ニック・ロウ 「『穏やかさ』の(経済的な)恩恵」(2009年1月14日)

●Nick Rowe, “The (economic) benefits of civility”(Worthwhile Canadian Initiative, January 14, 2009)


論争(例えば、経済問題がテーマの論争)で「穏やかさ」を保つことには3つの恩恵があるように思われる。

1. 人が自分の考え(意見)を変えるというのは難しいことだ。「この世は『アヒル』なり」という考えに慣れ親しんでいる人が「この世は『ウサギ』なり」という別の考えに立場を変えるのは容易ではない。自分の間違いを認める――「この世は『ウサギ』なり」という考えこそが真相を捉えた見方だということを認める――ことはそれに輪をかけて難しい(その理由としては間違いを認めることに心理的な抵抗を感じるというのもあるだろうし、一つでも間違いを認めると「こいつは間違いばかりやらかす人間だ」と思われてしまうのではないかと恐れてというのもあるだろう)。しかしながら、論争の相手の語り口が穏やかで礼をわきまえていると自説を撤回することへの抵抗感もずっと少なくなる。「そのデータは知りませんでした。なるほど、そういう理屈も成り立ちますね。何だか世界が『ウサギ』のように見えてきました」 。お互いに穏やかな語り口で意見を交わし合っていれば(比較的)容易にそのように認めてしまえるのだ。その一方で、「この不誠実な輩め!」「このステマ野郎が!(お前が○○のことを擁護しているのは○○に金で雇われているからだろう)」「正気か?」なんて口汚く罵られたらどうだろうか? 罵られた側の人間が考えを変える可能性はかなり小さい。考えを変えると相手の言葉を認めた [1] 訳注;相手の言葉を認めた=「私は不誠実でステマ野郎で精神に異常をきたしている人間です」と認めた、という意味。と見なされるおそれがあるからだ。「いや、こちらこそが正しい。この世は『アヒル』なんだ」とますます頑なになってしまう。そうなる可能性は大いにある。論争に参加している人間が自分の考えを変えることに抵抗を感じていればいるほど(論争の対象となっている)問題の正しい理解に到達するのはますます難しくなるだろう。

2. 腕力で論争に決着をつけるという手段もある(20世紀の歴史を振り返ると腕力(武力)で経済論争に決着がつけられたという例がたくさん見つかる)。しかしながら、そのような「決闘裁判」方式で経済論争に決着をつけるというのは好ましいやり方とは言えないだろう。「(主張の)正しさ」と「腕っぷしの強さ(武器の扱いのうまさ)」との間には大して相関は無いだろうからだ。そこからの類推でいくと、「(主張の)正しさ」と「口の悪さ(言葉の暴力の扱いのうまさ)」との間にも同じく大して相関は無さそうだ(これは「腕っぷしの強さ」と「口の悪さ」との間の類推に頼った推論であっていわゆる「くさび論(すべり坂論法)」とは別物だ。言葉の暴力はゆくゆくは腕力勝負に行き着くことになり、「(主張の)正しさ」と「腕っぷしの強さ(武器の扱いのうまさ)」との間には相関が無いから云々と言いたいわけではない。しかしながら、手が出る事態を遠ざけておけるというのは「穏やかさ」に備わるもう一つの恩恵とは言えるだろう)。個人攻撃(人格攻撃)に秀でているのはどちらか(あるいは個人攻撃に対する耐性があるのはどちらか)によって論争の勝敗が決められるようでは(論争の対象となっている)問題の正しい理解に到達できる可能性は低いだろう。

3. 経済問題の正しい理解に至ることは社会全体の厚生を高めたり人間の権利(尊厳)を擁護する上でも大事な条件だ(少なくとも経済学者はそう思いたがっている)。〔「穏やかさ」は「正しい」側が論争に勝つ(論争を通じて経済問題の正しい理解が得られる)可能性を高め(「穏やかさ」の第一の恩恵を参照)、そのことを通じて間接的に社会全体の厚生を高めたり人間の権利(尊厳)を擁護する後ろ盾となる。それだけではない。〕不躾に振る舞うことそれ自体が論争相手の厚生を悪化させ、その相手の尊厳を傷つけることになるのだ。

ざっとこんな感じだ。

「正しい」側が論争で勝利するのがいつにも増して大事な時というのがある。今がまさにその時だ。ということは、今現在は(論争における)「穏やかさ」の重要性がいつにも増して高まっている時でもあるということになる。一体誰が「正しい」のかは前もっては(論争がいざ始まってみないことには)わからないのだから(多くの人が「私こそが正しい」と思って論争に挑むが、議論を交わしていくうちに実は間違っていたことが判明、ということになるのだ)。

ネット上での論争の中から具体的なエピソードを一つだけ取り上げておこう(予想だにしない例であること請け合いだ)。経済学ブログをチェックするのが日課になっているのだが、それと同じくらい頻繁にチェックしているところがある。自動車愛好家が集うネット掲示板だ(誰しも独自の趣味を持っている。車のオルタネーター(発電機)の交換に戸惑っているオーストラリア人にネットで助言するというのは気持ちがよくてストレス解消になったりもするのだ)。その掲示板にどんな人種が集っているかはおそらく予想がつくことだろう。大体は若者でそれに男性だ。経済学ブログに日々出没する人種に比べれば平均すると学歴も低い。いかにも喧嘩っ早そうな人種だ。議論の対象になっている話題(車の故障を直すことだったり、できるだけ速い速度で車を飛ばすことだったり、アマチュア整備工としての腕のよさを競い合うことだったり)は彼らにとっては経済学ブログで論じられるような話題と同じくらい大事なものだ。時に喧嘩がおっぱじまりはするものの(「トルク」派 vs.「馬力」派、「VTEC(エンジン)」派 vs.「V8(エンジン)」派、走り屋の是非、この車って「ライス」に見える?、車を「ライス」を呼ぶのはいかがなものか 等々)、全体としてはそのネット掲示板も経済学ブログと同じくらいには「穏やか」な雰囲気に包まれているのだ。

私に無礼な言葉を浴びせられたことのある人がいたらこの場を借りて謝っておく。申し訳ない。

そしてもう一つ。説教臭いことをくどくどと語ってすまない。

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1 訳注;相手の言葉を認めた=「私は不誠実でステマ野郎で精神に異常をきたしている人間です」と認めた、という意味。
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