ノア・スミス「『絶望死』物語への批判」(2023年11月26日)

数年前に,ノーベル賞経済学者のアンガス・ディートンがこう宣言しだした――現代経済学はなにもかも間違っているディートンの主張はようするにどんなものかっていうと,近年,アメリカで平均寿命が減ってきた理由は資本主義経済システムでつくりだされた絶望にあるんだ,という話だ.このアイディアを展開した数多くの論文を彼は発表している.

実は,かくいうぼくは「絶望死」説に好意的ではある.ただ,絶望よりもストレスの方が問題なんじゃないかと思ってる――たとえば過食や薬物・アルコールの濫用みたいな行動は,〔苦しみへの〕対処機構みたいなもので,中毒になったり長期的な健康を害したりしてしまうことがあるんだろう.ただ,これはたんなる推量でしかない.実のところ,平均寿命が短くなっているのを示すだけでは,ディートンが資本主義に関して提示した壮大な説はちっとも証明されない.

骨子を言えば,ディートンが言っている説はこんな図式に落とし込める:

資本主義→絶望→死者の増加

ここまでのところ,論争の大半は2番目の矢印に集中してきた――つまり,アメリカで平均寿命が短くなっている原因は絶望にあるのかどうかって問いがもっぱら論じられている.そして,そっちの論争の大半は,フェンタニルや自殺などなどの痛手をいちばん強く受けているのはどのグループなのかって点に集中している――たとえば,大卒じゃない白人の方がより強く打撃を受けているのかどうか,みたいな問いがもっぱら論じられている.この論争に興味があるなら,Vox のディラン・マシューズがディートン説への批判を要約しているし,ジョナサン・ロスウェルはそうした批判に対して気合いの入った擁護論を書いている.どれくらいの死者が「絶望死」したのかという問いがこうした議論で解決を見るのかどうか,ぼくとしてはよくわからない.人口統計からは,誰が絶望していて誰がしていないのかはわからないからだ.絶望(あるいはストレス)がこうした考察の軸となるという考えをぼくは好意的に見ているけれど,とにかくもっとデータが必要だ.

ただ,それよりももっと重要な論点がある.それは,ディートンも彼を支持する人たちも,資本主義と絶望とのつながりを確立させてはいないって点だ.マット・イグレシアスが10月に書いて広く読まれた辛辣な記事では,ヨーロッパもアメリカと同じように生産性と所得の伸びが鈍化しているのに「絶望死」は増加していないと指摘している.もっと一般的な話を言えば,ディートンは,マクロ経済のなんらかの結果と――格差なり伸び悩む所得なり所得の不安定なりサービスコストの増加なりと――彼の言う平均寿命の減少とを実証的につなげられずにいる.それに,アメリカの経済システムを他の豊かな国々のそれと比較したり,そうした相違点が平均寿命の落差につながっているかどうかを分析したりする手間をかける様子もない.

こうして解釈を大きく飛躍させる一方で,データがそれを支持するかどうかに心底から興味がなさそうなところこそ,ディートンの反資本主義メッセージがこうもいらだたしくなっている所以だ.アメリカの経済システムに見られるあれこれの特徴が原因となって,自殺したりフェンタニル過剰摂取したりする人が増えているんだと主張しようというなら,自分の主張を検証するもんじゃないの? 実証的な経済学には,そのアイディアを検証する方法が山ほどある――利用できる自然実験はたくさんある.それなのに,かのノーベル賞経済学者は,いろんな集団の死亡率を人口統計で細かくわける作業をさらに続けることで満足しているらしい.これでは,立証責任を果たせない.


[Noah Smith, “Challenges to the “deaths of despair” narrative,” Noahpinion, November 26, 2023]
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