ここしばらく,マクロ経済学は熱気にあふれた話題ではなかった.2008年金融危機後の数年は,財政刺激と金融政策について活発な(ときに刺々しい)論争がたくさん交わされた.学術業界の埃っぽい大広間から無名な論文が引っ張り出されては,公共の議論の的になったりしてた.そうした論争には,失業してしまった数百万ものアメリカ人の命運がかかっているように思われていた.ぼくがブロガーをやりはじめたのは,そんな頃だった.
でも,経済が回復すると,そうした騒ぎもすっかり鎮まっていった.今回のパンデミックでも,ああいう論争が復活する機運は起きなかった.いま経済を落ち込ませているのは流動性選好ショックだのアニマルスピリッツだの総需要不足だのじゃなくて感染症だと,みんながわかっているからだ.
さて,パンデミックの終熄が視界に入ってきて,合衆国経済が力強く回復する見通しが立ったいま,マクロ経済学界隈も世間に知られることもない埃まみれのかび臭い校舎(別名ノースウェスタン大学)のなかに追いやられていると読者も思ってることだろう.でも,ちがうんだなこれが.バイデン政権がお金をたくさん借り入れて支出してるおかげで,いったいそれは大丈夫なのかどうかをめぐる論争が勃発してる.元祖マクロ経済学戦争はブログが主戦場だったけれど,いまの戦場はブログよりも経済系 Twitter 界隈で展開している見込みが大きい.タイラー・コーエンが言うように,これにはいいところとわるいところがある.
この新しいマクロ経済学戦争でなにより面白いのは,学術研究にほぼまったく出番がないところだ.2011年は,ゼロ下限だのDSGEモデル対誘導型モデルだのといった話をめぐって論争が交わされていた.いまはどうかと言うと,たしかに学者は論争に参加してるけれど,実際の論文が議論に持ち出されるところはめったに見かけない.論文が引っ張り出されてきても,それはほぼきまって実証論文で,理論論文じゃない.
なんでだろう? 学者たちみずからが論争に関わってないなら,それでかまわないと言ってよさそうだ.「論争してる人たちは研究文献を知らないんだね」ですむ.でも,学者が参加していて,彼らは研究文献のことを間違いなく知ってて,それでいて論文を話に持ち出さないわけだよ.それに,Twitter の経済論争が軽薄だからとか,参照文献が足りてないからというわけでもない――たとえば最低賃金の論争では,しょっちゅう論文が引用されてる.
どうしてこうなったか,いろんな仮説が思い浮かぶとことだろう.でも,みんなが学術的なマクロ理論の有用性を信じるのをやめてしまったことに理由があるのはかなりはっきりしているように,ぼくには思える.マクロ経済学の教授たちはいまもいるし,マクロ経済学の研究をやって,理論論文を書いて,けっこうな給料をもらってる――というか,中村恵美,ジョン・スタインソン,ユーリ・ゴロドニチェンコ,アイヴァン・ワーニングみたいな面々が教授職についていて,マクロ理論の分野は最高の才能がひしめいている.それに,こうした面々はいい人たちで,自分たちの仕事を真剣にやってるし,政治的な物語を押し立てたりもしていない.
ただ,問題は,マクロ理論がものすごく,ものすごく難しいってことだ.経済は複雑な現象で,経済のなかで消費者や企業その他がとる行動は入り組んでいる.このため,マクロ経済学の理論家たちは難しい選択に直面する――バカみたいに単純なルールを仮定して,その結果としてモデルをおおよそ完全に間違ったものに仕立て上げるか,それとも,現実味がある仮定を入れて自分のモデルがカオスに陥るのを眺めるハメになるか,そのどちらかの選択だ.
さらにややしこいことに,マクロ経済学のデータはものすごく,ものすごく質が悪い.マクロのモデルはマクロのデータだけで判断すべきだとミルトン・フリードマンは言った.でも,それをやると,ごく一握りの景気循環を取り扱うことになる.まともな統計が収集され始めてから一世紀も経過してないからだ.これじゃあ,データなんてないも同然だ.だからこそ,よく経済学者たちはミクロ的基礎に関心を集中させたりする――ミクロのデータに合致する行動規則を見つけ出そうとするわけ.なぜなら,ミクロのデータはマクロよりもずっと豊富だし良質だからだ.
データの質が悪いために,マクロ理論は検証がめちゃくちゃ難しい(それでいて,どういうわけかマクロ理論のなかにはどっちにしろ明らかに間違っているものもたくさんある).また,データの質が悪いために,マクロの実証研究も難しい――「いろんなお店がどう値段を変えているか」「労働者たちが景気後退のなかでどう仕事を探しているか」などなどの,マクロ経済という巨象のあちこちの数値は計測できる.でも,そうやって計測していても,「政府はどれくらい借り入れられるのか」みたいな大きい問いの答えは見つからない.
金融危機とその後の大不況で,マクロ理論はテレビのゴールデンタイムにお出しできる状態でないことが露呈した.イングランド銀行で2013年に講演したとき,学術界からもたらされた自分たちの複雑なモデルが土壇場でろくに使い物になる知見をもたらしてくれないのを,その職員たちは嘆いていた.
というわけで,マクロ理論はしばらく象牙の塔のなかに引っ込んだままになりそうだとぼくは見てる.一方,〔マクロ経済をめぐる議論では〕ヒューリスティックスや経験則や単純な計算をつかって論証が建てられている.たとえば,バイデン政権による支援法案はあまりに規模が大きすぎると考えているオリビエ・ブランシャールは,自分の論を展開するときに,産出ギャップと財政乗数のごく単純なアイディアを使ってる.彼の論証はこんなやつだ:「産出ギャップは小さい,財政乗数は大きい,ゆえにバイデンの法案は総需要の超過を引き起こしてインフレが生じる.」
さて,ブランシャールは間違ってるとぼくは思ってる.バイデンの支援法案の大半は財政刺激策ではまったくなくて,一種の災害支援だと思ってる――政府の支出をガンガン増やして経済活動を刺激しようってものではなかった.支援法案のねらいは,パンデミックで金銭的に破綻してしまうアメリカ人ができるだけ少なくてすむようにすることだった.これを「やっぱり刺激策っぽいじゃん」みたいに言う人もいるかもしれないけれど,COVID 支援給付金の多くをアメリカ人は使っていないという証拠がある.それに,給付金を使った人たちにしても,そのなかには未払いだった家賃に充てた人たちもいただろう.そんなわけで,バイデンの法案は大して総需要を増やさないとぼくは見てる.だから,経済を熱しすぎてしまう恐れがあるとは思っていない.
どっちにしても,公に交わされてる論争の状態はこんなものだ.理論は舞台裏で大人しくしていて,単純なヒューリスティックス(大半はケインジアンのヒューリスティックス)が主な役者になってる.
それどころか,実証的なマクロ研究からもたらされたヒューリスティックスすら――財政乗数,産出ギャップ,などなども――舞台裏に引き下がって,かわりにさらに単純なアイディアが舞台に立っていると思う.そうしたアイディアは,ミームのかたちで表現されてる.たとえば,「現代貨幣理論」(MMT) は,「理論」とついてこそいるけれど,実際にはマクロ経済の理論ではまったくない――「政府の財政赤字はいいことだ」という政策面の結論を支持するべく設計されたミーム戦争の一種だ.とりわけ強力な MMT ミームにこういうのがある:「政府には財政の制約がない.政府の借り入れにかかってる唯一の制限はインフレだ.」
ブラッド・デロングがやってるポッドキャスト Hexapodia にぼくが出た今日の回で,ゲストのクローディア・サーンにぼくはこう主張した.「MMT はこのミーム戦に基本的に勝利したよね,連銀がたくさん支援してくれたおかげで.」 基本的に,政府の財政赤字と債務に金利の制約がかかってることをいまや誰も語っていない.金利を上昇させないでおくために必要なことを連銀はやり続けるだろうととにかく想定されてる.民間企業や外国が債券を買わなくなったら,連銀が介入してくる.唯一の危険はインフレだ.だからこそ,サマーズやブランシャールは財政赤字を心配する理由としてインフレの危険について語ってるわけだ――というのがぼくの主張だ.(ともあれ,今回のポッドキャストをぜひ聞いてみてほしい.かなり面白いよ.)
それどころか,この件はマクロ経済理論のパラダイム転換の一端を示してるのかどうか問うのは意義がある――ここでいう理論とは大学の研究者たちがやってる理論じゃなくて,中央銀行の総裁たちや国会議員たちや〔マスメディアに登場する〕知識人たちが採用する理論のことだ.J.M.メイソンは,この問いにイエスと言ってる――メイソンによれば,バイデンの法案は次の点を認めるものだという――財政刺激はほんとのほんとに重要だ,総需要と雇用はとても重要だ,公的債務は「大して問題にならない.」 ジョン・コクランはこれに応酬してこう言ってる――メイソンの理論は間違ってる,その理論でやっていこうとしたら,生じるのはインフレだ.
メイソンの説はいまひとつ正しくないとぼくは思ってる.なにより,バイデン法案の大半は財政刺激じゃないからだけど,さらに重要な点として,あれこれ行動をとっても,それで理論ができあがるわけじゃないからだ.バイデンの支援法案は――そしてさらに大規模なインフラ投資法案が可決されれば――実のところ実験だ.最低賃金引き上げや,現状よりもゆるい移民受け入れ政策と同じく,バイデンの大規模支出は,「それをやるとかなりよくない帰結が生じるだろう」と伝統的に経済学者が考えてきたことが実際にはそれほどわるくないんじゃないかという賭けなんだ.
もしバイデンの賭けが失敗したら,ぼくらは困ったことになる.でも,成功すれば,経済の仕組みについて貴重なことがわかるだろう.そうなれば,もしかして,政府支出と債務についてもっとすぐれた理論が発展していくかもしれない.最低賃金の場合と同じく,経済理論の本物の進歩は,正統教義で安全とされている範囲を超えてどこかの大胆な指導者があえて冒険をやってみることにかかっている場合はよくある.
そして,ブランシャールやコクランやラリー・サマーズその他が自分たちの予測をはっきり公言してるのはいいことだ.バイデン法案はすでに可決されてる――もし顕著なインフレが生じなかったら,懐疑派たちにとって,出直して自分たちの経済モデルを再評価すべしというメッセージになるだろう.
一方,マクロ経済ミーム戦争は今後も続きそうだ.チャンネルはそのままで――この領域は今後もここで取り上げていく予定だ.まるで2011年が再来したような気分にぼくはなってる.
(追記:ポール・クルーグマンの主張では,いま理論が語られなくなってる理由は,かつてのマクロ経済戦争でケインジアン理論が勝利して,いまやみんなケインジアンになってるからだそうだ.ある面では,クルーグマンは正しい――いまやぼくらはみんなケインジアンだし,経済刺激と乗数が本物だと誰もが同意しているように思える.でも,他方で,例の新しい問い「政府はどれくらいなら安全に借り入れられるのか」に関して,ケインジアンだろうとそうでなかろうと,誰も理論に手を伸ばしていないように思える.)
(追記2:タイラー・コーエンはこの投稿が気に入ったらしい.でも,コーエンに言わせると,基本的にいま起きてるのはバイデンがポピュリストになって,民主党寄りの経済学者たちはそれに併せて自分たちの考えを調整しなおしてるってことだそうだ.でも,そうだとしても,独立系や共和党よりの経済学者たちは理論を使ってポピュリズムに歯止めをかけるのが止められるわけじゃないよね? 政府の借り入れにかかってる制約について有用で新規なことを経済理論が語れるんだったら,バイデンをあしざまに言ってる人たちはそんな理論をもっと引用しててよさそうなものじゃない?)
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