クルーグマン「ケインズ氏と現代人」

[Paul Krugman, “Mr Keynes and the moderns,” VoxEU, June 21, 2011; PDFバージョン]

【イントロ】

ケインズの『一般理論』は75歳をむかえた.このコラムでポール・クルーグマンは,ケインズ一般理論の洞察と教訓の多くが今日でもなお意義をもつものの,その多くが忘れ去られていると論じる.マクロ経済学者と政策担当者の多くは,今日の危機に昔ながらの謬見を当てはめている.「痛みに耐えればよくなる」という一派が処方したいんきち薬が見るからに失敗するなかで,ケインズの考えが復活をとげるかもしれない.


ここでお話をする招きをいただいたことを光栄に思います.まして,ぼくにはその資格がおそらくないでしょうから,なおのことそう思います [1].さて,なんといってもぼくはケインズ学者ではありません.いかなる種類であれ,まじめな思想史研究者ではありません.それに,これまでの研究人生の大半をマクロ経済学にそそいできたわけでもありません.1990年代後半にいたるまで,マクロ経済学分野への貢献は,国際問題にかぎられていました.マクロ研究を追いかけてはいましたけど,前線の理論的・実証的な論争に首を突っ込むのはさけていました.それと対照的に,政治的な議論や政策を実際に突き動かす主張については,専門分野で有能な経済学者の大半よりも,自分はいい目利きなんじゃないかと思っています.さて,いまそうした議論には,まさしくケインズが75年前に格闘していたのと同じ問題がかかわっています.ぼくらはいま――いまいましいことに――1930年代に踏破していた地点にまで後退しつつあります.大蔵省見解も往事のごとし,そして清算主義がふたたび咲き誇っています.どうやら金利の決定をめぐる「流動性選好 vs 金利の貸付資金モデル」の見かけ上のパラドクスを学び直さねばならなくなっているようです.

この講演でやりたいことを簡潔に言えば,まずケインズの読み方について――というか,ぼくが好むケインズの読み方について――お話することです.次に,ケインズが『一般理論』で達成したことはどんなことで,目下の論争が実はケインズが解決した旧い議論をいかに繰り返しているのか,という点をお話ししましょう.いまの状況において――そしておそらく75年前でも――とくに重要な側面でありながら『一般理論』では扱われていないもの,少なくともほとんど言及されていないものをいくつかとりあげて論じます.最後に,ケインズがぼくらに教えてくれたことがこれほどまでに忘れ去られるにいたった,困った道筋について振り返っておきたいと思います.


【ケインズを読むことについて】

『一般理論』でカギとなるメッセージとすべくケインズが意図していたことは,いったいなんでしょうか? ぼくの答えはこうです――「そいつは伝記作家や思想史家の仕事ですな」.べつに,「どうでもいい」とまでは言いませんが,なによりも重要なことではないでしょう.古いネタにこんなのがあります.美術館の来訪者が,ジョージ・ワシントンの肖像画をじっくり鑑賞して,守衛に「ほんとにこんな外見だったの?」と尋ねます.守衛が答えて,「いまの外見はそこにあるとおりだよ」.ケインズについても,ぼくの感覚はこれとだいたい同じです.大事なのはケインズからなにを引き出すかであって,彼が「ほんとうに」言わんとしたことではありません.

ぼくは,ケインズの読者を2つに分けています:第12章くんと第1巻さんです.もちろん,第12章といえば,長期予想を論じたすばらしくみごとな章です.あそこには投資家心理に関するするどい観察があり,美人コンテストとの類比がでてきたり,いろいろありますね.その本質的なメッセージはこうです――投資家の意志決定は合理的な答えがない根源的な不確実さのさなかになされるほかない,そして,自分がやっていることを知っているフリをする際に人々が利用する慣習は,ときとして劇的な改訂を受けて経済的な不安定性をもたらすことがある.第12章くんは,ケインズのほんとのメッセージはこれだと言い張ります.ジョン・ヒックスからポール・サミュエルソンからマイク・ウッドフォードにいたるまで,偉大なケインズの名前のもとにこの洞察を後景におしやる疑似均衡モデルを支持してきた連中は,ケインズの真の遺産に背反しているのだと,第12章くんは主張するのです.

これと対照的に,第1巻さんは,ケインズ経済学のことを本質においてセイ法則〔「供給は自らの需要をつくりだす」〕の反駁にかかわるものだととらえます――つまり,需要の一般的な不足がありうるという議論がそこにはあると考えるわけです.そして,需要の失敗について考えるには,準均衡モデルの観点をとるのがいちばんだと考えます.準均衡モデルでは,賃金やケインズが言う意味での長期予想の状態も含めて一部のものは固定している一方,他のものは各種の条件付き均衡に向かって調整が進みます.第1巻さんたちは,第3章にでてくる有効需要の原則に関するケインズの論述に着想の源泉をみいだします.この有効需要の原則は,準均衡の概念で規定されています:「総供給関数と総需要関数の交点における D の値を有効需要と呼ぼう」

さて,一般理論の読み方として正しいのはどちらでしょう? ケインズみずから,1937年の QJE 論文 (Keynes 1937) で,「自分は第12章くんだ」と宣言しています.ですが,だからどうだと言うんです? ケインズはすごい人でしたが,それでも人にすぎません.そして,いまぼくらの目標は彼がもともと抱いていた意図に忠実になることではなくて,できうるかぎりうまくこの世界に対処するのに,彼の助けを求めることにあります.

ともかく自分の見解を言えば,ぼくは基本的に第1巻さんです.そこに第13章と第14章の中身もかなり加えます.その話はこのあとすぐしましょう.第12章はすばらしい読み物ですし,「市場は賢明で合理的だ」と仮定してかかる経済学者にありがちな傾向を調べるのにすごくべんりではあります.でも,ぼくがいつも経済学に求めているのは「直観ポンプ」です――つまり,言葉あそびや偏見にはまらず経済状況を考える方法,いくらか深い洞察をもたらしてくれそうな方法を求めているんです.さて,準均衡のお話は強力な直観ポンプです.根本的な不確実性に関する深い思考とは,そこがちがいます.コツは,いつでも,均衡のお話をきまじめに受け取りすぎないことです.均衡のお話は洞察をえるための手助けでしかなくて,《真理》じゃあないってことを理解するのが大事です.それを踏まえておけば,均衡分析を使うのにとくに間違ったところはないと思います.

均衡理論家としてのケインズ――「ほんとうの」ケインズだろうとそうでなかろうと――には,今日まで,大いに学ぶべきことがたくさんあります.セイ法則から自分を解放する苦闘,「大蔵省見解」を反駁しようという苦闘は,わりと最近まで古代史のように思えていたかもしれません.しかし,いまや,1930年代を彷彿とさせる経済情勢に直面しているぼくらは,まさにああいう知的な苦闘をやり直すはめになっています.また,貸付資金モデルと金利の流動性選好理論を区別することは――あるいは,むしろ,この両者が同時に真でありうる場合を理解し,その洞察の含意を見て取れることは――経済学者や経済を論じる人たちの大部分が忘れてしまっていること明白です.


【新たな戦いの旧い誤謬】

ケインズがなにを言ってたのかまるで理解しないまま「あんなのくだらない」と済ませている経済学者たちの――つまり,我らが同僚諸氏の多くの――文章を読むとき,ケインズが貢献したことはつまるところ「賃金が硬直的で,だから名目需要の変動で実質の産出に影響がでる」ということにつきると極小化されるのを目にすることがよくある.ロバート・バロー (Barro 2009) を引こう:「超過水準に賃金・価格が固定してしまっていることで問題が生じるとジョン・メイナード・ケインズは考えた.だが,この問題は拡張的な金融政策で容易に解決できる.十分に拡張的な金融政策を行えば,賃金と価格は下落するに及ばないのだ,とケインズは言うのだ」 さて,これがすべてなら,一般理論は大したものじゃあなかったでしょう.

ですが,もちろん,それがすべてではありません.ケインズが古典派経済学者を批判したとき,その標的は,産出が需要に制約されうるという事実を許容したとき,どのようにしてなにもかもが変わってしまうのか,その点を彼ら古典派経済学者がつかみ損なっているというところにあったのです.古典派たちは,会計等式を因果関係だと勘違いしてしまい,とくに,「支出はかならず所得に等しくなるのだから,供給はみずからの需要をつくりだすし,望まれた貯蓄は自動的に投資される」と信じてしまいました.かくして,彼らが手にした金利の理論では,資金の需要と供給の観点だけで考えてしまい,次の点を認識できませんでした.すなわち,とくに貯蓄は所得水準に左右され,ひとたびこの点を考慮に入れると,筋書きを完成させるためになにか別のものが必要になる――流動性選好が必要になる――という点を認識できなかったのです.

こういう風に古典派経済学者を特徴づけるケインズが果たして公正だったかどうか,異論はあるかもしれません.しかし,ぼくとしては,彼は正しかったと思う方に気持ちがかたむいています.なんでって? なぜなら,ケインズを知らない現代の経済学者や経済評論家たちがまるっきり同じまちがいにハマっている様を見ているからです.

この点を主張するには,具体的な事例を引用せずにはすませられません.ということはつまり,誰彼と名前を挙げていくしかないってことです.というわけで,まず第一点目について,ジョン・コクラン (Cochrane 2009) を引きましょう:

《第一に,印刷機で刷らないとすれば,貨幣はどこからからでてくるほかない.政府がキミから借り入れたとして,そのドルはキミが支出したものではないし,それを企業に貸し付けてその会社が新たな投資先に支出することにもならない.政府支出が1ドル増えるたびに,それに応じて民間支出が1ドル減らなくてはならない.財政刺激支出で創出された雇用は,民間支出の減少で雇用が失われることで相殺される.工場を建てる代わりに道路をつくることはできるが,しかし,財政刺激はこの両方をつくる助けにはなってくれないのだ.これはたんなる会計の話で,「クラウディング・アウト」に関するややこしい論証はいらない.》

これこそまさに,ケインズが古典派経済学者たちが唱えていると論じた立場です――「人々がじぶんのお金をあるかたちで支出しなかったなら,それとちがったかたちで支出されることになるという観念」です.そして,ケインズが言ったように,この見当違いな考え方のもっともらしさがどこから出てきているかと言えば,「支出はかならず総所得に等しくなる」という会計等式に表面的に似ていることにその出所はあります.

この誤謬を払拭するには,古くさいサミュエルソンの45度線モデル(Figure 1.)を持ち出せばすみます.この図を見てもらうと,計画支出の曲線 E1 と E2 は,望まれる支出を所得の関数として表しています.均衡は――なんなら「準均衡」は――支出の曲線が45度線と交差する点にあります.ですから,支出は所得に等しくなるわけですね.しかし,この会計等式からは,「政府によるものであれ民間の主体によるものであれ,望まれる所得の増加が実際の支出に影響しえない」ということはでてきません.ええ,いま「民間主体」って言いましたよ.これまでにぼくなんかが指摘してきたように,「政府による赤字支出は所得を上昇させえない」という主張が正しいとすれば,「支出を増やそうという民間企業の意思決定はその増加額と同じ額を経済のほかの場所で押しのける[クラウドアウトする]ことになる」ということも正しいことになります.言うまでもないことですが,政治的な論争ではこの点が理解されていません.保守派は,「財政政策なんてうまくいくわけがない」「企業の安心感を改善することが決定的に重要だ」と言う傾向がありますね.しかし,それは政治の問題です.

Figure 1.
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その反対に,サミュエルソンの45度線モデルを見て判るように,望まれる支出の増加は,通常,所得の上昇につながるのです.

しかし,するとすぐさま,ぼくらの問題の一端が見えてきます.いまどき,どこの誰がサミュエルソンの45度線モデルなんて教えます? とりわけ,大学院で教える人なんていますかね? あまりにも粗雑であまりにも時代遅れで,いまさら言及する価値なんてないと思われていますよね.でも,これが教えてくれる基本的な論点は,いま多くの高名な経済学者たちが言っていることよりも洗練されています――それどころか,この粗雑なつくりごとを学んでおきさえすれば,素朴な誤謬におちいらずにすんだはずです.これと同じ要点をもっと精緻なニューケインジアンのモデルの観点で言い表すこともできますが,そうしたモデルは,あまりにややこしいおかげで,古風な45度線図ほど力強く要点を示してくれないのです.


【金利はどうなのさ?】

金利決定について,ケインズは『一般理論』の第13章と第14章で論じています.ぼくの考えでは,これは大半の読者が思っているよりもずっと深い議論です(あまりに悪文なせいでそう思ってしまうんじゃないかと思いますが).その深みの証明は,ケインズが示した誤謬にハマりこみつづける人たちがああも多いことに見て取れます.きわめて高名な経済学者たちも含めて,財政政策の論議でも国際資本移動の議論でも,実に多くの人たちが,ケインズの示した誤謬にハマっています.

Figure 2.
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実務的な人たちには,ついついこう考えてしまうクセがあります:「金利は貸付資金の需要と供給で決まる」.ちょうど Figure 2 のようにですね.ただ,〔ケインズの有名な一節とちがって〕実務的な人にしても,とっくの昔に死んだ経済学者の思想に支配されているとはかぎりません.なにしろ,大勢の現役バリバリの経済学者たちが彼らの誤解を助長し,そそのかしたりしてますからね.ともあれ,金利は貸付資金の需要と供給で決まると考えられがちです.そうした観点で考えると,貸付資金の需要増加や供給減少が起これば,かならず金利が上がると考えるのはごく自然なことです.そうすると,これが経済回復の見通しを悪くするといともあっさり想像してしまうわけです.

ここでも,たんにわら人形たたきをしてるわけではないと証明するため,名前を挙げておく必要がありますね.というわけで,ニーアル・ファーガソン(Soros et al. 2009 参照)を引きましょう:

《さて,私たちはいま治療局面にあります.用いてられている治療方法とは,どんなものでしょう? これは実に興味深いところです.というのも,2つの矛盾した治療方針が使われているんです.一方の方針はフリードマン博士の処方箋です――これは連邦準備制度が実行しています:つまり,1930年代前半の大恐慌を引き起こした銀行破綻を避けるべく,大量に流動性を投入しています.私もこれはいいと思います.なすべき正しい対応です.しかし,これとは別の治療方針もあり,同時に実行されています.こちらの治療法は,ケインズ博士――ジョン・メイナード・ケインズ――による処方箋です.この治療法には,大規模な財政赤字がともなっており,その額は今年の GDP の 12% を超えるほどです.これにともない,新たに国債が大量に発行されています.》

《これら2つの政策ははっきりと矛盾しています.それでいて,私たちは両方をやろうとしているわけです.マネタリストとケインジアンを同時にやるのは無理な話です――少なくとも,どうすればできるのか,私にはわかりません.というのも,マネタリストの政策の狙いは,金利を低く抑え続けること,流動性を高く維持することにあるのに,ケインジアンの政策は必ずその金利を上昇させてしまうからです.》

《なにしろ,1兆7500億ドルというとてつもない巨額の新規国債を景気後退期の債券市場にもたらすのはおそるべきことです.いったい誰がそんなに買うというのか,私にはわかりかねます.確実に,中国人ではないでしょう.景気のいい時期にはうまくいったでしょうが,しかし,私の言う「チャイメリカ」,すなわち中国とアメリカの婚姻関係は終わりを迎えつつあります.おそらく,ひどい離婚というかたちで終わることでしょう.》

こういう推論の進め方のなにがおかしいのでしょうか? それこそまさに,ケインズが指摘していたことです.つまり,資金の需要と供給を示す計画曲線は,与えられた所得水準の仮定の上にしか描けないのです.所得の増加の可能性を許容すると,Figure 3 が得られます――これはケインズ本人による図で,まあたしかにへたくそなお絵かきではあります.

Figure 3.
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Figure 4 は,ぼくなりに描きなおしたグラフです.だいたいヒックスを踏襲しています:GDP の増加により,貯蓄計画が S1 から S2 に移ったとしましょう.また,投資計画もグラフのように移ったとします.すると,みてのとおり,貸付資金の市場における均衡金利は下げることになります.

Figure 4.
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ヒックスが教えてくれたように――また,ケインズじしんも第14章で述べているように――資金の需要と供給がもたらすのは,所与の金利に対応する所得水準がどのようなものになるかを示す計画 (schedule) なのです.つまり,そこからわかるのは,Figure 5 の IS 曲線です.ここから,所与の産出水準と雇用水準を達成するには中央銀行が金利をどこに設定すべきなのかがわかります.もちろん,このグラフが示すように,完全雇用を達成するのに必要な金利がマイナスになる場合もあり得ます.その場合,金融政策はゼロ下限につきあたることになります.つまり,流動性の罠にはまってしまうわけです.1930年代のアメリカとイギリスがこれにはまっていました――そして,ぼくらはまたしてもはまっているのです.

Figure 5.
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この状況について考える1つの手としては,完全雇用になったとき主流となる貸付資金の供給と需要を描いてみることです.ちょうど Figure 6 のような具合です.ここで大事なのは,可能なかぎり低いゼロ金利において求められる貯蓄の超過供給が生じるという点です.根本において,ゼロ下限の経済は求められる貯蓄が求められる投資よりも多くなっていることで苦しんでいる経済なのです.

ここで話は,現在の条件下で政府の借り入れが金利を上げてしまい,景気回復の妨げになるという主張にもどります.ケインズを理解している人なら,誰だって気づくべきことがあります.それは,産出が低調に抑えられているかぎり,政府借り入れが増加したところで金利が上がる理由なんてない,ってことです.増やされた政府借り入れは,たんに超過している潜在的貯蓄の一部を利用しているだけです――したがって,これは経済の回復を手助けすることになります.もちろん,十分に大規模な政府借り入れがなされれば,超過貯蓄をすっかり使い切ってしまうこともありえます.そうなれば,金利は上がるでしょう――しかし,それには政府借り入れが十分に大規模になって,完全雇用が回復されるほどでなくてはならないのです.

Figure 6.
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しかし,政府借り入れが金利を上げてしまうといいう見解にこだわっている人たちはさておき,なんでこんなでたらめにつきあうのさって? 実は,マクロ経済学においてかぎりなく対照実験に近いものがなされているのです.Figure 7 に示してあるのは,国民が保有するアメリカの連邦債務です.その額は,経済が流動性の罠条件に突入してから約4兆ドル増加しています.また,Figure 8 には10年物国債金利が示してあります.こちらの数字は,実は下がっています.(長期の金利がゼロにないのは,「フェデラルファンド金利はいずれどこかで上昇する」と市場が予想しているためです.ただ,その日付はこのところずっと先延ばしされつづけていますが.)

Figure 7.
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Figure 8.
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このように,不況下の経済であっても大規模な借り入れは金利を押し上げると確信しきっている人たちは,まさにケインズが長文を費やして反駁した誤謬にはまっているわけです.そしてここでも,実に古風な分析を使ってこの論点を主張しています――多くの経済学者はもはや学ばなくなっている分析を使って,です.ニューケインジアン・モデルは,適切に理解さえすれば,同じ結果をもっと多大な苦労をして示してくれます.しかし,そうしたモデルを適切に理解している人がいったいどれほどいるでしょうね?

まだまだ話は終わりません.財政政策をめぐる世間の議論の多くが,1936年にケインズが反駁したのと同じ誤謬を繰り返しているとすれば,同じことは国際金融政策をめぐる論争についても言えます.こんな主張を考えて見ましょう.ほぼ誰もが主張してるものですが,「巨額の財政赤字を踏まえれば,アメリカは中国その他の新興経済大国からの資本流入の継続をのどから手が出るほど欲している」という主張があります.掛け値なしにすぐれた経済学者であっても,この罠にハマっています.ちょうど先週のことですが,ケン・ロゴフがこう発言しています.「新興経済大国からの貸し付けにより,債務にせき立てられているアメリカ経済の生命を維持している」

んなことないですけどね:他国からの資本流入はたんに,投資需要に比較してすでに超過しているアメリカの貯蓄の供給をさらに追加するだけのことです.こうした資本流入に対応して,貿易赤字をつくりだしていて,これはアメリカ人の状態をよくするどころか,悪化させています.もしも中国人がむかっ腹を立ててアメリカ国債の購入をやめてしまっても,それはぼくらにとってありがたい話になるのです.『一般理論』の登場から75年もたったというのに政府高官や名声ある経済学者がこの点をわかっちゃいないってのは,知的後退の悲しむべき事例というものです.

この知的後退については,また後ほど語ることがあります.しかし,さしあたっては,目下の状況の特徴のなかで,ケインズが取り上げていないものについて語るとしましょう.


【『一般理論』になかったもの:銀行と債務】

『一般理論』に欠けているもので,いちばん驚くのは――基本的なケインジアンの概念を忘れずにいたマクロ経済学者のあいだでなによりも省察を産み出してきたものは――同書が銀行危機を論じ損なっている点でしょう.基本的に,『一般理論』に金融部門は登場してきません.『一般理論』以来,教科書的なマクロ経済学はおおむね貨幣と銀行をおまけとして論じていて,これに景気循環分析で中心的な役割を与えていません.

ケインズ研究者たちがこの欠落について言うべきことがあればぜひ聞いてみたいところです.ケインズは間違いなく銀行問題の可能性に気づいていたはずです.1931年のエッセイ「貨幣価値の崩壊が銀行にもたらす帰結」(“The Consequences to the Banks of the Collapse of Money Values”) はカミソリのような鋭さで,デフレが銀行危機を産み出す可能性を――ちょうどアメリカで起きたような事例の可能性を――分析しています.

しかし,イギリスではそのような事態は起きませんでした.ケインズが『一般理論』にこの主題を入れなかった理由の1つはこれかもしれません.それ以上に,――少なくとも第1巻さんにはこのように見えるのですが――ケインズが主に取り組んでいたのは,セイ法則と,「なにか需要問題があったとして,それはたんにお金の供給を増やせば解決できる」という考え方から人々の思考を解放することでした.銀行問題を長々と集中的に論じているうちに,この中心的な論点から読者の注意が離れてしまいかねなかったでしょうからね.実際,まさにそういう注意が逸れてしまう事態は,ぼくが1990年代に日本の経済論議をしていたときにも起こりました.あまりに多くの分析がゾンビ銀行のたぐいに焦点を置いてしまいました.それに,「これはひとえに銀行の問題だ」と診断された場合に認識される以上に,日本の流動性の罠が経済政策にもたらす含意はいっそう根本的で悪性だと理解している人が,あまりに少なかったのです.

もちろん,今回は,おそるべき経済危機をつくりだすのに金融部門が果たした決定的役割が見逃されることはありませんでした.金融の緊張のどんな指標の数字を使っても,近年の危機を追跡できます.Figure 9 では,Baa に格付けされた企業債と長期の連邦債の金利差を使っています(「金利差1」は連邦債の長期金利に対する数字,「金利差2」は10年物国債の理論利回りに対する数字です.) この金利差には,とても長い期間にわたる履歴を追跡できる尺度だという長所と,ベン・バーナンキとかいうお人が大恐慌の始まりを分析した際に強調した尺度だという長所がともに備わっています.見てのとおり,現代アメリカ史には大きな金融の動揺が2回起きているのがわかりますね.1回目は1930-1年の銀行危機に関連した動揺,2回目は2008年のシャドウバンキング危機に関連した動揺です.

Figure 9.
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こうした金融危機がかつての大恐慌といまのぼくらの苦しみの両方のはじまりにカギとなる役割を果たしたのは,疑いようがありません.今般の方を,ブラッド・デロングは「小恐慌」(Little Depression) と呼んでいます.「ぼくらの問題はことごとく金融部門の問題だ」,あるいは「主として金融部門の問題だ」と考えるのはまちがいだと,このところぼくはますます確信を深めています.Figure 9 に見てとれるように,2008年と2009年序盤に起きた金融の動揺は,いまや大部分がおさまっています.しかし,経済の自由落下状態は止まった一方で,完全な回復がなされたとはとても言えない有様です.他のなにかが,こうして経済を低迷させたままにしているにちがいありません.

多くの人と同じく,ぼくも筋書きの重要な部分として債務水準に目を向けました――具体的には,家計債務の急増です.家計債務の増加は1980年代序盤にはじまり,2002年以後に劇的な加速を見せ,金融危機後にようやく後退するにいたりました.

最近の研究で,ガウティ・エガートソンとぼくは (Eggertson and Krugman 2010),ニューケインジアンの枠組みに債務をおさめようと試みました.カギとなる洞察はこんなものです――「債務は世界をいっそう貧しくするわけではない――誰かの負債は誰かの資産だ――けれど,信用基準がいきなり厳しくなったときには,縮小をうながす圧力の源泉になりうる.つまり,過去において許容できる範囲とされたレバレッジの水準が,なんらかのショック,たとえば金融危機なんかで,いきなり許容不可能ってことになったときには,債務は縮小をうながす圧力になりうる.その場合,債務者たちはレバレッジ解消の必要に直面する.これにより,債務者たちは支出を削減せざるを得なくなり,その一方で,債権者たちはそれに相応する額の支出を増やす必要にかられることがない.そうした状況では,経済はさらにゼロ下限に向かって押し進み,さらに長きにわたってそこにとどまらなくてはならなくなる.」

この筋書きは『一般理論』にはどうも見あたりません.ただ,どれくらいの債務額なら安全なのかに関する慣習的な見解がいきなり変更されるという考えは確実に第12章の精神と合致しています.ともあれ,債務とそれが債務者に課す制約が他のマクロ経済の問いにもたらす含意をケインズが意識していたのはまちがいありません.『一般理論』では――そして現実でも――,バローが表明した見解,「たんに名目賃金が高すぎるだけのこと」という見解がたんに的外れなばかりか因果関係を逆さまにとらえている理由として,債務は決定的に大事な要因です.

教科書的なマクロ経済学では,右下がりの総需要曲線を描きますよね.この枠組みでは,たしかに名目賃金の下落が起これば総供給曲線が下に移ることになり,雇用は増加しそうに見えます.それなら,拡張的な政策を支持する主張はあくまで便宜的なものにすぎないことになります:金融政策を使って総需要 (AD) を押し上げる方が,賃金を押し下げるよりもカンタンですからね.実際,単純なポスト・ケインジアンのモデルでは,すべては賃金率に対する貨幣供給の比,M/w に集約されています.

しかし,この主張では,第一に実質貨幣量の増加が実際に拡張的であることが前提になっています.通常は実際にその前提は成り立っているのですが,しかし,経済がゼロ下限に直面しているときにはきわめて疑わしい前提です.M/P〔名目貨幣量/物価水準,つまり実質貨幣量〕 の変化が問題にならないとしたら,総需要曲線は垂直になるはずでしょう――あるいは,もっとひどいことになる〔右上がりになる〕はずです.

名目の数値で特定された債務を抱え支出を制約された債務者がいたとして――今日の世界がまさにそうですが――賃金が下落すれば物価水準の全般的な下落につながり,債務の実質的な負担はいっそう悪化し,経済に縮小をうながす効果をもたらすことになります.これは,ケインズがよく承知していた論点です.ただ,比較的にケインジアン色の強い 40年代から50年代にかけての文献ですら,大部分が失われてしまっていた論点でもあります.


【赤字支出の必要はいつなくなるの?】

急速なレバレッジ解消を余儀なくされた債権者の役割を強調する分析について,さらに指摘しておいていいことがあります.これは,ケインズが一度も言及しなかった問題の解決に一役買ってくれます.その問題とは,「赤字支出の必要はいつなくなるのか?」です.

この問いがここでの話に関連してくる理由は,公的債務の上昇に関する懸念にあります.こんな主張にしょっちゅうでくわします――「いまの危機はあまりに巨額の債務によってもたらされた(ここまではぼくも大体賛成).その解決策にさらなる債務がなされるはずがない」.

でも,この主張について考えてみると,暗黙裏の仮定があるのが見えてきます.「債務は債務だ――だれに対する借金なのかは問題にならない」.しかし,そんなわけがありません.もしそうなら,そもそも問題なんて起きてなかったはずです.結局のところ,債務全体の水準は,純総資産を変えるわけではありません――誰かの借金は他の誰かの資産なのです.

したがって,債務水準が問題になる場合はただひとつ,総資産の分配が問題になる場合,高水準の債務を抱えたプレイヤーが直面する制約が,低水準債務のプレイヤーが直面するものと異なっている場合です.これはつまり,すべての債務は生まれながらに平等ではない,ということです――だからこそ,ある主体によるいまの借り入れが,過去の他の主体による超過借り入れによってつくりだされた問題の解決に役立ちうるわけです.

とくに,こんな場合を考えて見ましょう.しばしの間,政府が借り入れできるとします.その借入金によって,インフラのような有用なモノを購入します.こうしたことの真の社会的コストはとても低いものです.というのも,この支出がなければもちいられずにいたであろう資源を利用することになるからです.また,政府支出により,高水準の債務を抱えるプレイヤーたちが自分の債務を返済するのがらくになります.支出が十分に継続されれば,債務者たちはバランスシートにそんなにきびしく制約されない状態になるでしょう.そうなれば,完全雇用を達成するのにさらなる赤字支出を行う必要はなくなります.

ええ,たしかに民間債務の一部は公的債務に置き換わることになりますよね――でも,要点は,総体の債務水準は下がらなくとも,バランスシートにきびしく制約されているプレイヤーから債務が移って経済の問題が軽減されることにあるのです.

大事なところをまとめましょう.「債務によって債務は癒せない」というもっともらしい主張はたんに間違っています.その反対に,債務は債務を癒せるのです――これをやらないとすれば,対案は,経済の低迷を長引かせることであり,これは債務問題をなおさら解決困難にしてしまいます.

また,債務の役割について考えるとき,たんに賃金の伸縮性の有用性またはその欠如の観点で考えるだけでなく,不況の背後にある因果関係の重大要因として言葉に言い表して考えることで,ケインズの論証を改善することになるように,ぼくなどは思います.実際,長期的にはぼくらはみんな死んでしまうわけですが,拡張的な財政政策が永続的に維持される必要がない理由についてひとつ筋書きをもっておくのは有益でしょう.


【ケインジアン政策の奇妙な死:サミュエルソン総合の不安定性】

ここまで,いまぼくらがはまっている苦境を理解するのにケインジアンの分析がすばらしい道具になってくれると述べてきました――少なくとも,ケインズが「本当に」言わんとしていたことがどんなことであれ,いまケインジアンの分析とされているものは,この苦境の理解に見事に役立ってくれます.

じゃあ,多くの点で1930年代の経済によく似た経済にいまぼくらは暮らしているというケインジアンの洞察を,こうもわずかしか役立てていないのはどういうわけでしょうか? なんで,昔の議論をまた繰り返さなくちゃならないんでしょう? なぜって,昔の誤謬がそっくりそのまま新たに繰り返されているらしいからです.

有名な人たちをぜひとも非難しておきましょう.バラク・オバマの小心さ,ジャン=クロード・トリシェの願望優先思考,共和党議員全員の断固たる無知,これらには言い訳の余地もありません.ただ,この3年にわたる政策の失敗を注視していて,この失敗の根は深いとますます思うようになりました――ある意味で,これは運命だったのでしょう.とくに,経済学者全般がかつて支持していた穏健な経済政策レジームは――概ね市場に機能させつつも政府が行きすぎを抑え不況には立ち向かうレジームは――その性質からして,不安定なものです.1世代かそこらは続くものの,それ以上は続かないのです.

ここで言う「不安定」は,ミンスキー型の金融不安定だけを意味するわけではありません.ただ,それも含みます.同じくらい重要なのは,このレジームの知的・政治的な不安定性です.

まず,知的不安定性から話しましょう.

ぼくが日々の仕事に使ってる経済学のブランドは――いまでも,これまでに登場してきたアプローチのなかでいちばん理に適ってると考えてるブランドは――その大部分を1948年にポール・サミュエルソンが確立したものです.1948年とは,サミュエルソンが古典的な教科書の第1版を出版した年です.このアプローチは,ミクロ経済学の立派な伝統とケインジアン・マクロ経済学を結合させています.ミクロ経済学は見えざる手のはたらきで一般に望ましい結果がもたらされる仕組みを強調します.他方,ケインジアン・マクロ経済学は,ケインズが言う「マグネトの故障」を経済がときとしてどのように発展させてしまうのかを強調します.この経済の「マグネトの故障」には政策の介入が必要となります.このサミュエルソンの総合では,おおよその完全雇用を確かなものとするのに政府をあてにしなくてはなりません.それが当然のこととなってはじめて,自由市場のおなじみの美徳は威力を発揮するのです.

これは実に理に適ったアプローチです――ただ,知的に不安定なアプローチでもあります.というのも,これには,経済に関する考え方になんらかの戦略的な不一致が必要となるからです.ミクロをやっているときには,合理的個人と急速にごたごたをととのえてしまう市場を仮定します.他方で,マクロをやっているときには,摩擦やアドホックな行動上の仮定は必要不可欠です.

それで? 有用な手引きを得ようとする際に首尾一貫しないことがあるのは,なんの悪徳でもありません.車を運転するときなら道路地図があれば事足りますが,ハイキングのときには等高線が入ったやつが必要でしょう.

ただ,経済学者はミクロとマクロの境界線に取りかからざるをえなくなりました――実践上,これはようするにマクロをミクロに似せようという試みに行き着きます.最適化と市場での交換で基礎づける部分をより多くしていったわけです.じゃあ,「ミクロ的基礎」をもたらそうという試みが思うほどうまくいかなかった場合は? まあ,人間の性向や,「学問版・収穫逓減の法則」を考えあわせれば,経済学専門家の相当な部分が,モデルにうまく収まらないからといって景気循環のいろんな現実事情を仮定で捨象してしまったのも,不可避だったのでしょう.

その結果うまれたのが,ぼくが言う「マクロ経済学の暗黒時代」です.この時代に,経済学者はかつて30年代から40年代に苦心して勝ち取られた知見について文字通り無知になりました――さらに,もちろん,自分の無知を指摘されたときには憤怒で引きつけを起こしました.

この知的な不安定性に,政治的な不安定性が加わります.

保守派とケインジアンの両方になるのも可能です.結局のところ,ケインズ当人も自分の著作のことを「その含意において穏当に保守的」と述べてもいます.ただ,実際には,保守派はいつもこう断定する傾向を見せてきました――「社会主義の入り込むくさびとなる政府には,経済で果たす有用な役割などなにもない」ウィリアム・バックリー (William Buckley) がイェール大学で「神と人」を書いたとき,彼の大きな不満の1つは,イェールの学部がこともあろうにケインジアン経済学を教えている,というものでした.「なんとおそろしい!」って.

ぼくはいつでもこう考えてきました.「マネタリズムは,事実上,マクロ経済の現実を否定することなく保守的な政治的偏見を保証する試みだ」 フリードマンが言っていたことは,事実上,こんなことです.「そうとも,経済を安定させる政策が我々には必要だ――だが,その政策を専門的かつ大部分において機械的なものにしてやれるし,ほかのなにもかもを遮断してしまうことができる.中央銀行に M2 を安定させろと言って,それ以外のことは自由にしてしまえ!」

マネタリズムが失敗したとき――挑発的な言い方だと思うでしょうが,現に失敗したんです――これに取って代わったのが独立した中央銀行のカルトです.「いかにも銀行家らしい連中にマネタリーベースの番をさせて,彼らに政治的圧力がかからないようにしろ,そして,景気循環に取り組ませるんだ.その一方で,他のすべては自由市場の原則に導かせればいい」というわけです.

そして,しばしの間,これは機能しました――おおまかに言って,1985年から2007年まで機能しました.「大中庸の時代」です.うまく機能した理由の一端は,中央銀行が政治的影響から隔絶されたことで,知的な隔絶も少なからず生じたことにあります.ぼくらがいまマクロ経済学の暗黒時代に生きているとすれば,各国の中央銀行はそのなかでの修道院でありつづけました.外界ではすっかり失われてしまった古代の文献を蓄え,これを研究してきたのです.リアル・ビジネス・サイクルの徒が専門学術誌を制覇してしまい,財政政策どころか金融政策がものを言うモデルを公表することもすごく難しくなった状況でも,連銀の研究部署は景気循環に対処する政策を比較的に現実的なかたちで研究しつづけました.

ですが,これもやはり不安定なものでした.1つには,早晩,財政政策のより広範な助けなしには中央銀行家が対処できないほど大きなショックがやってくるのは避けられなかったからです.それに,そのうち蛮族どもが修道院を狙うのも,やはり避けられないことでした.そして,いまの量的緩和をめぐる騒ぎをみてわかるように,侵略者の大群はすでに到来しているのです.

最後に,これも他に劣らず大事なことですが,金融の不安定性もあります.ぼくの見るところ,中央銀行が主導した安定化そのものが,金融規制緩和(金融の自由化)と組み合わさることで(金融自由化じたいも自由市場原理主義の再来の副産物ですが),中央銀行家たちには巨大すぎて対処できない危機の舞台を整えることになりました.これがミンスキー主義です:比較的に安定した時代が長く続いたことで,よりいっそうのリスクテイキング,より大きなレバレッジにいたり,そして最後には,巨大なレバレッジ解消ショックが起こったんです.そして,ミルトン・フリードマンは間違っていました:経済を流動性の罠に追い込むほんとに大きなショックを前にしたとき,中央銀行は不況を防げないのです.

その大ショックが到来するまでに,知的な暗黒時代への後退に,政治的な基盤による政策の積極対応の拒絶が組みあわさって,ぼくらはもっと広範な対応策について合意することができない状態になってしまいました.

というわけで,サミュエルソンの総合の時代は不快きわまる終幕を迎える運命にあったんじゃないか,というのがぼくの見立てです.そして,その終幕の結果は,いまぼくらを取り巻いてる残骸です.


【危険な考え】

『一般理論』の結びは有名ですね.思想の力に対する感動的な頌歌のなかで,ケインズはこう断言しています.思想は「よきにつけ悪しきにつけ危険なもの」である,と.これまで数世代にわたる経済学者たちが,この明朗な結語は自分たちの研究がものを言うと信じるのを正当化してくれるのだと受け止めてきました――よい思想はやがてよい政策をもたらすことになる,と考えてきたのです.しかし,そうした希望が,いまどれほど残存しているでしょうか.政策担当者もぼくらの同僚たちの多くも,そろってケインズがさらし立てた誤謬にすっぽりはまってしまったいま,そんな希望がどれほど生き延びているでしょうね?

ぼくに出せるせいぜいの答えは,こんなものです――「安定した確かな上向きの進歩がなされるなんて,高望みってもんだろう.とくに,利害と偏見がこうも強力に経済学を席巻している状況ではなおさらだ.それでも,いまの危機ですらケインジアンの思想の射程はあるかもしれない.なんといっても,この危機はすぐに終息しそうな気配を見せていないし,ぼくがシバキ上げ党 (pain caucus) と呼ぶ連中の政策は,いまこうしてしゃべっている間にも目に見えて失敗している.もとから政策を主導するべきだった思想に復帰のチャンスがまためぐってくるかもしれない」

さて,ここはイギリスですから,経済学で起きた知的後退と政策対応の不手際に(ぼくと同じく)イラだってる経済学者の諸氏に1つ助言を:「平静を保ってふんばりつづけよう.諸君らの粘り強さにいずれ歴史が報いてくれる」

【参照文献】

Barro, Robert (2009), “Government spending is no free lunch”, Wall Street Journal, January 22.
Cochrane, John (2009), “Fiscal stimulus, fiscal inflation, or fiscal fallacies ?”, mimeo.

Eggertsson and Krugman (2010), “Debt, deleveraging, and the liquidity trap”, mimeo.

Keynes, J.M. (1936). The General Theory of Employment, Interest, and Money. New York: Harcourt, Brace and Company.

Keynes, J.M. (1937), “The general theory of employment”, Quarterly Journal of Economics.

George Soros , Niall Ferguson , Paul Krugman , Robin Wells , and Bill Bradley , et al. (2009), “The crisis and how to deal with it”, New York Review of Books, June 11.

[1] Prepared for the Cambridge conference commemorating the 75th anniversary of the publication of The General Theory of Employment, Interest, and Money.

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