ノア・スミス「エリート過剰生産仮説」(2022年8月26日)

[Noah Smith, “The Elite Overproduction Hypothesis,” Noahpinion, August 26, 2022]

2000年代から2010年代に,アメリカは鬱憤をためた大卒者を輩出しすぎたのかも?

“We’re talented and bright/ We’re lonely and uptight/ We’ve found some lovely ways/ To disappoint” — The Weakerthans

♪オレらはまぶしいほど才能にあふれながら / 孤独でピリピリしてる / オレらが見つけた最高の / 絶望の方法 ――The Weakerthans

目を見張ってしまうちょっとしたデータを見てもらおう:アメリカ国内で人文学を専攻してる大学生の割合は,2010年以降に完璧に崩壊してる.

このデータを挙げてる Ben Schmidt は,他にもたくさん興味を引くデータを Twitter の連続ツイートで紹介してる.なかでも,ぼくにとってとびきりビックリだったのは,コンピュータ科学専攻の学生数だけで,人文学全体の学生総数にほぼ匹敵してるって点だ:

データを見れば,こういう変動が起きてる理由はくっきり明快になる.大学生たちは,安定と高給のどちらかあるいは両方をかなえる仕事につながる専攻をますます求めるようになってるんだ.だからこそ,理系の各種分野 (STEM) や医学分野が伸びてるわけだ――あと,そこまでではないけど,ブルーカラーの就職に直結したホスピタリティみたいな分野も,同じ理由で伸びてる.

でも,2000年代から2010年代前半にかけて人文学専攻が激減してるさまを見て(生のデータはこちら),この8年ほどアメリカが経験してきた社会の動揺について考えてみるにつけ,ぼくの頭に浮かんでくるのは,ピーター・ターチンが提唱したエリート過剰生産の理論だ.ようするにどんな話かっていうと,アメリカではすごく教育の高い人たちをおおぜい輩出しすぎてしまって,当人たちは自分が高い仕事・立場に就けると期待していたものの,アメリカの経済・社会システムにはそんなに大勢の期待に応えらなかったために,そういう人たちが憤懣や失望から左翼系の政治活動やその他の破壊的な行動に出るようになった,っていう内容だ.Wikipedia でターチン理論の記事を開くと,こう書かれてる

エリート過剰生産は,合衆国における政治的な緊張の根本原因として引用されてきた.つまり,ミレニアル世代のなかでも教育水準の高い人々が,失業にあったり,期待にそぐわない雇用に甘んじたり,期待したほど高い地位につけなかったりしていることが,その原因と目されている.それでもなお,アメリカでは Covid-19 パンデミック前に PhD 保有者を過剰に輩出しつづけた.これがとくに顕著だったのは,人文学と社会科学だ.そうした PhD 保有者たちの就職の見通しは,明るくなかった.

ターチンをはじめ,この理論を唱えている人々は,労働市場の仕組みについて疑問の余地がある仮定をいくつか立てている――総じて,彼らは労働供給〔Ph.D が増えすぎた etc.〕に関心を集中する一方で,労働需要が重要だってことを見過ごしている.それでも,エリート過剰生産仮説には魅力がある――この仮説を支持する状況証拠はいくらかあるし,ぼくが知ってる他の経済学・社会学の各種理論ともうまく符合してもいる.少なくとも,近年のアメリカでぼくらが目の当たりにしてきた社会の動揺の一部をうまく説明する有力候補ではある――とくに,左翼系の政治活動が息を吹き返してる理由を,うまく説明できそうだ.

以前,2018年に,Twitter の連続ツイートでこの考えをとりあげたことがある(そのときは,人文学に関する昔のデータを見てエリート過剰生産の話をした).でも,この仮説はもっと長い期間に当てはめてもいいと思っていた.今回の記事を読むにあたっては,ぜひ,次の点に留意してほしい.ここでは,たんにこの仮説を支持する論証だけを述べる.本当のところ,この仮説が過去10年のうちどれくらいを説明できるのか,ぼくにはよくわからない.ただ,まともにとりあうに値するのには十分にありそうな説明だと思ってる.

人文学系のキャリアがいっぺんに消え去った

かりに,キミが2006年に英文学や歴史学の学位をとって学部を卒業したとしよう.その学位で,キミはどんなことをするだろう? 安定してて立派な高給の仕事に就きたいとのぞむなら,そのあとロースクールに進んで,弁護士になる道がある.アメリカ東海岸に暮らして異性に評判がいい産業で働きたければ,メディアや出版業界で働く道もある.知的な刺激と名声をのぞむなら,学術業界にいどんでもいい.とにかく失業のおそれがない安定をのぞんでいて,お金や異性からみた魅力を大して気にかけてないなら,小中学校の教員になる道や役所勤めの道もある.

これだけ豊富にキャリアパスがあるなら,若者から見て,人文学を専攻に選んでも安全だと感じられるだろう――「英文学なんかで学位とってもなんにもできない」って世間の紋切り型に反して,のぞみさえすれば仕事は山ほどあった.人文学を学ぶのは楽しいし,知識人気分も味わえるし,それに,日がな一日ずっとラボにこもりっきりになったりコンピュータスクリーンとにらめっこしつづけたりするのよりも,人間関係をつくる機会はずっと多かっただろう.しかも,数年ほど若さあふれる日々を楽しんでから,親世代と同じように仕事に驀進しつつ,郊外に大きな家を買って犬を飼い,子供たちに囲まれ,ガレージに車を2台置くような暮らしをしたいと思ったなら,まあ,ロースクールに進学すればよかった.

でも,〔2008年から〕数年つづいた「大不況」のあと,そういうキャリアパスは一つ残らずずっとずっと困難になった.

まず,最重要のキャリアパスから話そう――人文学専攻の最後の頼みの綱,法律関係の仕事について.1970年以降,アメリカでは,弁護士の人数を人口で割ったひとり当たり弁護士数が大きくふくれあがった.ところが,21世紀への変わり目までに,ひとり当たり弁護士数は伸びを止めてしまう:

2012年に Jordan Weissmann が書いているように,2008年に始まった不況が,各種司法サービスでの雇用停滞につながった.このことは,「支払請求可能な業務時間数」の減少などのちょっとしたことに見てとれる(支払請求可能な業務時間数は,少しばかり請求額を増やして弁護士の所得増加をもたらしていた).ロースクールに進学する若者は,過剰供給されていた一方で,彼らの期待をかなえるのに足りる雇用はなかった.それで,ほんの数年もたつとみんなにこの認識が広まって,ロースクール進学者数が激減してしまった

出版はどうだろう? この業界では,コンデナスト・パブリケーションズみたいな大企業の凋落は,たんなる逸話ではなくなってる.出版産業も,大不況で打撃を受けたけれど,おそらく,20世紀末から長期低落にはまっている:

もちろん,これにはインターネットがからんでる.デジタル出版は成長しているけれど,新聞の編集局や書籍出版や雑誌の瓦解ぶりがデジタル出版の伸びで埋め合わされることなんて,およそありそうに思えない:

大学・学術業界はどうかと言えば,人文学分野でのテニュア・トラックは昔からそんなに堅固ではなかったけれど,大不況後に高等教育への資金提供が減少するのにともなって,深刻な低迷状況にある:

大学は,常勤の教授陣に代えて低賃金の非常勤講師を雇うことで,節約につとめてる.こうして生まれたのが,車で寝泊まりしながら1年また1年としのぎつつ,「いつかは幸運をつかんでテニュア・トラックの一員にまで上り詰められる日がくるんじゃないか」という絶望的なのぞみにしがみついている非常勤講師たちのホラーストーリーだ.

公務員の雇用はどうだろう? 2008年は,長らくつづいた政府雇用のブームに終止符をうつ年になった:

同じことは,小中学校の教員採用についても言える.2008年以降に教員の雇用が低迷しているのにくわえて,この分野はとにかくラクじゃない:

というわけで,伝統的に人文学専攻の卒業生たちに用意されていたキャリアパスは,2000年代後半から2010年代にかけて,打撃を受けた.でも,それと同じ時期に,人文学を学ぶ人数は大きくふくらんでもいた.さっき割合のグラフを見てもらったけれど,ナマの数字を見てもらった方が,2000年代から2010年代前半に人文学の各種分野に進む人たちの数がどれだけ膨らんでいたか,よくわかる:

この進学者数の増加によって,よりにもよってひどい時期に大勢の人たちがキャリアに失望するお膳立てがととのった.

「じゃあ,2010年代に,〔こうした人たちを〕雇用していたのは,誰なの?」 ウォール街じゃあないよ.金融危機とドッド・フランク金融改革によって少なくとも一時的に抑え込まれていたからね.金融は,以前よりおとなしくて,その地位もいくぶんか下がったし全体として雇用は低迷した.有名な話で,マイケル・ルイス〔金融ジャーナリスト〕は美術史と考古学の学位をとって1980年代に債券セールスマンの仕事に就いた経歴があるけれど,2008年の落ち込み以降,そういう就職もはるかに難しくなっている.

もちろん,シリコンバレーでの雇用はあった.2010年代に ITバブルの再来が起こって,Google や Facebook その他の「ビッグテック」が台頭し,ベンチャーキャピタルから資金を得て会社を立ち上げるスタートアップ経済が爆発的に拡大した.でも,全体として,情報テクノロジー関連の雇用も低迷していた.たしかに,Google のエンジニアになればたっぷり稼げたけれど,「コードを組む勉強をしなよ」なんて,歴史学で学位をとって卒業した後になって言われたいかっていうと,そうではないよね.

というわけで,2010年代には雇用はあった.でも,数十年前とくらべて,なにもかもの競争が激しくなっていた――アメリカ企業で退屈な正規雇用に就くだけでも,必死になって競い合わないといけなくなった.それに,人文学で専攻をとった人たちが目指していた知的に見返りのあるキャリアや社会的に尊敬されるキャリアは,とくに供給不足がいちじるしかった.

エリート過剰生産仮説によれば,この状況によって,火の気があればすぐに爆発してしまう社会環境が用意され,2010年代後半になっていよいよ騒擾が起きたのだという.でも,どうしてそうなったんだろう? ここで,理論の方に目を向けるとしよう.

期待の高まりがもたらす革命

ここで基本になってる発想のもとをたどれば,20世紀中盤の「期待の高まりがもたらす革命」って概念にいきつく.この概念を簡潔にまとめてる一節を引こう〔※英語では “revolution of rising expectations” で,これを直訳して「増大する期待の革命」と訳されているケースもあるけれど,期待が革命されるわけではない.〕:

1960年代に,社会学・政治学の研究者たちは「期待の高まりの革命」という概念を当てはめて,第三世界の国々で共産主義が人々を惹きつけていることを説明した.そればかりか,革命全般の説明にも,この概念が当てはめられた.たとえば,フランス・アメリカ・ロシア・メキシコで起きた革命だ.1969年に,ジェイムズ・デイヴィスはこうした事例を使って自説の「J曲線仮説」を例証した.この仮説は,期待の高まりと,期待の充足度合いと,革命的な変動のあいだに成り立っている関係をとらえる形式モデルだ.デイヴィスは,こう主張していた――期待が高まっていく一方でその充足も平行して増大していく期間が長く続いたあとに下降が起こると,革命が起こりやすくなる.欲求の充足が下がっていると受け止められている一方で期待が高まり続けると,期待と現実とのあいだの落差がひらく.やがて,この落差は許容しがたくなり,約束をかなえられずにいる社会体制に対する反逆の舞台が整う.

60年代どころか,この考え方は少なくともアレクシ・ド・トクヴィルにまでさかのぼる.それで,ときに「トクヴィル効果」と呼ばれたりもしている.一部には,このプロセスを支持する証拠を見出したと主張している人たちもいる.

「なんでそうなるの? 20年ほどものごとがどんどんよくなっていってから打ち止めになったからって,どうして憤慨するの? だってさ,少なくとも20年前よりはものごとがよくなってるわけでしょ?」

でもね,期待はものをいうんだよ.金融の世界では,「期待の敷衍」って考えを大勢の経済学者たちがあれこれといじりまわしてる〔※”extrapolative expectations”; 「外挿的期待」と訳されることが多いみたい〕.ようするに,こういう話だ――ある傾向が十分に長く続くと,その傾向の土台にはなんらかの構造的なプロセスがはたらいているってみんなが考え出す.すると,この傾向は果てしなくいつまでも続くってみんなが想定するようになるってわけ.社会的な階層をずっと登り続けている人たちとか,急速な成長がつづいてる経済で暮らしてる人たちとか,自分の株価や住宅価格が安定して上がり続けてる人たちにとって,いい時期が当たり前のことに思えるようになるかもしれない.

じゃあ,いい時期がずっと続くような性質なんてこの宇宙の法則に刻みつけられちゃいないってわかったとき,どうなるだろう? 未来永劫に上向き成長が続くという期待に安住しきっていたところに,突如として,世の中バラ色じゃないって現実が侵入してくる――住宅価格が上げ止まったり下がったり,所得が天井にぶつかったり,経済成長が失速したり.この時点で,かなり憤慨する人たちもいるだろう.経済学者のマイルス・キンボールとロバート・ウィリスは,こういう理論を提案している――幸福とは,現実と期待の落差だ.もし,予想をこえて物事がうまくすすめば,幸福を感じる.期待を下回れば,気分を悪くする.キンボールとウィリスは,この考えを数式で定式化しているけれど,実のところ,「幸福 = 現実 – 期待」は,昔からよく言われていることだ.各種の調査研究から得られた証拠も,総じてこの考えを支持してる.

この期待にもとづく幸福の理論と,「期待はずっと先にまで敷衍されがち」という考えと合わせると,可燃混合気ができあがる.敷衍された期待は,ほぼいつでも現実離れしている――成長トレンドが永遠につづくわけがないんだから,〔成長がずっと続くと期待を敷衍してる〕人々は,みずから失望のお膳立てをしているわけだ.

2019年から2020年にかけて世界各地でおきた大規模な抗議運動を説明するのに,この考えを持ち出してる人たちはたくさんいる.世界銀行の研究者には,こう書いている人たちもいる――「[ラテンアメリカでの]抗議運動に加わった人々は(…)およそ現状からかけ離れた水準の公正と平等を要求していた.彼らの要求を勢いづかせていたのは,近年の境遇・環境の悪化ではなく,社会の改善だった.」 一方,ラテンアメリカでもっとも強烈かつ広範な抗議運動が起きたチリでは,数十年にわたって急速に生活水準が改善し続けたあと,2010年代中盤に成長が減速していた.

ともあれ,同じことはすごく単純に 2010年代の合衆国に当てはまる.90年代前半から堅調につづいていた生産性の成長は,2005年ごろに急激に減速した.中流階級の富の大きな決定要因である住宅価格は,2006年に伸びをやめ,2007年に下がりはじめた.さらに,大不況で経済がガタガタになった.

ただ,エリートたち,なかでもとくに人文学の道に進んだエリートたちにとって,大不況以降の時期はとりわけ強烈な屈辱になった.低所得~中所得のアメリカ人たちの所得は,それ以前からおおよそ停滞していたけれど,アッパーミドル階層にいる人たちの所得は安定して伸びていた――そして,この階層こそ,大卒者が典型的に落ち着く先だったわけだ.2000年代から2010年代前半にかけてあんなに大勢の若者が人文学専攻にあふれかえっていたことから,彼らの多くは一石二鳥を期待していたんだろうと察せられる――つまり,いい所得を稼ぎつつ自分の個人的な興味関心に合致したキャリアを歩めるようになると期待していたんじゃないかとうかがえる.

2013年のブログ記事で,ティム・アーバンがこの筋書きを支持するデータを示している.”a fulfilling career”(充実したキャリア)のフレーズを Google Ngrams 検索で調べると,こうなってる:

教育のあるミレニアム世代の期待を,アーバンはいくぶん嘲笑まじりにこんなミームで描き出してる:

将来に大きな期待を抱いたり,期待どおりにならなくて苛立ったりしても,それで当人が嘲笑されて当然だとは思わない.カリフォルニア大学デービス校を英文学専攻で卒業したばかりの25歳の身になって,その視点から物事がどう見えるか考えてもみてほしい.それまでの4年間,キミは知識人の生活をおくってきた――何十冊もの本を読みとおし,社会や歴史や人生の意味について何百もの深い思想で精神を開拓し,自分と同じくらい賢い連中と夜通しそういう思想について論議してすごしてきたのが,キミだ.キミは,一族ではじめて大学に進んだ子だったかもしれないし,あるいは,アッパーミドル階層の御曹司として生まれて親の期待に沿おうとしてる子かもしれない.どちらにせよ,キミはずっとこう聞かされてきた――「これで,お前はアメリカ社会の上位 20% に入る切符を手に入れたんだぞ.」 キミも親も,その期待を反映した対価を支払ってきたにちがいない.しかも,周りのみんなは口々にこう言っていたんだ.「お前なら,自分が好きなことをやるキャリアが見つけられる(し,見つけるべきだ).なにか世のためになることや,これだけの対価を払って手に入れた教育を活かしたことをやるキャリアが見つけられるぞ.」

で,いざ卒業してみたら,誰も弁護士なんてお呼びじゃないし,雑誌はどこも死にかけてるし,報道関係も瀕死,大学では人を雇い入れようとしていない.こうなったら,さらに大学院で数年過ごしてどうにか企業の閑職にありつければ御の字だ.日がな一日 TPS レポートをまとめる毎日を過ごしながら学位証は実家の物置で腐らせる暮らしを手に入れる賭けにでるしかない.その一方で,学部時代に学資ローンが4万ドルほど積み上がっていて,支払期限が迫ってきてる.こんな結果を迎えて不満を抱くのは,尊大でも身の程知らずでも傲慢でもない.

というわけで,2010年代後半にアメリカ人エリートたちのあいだで不満が爆発した理由を説明する有力候補が,ここにあるとぼくは思う.

エリートたちの不満

ここまでは,人文学専攻の話をしてきた.なにしろ,ベン・シュミットのデータがあまりにおどろきだったし,人文学系キャリアこそが2008年以降の経済低迷で最悪の打撃を受けているように思えたからだ.ただ,なるほど2010年代の社会に起きた不穏な動きは,社会階層が下がったり就職しにくくなったりしてる英文学専攻の人たちのあいだでこそいちばん強烈だったとはいえ,そうした不穏な動きはもっと広い範囲におよんだ現象で,アメリカの若いエリートたちの大半がこれに影響を受けている.

この10年に行われたさまざまな世論調査をみると,大卒の若いアメリカ人たちは,同年代の高卒と比べて少しばかり幸福度が低い.稼いでいるお金はずっと多いにもかかわらずだ.

2010年代にアメリカの若者のあいだで社会主義運動が急速に人気を博したことや,バーニー・サンダース運動が全米で爆発的に広まったこと,こうした動きと大卒若年層の不幸を結びつけるのは,かんたんだ.社会主義運動はあらゆる階層から人を集めているけれど,全体として,プロレタリア運動とはかけ離れている――いまの運動の根本部分は,専門職・管理職階級の反逆だ.そうでないとしても,少なくとも,教育を受けてそういう階級の仲間入りを果たせると期待していた人々の反逆ではある.新しい社会主義運動のうち,とりわけ情熱が向けられている大きな柱のうち2つは,学資ローンの返済免除大学無料化だ.この点は,運動の性質をよく物語っている.

ぼくの場合,この仮説を考えてみる最初の手がかりになった逸話は,2018年に Jacobin 誌でライターをやってるミーガン・デイと交わした論争だった.「金銭的に極貧状態のアメリカ人は,ほんのわずかしかいないよ」と指摘したら,彼女はこう返した――「問題はたんなる極貧じゃないですよ,絶望こそ問題なんです.」 そして,苦闘している大卒の著作家として経験した2回の無給インターンシップで自分がおぼえた苛立ちの話を彼女は語った.(これは,〔困っている学生に関する〕当初のその手の話からおよそかけ離れてる.) その後,大卒の社会主義者たちと話すなかで「労働階級」について彼らの言うことを聞いてみて,彼らが語っている労働階級とは彼ら自身のことなんだとはっきりした.

ただ,2010年代後半の教育ある若者の騒動は,社会主義をはるかに超えていた.60年代に暴動を起こしていたのは都市部の貧困層だった.ところが,各種の調査によると,2020年の夏に行われた大規模な抗議運動で街路を埋め尽くした人たちは,大卒者に偏っていた.さらに,〔差別や不公正への〕「敏感しぐさ」(wokeness) も,2010年代前半のアメリカでエリート層の社会の階層が停滞していたことへの苛立ちの表出だった面もあると見ることもできる.大学の学部組織や企業や政府省庁にある座席の数がいきなり増えなくなったとすれば,若者が階層を上へ移動する道筋は現職の年長世代たちによって塞がれてしまうことになる――そして,これまで数十年の差別はより大きく,また,人口動態もいまとはちがっていたため,そうした年長世代は,白人男性に偏っているのだ〔差別・不公正への批判が白人男性を責めがちになる動機がそこにあるのかもしれない,ということ〕

ついつい,革命といえば抑圧された工場労働者や農民が実行するものだと考えたくなりがちだ.たしかに一部にはそういう場合もある.でも,望むような職にありつけず苛立っているエリートたちは,社会に騒動をもたらすのに格好の立場にある.彼らには才能があり,いろんな人たちとのつながりもある.それに,急進的な運動を組織したり急進的な思想を広めたりする時間もある.これまでのところ,教育が二極化しているために,そういう運動に参加するのを選んでいない人たちが,大卒未満の多数派のなかで大きな割合を占めている(あるいは,はるかに知的でないかたちで不安・動揺を表現している).ただ,心安まらず苛立ちを募らせ才能がある教育水準の高い若者が多い世代を生み出している社会は,みずから問題の種を蒔いてしまっている.

期待のリセット

「エリート過剰生産仮説が広い範囲に当てはまっているんだとして,じゃあ,いまの惨状からどうやって抜け出せるの?」 もし,幸福とは現実 – 期待なんだとしたら,この単純な算数から,アメリカの教育ある若者たちをなだめる選択肢が2つあるのがわかる――現実の方を改善するか,期待を下げるか,この2つだ.

現実を改善するのはすごくむずかしい.でも,取り組みはなされてる.バイデン政権がとってる各種の産業政策は,経済成長に勢いをつけることを狙っている.さらに,もっと進歩的な人たちは,アメリカのあらゆる階級の生活コストを下げる「豊かさの政策目標」について語ってる.ただ,1990年代みたいに好景気と石油安が運よく重なる場合を除外すると,経済成長と豊かさに弾みをつけるのはつらくのろのろしたものになるだろう.それに,自分たちの狭い利害関心に反して政府が国レベルの目標を達成したら失望して腹を立てる人たちも出てくるけれど,そういうあれこれの利害の絡みからくる反対を乗り越える必要もある――とくに地域の NIMBY(「実にいいことだね,でもうちの近所じゃやらないでくれよな!」) を乗り越えなくちゃいけない.

もっと実行しやすい戦略もある.それは,もっと現実味のある水準に――あるいは悲観的ですらある水準にまで――期待をリセットすることだ.経済的な楽観度合いの尺度に人文学専攻の人たちを使ってみると,すでにリセットが起きているのが見てとれる.若者は,もっと実用的な学位に目を向けているんだ.面白いことに,Google の Ngram で「満足できるキャリア」(“a fullfilling career”) を検索すると,このフレーズの出現数がちょっと減ってるのがわかる.ミレニアル世代は過剰な楽観ゆえに現状に怒っていたけれど,そのあとの Z世代は,X世代の親と同じようにほどほどの期待しか抱いていない.ミレニアル世代の怒りは,Z世代によってもうすぐ沈静化するかもしれない.

かくいうぼくも含めて,文化的なクリエイターやメディア人たちは,この「期待リセット」を実現する助けになれるかもしれない.豊かさや個人の願望成就についてやたら語るかわりに辛抱強くやり遂げる姿勢を強調した方がいいのかもしれないね.

政府や大学も,これに一役買うべきだ.学資ローンの免除もいいけれど,でも,大学のコストを下げたり学生が背負うことになる債務を減らしたりする長期的な改革を行えば,大学卒業後の就職がいまほど切迫したものでなくなる.大学は,豊かさや知的な充足が約束されるチケットを自分たちがもたらすかのように喧伝するのを避けるべきだし,現実的な雇用市場に向けて学生の準備を整えるキャリア相談を提供すべきだ.また,政府は,実習制度・職業教育・無料のコミュニティカレッジなどなどのプログラムを実施して,労働階級の生活もまともな選択肢になるようはかるべきだ――こうした施策によって,格差が縮まるのに加えて,大卒でない同年代の人たちに比べて自分のことをそんなに「エリート」だと大卒者たちが感じなくなるだろう.

もちろん,期待リセットの効果はいつまでも続かない.もし,いい時代をどうにかよみがえらせることができたなら,将来世代は社会の階層を上へと移動していくのはよくあることだと受け止めるようになるだろう.そうなれば,彼らもまた,期待を将来にまで敷衍して,成功に向かって上向きに人生を送れるものと考えはじめるだろう.とはいえ,それは将来の心配事だ.エリート過剰生産仮説が正しければ,いまぼくらがこの時代の動揺をしずめるためにできる最善の手は,ぼくらの夢を地に足の着いたところにまで下げることだ.

※訳者補足: この記事へのピーター・ターチンのコメントはこちら

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