ダイアン・コイル 「実存主義にかぶれていた十代の私」(2016年3月9日)

●Diane Coyle, “I was a teenage existentialist”(The Enlightened Economist, March 9, 2016)


危うくもう一冊買いそうになってしまって、「いかん、いかん。早く読まねば」と思っていた本を遂に読み終えた。その本とは、サラ・ベイクウェル(Sarah Bakewell)の『At The Existentialist Café』(『実存主義者が集うカフェにて』)だ。

At The Existentialist Café:Freedom, Being, and Apricot Cocktails

大きな期待を寄せて読み出したが、期待通りの出来だった。どうしてそこまで期待を寄せていたかというと、モンテーニュをテーマにしたベイクウェルの前作(『How to Live:A Life of Montaigne in One Question and Twenty Attempts at an Answer 』)が素晴らしい出来で実に楽しく読ませてもらったからというのもあるが、ベイクウェルと同じく私も十代の時に実存主義にかぶれていたからだ。ランカシャーにある小さな工場町で暮らしていた十代の私は、将来はパリで哲学者になりたいと夢見ていた。大学(オックスフォード大学)でPPE(Philosophy, Politics and Economics:哲学・政治学・経済学)を専攻したのもそのためだ――結局のところは、E(経済学)にひかれてしまうことになってしまったのだけれど――。当時は哲学について何も知らなかったが、図書館に置いてあった実存主義のコンパクトな解説書やカミュの小説やボーヴォワールの『第二の性』を借りてきては熱心に読んだものだ。カミュの『異邦人』は、高校のフランス語の授業で原語で読みもした。

The Second Sex (Vintage Classics)

The Outsider (Penguin Modern Classics)

自分語りはこれくらいにしておこう。

『At The Existentialist Café』は、哲学について類を見ないほど明快に解き明かされている一冊だ――フッサールやハイデガーがテーマになっている章は手ごわいけれど――。それと同時に、著名な実存主義者の生き様についての愉快な読み物でもある(サルトルがジュリエット・グレコの代表曲の一つを作詞してるって知ってたろうか? それだけじゃなく、サルトルは、ジョン・ヒューストン監督に依頼されて映画の脚本も書いていた――分量が多すぎたせいで、採用されなかったけれど――っていうのは?)。ベイクウェルは、文才に恵まれた書き手でもある。例えば、「志向性」について論じる中で、次のようなたとえを持ち出している。「意識は、絶えず活動し続けている。公園で餌を探し回っているリスのように」。本書が読んで楽しい一冊になっているのは、新鮮な直喩や隠喩があちこちに散りばめられているおかげでもあるのだ。

ベイクウェルはサルトルを高く評価しているが、私としてはやはりボーヴォワールとカミュがお気に入りだ。ボーヴォワールについては彼女流のフェミニズムに感服しているし、カミュについては政治への向き合い方に賛同しているからだ(デイヴィッド・ヒュームの影響を受けているというのも、カミュがお気に入りの理由の一つだ)。

実存主義の意義は、ますます高まるばかりと言えるかもしれない。人が抱える認知バイアスを解き明かす「行動○○」派の台頭に伴って、「役割」に応じて知覚が規定される傾向を理解する重要性も高まっている。それだけでなく、難しい選択が迫られる中で――日々のニュースを見よ!――どう行動したらいいかを示唆してくれるガイドの必要性も高まっているのだ。

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