ジョセフ・ヒース『ナオミ・クラインについての最終論考』(2015年9月22日)

クラインやチョムスキーやランドは、高校生や大学の学部生からは異様に人気があるが、より高度な教育を受けた人(特に、私のような大学教授)らからは、ほとんど無視されているような人達だ。

Final thoughts on Naomi Klein
Posted by Joseph Heath on September 22, 2015 | environment, politics

このブログの読者ならお気付きと思われるが、今年、ナオミ・クラインの気候変動本『これがすべてを変える 資本主義VS.気候変動』について言及したのを皮切りに、私は少なからずの時間クラインに浪費している。読者の何人かから、直接、ないしやんわりと、クラインへの妄執が過ぎることを指摘されたのである。よって少し弁明しておきたい。まずは、過去に数年にわたっての言説を総括し、幾つか提供してみる。

以下に過去の論考を並べてみた。
ナオミ・クライン:「これがすべてを変える」〔本サイトでの邦訳版はココ
ナオミ・クライン、追記1〔本サイトでの邦訳版はココ
ナオミ・クライン、追記2〔本サイトでの邦訳版はココ

次に以下は、私の気候変動についての過去のエントリである。
「税を税たらしめるものとは何か? 炭素税vs.炭素価格付け」〔本サイトでの邦訳版はココ
「炭素税/価格付けにおいて、2つの賢明で無い論点」
「ホッブズの難解な概念」〔本サイトでの邦訳版はココ

以上に追加して最後は、私の気候変動政策についての授業のシラバス〔本サイトでの邦訳版はココ〕である。(シラバスは、気候変動について感心がある人は読む価値があると思われる)。

個人的に、クラインの本についてこうも長期間にわたって言及してきた理由に、端的に近年は気候変動問題について考えるのに時間を割いてきたからなのだ。私が読んできた本の中には、この件についての悪書も多く含まれていた。しかしながら、クラインの本は詳細に論ずるに値する本でもある。理由の一つは、彼女が世界の知識人ランキングのトップ100やトップ50に定期的にリストアップされており、多くの場合はトップ10に入っていることにある。つまり、多くの人々が彼女の著作や話す内容を、とても真面目に読んでいる。これは、クラインが、左派でいうところのノーム・チョムスキーや、右派でいうところのアイン・ランドと同じタイプの人になってしまっている事を示す理由の一端にもなっている。クラインやチョムスキーやランドは、高校生や大学の学部生からは異様に人気があるが、より高度な教育を受けた人(特に、私のような大学教授)らからは、ほとんど無視されているような人達だ。しかしながら、これらの人々を無視している人で、「なぜ」彼女らの意見を真面目に相手にしないのかを、わざわざ説明する人は滅多にいない。クラインらが学者らから無視されている事で、彼女らの著作に感心している人々は、著作や思想を、もろもろの陰謀論や、政治イデオロギーの源泉にしてしまっている。もちろん、それは端的に間違えている。

学部生の頃の、私の「ノーム・チョムスキーの時代」は今でも思い出すことができる。当時チョムスキーの意見が誰からも相手にされていないことにとても戸惑ったものだ。チョムスキーの主張には、他の人が同意しかねる要素がいくつも含まれている、ということには当時の私も理解していた。しかし、彼の政治的意見がここまで完全に無視されている理由は理解できなかったし、その理由を説明してくれる人も見つけられなかった。もちろん、大学院を終える事には、私もその理由を理解できるようになっていた。そして、私も「チョムスキーの政治的意見の何が間違えているのか、わざわざ説明してくれない人々」の一員となっていた。私がわざわざ説明しないのは、チョムスキーが世界に特に強大な影響力を保持していると思っていないからだ。彼の著作に影響された人がその考えを発しても、個人的にも特に困ってもいない。

アイン・ランドに関しては、チョムスキーと違って非常に有害であると考えている。事実、一般向けの自著の何箇所かで、ランドについて言及し、彼女の見解の問題点を指摘してきた。(特徴的なのは、彼女の主要な小説に通底している強固なニーチェの哲学思想だ。彼女がニーチェの哲学の影響下にある事例を挙げさせてもらうなら、「レイプ」は単に許容されているだけではなく、被害・加害者双方を〔『善悪の彼岸』に達するエリートとなるための〕教化体験とされている事にある)。もっとも、クラインは、〔ランドのような選別思想の〕同調者では明確に無いだろう。それでも、私は、クラインは世の中に対して、本質的には悪影響を与える存在であると考えている。クラインの最大の問題は、彼女の見解が「とにかく意味をなしていない」ということ尽きる。彼女はあらゆる社会問題につきまとって、それら社会問題のバイブルになるような本を書いて出版しようとする。それでいて、彼女の本は、社会運動家達を不毛の地に放り出してしまうことにしか成功していない。

労働組合でクラインとルイス [1]訳注:アヴィ・ルイス。映像ジャーナリスト。クラインの公私におけるパートナー。 の〔書籍を元にしたドキュメンタリー〕映画『全てをかえる物語』見た後に、私がそこで主張したことがある。クラインとルイスは催涙弾を嗅ぎ回る時間を減らして、図書館での読書時間を増やすべきだ、と。以上主張は、使い古された教訓に聞こえるかもしれない。それでもこれは重要な観点なのだ。クラインが本を書く際のやり方の大部分は、私と完全に真逆なのだ。私は、「見解」が何であるかの把握に、時間と労力の90%近くを使っている。私は費やす時間のほとんどで、読書ないし、友人や大学の同僚と議論を行うことになる。そして見解が固まってから、「素材」の収集に残りの10%を使うことになる。そこで必要とされる「素材」、すなわち「データ」は、具体的な主張であったり、議論を具体化するための小話や逸話や、持論を補強するインタビューや報道記事となる。以上言及した私のやり方と、クラインのやり方は全く正反対となっている。彼女のやり方は、「素材」の収集に少なくとも90%の労力使った後、後付の「見解」が適当に付け加えられている。こういったクラインの仕事やり方が、私にクラインを理解することを困難にさせている。

事例を挙げると、彼女の新著のサブタイトルは「資本主義VS.気候変動」である。しかし、この本から、「資本主義」や「環境と資本主義の関係性」に対するクラインの「見解」が何であるのかに説明するのは、非常に困難だ。この本について言及したこのブログの最初のエントリでは、私は慎重かつ好意的に、クラインの言わんとする事の謎解きを試み、彼女を理解しようとした。該当エントリは私なりの努力の記録となっている。容易ではなかったし、私以外の人もそうであったようだ。

クラインの愛読者に会った時、「クラインは、様々な事案についての何か具体的な『見解』を持っているのか?」と私はいつも尋ねている。良い返答を貰えたことはいまだない。愛読者達が、彼女の著作内容が間違えていることを理解している事実に遭遇することすらある。クラインが、なんらかの常識や、実用的な見解(例えば、「炭素価格付け政策」を補強するような見解)を持っているとか、逆に何の見解も持っていないかもしれないと、想定すること自体が間違えているかもしれないのだ。私がしばしば遭遇してきたのが、雰囲気や気分の連想的な物である。つまりクラインの愛読者は、クラインの漠然とした関心――環境問題は切迫しており、企業は悪意を持っており、資本主義はなにがしかの責務を追うべきである――を共有しているのだ。

社会変革の飽くなき支持者であるはずのナオミ・クラインが、どのような変革をもたらすべきかということの判断や説明をすることに、なぜこれ程までに僅かな知的労力しか払っていないのか、ということに私は長い間困惑してきた。社会正義の運動家になるつもりなら、社会正義とは何であるかということについてのコンセプトを明らかにすることから始めるべきだ、と私には思えたのだ。社会正義とは何であるかを他人に説明して、その理念から現在の制度の状況がいかに外れているかを示すべきだろう。しかしある時、このアプローチには私にとっては当たり前に思えても(そもそも私は理論家なのだ)、他の人にとっては当たり前ではないのだということに思い至った。特にこのやり方は、クラインによる社会問題へのアプローチとは異なっているのだ。クラインの新著の一節は、以上の説が説得力を持っていることを私に首肯させるに至った。以下は、新著の中ほどになるが、彼女がギリシャに旅行に出かけて、そこでの抗議活動を描写している一節である。

イェリッソス [2]訳注:ギリシャ北部の都市 では、地元住民たちが村の出入り口にバリケードを建設しました。住人を追ってきた200人を超える重武装の凶暴な警官たちは隊を組んで街の狭い通りを練り歩き、催涙弾を全方向に発射したのです。催涙弾の一つが、学校の敷地内で破裂することになりました。結果、学校で授業中の子供たちが窒息に苦しむことになったのです。(298)

以上一節を読んだ時、校庭に催涙弾が打ち込まれたという些細な事実に、個人的には驚かされることになった。具体的に言うと、少なくとも気象変動についての本と私は見なしていたので、気候変動とまったく関係ない催涙ガスの描写に、非常に戸惑ったのだ。ギリシャにおける金・銅山の開発計画への地元の抵抗が取り上げられているわけだが、気候変動との関係は何も示されないままに話が進んでいる。(鉱山開発は、「搾取」だとクラインは朧げに考えており、気象危機を生成している同質のものとして仄めかされて、提示されている)。なんにせよ、クラインが、金鉱山の開発計画と気候変動を関連付けているとしても、学校内に催涙弾が打ち込まれた観察事例を持ち出すのが、奇妙な事に変わりない。そもそも、彼女の著述内容から、何が起こったのかを理解するのが困難なのだ。この箇所を読む読者は、登場する警官がどんな目的を持ってこういった行為を行っているかを知りたいと思うわけである。通りを練り歩いた「重武装」の警官たちが、左右構わずに無秩序に催涙弾を発射した理由等だ。クラインは、抗議者達がどこにいるのかに関して何も書いていないので、描写されている警官たちの行動がとりわけ意味不明になっている。もしかしたら、抗議者達は警官と向かい合っていて、暴走した警官たちによって、学校内に催涙弾の一つが投げ込こまれることになったのだろうか? クラインが何を言わんとするかを理解するのは困難である。

しかしながら、この一節を読んだ私が最も直面させられた疑問は、クラインはこのようなルポを本に収録する必要性をなぜ見出したのだろうか、ということである。この本は566ページの大著なので、特段引き伸ばす必要はないと思われるのだ。ギリシャの学校で子供たちが催涙ガスに直面するような事故は、ギリシャ政府が自国市民への危害意図を持っていることを意味するのかもしれない。どっちにせよ、(「誰かが、どこかで、なんらかの悪意に相対している」のような抽象的レベルの見解の遥か以前に)、具体的なレベルで、この本は気候変動について本であるのに、こんな事例が描かれている事が気にかかるのである。

クラインの見解では、(ギリシャで抗議デモに催涙ガスが使われて子供達が被害を受けたことは)気候変動と結びついているのだ。私の推測であるが、このようなエピソード描写には、彼女の道徳的指向が示されている。何が善くて何が悪いかということについての、彼女の感覚が示されているのだ。高潔な抗議運動家たちがファシストな警察と対決するというドラマが提供するものこそが、暴力的な抗議活動にクラインがここまで執着している理由だ(世界における善の追求と悪との戦いが、抗議運動に催涙ガスが使われることに最も具現化されている、とクラインは考えているわけである。要するに、彼女にとって、この件は「明白な道徳」が示されているのだ。誰が正しい側に立っていて、誰が間違った側に立っているのかということを、彼女は疑うことなく自明視している。彼女にとって、全ての物事は自身の自明視された道徳見解に従属しているわけである。

要するに、社会正義についてのクラインの意見は、二つの自明な命題から始まっている。抗議者は善であり、警察(または「抑圧の暴力」)は悪である、と。これが、学校の校庭に催涙ガスが着弾したという話が〔気候変動と〕関係があるとされている理由でもある。「警察は悪である」ということを読者が前提としていなかったり、納得していない場合に備えて、「警官は悪である」と読者に想起されるために書かれているのだ

クラインは抗議運動に参加している時に、文字通りの善と悪との戦いを目撃している訳である。そして、抗議運動は善であり警察は悪であるという命題に基づきながら、彼女はより幅広い世界観や社会正義についてのより精巧な意見を構築しようとする。その世界観や見解のかなり多くは寄せ集めにすぎない。基本的には、クラインは抗議運動家が要求していることの全てを取り上げ、繋ぎ合わせてから、なんらかの形の一貫した一つの見解や、一連の要求としてまとめあげようとする。ここで問題となるのは、言うまでもなく、抗議者達は実に様々なことについて要求しているということだ。一部の要求は理に適ったものであるし、別の要求はそうではない。全ての要求が矛盾なく共存する訳ではないし、全ての要求が善であることはあり得ない。だから、最終的には、クラインの見解には矛盾を避けるための大げさなごまかしが含まれることになる。そのごまかしが、私のような人々を苛立たせるのだ。

一方で、クラインの論じ方をこのように認識することで、なぜ彼女が抗議運動家たち(また、自分で時間を割いてまで抗議に行くことはないが、抗議運動家を応援している人たち)からこれ程までに支持されているのかということを理解する助けになる。まず第一に、抗議運動家たちはクラインの描く物語の中では常に英雄である。抗議運動家たちが間違いを犯すことは有り得ない。第二に、クラインは抗議運動家たちの見解を受け入れ、少しだけ知的で整った一貫した見解に編み出してくれる存在でもある。同時に、全ての抗議運動には一貫性があるのだとクラインは保証もしてくれる。全く異なった抗議者達が、全く異なった物事を求めて闘っているように見えても、それは正しい社会実現への要求において通底しており、彼らの努力は共通していることになるのだ。クラインは具体的なビジョンを何も語っていないように見える。しかし、なんらかのビジョンに至る大まかな目標を知っているかのようにも見える。なのでクラインの著作活動を追いかければいつか「見解」を示してくれるかもしれない…。

以上が、私のナオミ・クライン解釈学だ。私の思いつく全てであり、これで終了だ。

※訳注:本エントリはデビット・ライス氏の部分訳を元にWARE_bluefieldがライス氏の許可の元、全訳している。
※訳注:アイキャッチ画像はウィキペディアより出典

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1 訳注:アヴィ・ルイス。映像ジャーナリスト。クラインの公私におけるパートナー。
2 訳注:ギリシャ北部の都市
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  1. After all, the book is 566 pages long, so it’s not as though it needed padding out.

    これは566ページ「しか」ないのではなく、566ページ「も」あるのでこれ以上余計な話で水増しする必要はなかった、ということでしょう。

    1. ご指摘ありがとうございます。ご指摘反映させました。

  2. もう一つ、同じところで「When I read this, I was struck by the little detail about the teargas in the schoolyard. Specifically….」ですが、その「the little detail」は、specifically 以下で説明されているものですので、「極めて適当に描写されている事に」ではないと思います。「校庭に催涙弾が打ち込まれた件についての、あるちょっとした事実に驚いた。その事実とはつまり…」てな感じになると思います。

    1. スパムに認定されていたようで、さきほど気づきました。長らく放置になってしまい申し訳ありません。ご指摘反映させました。
      また気づいた点等、指摘していただけると幸いです。

  3. ×本に収用する
    ○本に収録する

    ×描かれているの事が
    ○描かれている事が

    ×関心している
    ○感心している

    1. ありがとうございます。ご指摘反映させました。
      また誤字等の間違いがあればご指摘していただけると助かります。

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