Gerhard Toews, Pierre-Louis Vézina “Enemies of the people” VOXEU, September 23, 2021
「人民の敵」とは、教育を受けたエリートであるというだけの理由でソビエト体制の脅威になるとみなされた数百万人の芸術家、エンジニア、管理職、教授たちだった。数百万人の非政治犯とともに、彼らはグラーグ、すなわちソヴィエト全土にわたる労働収容所制度へと強制的に移住させられた。本稿では、この暗い移住エピソードによる長期的な影響を検討する。これにより、人民の敵が収容者中に占める割合が高かった収容所ほど、今日においてその周辺地域が繁栄していることを企業の賃金水準や利潤、人口当たりの夜間光量から捕捉した。
これら人民の敵、社会主義の敵、労働者の敵に容赦するな!これは金持ちとその取り巻きに対する死への戦い、悪党、怠け者、無法者に対する戦いである!
レーニン(1917)
「人民の敵」とは、ソヴィエト体制の脅威になるとみなされた数百万人の芸術家、エンジニア、管理職、教授たちだった。数百万人の非政治犯とともに、彼らはノーベル賞を受賞したアレクサンドル・ソルジェニーチンが言うところの収容所群島(Gulag Archipelago)、すなわちソヴィエト全土に点在する強制労働収容所へと送られた。この人類史における暗いエピソードはソルジェニーチンによって明るみに出され、歴史家によって詳述されているが(e.g. Khlevniuk 2004, Applebaum 2012)、この出来事による発展への影響を理解するための経済学的研究はほとんど行われてこなかった。
最近の研究では、グラーグ制度は旧ソヴィエト全体の都市人口の分布に永続的な影響を与えたことや(Mikhailova 2012)、政治選好(Kapelko and Markevich 2014)や信頼レベル(Nikolova et al. 2019)に長期的な影響を与えたことが示唆されている。また、Miho et al. (2020)はスターリン時代の民族追放が社会規範の伝播をもたらしたことを示唆している。他方、グラーグによる長期的な発展への影響、より正確に言えば人民の敵の移住によるそれは、いまだ検討されていない。
研究において(Toews and Vézina 2021)、私たちは人民の敵の強制移住によるロシア国内のグラーグ所在地の発展への長期的影響を検討した。
グラーグとその遺産
教育を受けたエリートを対象とし、彼らをまとめて「人民の敵」と呼び、その投獄が主張されたのは1917年のロシア革命初期にまでさかのぼることができる。その10年後、スターリンはグラーグ制度の拡大を始めた。1929年から1953年のスターリンの死に至るまでに、約1130万人の収容者(Wheatcroft 2013)が474か所の収容所で林業、鉱業、製造業、農業といった様々な経済活動に従事した。図1は1939年とグラーグの最後にしてピークである1952年におけるソヴィエト連邦内の収容所の分布を示したものだ。
注:円の大きさは収容所の収容者数に比例している。データはロシア連邦公文書館(GARF)及び記念館による。
人民の敵は、収容者の約30%を占めていた。その結果として、グラーグにはソヴィエト国内よりも多くの教育を受けた人がいた。1939年において、大学で教育を受けたグラーグ収容者の割合は1.8%で、これは同年のソヴィエト国勢調査によるソヴィエト全体の数字の3倍も高かった。
こうした人民の敵の中の一人には、景気循環理論への貢献で知られる経済学者ニコライ・コンドラチェフもいた。1930年、その経済理論が党の方針と合わなかったために彼はモスクワ北東部のスーズダリにあるグラーグへと送られた。彼は収容されながらも数年にわたって何とか研究成果を生み出したが、その後1938年の大粛清の中で処刑されてしまった。ジョセフ・シュンペーターが長期経済循環をコンドラチェフの波と名付けることを提案したのはそのちょうど一年後である。
1953年にスターリンが死去すると収容所の閉鎖が始まったが、多くの元収容者たちはその場に定住して前と同じ産業計画に従事した。1983年の報告書の中で、著名なロシア史家であるスティーブン・コーヘンは、1956年から57年にかけての大量釈放によって自由になったグラーグ収容者がなぜその場に留まったのかを説明している。
「その他の数百万人もの生存者には単に戻る場所がなかった。何年もの投獄によって家族、職歴、家財や精神および肉体的な健康といった「家」に関連するあらゆるものが破壊されてしまった(略)流刑者の中には他の流刑者や一般の配偶者と新たな家族を立ち上げており、それがためにへき地に根付いた。他の選択肢を奪われた一部の収容者や流刑者は、長い間投獄された地域に強い精神的愛着を育んでいた。そのため数百万人の生存者が解体したグラーグ帝国の広大な地域に今や自由な市民、賃労働者として残ることを選んだのである(略)実際、残るものがあまりにも多かったため、解放された彼らの存在がかつてのグラーグの行政中心部のいくつかにおける人口、社会、政治的特徴を劇的に変化させた(略)」
多くの人民の敵がグラーグの崩壊後に収容所のあった街に残ったため、彼らの強制移住は、おそらくは人的資本の世代間移転を通じて永続的な効果を与えた可能性がある。私たちは、より高い教育水準が世代を越えて実際に残存していることを見出した。最近の家計調査の結果によれば、人民の敵の孫たちは今日において大学教育を受けている確率がそれ以外の人よりも高く、彼らの親もそれは同様であった(図2)。
注:右側の棒グラフは、人民の敵の孫であるとしている個人のうち少なくともいくらかの大学教育を受けた個人の割合を示すとともに、それ以外の個人と比較している。サンプルは2016年における旧ソヴィエト各国の19,341名の個人からなる。これにより、人民の敵の孫たちは大学教育を受けている可能性が高いことが示されている。左側の棒グラフは母親と父親、つまりは人民の敵の子供たちのうち少なくともいくらかの大学教育を受けたわりあいを示している。いずれの棒グラフもウェイトバック集計を行った上で生成した。出典:移行国生活調査(Life in Transition Survey) 2016
ロシアの有名スタンダップ・コメディアンのルスラン・ベリーも、人民の敵の子孫がどう異なっているかをインタビューの中で説明している。彼はロシア中を回ったツアーの後で、なぜマガダンが三番目に好きな都市であるかを説明している。彼はまず「とてもマナーの良い観客で、普通の都市の人たちであればピンとこないような微妙なジョークにも笑う」と述べた上で、その理由をマガダンはインテリゲンチャのメンバーたちが送られたグラーグに取り囲まれていたからだと説明する。「そして刑に服した後、彼らはマガダンにそのまま残ったんだ。だから人的資本から見れば、マガダンはとても洗練された街になったんだ」
人民の敵の長期的効果
人民の敵の移住が長期的な地域の発展により優れた結果をもたらしたかどうかを調査するため、私たちはモスクワのロシア連邦公文書館へと乗り込んでグラーグ収容者の犯した犯罪の種類に関するデータを集めることで、グラーグの最後にしてピークである1952年におけるロシア国内79の収容所それぞれの人民の敵の割合を計測した。私たちはさらに、2018年におけるロシア企業を母数としてカバーするデータセットであるSPARK-Interfaxを用い、収容所の所在地とその近郊の企業を結び付けた。
私たちは論文において、2018年にかつてのグラーグの半径30km以内に位置する企業のうち、人民の敵の割合が多かった収容所の近くにある企業ほど高い賃金を支払い、従業員一人あたりの利潤が大きいことを示した。
図3はこの効果が経済発展の代理指標である一人当たり夜間光量(Henderson et al., 2012)にも表れていることを示している。人民の敵の割合が1952年の各収容所の平均である19%である収容所の近郊の町と、中央値より1標準偏差高い47%の収容所の近郊の町を比較すると、後者は一人あたり光量が58%、従業員一人あたり利潤が65%、平均賃金が22%高い。
注:散布図は1952年における収容所の人民の敵の割合と2015年における収容所の30km以内の一人あたり夜間光量の関係を示している。各円は各収容所の半径30km以内の地域であり、円の大きさは収容者の人数に比例している。実線は回帰直線であり、色の付いた部分は95%信頼区間。敵の割合が高い収容所の近隣地域ほど、2015年の一人あたり夜間光量が大きい。グラーグのデータはロシア連邦公文書館(GARF)よるもの、夜間光量のデータは防衛気象衛星プログラム(DMSP-OLS)によるもので地球観測グループ(Earth Observation Group)とアメリカ海洋大気庁(NOAA)地球物理学データセンターが提供している。人口に関するデータは社会経済データ・応用センター(SEDAC)の世界のグリッド人口データによる。
私たちは、グラーグにおける経済活動や良好な地理的特性のいずれも各収容所における人民の敵の割合を予測しないことも示しており、こうした効果が人民の敵自身によってけん引されたことを示唆している。確かに、人民の敵は土壌の豊かなより生産的な地域や、技能のある労働者を抱えた生産性の高い都市に近い収容所に配置されたり、技能集約あるいは資本集約的な活動に従事したことで長期的な繁栄がもたらされた可能性もありうる。しかしデータはそうではないことを示しており、歴史的事実も同様である。これはたとえばErtz (2008) やKhlevnyuk (2003)が述べているところであり、後者は「大粛清の主要な目的は、その一番冒頭において安価な労働力の使用よりも敵の物理的殲滅であると宣言された(略)粛清の政治的動機が経済的動機よりも絶対優位にあったのである。」と書いている。
発展における教育の役割への含意
人民の敵にによる発展への長期的影響の証拠を示すことで、私たちの論文は長期的な持続性に関する研究、特にそのうちの人的資本と成長に焦点を当てたものに貢献するものである。発展を促すにあたっての人的資本の役割は経済学研究の核心部分であるが、この効果は地域横断的に特定するのが未だ困難である。たとえばRocha et al. (2017)は、国家政策として1900年ころに高技能移民が入植したブラジルの特定地域が今日においてより高い就学率と一人あたり所得を備えていることを示している。Droller (2018)は、ヨーロッパ人入植者がアルゼンチンの各州の識字率を上昇させ産業化に貢献したことを示している。Hornung (2014)は、17世紀末のプロイセンにおいて、技能を備えたフランスのユグノーを受け入れた地域の繊維企業の生産性が向上したことを示している。Chen et al. (2020)は、毛沢東による文化革命期における高校卒業者1,600万人のへき地の村落への強制移住が、知識青年に触れた田舎の子供たちの就学率を押し上げたことを示している。
私たちの論文は、人民の敵の事例に光を当てたというだけでなく、教育を受けた移民が自ら移住を選択したのではなく、ほぼランダムな方式で各地に強制移住させられたという自然実験を示すという意味で、教育を受けた移民による長期的な効果に関するこうした研究に貢献するものである。
結論
スターリンの死とグラーグの終焉から60年以上の後、人民の敵の割合が高かった収容所の周囲の地域ほど今日において豊かであり、これは企業の賃金及び利潤、一人あたり夜間光量で捕捉できる。強制的に移住させられた人民の敵から彼らの子供、孫たちへの教育の移転がロシア各地域の繁栄を部分的に説明すると主張する。私たちの論文は、高度教育とそれによる長期的繁栄への効果が長期的に持続することを示す自然実験としてみることができる。悲しむべくは、これは狂った個人による残忍な行為によっていくつもの世代にもわたる発展経路が形成されうることも示しているのだ。
参考文献
●Applebaum, A (2012), Gulag: A History of the Soviet Camps, Penguin Books Limited.
●Chen, Y, Z Fan, X Gu, and L-A Zhou (2020), “Arrival of Young Talent: The Send-Down Movement and Rural Education in China,” American Economic Review 110(11): 3393–3430.
●Cohen, S F (1983), Social Dimensions of De-Stalinization, 1953-64, Final Report to National Council for Soviet and East European Research.
●Droller, F (2018), “Migration, Population Composition and Long Run Economic Development: Evidence from Settlements in the Pampas,” The Economic Journal.
●Ertz, S (2008), “Making Sense of the Gulag: Analyzing and Interpreting the Function of the Stalinist Camp System”, PERSA Working Paper No. 50.
●Henderson, J V, A Storeygard, and D N.Weil (2012), “Measuring Economic Growth from Outer Space”, American Economic Review 102(2): 994-1028.
●Hornung, E (2014), “Immigration and the Diffusion of Technology: The Huguenot Diaspora in Prussia,” American Economic Review 104(1): 84–122.
●Kapelko, N and A Markevich (2014), “The Political Legacy of the Gulag Archipelago”, available at SSRN 2516635.
●Khlevnyuk, O (1995), “The objectives of the Great Terror, 1937–1938”, in Soviet History, 1917–53, Palgrave Macmillan.
●Khlevnyuk, O (2004), The History of the Gulag: From Collectivization to the Great Terror Annals of Communism, Yale University Press.
●Miho, A, A Jarotschkin, and E Zhuravskaya (2020), “Diffusion of Gender Norms: Evidence from Stalin’s Ethnic Deportations”, available at SSRN.
●Mikhailova, T (2012), “Gulag, WWII and the long-run patterns of Soviet city growth”.
●Nikolova, M, O Popova, and V Otrachshenko (2019), “Stalin and the Origins of Mistrust”, IZA Discussion Papers 12326.
●Rocha, R, C Ferraz, and R R. Soares (2017), “Human Capital Persistence and Development,” American Economic Journal: Applied Economics 9(4): 105–36.
●Solzhenitsyn, A (1973), The Gulag Archipelago, 1918-56: An Experiment in Literary Investigation.
●Toews, G, and P-L Vézina (2021), “Enemies of the people”, NES Working Paper w0279, New Economic School (NES). Updated version available here.
●Wheatcroft, S G (2013), “The Great Terror in Historical Perspective: The Records of the Statistical Department of the Investigative Organs of OGPU/NKVD,” in J Harris (ed.), The Anatomy of Terror, Oxford University Press.