宇宙人は、我々の身体を奪い、地球人に成り代わろうとしているそうな。こうして詳細を見てみれば、まさしく文字どおりトンデモだ。しかし全てのカルトがそうであるように、問題とすべきは、何千もの(あるいはこの場合は何百万もの)トンデモでない常人がこのようなカルトを、どのようにして信じるようになるか、ということである。

法輪功に関して驚嘆させられる事の1つが、まったくもって平凡であることだ。あらゆる面からみてもそうなのだ。世界のどこの誰が見てもすぐにわかるくらい平凡なのである。中国的な特徴を持ったトンデモさもまったくない。精神感染における平凡な風邪に例えても良いであろう昔ながらの特徴の無いトンデモさなのである。彼らの文章を読むと、カルトをどのように創設するのかといった、世界共通の指示マニュアルに従っているのではないのか、との錯覚に捕らわれる。信者をどうやって魅了するのか? 選択肢の1番手は、奇跡的なヒーリングの小話だ! 個人的には十全に予測していたが、以下のような推薦文が含まれたメールを、私は法輪功の信者から受け取ることになった。

「法輪大法は良きことなり」と演唱することで現前した多数の奇跡を、私は見聞してきました。リュウ女史は唐山市の村に住む69歳の女性です。去年、リュウ女史は大腸癌と診断されました。医師からは「あなたは、高齢で血圧が低すぎます。安静にするしかないでしょう。自宅に帰って、好きなものを食べましょう」と言われました。彼女3つ目の妹は、法輪大法の実践者でした。妹はリュウ女史を訪問して、「法輪大法は良きことなり」と演唱する法輪大法の実践を教えました。すると10日後には、リュウ女史は完治し、末期癌は消え去っていました。何よりの奇跡的事実に、リュウ女史は若い女性のような見かけとなり、とても美しくなったのです。これこそが、法輪功の神聖なる力なのです。李大師はイエス・キリストより圧倒的に優れているのです! 法輪功は人々を救っています。法輪功はすべてを解決するのです。

この種の話を、お馴染みで聞きなれていると感じたら、それはいたるところで見聞きするからだ。人に誤った信念を持たせる、世界共通の実践マニュアルのようなものが存在する。パスカル・ボイヤーが明らかにしたことによると、いくつかの非現実的な創作話の中には、他の創作に比べて、人が信じやすいものがあるそうな。人間の推論能力には、特殊な先入観バイアスがいくつか備わっている。何かを信じてしまうような信念システムは、こういったいくつかの先入観バイアス利用しながら[信念を]拡張していき、そしてさらに信念を自己増殖・強化することになっていく。この増殖・強化プロセスによって、カルトに信念を持たせるようなシステムは働いている。カルトの『教義』は、こういったシステムを作動するような普遍性を持っているのだ。我々をうんざりさせるほどお馴染みの『教義』ではあるが…。これら[陰謀論やカルトを信じてしまうような信念システム]は皆、生態学的ニッチ(隙間ポジション)と同じようなものだ。非合理的な信念の中には、普通の人間が実行可能な警戒心のほとんどから、逃れていることに成功しているものがある。生物の免疫システムによる探査から逃れているウィルスのようなものである。

唐山市のリュウ女史の話に戻ろう。このメールには多くのツッコミどころがあるが、最も目立った特徴は、心理学者が『確証バイアス』と名付けている現象を利用していることである。人間は仮説を立てる時、仮説に適合する肯定的な証拠だけを目にする一方で、仮説に不適合な証拠を確認することは見逃してしまう性質を持っている。人間は「否定的な事について考える」のに失敗してしまうのだ。リュウ女史の回復と法輪大法の神聖なる力を関連付けるには、[このメールだけで判断するには]2つの情報が欠けている。まず1つ目は、女史が「法輪大法は良きことなり」を演唱していなかったら、どうなっていたのだろう? という事である。例えば、ガンが単に誤診であった可能性である。あるいは、女史が本当にガンにかかっていたとしても、自然治癒したり、端的に長期間生存した可能性もある。2つ目は、末期ガンにかかっている患者で、「法輪大法は良きことなり」と演唱したどのくらいの人が回復しなかったのだろう? ということである。多くの人がこういった疑問を尋ねないものである。単に思いつかないだけの事もあれば、この話だけでは必要な情報を欠いており仮説を補強するのがまったくもって不可能なので、気づかない事もある。これらの事象を正しく認識することに失敗してしまうのは、『迷信』を信じてしまう特質の一つでもあるのだ…。

こういった認知バイアスについて見知ると、他人が愚かであることを説明していると、考えたい誘惑にかられる。愚かであるかどうかの自己診断を行うのは、非常な困難を伴う。ダニエル・カーネマン2 は、この件を「心理学を教えることの無益さ」と説明している。[カーネマンが教えた]学生たちは、致命的なエラーやバイアスを証明している実験について、ほぼ全て事前に見知っていた。それでいて、学生達は、[実験で指摘されてもいる]バイアスに自身がハマっているという当然の帰結には、疑うことなく「自身を例外化した」とのことである。このようなことになってしまう理由の1つは、内省を行うことでバイアスに気付くことができ(そして、バイアスについて知っているという事実だけで、影響から免疫を得られる)との誤った信念を保持しているからなのだ。もう1つの理由は、ほとんどの人が、生活におけるほぼ全領域で、自身を過大評価してしまうという、別の有名な認知バイアス故である。[自身だけは]バイアスから逃れることができるという思い込みは、この偏在している過大評価バイアスの一例だ。心理学者達は、[自身を例外化してしまう]このバイアスを『バイアスの盲点』と指摘している。中国の農民達の迷信深さを嘆くのは簡単なことだ。しかし、自分自身については、それはそれ、これはこれと考え、あっさりと別の話にしてしまう。

私を俎上に載せると、大学教授で、哲学科で教鞭を取っている。現キャリアを達するのに、論理学、議論分析学、確率論を学び、教えてきた。気質の一端は合理主義だとは自覚している。小学校の3年頃には、同級生たちに『ミスター・スポック3 』と呼ばれ始めた。以後、チェスクラブに入った後、コンピュータープログラムを行い、最終的には論理学と哲学にたどり着いた。『認知バイアス』についての心理学の文献を幅広く読んできてもいる。『確証バイアス』とは何であるのかとか、『確証バイアス』がどのようにして特徴的に具現化するのか、といった事例は十分に見知っているつもりだった。もっとも、何年か前のある日、『確証バイアス』について調べるテストを受けたことで、自身も最も初歩的な罠にハマっている事に気づいてしまったのだ。以下は、人間の合理的能力を混乱させるようなテスト問題を生み出す天才、ピーター・ウェイソンによって創られたテストである。

試験官:これから、連続した3つの数字を示します。数字を生成したルールを推測してみてください。答えを決める前に、あなたは3度、私に質問することが可能です。質問は以下に限定することとします。あなたは3つの数字を示して、私はその示した数字が、ルールに合っているかどうか返答します。

私:了解した。面白そうだ。すっごく得意だったマスターマインド4 にちょっと似てるね。

試験官:では、組み合わせは2、4、6です。

私:わぉ、簡単そうじゃん。ウォーミングアップってことかな。ってことで、6、8、10はどう?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:うーむ、了解。22、24、26はどう?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:了解。バカバカしい。もう最後の質問は必要なさそうだが、一応、100、102、104は?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:よっしゃ! ルールは「3つの偶数数字の昇り順並び」だね。

試験官:いいえ。それはルールに合ってません。

私:聞き間違い? もう一度言ってくれ!

試験官:いいえ。それはルールに合ってません。

私:いったい何が正しいルールなんだ?

試験官:ルールは「昇り順のあらゆる3つの数字」です。

私:3、5、7でも、ルールを満たすと言いたいのか?

試験官:はい。

私:2、67、428でもルールを満たしている?

試験官:はい。

私:オーマイガー! 俺ってバカじゃん。

以上によって、私は『確証バイアス』を真剣に捉えねばならないと教訓を得ることになった。仮説を立て、それを定量化することを求められた時、私は、最初に見出したパターンに即座に飛びつき、自説を補強するような証拠ばかり目に付くようになった。一方で、反証の試みを完全に失念していたのだ。一度でも『偶数の並び』が脳裏に定着してしまうと、『奇数の並び』を、[試験官に]提示して「いいえ」の答えを引き出す事[で自説の『偶数並び』を補強する事]を、まったく思い付かなくなってしまったのだ。「否定事実を考える」ことに完全に失敗した次第である。事実、3度目の質問を問う前に、一瞬戸惑ったのをハッキリ覚えている。「聞かねばならない別の質問があるのでは?」ではなく、「有用な全質問」をもう使い切ってしまった、と考えて戸惑ってしまったのだ。私を少なからずの困惑に陥れたのは、たった1、2回で十分なのに、なぜ質問の機会を3度与えられのだろう、と考えてしまった事だった。

確証バイアスを調べるこのテストにおいて、特徴的要素として見出されているのが、単に「人は願望に沿って考えてしまう」といった事実以上の、人の認知過程である。人は、自身のお気に入りの考えを補強する証拠だけを見出してしまうとか、信じたいものだけを見てしまう、といった話はお馴染みだ。しかし、以上実験が示しているケースは、私が最初の仮説を発見するのに、いっさいの先入観を必要としなかった事にある。我々の合理的思考には、単純にして巨大な盲点が存在するのだ。私の「6、8、10」というルール推測の提示に、試験官は「はい」と回答している。この回答は、私が提示した仮説「3つの偶数数字の昇り順並び」を補強することになっている。ここで問題になるのは、「試験官の『はい』」は、[私が提示しなかった]別の多くの仮説も補強しているのだ。私の仮説「3つの偶数数字の昇り順並び」を確定させるには、「別の多くの仮説」がルールに不適合であることを示さねばならない。そして、私は失敗に至った。酷い、呆れ返るような失敗を犯している。これは、人々が、リュウ女史の奇跡的な回復を、法輪功の神聖な力によるものと信じてしまう問題ととまったく同じである。

この事を考えると、我々の直感的判断がなぜ事象の正確な認識に失敗してしまうのかが、容易に分かるだろう。人の瞬間的な認知が、特に得意にしているものの一つが、パターンの再認識能力だ。チェスのグランドマスターや、経験豊富な医師や、ベテランの消防士を際立たせているものが、このパターンの再認識能力である。彼らは凡人には見ることができない過去に見たパターンを即座に再発見することができる。不幸なことに人間の脳は、過去に見たパターンの再発見を行うように非常に活性化されている。脳は、何も存在しない様な状況でも、そこにパターンを見てしまう傾向を持っているのだ。この傾向が病的な領域にまで至れば、『アポフェニア5 』と呼ばれることになる。しかし人間の水面下を統べる思考の傾向としては、この傾向はいたるところに存在しているのだ。たとえば、ほとんどの人は、ランダムなコイン投げやサイコロ転がしを見せられた時、「これはランダムでない――なぜなら非常に多くの『連続』が含まれているからだ」と強く主張することになる。アップルは、アイポッドの『シャフル機能』について、「『ランダムな順番』であるべきなのに特定のアーティストをえこひいきしている」と主張するユーザーによる、偏執的な不満を大量に受けることになった。

人は一般的に『ランダム』について、直感的な理解を欠いているので、ありそうにない『偶然の一致』に遭遇することで、常々驚かされることになる。心理学者達の何人かが示唆しているのが、自然環境において純粋なランダム事象の発生はあまり一般的でないため、人間はこの『ランダム事象』を見出す能力を得る利益を特に必要としなかった、故にこの能力は発達しなかった、という説である。よりありえる端的な説明が、『間違えた肯定(存在しない事実を、存在すると考えてしまうパターン)』は、『間違えた否定(存在する事実を、存在しないと考えてしまうパターン)』より、進化的コストが格段に低い可能性である。そうつまり、自然選択は、[過去に見た]パターンへ非常に高い感受性を発揮する一方で、[見たことがないパターンの発見へは]とりわけ低く特化することになる認識システムを、選好してきたことになる。[サバンナ地方等でサーバルのような]捕食動物に襲われ[「た、たべないでくださいー」と逃げ]る可能性がある環境においては、草木がガサガサ動くような事ですら潜在的脅威として扱う[進化的な]対価を支払うようになる。何もないのに、『おびえて』逃げ出すようになる[進化的]コストは、なにがしかの明らかな[危険的]徴候を無視して八つ裂きにされることより、非常に安価なのだ。なので、我々は、なんらかのパターンを見ると、非常な興奮状態に陥る傾向にある。「自分は間違えているかもしれない」と考えるのは、自然に浮かぶ思考ではない。それは、自動制御的な認識システムを、理性によって解除し手動制御に強制移行する行為なのだ。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:カナダの心理学者。邦訳に『心は遺伝子の論理で決まるのか』等がある []
  2. 訳注:行動心理学者。2002年にノーベル経済学賞を受賞している。 []
  3. 訳注:SFテレビドラマ『スタートレック』に登場する、合理的思考が特徴の戦艦の副長。「船長、それは非論理的です」が口癖。 []
  4. 訳注:出題者によって隠されたピンの色を推理によって当てるボードゲーム、 []
  5. 訳注:無作為や無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出してしまう知覚作用を指す、心理学用語。 []

マーク・ソーマ 「『ゲームの審判』としての政府 ~『アニマルスピリッツ』と政府の役割~」(2009年4月25日)

●Mark Thoma, ““Good Government and Animal Spirits””(Economist’s View, April 25, 2009)


政府は「アニマルスピリッツ」に行動の自由を与えるべきだ。そうしてはじめて「アニマルスピリッツ」の創造性も最大限に発揮されることになる。そう語るのはアカロフ&シラーのタッグだ。

Good Government and Animal Spirits” by George A. Akerlof and Robert J. Shiller, Commentary, WSJ:

2008年の金融危機が我が国に残した何よりも重要な遺産は金融規制の質的な向上だった。後々振り返ってそう言えるように今のうちからそのための準備を始めておく必要がある。

・・・(中略)・・・

「アニマルスピリッツ」――経済活動の中心に位置する心理的および文化的な要因――の重要性がわかれば規制当局の役割を再び拡張する必要性があることに納得せざるを得なくなる。・・・(略)・・・(つい最近の出来事も含めた)歴史が示しているように、規制による抑えがないと「アニマルスピリッツ」は経済活動の行き過ぎに手を貸すに至るおそれがあるのだ。

・・・(中略)・・・

1980年代の終わり頃の時点ではアメリカの経済システムはどんな嵐に見舞われても難なく切り抜けられるだけの極めて丈夫な仕様になっていた。例えば、1980年代には貯蓄貸付組合の破綻が相次いだが(いわゆるS&L危機)、政府の働きのおかげもあってその影響をごく狭い範囲に閉じ込めておくことに成功した。納税者にはかなりの額のコストの負担が求められることになったものの、失業という名のコストは微々たるもので済んだのである。

時の移ろいに伴って経済の構造も徐々に変化を遂げ――そうなるのは世の常だ――、公的な規制の体系も従来のままでいいのかとそのあり方が問われることになった。・・・(略)・・・しかしながら、金融規制の体系には(住宅ローンの証券化をはじめとした)金融システムの構造変化に即応するように手が加えられることもなく、その結果として金融システムの奥深くにシステミックリスクの種がまかれることになったのである。

・・・(中略)・・・

金融規制の体系が時代の変化についていけなかった根本的な理由の一つに世間一般に蔓延る「規制への反感」がある。アメリカ国民は資本主義に対する新しい見方にどっぷりとのめり込んでいた。「資本主義というゲームは何でもアリのゲームだ」。そのような見方が国民の間で広がりを見せていたのである。1930年代に苦難の末に学び取られた教訓などすっかり忘れ去られてしまっていたのだ。資本主義は我々に実のある繁栄を届けてくれる可能性を秘めているが、それなりの舞台が整えられてはじめてその可能性も現実のものとなる。政府がルールを制定し、政府が審判として振る舞う。そのような舞台(競技場)が整えられないことには資本主義の潜在的な力も発揮されずに終わってしまうのだ。

「資本主義の危機」が叫ばれている昨今だが、そのような見方はあたっていない。今こそ認識し直さなければならないことがある。それは何かと言うと、資本主義には特定のルールが必要だということだ。・・・(略)・・・古典派経済学のパラダイムでは完全雇用が常態かもしれない。しかしながら、人々が「アニマルスピリッツ」に突き動かされる現実の世界では、楽観から悲観へ、悲観から楽観へと世間のムードが波打つのに伴って総需要にも大幅な変動が生じることになる。労働者に支払われる(名目)賃金の額は「公平さ」への配慮も込みで決められるため、総需要の変動は賃金(ひいては物価)の変化ではなく雇用量の変化となって表れる傾向にある。総需要が落ち込むと失業が増えるわけだ。政府が果たすべき役割がここにある。政府は総需要の変動を和らげる役目を果たさねばならないのだ。

さらには、起業家たちや民間の企業は消費者(顧客)が心の底から欲しているモノだけを売っているわけではない。消費者たちが何となく欲しいかもしれないと思っているモノも売っており、いざふたを開けてみるとその「何となく欲しいかもしれないと思っていたモノ」は「蛇の油」(インチキ薬、ガラクタ)に過ぎなかったということは往々にしてあることだ。それが特に当てはまる場所というのが金融市場だ。・・・(略)・・・その背後で糸を引いているのが「物語」だ。人々が互いに交わし合う「物語」――自己という存在(「私」)に関する物語、他者の振る舞いに関する「物語」、経済に関する「物語」――は人々の行動にも影響を及ぼすのだ。そして「物語」の内容は時とともに変わりゆく。

人々が「アニマルスピリッツ」に突き動かされる世界では政府が経済に介入することも正当化されることになる。しかしながら、政府の役割は「アニマルスピリッツ」に首輪をつけて制御することだけに尽きるわけではない。「アニマルスピリッツ」に行動の自由を与えて持てるだけの創造性を最大限に発揮させることもまた政府の役割の一つだ。才能に満ち溢れる選手も審判にいて欲しいと思うことだろう。ゲームを律する適切なルールとそのルールが守られているかどうかを監視する審判が揃ってはじめてその才能も存分に発揮できるようになるからだ。・・・(略)・・・アメリカ国内の金融規制の体系に抜本的な手直しが一向になされないまま70年の月日が経とうとしている。オバマ政権が米議会や自主規制機関(SRO)と協力して取り組むべき課題はいかにしてこれまでよりも一段と優れた新しいアメリカ版「資本主義ゲーム」を作り出すかということにある。