Dining alone…in a hyper-competitive world
Thursday, November 2, 2017
Posted by Branko Milanovic
ニューヨークでほぼ一人4年間暮らし、少なくとも400回は一人で夕食を食べてきたので、孤食について…そしてそれが私たちが住む世界について何を教えてくれるかに意見を述べる権利を私は有していると思う。
最近読んだ本によるなら、ニューヨークはレストランの総座席数において、孤食向けの席の割合が最も多い都市であるとのことだ。これは偶然でないように思う。私の経験でも、ニューヨークにおける孤食向けの席の数は増え続けているようだ。
孤食のメリットは何だろう? 明白となっているものがいくつかある。「好きな時間に好きな場所で食事をすることができる」「割り勘を心配しなくていい」「好きなだけいられる」などだ。孤食は〔都市で〕共に住む人々についても、もっと多くを知ることができる。普段の生活では、私たちは忙しすぎるので、周囲に関心を払う余裕がない。普段関心を払っているのは、地下鉄内、仕事関係、同僚、年齢・経歴・収入などが似通った友人達、これらが全てである。孤食をすれば、周りの人達を見て、周りの人達の会話に耳を傾ける以外にすることがない。周りの人達の、身振り手振り・互いのぎこちなさや気楽さ、男性は女性より饒舌かどうか、自慢話をする人・黙っている人、誰が支払うのか、などに気付く。仕事の愚痴、人生計画、政治的意見、恋愛の悩みなどにも耳を傾けることになる。孤食には、退屈な食事相手を我慢したり、興味のない話題に興味があるふりをする必要がないという後ろ向きのメリットもある。
デメリットは何だろう? 間接的な経験しか得られないことだ。ある程度の知識は得られるかもしれないが、それは実際に物事に触れて得た知識ではなく、中途会話の断片(誤解する可能性もある)から得られる知識だ。孤食は誰にも会わないし、会う人(バーテンダー)でさえも、客の話を聞いて楽しませるための雇われ人に過ぎない。
自問自答が生じる。「孤食は、私たちの生き方について何か教えてくれるだろうか?」と。一人暮らしは、伝統的家族や共同体の絆の崩壊によってもたらされたものだと私は思う(独創性に欠ける考えだ)。一人暮らしは、労働の流動性によってもたらされ、所得の上昇によって可能となっている。しかし、あまり知られていないのが、このような状況は、「競争の激化」や「生活の商品化」によっても引き起こされたと私は考えている。
超競争化は、時間と努力を要求する。より多くの人と競い合えば、時間が奪われるだけでない。あらゆる活動、あらゆる言葉、あらゆる意見を、自身に不利にならないように慎重に用い、制御しなくてはならないことを強く意識するようになる。孤独は、公私ともに必要とされるパフォーマンスや自己イメージを投影することのプレッシャーから開放され、心地よい気晴らしをもたらす。
〔生活の〕商品化は進むにつれ、個人的な空間や個人的な行動の多くが、潜在的な金儲けの対象となっていく。誕生日パーティー、懇親会のディナー、観劇などは、有用かもしれない人々と出会い、「人脈」を作る機会となる(美術館は展覧会のオープンパーティーを人脈を作る機会としておおっぴらに宣伝している)。我々の「遊休資本」であるプライベートな時間や家は、商業化のための機会となっている。我々は、自家用車を利用して利益を得たり、自宅となっているアパートをレンタルして金銭的利益を得られるのだ。一人でいれば、このような絶え間ない商品化から逃れることができる。自分自身をネットワーク化することはない。
「孤独なボウリング」をし、一人で食事し、一人で運動し、一人でコンサートに行き、一人で住むのが、生活の最終到達点なのだろうか? どうやらそのようだ。世帯の平均規模は、所得の増加と共に減少する傾向にある。豊かな国ほど、人口増加率が低く(もしくはマイナスと)なっているだけでなく、豊かな国ほど世帯規模が小さくなっている。、各世帯が1人で構成された世界に住むことが最終到達点になるだろう。デンマーク、ノルウェー、ドイツでは、平均世代規模が2.2人となっている(セネガルとマリの平均世帯規模は9.1人と9.5人だ)。日本は、超競争社会と孤独が組み合わさったビジョンを提供している。
このような帰結は驚くべきことではない。かつてだと、他人と一緒にいれば、常に経済的メリットがあった。他人とシェアすれば一人当たりの出費は減る。子供は老後の助けとして必要になっていた。生活費を支払うためには配偶者が必要となっていた。しかし、所得が高くなり、労働参加率が高くなると、高額な光熱費を支払う余裕ができ、老後のために蓄え、快適な老人ホーム(今日では幅広く宣伝されている)を準備することができる。子供(がいたとしても)、彼らにも仕事があり、超競争社会に翻弄されており、親の面倒から隔絶されている。
孤独であることは、我々の好みと同時に、競争化、商品化、高所得化への対応である。我々が探り当てる新しい世界は、ディストピアではない。歪んだユートピアとなるだろう。
それは残虐行為を伴っていないので、万人向けの強制収容所ではないだろう。狂気じみても見えないだろう。すべてが秩序だったものとなり、人間の情熱はクロムの輝きの中に消えてしまうからだ。私たちは、失うものも、勝ち取るものも一切なくなるだろう。私たちの最も深淵な本能と一番秘密にしていた情熱は、分析され、公表され、利用されてしまうだろう。私たちは、心の底から望んでいたものを全て得ることができるだろう。テクノロジーが不可欠になった社会では最高の贅沢として、無益な反乱と黙認の笑みが許容されるだろう。
ジャック・エリュール著『技術社会』(1954年)