●Nicholas Crafts, “Escaping liquidity traps: Lessons from the UK’s 1930s escape”(VOX, May 12, 2013)
1930年代にイギリス経済は「流動性の罠」に陥ったものの、そこから無事に抜け出して力強い景気回復を経験することになった。イギリス経済が力強い景気回復を成し遂げた背後には、一体どのような要因が控えていたのだろうか? 本稿では、イングランド銀行ではなく、イギリス財務省(大蔵省)によって主導された「非伝統的な」金融政策こそが当時の景気回復を牽引した要因であったとの主張を展開する。当時財務大臣を務めていたネヴィル・チェンバレンは、「アベノミクス」の先駆者だったのだ。なお、当時のイギリスの経験を踏まえると、次のような疑問も持ち上がってくる。「中央銀行の独立性+インフレ目標」というのは、名目金利が極めて低い状況において適切な政策枠組みと言えるのだろうか?
1932年半ばのイギリス経済を振り返ると、次のようになる。まず何よりも、深刻な景気後退に陥っていたことである。その深刻さは、2008年から2009年にかけての景気後退に引けを取らないほどだった。また、財政再建が試みられて、構造的財政赤字が大幅に削減された――その規模は対GDP比で4%にも及んだ――。さらには、短期名目金利がゼロ%近くの水準にあり、景気は二番底の真っ只中だった(Crafts and Fearon 2013)。しかしながら、1933年から1936年にかけて非常に力強い景気回復が成し遂げられた。1933~1936年におけるイギリスの経済成長率は、どの年も年率4%を上回る数字を記録したのである。この景気回復を主導した人物は誰だったかというと、1931年11月から1937年5月まで財務大臣を務めたネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)だった。1930年代にチェンバレンが直面していた状況と、たった今ジョージ・オズボーン(George Osborne)が直面している状況とは、似通っているところがある。オズボーン(第70代財務大臣)は先輩が採用した政策から何かしら学び取れることがあるだろうか?
1930年代のイギリスで経済政策が景気回復をいくらか後押しした面があったとすれば、1935年までに関しては金融刺激策(金融緩和策)がその原動力だったと言えるだろう。再軍備(軍事増強)に向けた一連の措置は、事実上のケインズ政策(財政出動)として機能し、1938年までの累計でGDPの4%程度の刺激効果を持った可能性があるが、1933~1936年の期間に関してはほとんど見るべき効果を持たなかった。当時は景気が大きく低迷していたものの、財政支出乗数の値はおそらく1を下回っていたと考えられる。その理由としては、(第一次世界大戦の遺産として)政府債務残高の対GDP比がかなり高い水準に達していたことを挙げることができるだろう。
1930年代のイギリスで採用された政策枠組み
1932年半ば以降にイギリスで採用された政策枠組みは、スヴェンソンが言うところの「流動性の罠から抜け出すための『絶対確実な方法』」(Svensson, 2003)や日本で進行中の「アベノミクス」と酷似している。
- 1931年9月にイギリスは金本位制からの離脱を余儀なくされたが、その後の1932年半ばにイギリス財務省はいわゆる「チープ・マネー政策」(‘cheap-money policy’)に乗り出した。
「チープ・マネー政策」は、大きく3つの要素に分解できる。まず第1に、短期名目金利が0.6%あたりまで引き下げられた。1930年代の残りの期間を通じて、短期名目金利はその水準にとどまり続けた(表1を参照)。
- 第2に、1932年7月にチェンバレンが「物価水準目標」を宣言した。デフレーションを終息させ、物価を1929年の水準にまで引き戻すのがその狙いだった。
- 第3に、イギリス財務省がポンドの大幅な減価を伴う「為替レートターゲット」に乗り出した。まずはじめにドルとのペッグ(ドルとの交換レートは、1ポンド=3.40ドルに設定)、次いでフランとのペッグ(フランとの交換レートは、1ポンド=77フランに設定)に踏み切られた(Howson 1980)。為替市場への介入は、1932年の夏に創設された為替平衡勘定(Exchange Equalisation Account)を通じて行われた(表2を参照)。
「チープ・マネー政策」のおかげで、実質金利が劇的かつ速やかに低下し、イギリスが保有する金準備は1年でほぼ倍増することになった。1932年初頭から1936年の終わりまでの間に、マネーサプライは34%も増加した(Howson 1975)。
「チープ・マネー政策」は、ゼロ下限制約を乗り越えるための教科書通りの処方箋と言えるものだった。すなわち、インフレ期待の喚起(予想インフレ率の引き上げ)を通じて実質金利を低下させたのである。とりわけ重要だったのは、金本位制離脱後のイギリスで金融政策を取り仕切ったのが、モンタギュー・ノーマン(Montagu Norman)率いるイングランド銀行ではなく、チェンバレン率いる財務省だったことである。かねてより指摘されているように、「流動性の罠から抜け出すための『絶対確実な方法』」は、コミットメント――とりわけ、中央銀行によるコミットメント――の信憑性に関わる問題を抱えている。すなわち、景気が回復軌道に乗った後もなお、中央銀行が信頼のおけるかたちでインフレ率の上昇(あるいは、高めのインフレ率の容認)にコミットできるかどうかという厄介な問題があるのだ。ところで、当時のイギリス財務省は、「財政の持続可能性」の問題を抱えていたおかげで、インフレ率の上昇に対するコミットメントを信頼してもらう上で都合のいい立場にあった。実質金利を実質GDP成長率よりも低く抑えることができたら、そのことを利用して政府債務残高の対GDP比を縮小させることができる。つまりは、当時のイギリス財務省としては、「財政の持続可能性」を確保するための一環として――実質金利を実質GDP成長率よりも低く抑えるための手段の一つとして――、緩やかなインフレが続くのを望んでいたのである。「金融抑圧」(‘financial repression’)――実質金利の低下を通じた政府債務残高の圧縮――に頼ることができたおかげで、「財政の持続可能性」を確保するためにプライマリーバランスをそこまで黒字にしなくても済んだし、財政緊縮が自滅的な結果に終わる [1] … Continue reading のを恐れずに済んだのである。
当時の「財政の持続可能性」にまつわるデータを掲げたのが表3だが、イギリス財務省による(インフレ率の上昇に対する)コミットメントが信頼のおけるものであった(インフレ率の上昇が財務省にとって好ましいものであった)ことが見て取れる。イギリス経済がデフレに陥っていた1930年代初頭においては、政府債務残高の対GDP比が膨れ上がらないようにするためには、プライマリーバランスを大幅に黒字にする必要があった。その一方で、1934~35年以降になると、実質GDP成長率が実質金利を上回るようになり、プライマリーバランスが若干の赤字であっても「財政の持続可能性」と矛盾しなくなったのである。
「チープ・マネー政策」の波及メカニズム;住宅建設
「チープ・マネー政策」が効果を発揮するためには、総需要が刺激される必要があることは言うまでもない。つまりは、「チープ・マネー政策」が実体経済に対して影響を及ぼすに至る経路(波及メカニズム)が必要である。その経路の中でも特に検討してみる価値があるのは、住宅建設に及ぼした影響である。民間部門における住宅建設戸数に目を向けると、1931~32年は13万3000戸だったが、1934~35年は29万3000戸、1935~36年は27万9000戸件という結果になっている――その多くは、1930年代にロンドンをはじめとした南イングランド一帯で人気を集めたセミデタッチドハウス(semi-detached house;二戸建て住宅)だった――。住宅の建設が盛んになったおかげで、1934年までに5500万ポンドの直接的な経済効果が生み出された。雇用の増加に伴う間接的な効果も含めると、合計で8000万ポンド――1932年から1934年までの間に生じたGDPの増加分の3分の1の規模――の経済効果が生み出されたと考えられる。住宅の建設は、金利が低下するのに伴って増えたが、土地の開発業者らの間で建設コストが底入れしたとの認識が広がったことも住宅の建設を促した。金利が低下したのも、建設コストが底入れしたのも、「チープ・マネー政策」のおかげだった(Howson 1975)。
1930年代における住宅建設の急伸を支えた要因は何なのだろうか? 2つの要因を挙げることができるだろう。
- 第一の要因は、住宅ローンである。住宅金融を専門とする組合組織の成長を背景に、住宅ローンの供給が急激に増えた。金融危機が発生しなかったこともあり、好条件で住宅ローンを借り入れることが可能だった。
住宅金融組合(Building society)による住宅ローンの貸出残高は、1930年時点では72万人の借り手に対して計3億1600万ポンドに上ったが、1937年時点だと139万2000人の借り手に対して計6億3600万ポンドにまで上った。1937年の時点では、農業以外の部門で働く世帯の18%が持ち家を購入予定か、既に購入済みだった。また、組合に預け入れる必要のある預金額 [2] 訳注;住宅金融組合から住宅ローンを借りる場合は、土地の購入価格の一定割合を組合に預金として預け入れる必要があった。 が引き下げられたり――預け入れる必要のある預金が土地の購入代金のわずか5%にまで引き下げられたケースもあった――、住宅ローンの返済期限が20年から25年に(場合によっては、30年に)延長されたりした――そのおかげで、週あたりのローンの返済額が15%少なくなった――(Scott 2008)。
- 第二の要因は、住宅の価格がお手頃だったことである。
新築住宅の85%は、当時の価格で750ポンド(現在の価格に換算すると、45,000ポンド)よりも安くで売られていた。1930年代中頃のロンドンでは、テラスハウスを395ポンドで購入することができたのである(当時の平均年収は、およそ165ポンド)。住宅の価格がお手頃だったのは、住宅用の土地の供給が極めて弾力的だったためである(そのため、開発業者らは、広大な土地を抱え込むインセンティブを持たなかった)。住宅用の土地の供給が極めて弾力的だった(住宅用の土地が豊富だった)のはどうしてかというと、土地の利用に関わる規制がほとんど存在していなかったからである。1932年時点で規制対象となっていた土地は、わずか7万5000エーカー程度だった。土地の利用を厳格に規制する都市・農村計画法(Town and Country Planning Act)が制定されたのは、1947年のことなのだ。
今日への教訓
ジョージ・オズボーンは、1930年代のイギリスの経験からどんな教訓を引き出すことができるだろうか?
- 【第一の――そして、最も明白な――教訓】 「中央銀行の独立性+インフレ目標」というのは、ゼロ下限制約下(名目金利が極めて低い状況)においては適切な政策枠組みとは言えないかもしれない。
中央銀行にどのような目標を課すべきかをめぐって熱い議論がたたかわされている最中だが――「インフレ率の目標値を引き上げるべきだ。いや、インフレ目標から名目GDP目標に切り替えるべきだ。いや・・・」――、第一の教訓はそれとは次元を異にしている。1930年代のイギリスは、中央銀行が独立していなかったおかげで得をした。中央銀行の独立性というのは、いついかなる時であれ、金融政策を運営するための最善の仕組みであるとは限らない――もしかしたら今現在においても最善の手であるとは言えない――のではなかろうかと思われるのだ。
- 【第二の教訓】 1930年代の住宅建設ブームの再現を目指すべし。
今すぐに住宅建設ブームが起こりそうかというと、難しそうだ。というのも、住宅ローンを借りるのが1930年代ほど簡単じゃないし、土地の利用に関わるルール(法律)が1930年代とは大違いだからである。住宅建設ブームを後押しするためにも、都市計画法の規制を緩和するのが望ましいかもしれない。最近の研究でも示されているように(Hilber and Vermeulen 2012)、土地の利用をめぐる法規制は、住宅市場に大きな歪みをもたらしている。規制の一部が取り除かれたら、景気の風向きが変わるのに伴って住宅の建設も盛んになるかもしれない。しかしながら、土地の利用に関わる法律を見直すというのは、政治的なハードルが高い難題であり、実現される見込みは低いと思われる。
表1 各種の金利(単位は%)
(注記)実質金利は、事後的な実質金利(=名目金利-実際のインフレ率)。実質長期金利(Real long rates)は、コンソル債の利回りから過去3年間のインフレ率の加重平均を差し引いて導き出している。詳細は、Chadha and Dimsdale(1999)を参照。データを提供してくれた Jagjit Chadha には感謝したい。
(データの出所)Bank Rate(政策金利)、Treasury Bill Rate(短期国債の利回り)、Yield on Consols(コンソル債の利回り)のデータの出所は、Dimsdale(1981)。Real interest rates(実質金利)のデータの出所は、Chadha and Dimsdale(1999)。
表2 名目為替レート(1929年時点の為替レートを100とおく)
(注記)Average exchange rate(平均為替レート)は、ポンドとその他のあらゆる通貨との(2国間)為替レートの加重平均。製造業の輸出シェアをウェイトとして用いている。
(データの出所) Dimsdale(1981)
表3 「財政の持続可能性」にまつわるデータ(1925年-1938年)
(注記)b*は、(change in d) = 0 という条件を満たすために(政府債務残高の対GDP比を一定の値にとどめるために)必要なプライマリーバランスの黒字額(対GDP比)を表している。なお、(change in d) = -b +d(i -π – g) という関係――政府債務残高(対GDP比)の増加幅=プライマリーバランスの赤字額(対GDP比)+政府債務残高(対GDP比)×(名目金利-インフレ率-実質GDP成長率)――が成り立つ。bはプライマリーバランスの対GDP比(bがプラスの値をとる場合は、プライマリーバランスの黒字が発生)、iは政府債務(国債)の平均的な名目金利、dは政府債務残高の対GDP比をそれぞれ表している。b、i、dのいずれもMiddleton(2010)のデータを利用している。πはGDPデフレーターで測ったインフレ率であり、Feinstein(1972)のデータを利用している。gは第4四半期の実質GDP成長率であり、Mitchell et al.(2012)のデータを利用している。
<参考文献>
●Chadha, J S and Dimsdale, N H (1999), “A Long View of Real Rates”, Oxford Review of Economic Policy 15(2), 17-45.
●Crafts, N and Fearon, P (2013), “The 1930s: Understanding the Lessons”, in N Crafts and P Fearon (eds.) The Great Depression of the 1930s: Lessons for Today, Oxford, Oxford University Press, 45-73.
●Dimsdale, N H (1981), “British Monetary Policy and the Exchange Rate, 1920-1938”, Oxford Economic Papers 33(2), supplement, 306-349.
●Feinstein, C H (1972), National Income, Expenditure and Output of the United Kingdom, 1855-1965, Cambridge, Cambridge University Press.
●Hilber, C A L and Vermeulen, W (2012), “The Impact of Supply Constraints on House Prices in England(pdf)”, London School of Economics Spatial Economics Research Centre Discussion Paper No. 119.
●Howson, S (1975), Domestic Monetary Management in Britain, 1919-1938, Cambridge, Cambridge University Press.
●Howson, S (1980), “The Management of Sterling, 1932-1939”, Journal of Economic History 40, 53-60.
●Middleton, R (2010), “British Monetary and Fiscal Policy in the 1930s”, Oxford Review of Economic Policy 26, 414-441.
●Mitchell, J, Solomou, S and Weale, M (2012), “Monthly GDP Estimates for Interwar Britain”, Explorations in Economic History 49, 543-556.
●Scott, P (2008), “Marketing Mass Home Ownership and the Creation of the Modern Working-Class Consumer in Interwar Britain”, Business History 50, 4-25.
●Svensson, L E O (2003), “Escaping from a Liquidity Trap and Deflation: the Foolproof Way and Others”, Journal of Economic Perspectives 17(4), 145-166.
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