ノア・スミス「泥壕としての膨大な文献」

[Noah Smith, “Vast literatures as mud moats,” Noahpinion, May 16, 2017]

mud

どういうわけか,学術文献はよく「膨大な」と言われる(このフレーズは1世紀以上もさかのぼる).ただ,どんな話題について語っていようと,どうやらきまって誰かがひょっこりやってきてわざわざこう教えてくれるようだ――「その話題については,すでに「膨大な文献」がありましてね.」 このフレーズは,議論を打ち切る役目を果たしていることが多い.「膨大な文献がありますよ」ということは,ようするに,なにごとかについて語る前に,その話題についていろんな人たちがこれまでに書いてきたとてつもない分量の文章を読んでこなくちゃいけないと要求されているわけだ.膨大な文献を読み通すとなればそれはもう何時間もかかるのだから,この言い分は相当な時間と労力を要求していることになる.その膨大な文献とやらが40本の論文だとしたら,論文1本ごとに1時間かかるとして,ただ議論に参加するだけのコストとして1週間まるまる費やすフルタイムの仕事を要求しているわけだ.

文献をひととおり読んでこいというのが立派に理にかなった要求に思えることもよくある.たとえば,これまで経済学者たちがやってきた関連研究についてなにひとつ知らないまま,はじめて最低賃金について考えようとしているとしようか.すると,ぼくは自信たっぷりにすごくばかげたことを言ってしまうかもしれない.関連の実証的な証拠に気づかないで議論してしまうだろう.きっと,ぼくがこれまで考慮したこともない理論的な検討事項もあるはずだ.膨大な文献を読むことで,こうしたことにいろいろと気づく.実際,最低賃金をめぐる論議は〔参加者に〕文献知識が欠けているせいで支障をきたしていると思う.

でも,「膨大な文献を読んで出直してこいや」という要求がものすごく理不尽になってしまうこともある.たんにいっぱい論文が書かれているからといって,その話題について知識が深まっているとはかぎらない.「アブストラクトがあって標準的な LaTeX フォントでできてる PDF ファイルにはかならず新しい知識や独自の知見が含まれている」なんて普遍法則はない.というか,そもそもなんらかの知識が含まれているとすらかぎらない.そういう PDF ファイルが 100個あろうと 1,000個あろうと,同じことだ.

知識含有量ゼロの膨大な文献の実例を1つあげるなら,占星術がそうだ.これまで占星術について書かれた文献は大量にあって,きっと,そういう文書を何十年かけて読みふけってみたって,いっこうに終わりは見えてこないはずだ.でも,えんえんと文献を読み通しつづけてみても,それでわかることといったら占星術についてなにか書くような人たちの考える姿勢くらいでしかないだろう.占星術はまぎれもないまったくの戯言だからだ.

総じて占星術はそもそも語ったり考えたりする値打ちもない.本当の問題は,面白くて考える値打ちのある話題であっても膨大な文献を読み通すことが逆効果になるような場合があるかどうかだ――言い換えると,実は膨大な文献に情報より誤情報の方が多く含有されている場合があるかどうかが問題だ.

もしかしてこれに該当するんじゃないかとにらんでる分野はいくつかある.みんなの大好きな自明な例をあげよう:景気循環だ.景気循環は明らかに語ったり知ったりする値打ちのある話題だ.でも,かりに1960年代に景気循環について経済学者たちが書いたものをぼくが読み通そうとしているとしよう.そうした文献のものすごい分量に,ルーカス批判が当てはまってしまう.いまや,むかしの文献の多くというかおそらくは大半に大きな欠陥がある点は誰もが同意している.そうした大量の文献にもいくらか本物の知識は含まれているだろうけど,「この膨大な文献にはぜひ知っておくべき有用な情報がたくさん含まれているぞ」と思って読んでしまうとまずいものがたくさん含まれている.読み始める前の方がよほど眼識がしっかりしていた,という結果になってしまうだろう.

もちろん,ルーカス批判を受けてこれまでに登場した景気循環理論の文献についてもそっくり同じことを言う人たちは大勢いるだろう.でも,そうだとしても,ぼくが言わんとしてる要点はいっそう強まるだけだ.ここでの要点はこういうことだ――かしこい人たちがとても長い間にわたって雁首そろえてまちがってしまうこともあるし,その「長い間」にはまさにいま現在も含まれているかもしれないんだ.

個人的には,膨大な文献を読んでみてもその話題について本当に理解が深まらなかったように感じた場面はこれまでに何度かある.たとえば,2008年金融危機をうけて登場したいろんなマクロモデルについて,たくさん文献を読んだ.言うまでもなく,金融部門はマクロ経済にとってとても重要だ(2008年にそのことを理解してる人がもっと大勢いてしかるべきだったけれど,ともあれいまではほぼ誰もが認識している).でも,マクロ経済の論文による金融の摩擦のモデル化はひどく不満足なものだった.推定しにくかったし,ありそうにない仕組みが考えられていることもよくある.きっと,そうしたモデルのほとんど,あるいは全部が,ミクロのデータとあれこれと不整合を来していることだろう.もちろん,この点についてぼくが間違っているかもしれないけれど,こういう膨大な文献を読みながら思うのは,「どうもおかしな方に進んでいっちゃってるなぁ」ってことだ.こんな風に感じているのはべつにぼくひとりじゃあない

次の問いはこれ:「誤った情報を伝える膨大な文献を,政治的な論争に勝つ戦術にわざと利用できるだろうか?」 原則的にはできそうに思える.かりに,読者のきみと友人がなにか政治的な目的のために弱い主張を通したがっているとしようか.きみたち一同はその主張について山のようにたくさんの論文を書きまくってやればいい.アブストラクトもついていて,セクションを細かくわけて番号をふり,文献表などもしっかりそろえてやること.それから,お互いの論文を引用し合う.なんなら,学術誌を1つつくりあげる手もある.ピアレビュー制度も備えて,お互いのクズ論文に好意的なレビューをつけあおう.じゃじゃーん,誤情報満載の査読付き文献の山のできあがりだ.

いざ実践となると,こんなことを意図的にやる人はいないだろう.お互いの調整や長期計画の立案が大変だ.でも,こういうことが,政治的・知的・学術的な業界の進化論的圧力によって 偶然で起こることもあるんじゃないかとぼくは思う.政治業界では,論文を使ってじぶんたちの主張を押し立てる誘因(インセンティブ)が人々にはたらく.だから,根本からろくでもない主張も大勢の人たちが政治的理由で支持するときには,学者(や学者志望)がろくでもない主張を押し立てるのに利用される膨大な文献を貢献する誘因がはたらくことになる.

知的論議の世界では,膨大な文献は泥壕(どろぼり)として機能する.「泥壕」というのは,いまぼくがでっちあげた用語だ.防衛が必要な中世のお城に政治的な主張をなぞらえる比喩に合わせてみた.泥壕は,お城のまわりにめぐらされた泥のお壕だ.これがあるおかげで,寄せ手の軍隊はぬかるみに足を取られてしまい,そこへ守備側は矢を浴びせかけられる.

なにか政治的な主張を抱えているとき,膨大な文献があれば自論の防衛の一助に利用できる.その文献があやふやでゆるゆるの実証的にろくでもない権威に訴えかける手の主張ばかりがぎっしり詰まったゴミくずであってもかまわない.誰かおりこうなヤツがやってきて「きみはおかしなことを言ってる」と言おうとしてきたら,頭ごなしに言ってやればいい――「論議に加わろうというなら,まずはこの膨大な文献を読み通してからにしていただきませんとね.」 それでも相手が膨大な文献を読まずにあくまで主張するなら,不見識なまま無知にいなおっていると非難してやること.もしも相手がコストを負担してクズ山の膨大な文献を読もうというなら,相手がそれで手一杯になっているあいだにこちらは時間をかせげる.さらに,あれやこれのクズ論文の細かいところの重箱の隅をつついて相手を議論で泥沼に引きずり込んでやりつつ,そのあいだにも自分たちの持論を大衆に広めつづけられる.

さて,ある問題についておしゃべりしたり考えたり主張したりしようと思ったところに誰かが「まずはこの話題について膨大な文献を読んだらどうなの」と言ってきたら,ジレンマを抱えることになる.一方では,なるほどその膨大な文献を読むことでぼくの知識はいまより深まるかもしれない.他方で,たんに時間の無駄かもしれない.もっとわるければ,罠ってこともありうる――修辞家の用意した泥壕に突進してまっさかさまに落ちてしまうかもしれない.とはいえ,膨大な文献を読まないことにすると,ずっと無知だなんだと非難を浴びなくてはいけなくなる.ぼくにはそういう非難を甘受していられそうにない.

そこで解決策にぼくが考えたのが,「論文2本ルール」だ.相手がこちらに膨大な文献を読めと求めるなら,こちらはその文献の山から代表的で模範的な論文を2本,相手に出してくれと言う.礎となった論文や,近年の主要な刷新になった論文など,とにかく相手がいいと思うものを出してもらう(ただしレビュー論文や要約は除外).2本だけだ.それならこっちもちゃんと読む.

そうやって出してもらった論文がまちがいやダメな推論でいっぱいなら,安心してその膨大な文献の山を無視できる.最良の論文がそんなていたらくなら,それでもう十分だものね.

また,2本の論文に独創的な仕事がほとんどなかったりまったくなかったりして,ただ他の論文にリンクしているだけのときも,やっぱり安心してその膨大な文献を無視できる.だって,それならこちらにわざわざ余計な手順を踏ませずに,そこで引用されている論文の方を紹介してくれればよかったわけで,相手がいう膨大な文献はおそらく泥壕だろうと想定できる.

さらに,相手が模範や代表格となる論文を2本紹介できない場合は,その膨大な文献に含まれる知識はすかすかで散漫だってことだ.つまり,この場合もやっぱり泥壕の見込みが大きい.

このように,「論文2本ルール」は泥壕防衛陣に対する有効な対抗策になる.もちろん,城の守備側はきっとこう言って抗議するだろう――「おまえが読んだのはたった2本だけじゃないか,それなのになんでも知っているかのように思ってやがる!」 でも,そんな抗議はむなしく響く.議論を眺めてる第三者たちに,2本の代表格論文がどうしてダメ論文なのかこちらが示せたなら,それでももっと文献を読んだ方がいいとこちらに期待する第三者はほとんどいないだろう.

実際にこのルールがぼくの見込みどおり有効なら,広く実践されることで世間の論議はいまよりずっと生産的になりうる.泥壕防衛陣はほぼ完全に無力化され,膨大な低品質文献を政治目的のためにつくりだす誘因は劇的に減少するだろう.教育ある門外漢やかしこい素人たちがこれまで利害関係者に支配されていた論議に参加できるようになる.言い換えれば,知的世界の暗黒地帯に理性の光を届けられるようになる.

追記

「論文2本ルール」の目的を誤解している人たちがいるようだ.「論文2本ルール」は,べつにこれまでの研究文献を要約するのがねらいじゃない――それならサーベイ論文やメタ分析がのぞましい.このルールのねらいは,文献の手法の品質を品定めすることにある.

ときに,レビューでその研究文献全体に蔓延している方法上の弱点があらわになることがある――たとえば,因果関係にまったく注意を向けていない相関だけの研究ばかりが大半をしめている場合がそうだ.でも,多くの場合はそういう風に弱点がわかったりしない.たとえば,研究文献に数理理論がたくさん含まれていて,レビューにあたると文献の山に総じて含まれているのはいろんなものをそぎ落としたせいぜい部分的なモデルだとわかったりする.でも,これだと,十全に詰められたモデルの品質についてあまりわからなくて,旗艦クラスの理論論文を1つ2つ読んでみた方がまだしもわかる.あるいは,研究文献の大半が〔数理的なモデルではなく〕言葉による理論化で成り立っていると仮定しよう.最良の論文の品質は,その文章の明晰さに左右される.レビューは,その明晰さ加減をうまく再現できないことの方が多いだろう.ときに,レビューではたんに〔調査や実験の〕結果だけが報告されていて,方法上の明らかな欠陥に注意が払われないこともある.

他方で,研究文献が主に泥壕として機能しているんじゃないかと疑っている場合には,すぐさま確かめる必要があるのはその研究文献の山が発見したと主張していることではなくて,そうした主張が総じて信用できるかどうかだ.だからこそ,文献のなかで最良の代表格から得られるものを確かめる必要がある.そこで「論文2本ルール」となるわけだ.

ところで,ポール・クルーグマンが「論文2本ルール」を支持している.タイラー・コーエンはその普遍性にもっと懐疑的だ

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