マイルズ・キンボール 「ピンカーが語る『市場経済のとっつきにくさ』」(2012年12月29日)

●Miles Kimball, “Steven Pinker on How the Free Market Makes Us Uneasy”(Confessions of a Supply-Side Liberal, December 29, 2012)


スティーブン・ピンカーが『The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature』の中で次のように語っている(pp. 409)。

アラン・フィスク(Alan Page Fiske)による(人と人との関係(社会的な関係)の形態を類型化した)分類(pdf)では〔仲間うちでの分かち合い(Communal Sharing)、階層的な序列付け(Authority Ranking)、互酬的な交換(贈与と返礼の応酬に基づく均衡のとれた互酬;Equality matching or Exchange)に加えて〕さらに第四の類型として「市場値付け」(Market Pricing)と呼ばれる形態も挙げられている。「市場値付け」というのは現代の市場経済に特有の装置(仕組み)の数々をひっくるめたものであり、具体的には、貨幣や価格(市場価格)、給与、(金銭的な)収益、賃料、金利、債権債務、オプションをはじめとしたデリバティブ(金融派生商品)等々がそれにあたる。「市場値付け」型の人と人との関係では記号としての数字や数学的な演算(計算)、デジタル化された会計や伝票、そして契約書(契約書に記載された文字)がコミュニケーションのメディアの役割を担うことになる。その他の3つの類型とは異なり、「市場値付け」型の関係はどんなところでも観察されるありふれた形態だとはとても言えない。文字(書き言葉)が無かったり3までの数でやり繰りしているような(数の概念がそれほど発達していない)文化圏では「市場値付け」の初歩的な形態でさえ手に負えないのだ。さらには、市場の論理(ロジック)は人間の認知機能に照らして不自然なところがあってその違和感は拭いきれないところがある。その証拠にと言うべきか、世界中のいたるところで次のような主張に出くわすものだ。曰く、(モノの価格はその時々にそれを手に入れるために買い手(の候補)がどれだけお金を支払う気があるかによって左右されるわけでなく)「どんなモノにもそれ自体に内在する常に変わらぬ『公正価格』(just price)が備わっている」。曰く、(売り手と買い手の間に入って仲立ちをする仲介業者は消費者たちが遠くの地にあるあれやこれやの品物を容易く入手できるよう図るというれっきとしたサービスを提供しているにもかかわらず)「仲介業者は寄生虫のような存在だ」。曰く、(同じ1円(同額のお金)であっても「今の1円」と「将来のある時点(例えば1年後)の1円」とでは価値が違うにもかかわらず)「お金を貸して(元本に加えて)金利の返済を要求するとは不道徳極まりない行為だ」〔このあたりの話について詳しくはトーマス・ソウェルの『Knowledge and Decisions』を参照のこと〕。しかしながら、かような一連の謬見は(公正な交換が実現されるのは同量のモノが互いに交換し合われた場合に限られると見なされる)「互酬的な交換」を支える心性とは相性がいい。顔と顔を突き合わせて贈与と返礼の応酬が繰り返される「互酬的な交換」を支える心性は市場経済に特有の複雑な装置(仕組み)――見ず知らずの膨大な数の人々の間で時空を超えて財やサービスのやり取り(交換)を可能にする装置(仕組み)――の取り扱いには不向きなのだ。

私なりの意見を言わせてもらえば、「市場値付け」は人間本性の管轄外にあるように思える。人間の思考にしても感情にしても「市場値付け」型の関係におあつらえ向きなようにはできていない(時とともに自然とそのような方向に発達を遂げてきてはいない)ように思えるのだ。

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