週末に昔の論文を整理していたら(わけは聞かないでほしい),1990年10月19日付けの『フィナンシャル・タイムズ』に書いた論考がでてきた.1990年10月といえば,イギリスが欧州為替相場メカニズム (ERM) に加わった月でもある.この論考では,以前に国立経済社会研究所の同僚たちとやった研究にもとづいて(最終稿はこちら),イギリスは誤った為替レートで加盟しようとしていると論じた.最後の段落では,こんな風に書いてある:
ここで危険なのは,政府があらゆるコストを払ってでも現在の為替レートを維持しようと試みることだ.その場合,1980年~81年と同じ規模で景気後退を生じさせてしまうか,これを阻止し損なう結果となりかねない.
いま利用できる過去のデータを見ると,この時点ですでに GDP は低下中だったのに,金利は景気後退を阻止するのに足りるほど切り下げられていなかった.通貨におよぼす圧力が懸念されたのが理由だ.その後もほぼ間断なく GDP は下がりづけて,ついには ERM からの離脱が余儀なくされる(黒い水曜日).ERM を離脱したことで,金利は下げられるようになり,ポンドは 10% 値下がりした.これも一助となって,力強い景気回復が確実になった.
こう予測していたのは私だけではなかったにちがいない.そうだとしても少数意見だったことに変わりはないが,その少数意見が最善の分析だった.もちろん,グローバル金融危機 (GFC) の方がこれよりずっと大きな出来事だったし,予見していた人ははるかにすくなかった.おかげで,あれから10年経ってグローバル金融危機をいくらか予測していた経済学者たちは正当にもメディアで注目されつつある.ポンド危機とグローバル金融危機は大きく異なる出来事だけれど,両者になんらかの類似点は見つけられるだろうか? もっと一般的に言えば,この種の災厄を結びつけるものはなにかあるだろうか?
共通の要因を1つ挙げれば,市場を言い訳に使って経済分析を避ける点がある.私たちがやった ERM 分析を無視するのに使われた主な言い訳は2つあった.その1つは,当時の為替レートを見ながら「なにが起きているか市場は知っているにちがいない」と口にされた言い訳だ.もちろん,危機の前にも,データを見て「レバレッジを高めながら自分たちがやっていることを銀行はわかっているにちがいない」と考えた人たちも大勢いた.大勢すぎたほどだ.
おそらく,もう一つは,昔からあるアイディアに体現されている知識を新しいアイディアに追放させないことだ.ERM 加盟時のレートに関する私たちの分析を無視するのに学者の世界でとくに使われた言い訳は,「使っているモデルが少しばかり古くさい」というものだった.(これについてはこちらでさらに書いてある).銀行家たちは,「自分たちにはリスク評価の新手法があるのだから体系的なリスクを無視できる」とみずからをだましていた.イギリスで起きた他の2つの経済危機について考えてもらうと,同じことが当てはまるのがわかる.大蔵省は1980年の景気後退をかなりうまく予想していたが,ローソン他による古くさいケインジアンの研究だといってその分析はサッチャー政権に捨て去られた.周知のとおり,緊縮も基本的なケインジアンの真理を無視してなされた.
するとすぐに思い浮かぶ最後の疑問はこれだ――「私たちはこの種の危機から学んでいるのだろうか?」 イギリスが ERM から離脱したあと,大蔵省から私に依頼があった.「もしもユーロに加盟する場合の為替レートについて分析してくれないか.」 ということは〔こんな風にたずねてくる程度には〕,少なくともいくらかは学習されたということだ.もっとも,政権が変わったこともこの一因になっているかもしれない.おそらく,黒い水曜日をきっかけに国民はイギリスの固定為替レート体制に不信を抱くようになり,それが追い風になってゴードン・ブラウンがユーロ加盟に反対論を唱える助けになったのかもしれない.
グローバル金融危機から私たちは教訓を学んだのだろうか? 銀行制度にはいくらか変更が加えられたものの,「これでは不十分」というのが国民の共通意見なように私は思う.また,大手銀行への隠れた公的助成はいまも存在しているように思える.他にも理由はあるにせよ,グローバル金融危機を予想していた人々の言い分に耳を傾けるべき理由はここにある.金融危機からどう回復するかという観点で言うと,1930年代の教訓はたしかにいくらか学習されているけれど,教訓すべてが学ばれているわけではない.前回のポストで論じたように,将来の景気後退に備えたマクロ経済政策レジームをつくりだすプロセスは,まだろくにはじまってもいない.まして,危機に備えるどころではない.